一般にイギリスが敗北目前に追い込まれたのは5/24にムッソリーニ経由でヒトラーとの和平提案が届いた5/24から5日間とされる ヒトラーがダンケルクへの攻撃停止を命じたのは同じ日なのでヒトラーの軍事的資質への非難がされて来たが、攻撃停止はイギリス政府に提案が届いた事をヒトラーが知っていたからだと見做すべきだ
この時に講和を主張したイギリス大物政治家が多数いたため、この経緯は戦後秘密とされチャーチルも語らなかった 50年の機密指定が解けて詳細が明らかになったのはずっと最近で2017年には映画化された
この時の和平派は戦時内閣No2のハリファックス外相で保守党実力者のチェンバレンも与したのでチャーチルは文字通り孤軍奮闘に追い込まれた 5/26が和平派の主張が戦時内閣で最も強くなった日である
最終的にジョージ6世が一貫して抗戦派だった事、断固として抗戦を主張するチャーチルにアトリーとチェンバレンが同調した事により5/28に交渉拒否・断固抗戦で戦時内閣の意思は統一されてイギリスの意思は確定する
これがダンケルクの結果が出る前である事が重要で、撤退がもっと悲惨な結果だったとしても権力基盤を確立したチャーチル政権は戦った事は疑いない
一方5/27頃にイギリス政府の意見が二分されていた事をドイツは察知できなかった