第一次世界大戦について語るスレ 5 [無断転載禁止]©2ch.net
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1917. 12. 26
イギリス海軍本部長ジェリコー提督更迭
ジュットランドでイギリス大艦隊を率いたジェリコーは海軍本部長を務めていたが、
その消極的姿勢はロイド・ジョージ首相の不興を買っていた。また、海軍大臣を務めて
いるロイド・ジョージの懐刀、エリック・ゲッデスとも個人的にそりが合わなかった。
ロイド・ジョージは、12日のスカンジナヴィア船団壊滅を口実にジェリコーを辞任させる
ことに決め、クリスマス前にゲッデスは書面をもってジェリコーに辞任を求めた。
ジェリコーはクリスマス明けの26日にこれを受け入れ、辞任した。後任はゲッデスの
肝煎りで本部長補佐を務めていたウィームズ提督が就任した。
長年の海軍への奉職に対し、ジェリコーは翌年春に子爵位を授けられた。
(Geddes と Wemyss の読み方はこれでいいのかちょっと不安。) 1917. 12. 27
オスマン軍イェルサレム周辺で反撃
イェルサレムから撤退したオスマン軍であったが、砲兵はまだ市内を射程内におさめて
いた。また、イギリス軍がイェルサレムから北上するための道路もしっかり保持していた。
イギリス軍はこれらの脅威を除去するために攻勢を企図していたが、オスマン軍は
機先を制して逆襲に転じた。
しかしイギリス軍は速やかに防御を固めてオスマン軍を撃退し、余勢を駆って再反撃に
出た。
4日間の戦闘で、イギリス軍はイェルサレム付近の重要拠点を奪取し、この都を安全に
するとともに、北上して攻勢に出るための足がかりを得ることに成功した。 >>755
シャトールノー…?
リシュアンドブレー?
アルベールドモルセール? >>775
「モンテ・クリスト伯」の登場人物は de Chateau-Renaud
巡洋艦の方は de Chateaurenault
なので、残念ながら別人ですね。 1918. 1. 4.
列強のフィンランド独立承認
前年の11月15日に独立を宣言したフィンランドに対し、この日ボリシェヴィキ・ロシアと
フランス・スウェーデン・ドイツが承認を行った。 1918. 1. 5
ラトヴィアの独立通告
この日、ロシア制憲議会に議席を持っていたラトヴィア代表のゴルドマニスは、
ラトヴィアのロシアからの分離を通告した。
実際のところラトヴィア国内は、親独派・共和派・共産主義者のブロックに分裂して
おり、国土はドイツの占領下にあったため、この通告は実質的なものとは言い難いが、
一応の国家の起点の目安としては考えることができる。 1918. 1. 5
ロイド・ジョージ、イギリスの戦争目的について演説
この日イギリス首相ロイド・ジョージは、前年にアメリカのウィルソン大統領から提示
された問いに対する答えとして、イギリスの戦争目的についての演説を行った。
その中でロイド・ジョージは、イギリスの戦争目的について次のような項目をあげた。
・ドイツの破壊や滅亡を求めるものではない。
・同じくオーストリア・ハンガリーの破壊を求めるものではないが、帝国領内の諸民族の
権利は認められるべきである。
・オスマン帝国は諸民族の自決権のもとに分割されるべきである。黒海と地中海の間の
海峡は国際管理に移されるべきである。
・ベルギーやセルビアなど、戦争によって征服された国は復活すべきである。
・ポーランドの独立を認めなければならない。
・アルザス・ロレーヌはフランスに返還されるべきである。
・ロシアの将来についてイギリスは干渉する意図はない。
・講和会議においては、ドイツの植民地の帰属とドイツ潜水艦による被害(の補償)に
ついて話し合われねばならない。
これらの宣言は、残念ながら3日後のウィルソンの演説の陰に隠れて、さほどの
反響を呼ぶことはなかった。 >>779
トルコには厳しいね
オーストリーに対するのと態度がだいぶ違うが、結果は似たようなものか…? 分割を条件としたオスマン帝国と違い、二重帝国はその存続が条件としているが、結局は自壊してしまったことにより同じ結果となった ま〜トルコは、これまでさんざん英仏援護してきたのに枢軸に走ったからな
