これ等の戦車は内戦では連又は排単位で分割使用されることが多く、1947年10月の石門戦役では戦車第3団第2営第4連(1個排欠)は少数の保安隊と共に中共軍に包囲され少数の脱出者を除いて全滅。
 1948年12月頃には戦車第3団について「残部」退入北平、1949年2月には戦3団全滅という記述があります。日本戦車の主力はここで失われたことになります。

 1949年5月の上海戦役では尚戦力が完整だった戦車第1団第3営、戦車第2団第1営、独立戦車第2営、独立装甲汽車第4営、第5営が主力の撤退を援護した後、台湾へ装備と人員が撤退しています。

 1949年9月の廈門戦では47日間に及び独立装甲汽車第3営に配属されたT-26の1個排が全滅。

 1949年12月の海南島戦では日本戦車1個連が全滅との記述がありますが車種、部隊名は不明です。

 尚、台湾で再建された戦車第3団第1営はM5A1を装備、金門島戦で活躍し「金門之熊」との称号を得ているそうです。