当時、パレスチナに住んでいたアラブ人のおよそ80%は、借金に苦しみながら不在地主たちのために働く、オスマン帝国各地出身の小作農や、半遊牧民、またベドウィンたちでした。ユダヤ人によって購入された土地のほとんどは、湿地や岩地、砂地が多いこと、そしてその他もろもろの理由から耕作に不向きとされ、ずっと開墾されずにきたものばかりでした。

ピール委員会(英国、1937年)は次のように報告しています。「維持しきれないほどの良い土地を、あまりにも広くユダヤ人たちが獲得したとアラブは非難する。現在、オレンジなどを茂らせているそれらの土地のほとんどは、購入された当時は砂埃の舞う丘々や沼地で、放置されたままの荒地だった」

さらに、この不毛の土地にユダヤ人たちが払った額は、法外ともいえる高い値段でした。ほとんどが乾燥地帯、あるいは準乾燥地帯だった1944年のパレスチナで、ユダヤ人たちは1エーカー当たりの土地に1000?1100ドル支払いました。それに対し、同年の米合衆国アイオワ州の肥沃な黒土1エーカー当たりの値段はおよそ110ドルでした(米国農業省による)。