まさに煮え湯を飲まされた思いだったろう
トルコにすりゃロシアとなんかくめるか、ってのはおいといてw
戦争とは別に、革命で国家崩壊まっしぐらだったしね
帝国の解体と再分配は必至ではあった これ以前はゴタゴタしてなかったと思ってるならそうとうな無知だな 輪をかけて悪いことに、帝国解体後英仏は分割しといて中東への関心失くすんだよなw
戦後部族間抗争でなんやかんやあるんだがそれにほぼ無介入
サウジの王族のサウード家はこの時の成り上がり
当時はまだ石油が発見されてないし、どっちも復興や東欧問題で中東どころじゃなかった
軍と外務省系の情報機関での意見の不一致や対立もあったそうだし 元々ゴタゴタしていた地域だけど、ブリカスの三枚舌外交は非難されて当然だろうね。
悪質な詐欺の類だろう、これ。
国際法上、イスラエル人(ユダヤ人)とパレスチナ人、正統性はどちらなんだか 1918. 1. 8
ウィルソンの14ヶ条
この日、アメリカ大統領ウィルソンは、議会上下両院合同会議の席上で、大戦の収拾に
ついて14ヶ条の原則を提示した。
大ざっぱに言うと、国際秩序の回復と諸国間の協議機関(国際連盟)の設立、中央同盟
諸国内での民族自決に基づく諸民族の独立、アルザス・ロレーヌのフランスへの返還
などがその内容であった。
この宣言は中央同盟国にも広く伝わり、特にドイツにおいては、それがドイツの破壊や
分割を求めるものではなかったため、和平推進派のよりどころとなった。
ウィルソンの14ヶ条のほとんどの条項は、のちの休戦協定やヴェルサイユ講和条約に
おいて実現している。
しかしウィルソンが言わなかったこと、すなわちドイツの賠償問題が、講和条約において
決定されるに至って、ドイツ人は裏切られたという気持ちを強く持つことになる。しかし、
それはのちの話である。
戦争はなお続くのであった。 カイザー攻勢もシュリーフェンプランもだが、パリ陥せばドイツ勝利なのか?
開戦劈頭では英露が戦争を投げ出すとは思えない
カイザー攻勢時も米軍が来ているのに、パリ失陥で仏が戦争を投げ出すとは思えない 開戦後すぐにパリが陥落すればドイツは普仏戦争のときのように勝てると思っていたんじゃないかな
シュリーフェン・プランが成功していたら塹壕戦になる前に機動戦でフランス軍とBEFに大打撃を与えられた可能性はあると思う
カイザー攻勢のときにまでなったらパリを陥落させても戦争は続くよね パリじたいはどうでもよかったっていうか、パリを大きく越えるほど右翼が大回りすることで無駄に攻めてくるはずのフランス野戦軍を背後から包囲、殲滅するってのが元々のシュリーフェンプランの目標だな ドイツに多少とも勝機があるのはやはり短期決戦か?(参謀本部の見立て通りだけど)
タンネンベルクでも史実通り勝っていれば、ドイツの立ち位置は三帝会戦に勝ったナポレオンの様なものになるから、長期戦をせずに有利な講話に持ち込めば、とは思う
しかし、ドイツを指導しているのはビスマルクではなく、カイゼルとベートマン、小モルトケ
気が大きくなって、英露がとても呑めない要求を出す→元の木阿弥になったりしてな 同盟国側、協商国側両方とも短期決戦しか考えていなかったと思うよ
マルヌの会戦でドイツ軍が敗北して進撃が止まってしまったあとのことはドイツ軍参謀本部は考えてなかったんじゃないかな
塹壕を掘って対峙して長期戦になったあとは両軍共に決定打と言える戦術がなくなってしまったし 一方起こりうる事柄を全て書き出して対策を練る米海軍方式 初めてあの渦巻きみたいな攻勢図を見た時の衝撃はもうね
これを実行する人居るのかと 大迂回機動による大包囲でしょ 近代ドイツの基本ドクトリン
成功させる作戦に余裕が無い上、補給に対して楽観的過ぎるから毎回グダグダのやつ
軍団規模での小包囲を繰り返すソ連式の方が遥かに単純で現実的 兵からすりゃ1000km以上連続で歩くだけでもたまらんよな
ぜったい右翼軍に配置されたくないw 単純比較は出来ないが、日本で例えると薩長軍が江戸に進軍する位の距離かな
鉄道も錦の御旗wも無ければ、時間も道も物資も厳しいわな >>790
