この当時日本海軍は1907年(明治40年)計画の国産弩級戦艦河内型を建造中であったが、構想や技術的に欧米に劣る点も多く認められたため、金剛は技術導入を兼ねてイギリスに設計・建造を依頼した。

発注に際し日英両国の間で次の約束がされた。

日本海軍の造船、造機、造兵各技術者を派遣、長期に渡り金剛の工事の一切を監督、調査する[6]。
砲塔その他一切の船体、機関などの図面を日本は入手し、引き続き利用して同型艦を日本国内で建造する[6]。
ヴィッカースは快く派遣要員を受け入れ、技術指導を実施した


まさにイギリス様のおかげ
当時と今の状況は全く同じw