旧約聖書の世界が劇場版エヴァの理不尽なアレだとして、「父さんこれはちょっと」と立川のロン毛が介入してスパロボ時空が発生するのが新約の世界なのだな。
両者で具体的に何が違うかというと、主にシンジ君の人生の難易度と努力の報われ方が違ってくる。

この辺りの(同一文化圏内部では特に説明される必要のない)大前提を踏まえないと、立川のロン毛が”救い主”と呼ばれる理由と構造が分からんし、
十字架がロン毛のやらかしに対するケジメ案件、シナリオ介入に対する全員分まとめてのケツ持ちであることもピンとこないのであるな。

これを日本人としての無意識的な大前提から見ていくと、彼らとはまるで異なる絵が出来てしまうので要注意である。是非の判断はともかくとして、誤認ではあるのだ。
ついでにこの構造は当時のローマ社会における「見捨てられた人々」の宗教的需用にガッツリ嵌ってご存知の通りになるのだが、まぁそれはそれで別の話であったとさ。