独仏戦においてパリ落としてフランスという国家を消滅させれば
戦争が終わるというのが甘い考えたというのはのは
幼女戦記にしろ現実のナチスドイツにしろ常識なんだけど
ドイツの軍部は軍事的なところしか見ない、
政治や国民国家や民族感情を丸っと無視するのはどうしてだろう >>805
目標はパリじゃなくてあくまで野戦軍の包囲殲滅
あといろんな考え方あるけど、軍は純粋に軍事のことだけ考えて政治のことは気にするなってのも一つの見識だと思うよ >>806
問題は軍部が君主抑えて政治外交が動く余地がなくなったことなんだと思うんだな ルーデンドルフがドイツ帝国のガンだったな
政治が戦争指導の手段とするルーデンドルフの思想がいけなかった 別宮が戦勝の数日後に帝国主義を否定したケマルを大絶賛してた
戦勝すれば戦争に溺れてしまうのが国家 ルーデンドルフの軍人の政治への介入から軍部独裁への道を見て大日本帝国陸軍の若手将校は真似をしたのかな? 陸軍人が真に真似したかったのは戦時社会主義であり軍部独裁ではなさそう >>814
ってか本人が売り込みまくってた問題
実のところルーデンドルフ独裁って戦争裁判の訴追対象だったわけだし 負けた国のやり方真似したがるってのが既にヤバいセンス 戦前の日本では歴史は必然的に展開するという価値観があった
新しい思想である社会主義は国家の必然的な進化系と見なされ賛同する人が多かった ルーデンドルフ、銀河英雄伝説に出てきそうな名前だな。 >>818
そもそも日本は資本主義すら新参者だったから既得権者の力がそこまで強くなく
社会主義へのシンパシーは上から下まである。雲霞のように嫌ってたのは財閥当主とか企業上層部くらい 1918. 1. 12
日本軍艦、ウラジオストクに入港
ロシア革命に伴う各地方の政情不安は、極東にも及んでいた。
すでに前年末には各国の領事館から、居留民保護のために軍艦を派遣してほしい、
という要請が本国に出されていた。
日本は当初反応が鈍かったが、米英が軍艦を派遣するという動きを見せたため、
対抗上急遽艦隊派遣を決し、この日戦艦「石見」(旧ロシア戦艦「オリョール」)が
ウラジオストクに入港した。
その2日後、イギリスの巡洋艦「サフォーク」が入港、次第に各国の軍艦が集まり、
湾内は外交的思惑の渦巻く場となった。 日本はナチスやソ連の経済統制や独裁に憧れてたから、一概に敗戦国とかじゃないと思う
ただ、日本には独裁者が居ないからなかなか決定できずに官僚が好き放題やってグダグダになる
そのくせ、粛清や暗殺はしっかりやってて、226や515もだが永田鉄山殺したのが致命的 1918. 1 .14
ボリシェヴィキ、キシニョフを占領
休戦に伴ってルーマニア戦線から撤収するロシア軍の部隊は、モルダヴィアの首府
キシニョフを通過することになった。
これを見たモルダヴィアのボリシェヴィキは、ロシア軍ソヴィエト(兵士委員会)と
交渉して、ロシア軍によるキシニョフ占領とボリシェヴィキによる革命政府樹立を試みた。
モルダヴィア民主共和国政府はこれに対抗する兵力を持たなかったため、ルーマニアに
援助を求めた。
ルーマニア軍はただちに越境し、16日にはボリシェヴィキを一掃してキシニョフを占領した。 >>824
戦時中の総力戦をやるために岸信介などの革新官僚が官僚のよる統制を始めたんだよね。
それを戦後復興、高度成長もその体制でやってきて今もそのまま。
政治自民党、行政官僚、企業経済界がグルになって国民に特定のことをやらせる。
これは共産党の命令で行政機関が国民にやらせる社会主義国のやり方と同じ。
特に分かりやすい例が国民の人生設計は新卒終身雇用の夫の収入で妻が子育て大前提。
新卒就職失敗で非正規ワープア、離婚シングルマザーが貧困、正社員が過労死でも自己責任! マット・リドレーの言う通りトップダウンの社会設計は必ず問題が出る 日本がインチキなのは政府サイドに都合がいい時だけ社会主義なところ。
タテマエが資本主義なため新卒就職失敗が致命傷になっても自己責任にされてしまう。
社会主義国ならその前提になる仕事を保証してくれる。 >>829
