>>707
その辺読売の特集記事から引用・要約するとこうなると
(前略)
太平洋戦争で沖縄が戦場と化す可能性が高まる中で、政府や県、そして軍は、いったい、何をしていたのだろうか。

政府が、沖縄本島や宮古島などの住民の疎開を決めたのは、サイパンが陥落した一九四四年(昭和十九年)七月のことだった。
当時の沖縄県の人口は約六十万人。
沖縄県は、六十歳以上の高齢者と十五歳未満の子供など約十万人を県外疎開させる「県外転出実施要綱」を作成し、学童の集団疎開も計画した。

ところが、八月二十二日、疎開学童などを乗せた対馬丸が米潜水艦の魚雷で沈没、学童だけで少なくとも七百七十五人が死亡する悲劇が起き、
疎開は順調には進まなかった。
だが、那覇市内の大半を焼失した米軍による沖縄空襲(十月十日)の後、米軍が上陸する四五年三月まで、約六万人が九州など本土に、
約二万人が台湾に疎開した。

第三十二軍と県は四四年十二月、沖縄本島に残った住民のうち、約十万人を県北部の国頭(くにがみ)などの地域に避難させることにした。
三月下旬、米軍の艦砲射撃が始まると、約五万人の避難者が殺到し、県北部の山岳地帯では、飢えやマラリアに苦しむことになった。

住民対策が遅れた要因の一つに、泉守紀(いずみしゅき)沖縄県知事が沖縄空襲後、自ら比較的安全だった普天間に避難し、事実上職務を
投げ出してしまったことがある。
しかも四四年十二月には、東京に出張に行ったまま帰らず、翌年の一月十二日付で香川県知事に転任してしまった。
一月末に島田叡が新知事として着任するまでの約一か月間、住民対策は完全に止まった。

島田は着任後、住民避難や食糧の確保に奔走するが、時間は足りず、戦場となる県南部地域には、三十万人もの県民が残されることになった。(後略)