>>931
自己批判の内容は、難しい。
理事会、労組、第二労組の三つ巴の争いとか、単純に表現できるものではない。
生協職場でパート労働者への差別、虐待とも呼べる事態が起きたこと。
その抑圧的管理者もまた、生協労働者であり、労組員であったこと。
がために、対策、解決が進まず、当該抑圧管理者がズルズルと職場での居直ってきたこと。
遂に、生協理事会が、この者を解雇したこと。
その時点で、既に被害者の女性パート労働者は苦難の末、退職していた。

退職を余儀無くされた女性パート労働者への責任からすれば、当時の生協理事会、労組(中核系)、従業員労組(解放系)三者に等しくあるし、いや、等しくはないが、それぞれにあるだろう。
まして、当時は一体だった赤砦、現代に、その責任の差異はない。
現代が自己批判した時点で、初めて、自己批判を表明したという差異ができただけだ。
しかも、事件から17年後に。

では、何故、17年年後に、今さら、自己批判したのか。
自己批判し謝罪し、償わなければならない女性パート労働者に、何程かの接触があったのであろうか?

中核との共闘を巡る政治的理由で自己批判したとか、そんな見方もできる。

赤砦への一方的な批判を除けば(だって、その時点で両者は一体だったのだから)、自己批判の内容は支持できるし、よく考えぬかれていると思う。

でも、問題が難しすぎて、自信は無い。
その時、ソコにいたとしても正しい行動は、自分は取れなかったと思う。