>>604
他者への優しさがいくぶんかの自己犠牲をはらんでるのは否めませんな
ときには命まで捧げるような優しさだってある
コルチャック先生みたいな

何度も立ち返ってうざいかもしれないが>>592の二人の外国人は
「pleasure」って言葉を使ってるんですよな
これは「joy」とはだいぶ違うニュアンスで、感覚的肉体的な楽しみや歓びのことです
joyだと宗教的な意味が底にあるけど

コルチャック先生の優しさはjoyに支えられてて、
これは神に認められるべく行動するっていう宗教的な意味があり、
>>592の二人の外国人の優しさはpleasureに支えられてて、
それは純粋に自分自身の楽しみ(一日一善やって気持ちよいぜ!みたいな)であったりする。

優しさによって生まれるjoyとpleasureは、スペクトラム状になってるんです
つまり、

神に認められる―社会に認められる―そこにいる傍観者に認められる―自分の純粋な楽しみ

このラインのどこかを意識して、優しさってのは行使される
ま、だいたい右半分のどこかですけどにゃ
一日一善ってのだったら、いちばん右が9割5分くらいかもしれません