駆逐艦 山風 の最後ですが、

山風は1942年6月23日 午後1時、大湊を単艦で出発、柱島に向かう。
6月25日午前4時20分、駆逐艦 羽風 は1000m離れた地点に「山風」と思しき駆逐艦を発見、協同攻撃を依頼した。
同日、東京湾沖でアメリカの潜水艦ノーチラスは「山風」に対し魚雷4本を発射、2本が命中して「山風」は沈没した。
浜中艦長以下乗組員全員が戦死(日本海軍の戦死認定は6月23日附)

だそうです。質問ですが、
1 山風に対する、大湊から柱島への航行命令はどこ(艦隊とか鎮守府とか)から発せられたものでしょうか?
  大湊警備府と横須賀鎮守府は知らなかったようです。
  大湊から柱島への移動理由は何でしょうか?発令者は柱島移動後の山風に何をしてもらいたかったのか?

2 山風は大湊を出港するときに大湊警備府には何も伝えず出港したことになりますが、これは旧海軍の規則的には良い?違反?
  山風は撃沈されたから問題になったが、軍港側に連絡なしでの出港は当時の艦艇の行動としてはよくあることですか?

3 戦死認定が6月25日ではなく、6月23日なのはなぜですか? 23日とすると、25日に羽風が見たのは何なのだ?という事になると
  思いますが、海軍は羽風による山風の目撃談をどうとらえたのでしょうか?

どうも、当時の海軍自身が、山風の行動を奇怪とみているので疑問に思いました。