4 砲術長ポストの問題
 これを語る前に戦艦の水中魚雷発射管の話をする この装備は早くも大正年間には二艦隊から無用の長物と言われていた 何せ20ノット以上出すと発射出来ないのだから海戦で使い道がない 行動不能になった僚艦を撃沈処分するのが唯一の役目との言われる有様で全然改良もされず放置されていたのだが昭和の大改造まで残された
 この理由は少佐クラスの戦艦水雷長ポストの為だったと内々には語られる 時は軍縮時代で八八艦隊が中止となり海軍のポストは激減して沢山の海兵士官がクビになって予備役に送られた 今も昔も公務員には定員があり定まった人数しか雇用出来ないので戦艦から魚雷を無くすと10人の水雷長ポストがなくなりその人数の少佐がクビになるので水雷科が徹底的に死守したんだ もう一つは戦艦から魚雷の実射は昭和以降の演習ではやってない筈で戦艦の水雷長には仕事がない 一方戦艦は旗艦になる事が多いので艦橋に詰めている暇な水雷長は艦隊指揮を実見したり手伝ったり出来る 併せて艦隊幹部にも顔が売れる訳だ また海軍省で軍政専門でやってる佐官でも昇進の為には規定の艦隊任務をこなす事が条件なので滅多に艦隊勤務しない佐官にも都合が良いポスト
なので戦艦の水雷長には出世した人も結構いて例えば小沢治三郎なんかも金剛の水雷長をやっている その直後に連合艦隊参謀で中佐になっているので如何にもってルートだね
そう言う文脈で考えると航空艦隊の旗艦になる事が多い二大空母に佐官の砲術長ポストと言うのは砲術科にとって貴重だった訳だ 特に赤城の歴代砲術長を眺めるとそれまで砲術一辺倒だった佐官が配置されて、その後から航空畑に転身して戦争を航空隊司令として活躍して昇進していった人が多い(中には合わなかったのか砲術から離れなかった人も居るがこっちは昇進が遅れている) 有名なのは利根砲術長から赤城砲術長に転じてから航空畑になり空母や航空隊指揮官を歴任 初代隼鷹艦長となって米軍と戦って最後は神鷹艦長として戦死した石井少将だな
因みに他の空母でも砲術長は少佐なんだが対空射撃しか任務が無いので成り立ての少佐が就く 赤城は20センチ砲積んでるので重巡の砲術長やったようなもうすぐ中佐の少佐がつけるポストと言う違いがある これが20センチ砲の威光って奴だ
なので赤城・加賀に主砲が残された理由は砲術屋を航空畑に再教育出来る場を残したと言う側面は間違いなくあるよ