1916.〜1917. 冬
「カブラの冬」

 協商国海軍によるドイツの海上封鎖は、ドイツの国内を脅かしつつあった。

 もともとドイツは食糧自給率がさほど高くなく、戦前は主にロシアとアメリカから
大量の食糧・飼料を輸入していた。対露開戦とともにロシアからの輸入が、海上
封鎖によってアメリカからの輸入と南米からの肥料輸入が止まり、ドイツは深刻な
食糧不足に陥った。

 さらに、大量動員による農村労働力と役馬の不足による食糧生産量の減少、
誤った農業政策による畜産品の不足、そして1916年冬の大寒波によって、ドイツ
国内では老人を中心に大量の餓死者が発生した。

 この冬は、パンはもとよりジャガイモも不足していたため、飼料用のカブラ
(日本のカブとは別種。英語名rutabaga。食味はイモに近いが、まずいらしい)
しか配給するものがないという状況から、後年「カブラの冬」と記憶されることと
なる。

 この極度の食糧不足は1917年の麦作が収穫される夏まで続いた。しかし
慢性的な食糧不足はなおも続き、戦後数年にまで及ぶこととなる。

 戦争を通じてのドイツでの餓死者は76万人を数えた。この数は、第二次
世界大戦における空襲死者の数より多い。