ステパン・マカロフ

第二回旅順口閉塞作戦に失敗した連合艦隊は、
旅順口攻撃の一環として旅順の封鎖を機雷敷設によって行うようになる。

1904年4月13日、機雷の敷設を行っていた連合艦隊の駆逐艦4隻と
偵察をしていたロシア艦隊の駆逐艦1隻による、遭遇戦が発生した。

ロシア艦隊の駆逐艦はたちまち撃沈されるが、その情報を知ったマカロフは旗艦である
戦艦「ペトロパブロフスク」に座乗し、戦艦5隻・巡洋艦4隻を率いて生存者の救援と日本艦隊の攻撃に向かう。

日本の主力艦隊を認めると旅順港に引き返すが、座乗していた旗艦ペトロパブロフスクが
日本軍の敷設した機雷に触雷し爆沈。マカロフは避難しようとしたが間に合わず、
乗組員500人と共に戦死した。一説には秋山真之が過去の出撃パターンから予測される
ロシア艦隊の航路を割り出し、予めそのエリアに機雷を散布していたとも言われる。

日本では、マカロフ戦死の報を受けて、都市部で戦勝を祝う提灯行列などが行われた。


なんでこんな人の名前船につけるのん…