なんだアジ歴は筑摩のソースじゃなかったのか
こっちは筑摩の戦闘詳報の話をしてるのに支離滅裂なんだよ
爆弾命中の3分前に第二次投棄完了なんだから、その前から第一次投棄をしてた証拠にしかならない

だいたい甲標的や魚雷投棄の断片的な物知り比べに付き合う気は全く無い

甲標的の使用目的はあくまでも艦隊決戦用であって、当時敵港湾在泊艦船奇襲攻撃については論ぜられたこともなかった
昭和15年11月、甲標的講習を開始した
いざ始めてみると不具合箇所が続出した
予備浮力が大きすぎ安定潜航が困難、羅針儀に信頼性がない、航続力が4時間程度
16年8月、母艦の千代田艦長は用法改善案をまとめる
①港湾襲撃 ②索敵協力 ③艦隊決戦
ここで初めて港湾襲撃が着想された
山本五十六から、真珠湾を含む港湾攻撃の研究命令が出る

開戦後、真珠湾、マダガスカル、シドニー各港に侵入
以降は港湾襲撃は取り止められ、占領地の防衛に
ミッドウェーには千代田が甲標的8基運搬(あくまでもミ島攻略後の防衛用)、キスカ配備、ガ島方面で輸送船攻撃
これらは艦隊決戦用の当てが外れた甲標的がそこにあったから使ったのであり、甲標的の優秀性を認めたものではない

昭和18年になって母艦ではなく陸上基地をベースに自力充電能力(片道30キロの艦隊決戦では全くの不要機能)を持ち長時間行動できる甲標的丙型が誕生しラバウル、トラックなどの防衛用に配備、19年から20年にかけフィリピン近海でタンカーや小型艦を襲撃

さらに航続力が長く、乗員5名トイレ付きの丁型蛟龍を整備、沖縄基地をベースに近海で上陸部隊を迎撃

以上、海軍水雷史797ページ以下、昭和造船史615ページ以下、海軍造船技術概要539ページ以下等より

つまり、甲標的は重雷装艦や魚雷てんこ盛りの重巡とともに洋心艦隊決戦の主役として水中高速、母艦発進の甲標的が計画された
しかし艦隊決戦用には使えないことが開戦前に発覚、敵港湾襲撃から、自拠点防衛に次々役割を変えた

最後にまとめると、開戦直前の飽和的な魚雷攻撃は破綻しており、重巡の無駄な大量魚雷も三隈化を招く危険物として敵前投棄されていたという一連の流れ

魚雷投棄、甲標的という断片ごとの物知り自慢とはレベルの違うお話でした