>>281
>同条約に従い、ソ連は中国国民政府に対して空軍支援を送り(Zet作戦)、

(3)1939 年以降の航空戦
日本軍は武漢攻略作戦の終結にともない、中国に駐留する航空兵力を整理する一方、航
空作戦の重点を中国側空軍基地の爆撃と対外輸送ルートの遮断に置いた。また、中国側の
抗戦意欲を喪失させるための政略爆撃が四川省(主に重慶・成都)に対してなされた。
この結果、中国側の作戦方針もまた都市あるいは空軍基地の防衛に限定され、中国側か
らの攻撃は、遊撃戦術による散発的な奇襲を除くならば、陰を潜めることになった。実際
に、39 年以降の航空戦は、奥地都市を爆撃する日本軍とそれに対する中国空軍との迎撃戦
が中心であり、中国空軍の拠点である南昌をはじめ、ソ連からの援助物資の到着地である
蘭州、仏印ルートの拠点である南寧では激しい航空戦が展開され、中国空軍は局地的には
一定の戦果をあげていた。
しかし、百一号作戦(奥地航空攻撃作戦)が展開される 40 年以降、中国空軍は迎撃戦
により多大な損失を被り、40 年末には残存機が 65 機たらずとなった(注 41)。これ以降、
中国空軍は正面からの航空戦を避け、日本の爆撃機が到来した際には、空軍機の退避を優
先することになった。そのため、日本の重慶爆撃に対しても、高射砲による地上からの迎
撃を除き、積極的な防空政策がとられず、爆撃の被害を増大させる結果となった。つまり、
中国空軍は可能な限り戦闘を避けて戦力を温存せざるを得ない状況にあったのである。
http://www.koryu.or.jp/08_03_03_01_middle.nsf/1384a27fc6686a1a49256798000a62f6/398bea4145bfd29f49256f0b002cf44b/$FILE/hagiwara2.pdf