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 同じ作戦に参加していた、別の兵士(歩兵第65聯隊・第八中隊少尉)の日記『一万七千二十五名の三分の一を引き出し、射殺す』
 さらに違う兵士(山砲兵第19聯隊・第八中隊伍長)の日記にも、『揚子江畔にて銃殺』
 入手した日記や写しは、合わせて31冊。その多くが、捕虜の銃殺に触れていた
 これらの日記は、戦場で書かれたもの、つまり、一次資料
 歩兵第65聯隊・元第三機関銃隊兵士(1990年収録):「この方(捕虜)を“お客さん”て言うんだよね。『今晩はお客さんが来て、お客さんを処理するんだ』と。
そして、“ピー“という呼び子の、将校の呼び子の合図で、一斉射撃。ダダダダダダダダと始まる』
 同じ現場に居たという、別の兵士の証言。
歩兵第65聯隊・元第一大隊本部行李係二等兵(1994年):「とにかく、1万も集めるっちゅうだから、相当広い砂原だったね。有刺鉄線か何か、後ろ、周囲に張ったでなかったんかな、あれ」
歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵(1994年):「機関銃乗せて高くしてね、砂を積んでこう盛って、こうやって撃ったんだから。5.6発撃ったんでも百、サブロクジュウハチ…200発ぐらい撃ったのかな、うん。ダダダダダダダダと、一斉に死ぬんだからそりゃ」
歩兵第65聯隊元第三機関銃隊兵士:「捕虜が、歩かされてやってきたんですよ、夕方暗くなってきて」
山砲兵第19聯隊上等兵の日記『その後、銃剣にて、思う存分に突き刺す』『一人残らず殺す』
歩兵第65聯隊・元第一機関銃隊二等兵「合図があったわけだ。一斉にもう、機関銃撃ったんだから」
『撃たれまいと、人から人へと登り集まる様、即ち人柱は、丈余(3メートル以上)になっては崩れ、なっては崩れした。その後、片っぱしから突き殺して、夜明けまでそのところに石油をかけて燃やし、柳の枝を鍵にして、一人一人引きずって、河の流れに流したのである』