亡命っていうと傭兵隊長とかではなく貴族だけどこの人思い出した

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アンドレイ・ミハイロヴィチ・クルプスキー(1528年-1583年)

亡命

ロシア軍は、リトアニアとポーランドを敵としてリヴォニア戦争を続けることになった。
1563年2月15日には、ロシアとリトアニア国境の大都市ポロツクが、ロシア軍のものになった。
ポロツク遠征では、クルプスキーは前衛軍の指揮官に任じられた。彼は敵要塞の包囲を指導し、勝利に導いた将軍の一人である。

モスクワに凱旋した将官は報償を得られたが、クルプスキーには何も与えられなかった。
クルプスキーはツァーリの命で、軍司令官としてユーリエフに向かった。
このころクルプスキーの友人たちが、ツァーリの怒りが迫っていると密かに知らせてきた。

ユーリエフ要塞に一年滞在した後、1564年4月30日に、クルプスキーは敵のリトアニア大公国に亡命した。

クルプスキー自身が亡命の一年半前から、ポーランド王兼リトアニア大公の
ジグムント2世アウグスト)(在位1548年-1572年)と内通していたという説を紹介している。

関連作品
セルゲイ・エイゼンシュテイン監督の映画『イワン雷帝』では、
ロシアでツァーリに次いで大きな権勢を誇るクルプスキーが、ボヤーレたちの圧迫を受けるツァーリの姿を見て、
やがて主君であるツァーリに反旗を翻すようになるまでが描かれている。

https://youtu.be/vnNgoS8VsoQ?t=146

※亡命したクルプスキーがポーランド王ジグムント2世にかしずくシーン