>>494
大和の砲塔開発は昭和3年から?
当時の艦砲射撃教範によれば、主砲を交互に撃つのが「一斉打方」これが戦艦主砲射撃の原則
全門同時射撃が初めて艦砲射撃教範に新「一斉打方」として規定されるのが昭和12年

一方で砲弾相互干渉の散布界増大が問題になったのは主砲10門の妙高型竣工後の昭和6年頃から
発砲時隔の調整をすれば良いとなり98式発砲装置の制式化が13年
つまり戦艦の同時発射は遅延装置とセット

昭和3年とかいう砲塔開発が始まったときは全門同時発射など要求されてなかったから、これができなくても問題になりようがない
設計が完了して起工するタイミングには遅延装置導入は決定済

昭和12年以前は全門発射は運用上不必要、昭和13年の発砲遅延装置導入後は全門同時発砲は機構上不可能(わざわざ時隔ゼロに設定すれば別だが、散布界ガバガバになり無意味)

昭和14年、扶桑で発砲装置の時隔決定実験をしたとき、すでに大和級主砲も対象になっており、大和建造中に遅延装置導入は前提だった
支筒の強度を実用最大の2門分にしたのなら、時系列的にファクトと矛盾はなく、当然かつ自然な話