紙屋高雪
渡部直己『日本批評大全』を読みつつある。戦後史、戦前の一部の批評から読んでいるけど、実際に触れたことない文章多いな。
そして面白い。改めて戦後文学史って(ある意味)「私小説」をめぐる論争史なのね。
この流れでマンガ大賞とった『響』が描く「小説家になる方法」も理解してみる。
2017年4月18日

文芸批評家の渡部直己は、(おそらくはある種の愛情の裏返しとして)『騎士団長殺し』の発売から二日後に、
さっそく自身のFacebookで(本作の主人公がFacebookをやっておらず世間の流行に無関心であるのとは対照的に)
「例によって一定の間隔で近所の人妻とのセックスシーンが出てきて、非モテ系男性読者の妄想に資したり」することを批判している。
渡部は攻撃の手を緩めることなく、さらに続けて次のように述べている。

 とても礼儀正しい主人公が、女性たちをその身体性において把握したがるという村上調の、
七十近くになって分かりや過ぎるセクシズム(馬鹿な読者向けサーヴィスとはいえ)は、
そろそろフェミニストの本格的な指弾を受けるような域に達している。
 サザンの桑田じゃあるまいに、もう四十年近く、同じ事ばっか書いて、この人、よく飽きないよなあ……などと、
このように(しかも、よりによって、自分の誕生日の晩に)書き付けるわたしも、
まあ「例によって」属[原文ママ]かもしれないのだが、しかし、彼と此とは断じて同じではあらない(と思う)。

 作中に登場する騎士団長が「妙な「あら」つき否定文(「そんなわけはあらない」)を連発」していることを揶揄しつつも、
ちゃっかり真似してしまっているあたりに、村上に対する渡部の愛憎相半ばする心理が仄見えて微笑ましいが
(それは筆者にしても同じことだが)、畢竟、彼の批判の骨子は次の二点に集約される。
すなわち「セクシズム全開の過剰な性描写」と「同じ主題や物語展開の繰り返し(マンネリズム)」である。
http://ecrito.fever.jp/20170325221015