与えられた仕事を拒否したら強制収容所送りだけどねw 新卒しか取らないのって才能ある人材が埋もれるリスクのほうが大きいような・・・ 新卒一律採用の利点は、中途採用優遇処置を悪用する、声のデカい輩の数を抑制できること
外国人を差別するな、(自称)弱者は優遇しろとかな
性善説を排除した立法が確立するまでは慎重にならんと事業が壊れるリスクがある
あとさ、スレタイに戻れ 1918. 1. 18
ロシア制憲議会解散
この日、前年の選挙によって選ばれた議員によるロシア制憲議会が開催されたが、
社会革命党(エスエル)が多数を占める議会はボリシェヴィキの政権とソヴィエトの
権力を認めなかったため、翌日にボリシェヴィキの率いる軍隊によって解散させられた。 >>831
新卒至上主義をやってる会社があることは問題じゃない。
多くの企業が右ならえでやってる、且つ政府がそれ前提の社会制度を設計するから悪質。
右ならえでやることにより中途退職する人間は問答無用で訳ありのゴミ扱いで不採用の対象にできる。
だから過労死やブラック企業が問題になる。
新卒終身雇用をやめたら再就職がやりやすくなり、ブラック企業からはまともな人間は逃げるため自滅してくれる。 1918. 1. 20
インブロス島沖海戦
ダーダネルス海峡の出口を抑えるインブロス島には、イギリス軍の艦隊と航空隊が
配備され、海峡を封鎖するとともに、イスタンブールなどにたびたび空襲を加えていた。
これを攻撃すべく、オスマン海軍は、ドイツから乗組員ごと供与された巡洋戦艦
「ヤヴズ・スルタン・セリム(ゲーベン)」と軽巡「ミディリ(ブレスラウ)」をもって襲撃を
加えた。
護衛戦力の旧式戦艦の留守を狙って行われた襲撃は成功し、イギリス軍は
モニターの「ラグラン」と「M28」を撃沈されたが、オスマン艦隊も触雷で「ミディリ」が
沈み、「ヤヴズ」も機雷を踏んで行動不能となった。
イギリス航空隊は「ヤヴズ」に激しい空襲を加えたが撃沈には及ばず、「ヤヴズ」は
1月26日に戦艦「トゥルグット・レイス」に曳航されて帰還した。
この襲撃による戦死者はオスマン艦隊の方が多く、また、「ヤヴズ」が行動不能に
なったことはイギリス軍にも知れ渡ったため、イギリス軍の封鎖部隊への脅威は
大幅に下がった。戦略的にはイギリス軍有利な結果だったといえよう。 >>835
スレチだが
日清の黄海での「松島」の損害を見ると、舷側炭庫の防御力と防御甲板がなかったら
沈没していた可能性が高い。
大口径砲弾の炸裂に対しては一定の防御力があったとみなすべきではないかな。 1918. 1. 24
ウィルソンの14ヶ条に対するドイツ宰相の返答演説
ウィルソンの14ヶ条発表を受け、この日ドイツ宰相ヘルトリング伯は帝国議会において
返答演説を行った。
これは14ヶ条のうちドイツに直接関係する10ヶ条について答えたもので、基本的には
ウィルソンに同意する点が多かったが、エルザスを含むドイツ領の一体性の保障、
ロシア問題に関しての西側列強の介入の拒否などの点でなお隔たりのあるものであった。 1918. 1. 24
モルダヴィア(ベッサラビア)、ロシアからの独立を宣言
ルーマニア軍の介入によりキシニョフを回復したモルダヴィア政府は、この日正式に
ロシアからの離脱・独立を宣言した。
これはその後のルーマニアとの合邦をめざすものであった。 1918. 1. 28
トロツキーの「戦争でも講和でもない」宣言
ブレストでの独露講和交渉は難航していた。ドイツ側はこの年までの占領地の割譲を
要求し、ロシア側は容易にそれを呑むことはできなかった。
苦慮したロシア側代表団長のレオン・トロツキーは、この日、ロシアは「戦争でも講和でも
ない」状態にある、と宣言し、一方的に戦争から離脱しようとした。
トロツキーは、いずれドイツでも革命が起こって戦争を続けられなくなるだろう、と予測
していたのだが、彼にとって残念ながらその時期はまだ先のことであった。
当然ながらこの声明はドイツ側には受け入れられるものではなく、ドイツ軍は戦争の
再開を企図することとなる。 1918. 1 .28
フィンランド内戦勃発
前年暮れに独立を宣言したフィンランドでは、社会主義者と国家主義者が対立していた。
国家主義者側は暫定政府において自派の武装勢力を「国軍」に位置づけ、ロシア軍で
