ttps://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B9%E4%BD%8D%E7%9B%A4
これによると1912年の演習を機に普及が始まるまでイギリス海軍でも各砲塔が照準する独立打ち方で
ドイツ海軍はユトランド海鮮の時点でも独立打ち方だったそうですが
弩級戦艦は最初から一斉打ち方で修正射撃によって遠距離砲戦を可能にする前提の戦艦だったはずですよね
建造側が一斉打ち方への改革を強要して一斉打ち方が最適な弩級戦艦を続々建造していても
現場の用兵側は弩級戦艦が誕生してからも長い間改革を拒んで不適切な独立打ち方を続けていたという事でしょうか?
また少なくともフィッシャー提督は弩級戦艦=一斉打ち方で初めて真価を発揮する戦艦と明確なビジョンを持っていたようですが
優秀な方位盤やシステムが完成して一斉打ち方が実用段階に入るのを待たずにドレッドノートの建造に踏み切っています
これはつまり「システム(一斉打ち方)の完成を待たずに先にガワ(戦艦)だけ作っておいてシステムは後日搭載でいい」という判断だったのでしょうか?