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平安時代におけるの歌会というのは貴族同士の会合というものもあって単純に自分の教養を競うだけのものではなく、
自分の漢文能力これぐらいありますというアピールする場でもあった。
ここ日本なのにそんなんいるんかと思うかもしれないが、
当時漢詩が作れるという事は中国の古典や文献を読めて貴重な政治資料なども読み解ける若しくは熟知してますというセールスポイントにもなるので、
そんな社会で漢詩が作れないというのは今で言うところの「論文作ろうにも英語読めないから参考文献として最先端論文を読むことができない」みたいなものだと考えればいいだろう

そういう場なのでうかつな歌を作ろうものなら歌会で詠まれた歌を纏めた手紙が後日回される事で、
同僚達の間で「こいつが作った歌ショッペぇな」と恥をかく事も多分にあるわけであり、
それを避けるために歌が下手な貴族はあらかじめ「今度の歌会は多分このテーマで歌作ると思うんですが、誰かこのテーマで未発表の歌持ってて譲ってくれる人いないかなぁ?」
と代作を依頼する手紙を書いてなんとか形だけでも面目を保とうとていたし、
歌が上手い貴族は歌を作るついでに自分の不遇を嘆く内容(=出世させてくださいアピール)の歌を書いたり、
遠回しに今の朝廷の政策を評価する表現を仕込んだりもしている、
そんな感じで当時の歌会はただ歌を詠むだけの呑気な物ではなく猟官運動や政策提言など政治的な要素も多分に含んでいたものだったのである。