中将を務めたカール・マンネルヘイム将軍を司令官とした。(以降この勢力を「白軍」と
記述する)
これに反発した社会主義者は赤衛軍を組織し、都市部での蜂起を企図した。社会
主義者は都市労働者に基盤を置いていたからである。
1月27日の夜、赤衛軍は首都ヘルシンキにおいて一斉蜂起し、南部フィンランドを
支配下に置いた。内戦の勃発である。
暫定政府は白軍とともにバルト海岸中部のヴァーサへ移った。白軍は沿岸に駐屯
していたロシア軍部隊を武装解除して装備を整え、国内は南北に赤軍と白軍が
対峙する情勢となった。 1918. 1. 29
ボリシェヴィキのキエフ蜂起
ロシア赤衛軍のウクライナ侵攻に呼応して、この日ボリシェヴィキ派の労働者は
キエフ兵器廠において蜂起した。
ウクライナ政府軍はただちにこれを弾圧し、6日間の市街戦の末これを鎮圧した。
しかしその間に赤衛軍はキエフに迫っており、蜂起軍は十分にその任務を果たしたと
言える。 1918. 1. 29
「ダンスターフォース」出撃
旧ロシア領バクーの油田は、ロシア革命の結果、力の真空に陥ろうとしていた。
これがオスマン軍やドイツ軍の手に落ちないようにするため、イギリス軍は
「秘密部隊」をバクーへ向けて派遣した。
450人の将校と下士官からなる特殊部隊は、イギリス・インド陸軍のダンスターヴィル
少将によって編成され、自動車によって機動すべく装備されていた。名付けて
「ダンスターフォース」。
ダンスターフォースは1月29日にバグダードを出発し、主にペルシャ領を経由して、
カフカス山脈を越える道へと乗り出した。
その前途はまだだれにもわからなかった。 ピーター・ジャクソン、第一次世界大戦当時の映像を修復し3D映画化!
https://news.walkerplus.com/article/135234/
> 「ロード・オブ・ザ・リング」「ホビット」シリーズなどで知られる映画監督ピーター・ジャクソンが、今年で
>終戦100周年になる第一次世界大戦の長編ドキュメンタリーを監督、製作している。
> この映画は、終戦記念アート・プログラム「14-18 NOW」の一部として、ロンドンの帝国戦争博物館の
>協力のもと製作が進められている。監督はおよそ100年も経つ歴史映像を掘り起こし、最新技術によって
>当時の荒い映像を滑らかでシャープな映像に補修。手作業でカラー化したそうだ。そしてなんとこの映画は
>3D作品に仕上げられると、BBC Newsが報じている。
> 同作は今年のロンドン映画祭でのワールドプレミア後、終戦日である11月11日(現地)にイギリスのテレビ
>局BBC1で放送される予定。 1918. 2. 9
赤衛軍、キエフを占領
独立ウクライナの首都キエフは、この日ムラヴィヨフの率いる赤衛軍に占領された。
ウクライナ政府は西部ジトミルに退却した。 1918. 2. 9
ウクライナ政府、中央同盟国と講和
赤衛軍の侵攻によって首都キエフを失った独立ウクライナ政府は、この日ドイツを
はじめとする中央同盟国と単独講和を行った。
ブレスト・リトフスク市で結ばれた講和条約は、ドイツにおいては「ブロートフリーデン
(パンの講和)」と呼ばれ、ウクライナからドイツへ大量の食糧援助を行うかわりに、
ドイツ軍による進駐――実質的にはドイツ軍による赤衛軍の駆逐――を認めるもので
あった。
ロシア国内における一種の内戦であったソヴィエト・ウクライナ戦争は、これによって
中央同盟国を巻き込んだ国際紛争に発展したのである。 1918. 2. 10
東部戦線の休戦破れる
ブレストでのロシアと中央同盟国の講和会議は難航していた。交渉の先行きに希望を
失いつつあったロシア側代表のトロツキーは、先に「戦争でも講和でもない」宣言を
行ったが、これを交渉決裂とみなしたドイツ側は、この日休戦協定を無効として、
東部戦線全域にわたって前進を開始した。
これに対抗すべきロシア軍はすでに戦意を完全に失っており、ドイツ軍はほとんど
抵抗を受けずに東へ進撃することとなった。 かつてどこかのサイトで資源産出量、鉄道キロ数、溶鉱炉の数などの各国の国力を見たけど
えっ?イタリアってこんなに国力低いの?
欧州列強の一角のはずが英独仏に遠く及ばず。
日本は日露戦争の頃はトルコ以下、第一次世界大戦でも二重帝国やイタリア以下だけど。 >>850
イタリアの評価には常に歴史補正がかかってるんだよ
しかも、ローマ帝国補正とルネッサンス補正で二重にw
近代国家としての実力はまあ…
ロシア/ソ連や中国に常に実際にはほとんど役に立たない領土面積補正がかかってるみたいに >>850
そのイタリアでも一億発の砲弾生産してる。
一次大戦当時は日本よりはるかに上 1918. 2. 15
ドイツ水雷戦隊のドーヴァー海峡襲撃
この日、ドイツ海軍海峡戦隊の水雷艇部隊は、ドーヴァー海峡の防備にあたるイギリスの
ドリフター部隊を襲撃し、7隻を撃沈して去った。 1918. 2. 18
ロバートソン参謀総長更迭
イギリス陸軍参謀総長のロバートソン大将は西部戦線一点重視戦略を取り、多くの
戦線から中央同盟軍の消耗を誘おうというロイド・ジョージ首相の戦略と激しく対立
していた。
両者の間では政治的に暗闘が繰り返されていたが、この日ついにロイド・ジョージが
勝利し、ロバートソンは更迭されて東部軍管区司令官のヘンリー・ウィルソン大将が
後任となった。ロバートソンは入れ替わりで東部軍管区司令官となった。 欧州大戦って名前変えたほうが良いわ
どこか世界なんだって 世界=欧州って言っても大きく外してない時代だからなぁ 間接的にでも世界中の全ての人間が無関係ではいられなかったほどの規模の戦争って意味で世界大戦なんだよ
中立国でも世界中の国が軍需物資の生産とかあるいは石炭や食料や衣服だとしても普段とは違う輸出入状態になったし 元々は欧州大戦って呼ばれてたけど、アフリカ、中東、東アジア、南洋諸島と戦闘が拡大して参戦国が増え、アメリカの参戦がきっかけで世界大戦って呼ばれるようになった ドイツでは最初から世界大戦って呼称してたって話もあったような ドイツは「世界をとる戦」っていうウィリーの覇権獲得の気合いwが込められた呼称って話だな
アメリカは参戦後に当事者意識高める一種のプロパガンダとして「欧州戦争」から「世界戦争」に呼称変更
イギリス、フランスは「大戦争」がメジャーだったけど、戦後しばらくして振り返って「世界戦争」になった感じ
ま、アメリカの影響が色んな意味で強くなったことの反映だろうね
日本の「世界大戦」ってのは間とった感じでけっこう珍しい 1918. 2. 21
イェリコ陥落
パレスチナ戦線において、イェルサレムを奪取したイギリス軍は右翼においてさらなる
攻撃を企図した。
これは戦線をヨルダン川方面に広げることによってオスマン軍の負担を大きくすると
ともに、死海に到達することによって後方連絡線の援護にこの湖を利用しようとする
ものであった。
2月14日にイェルサレム付近の陣地から前進を開始したイギリス軍は、ユデア丘陵に
陣地を構えるオスマン軍をゆっくりと排除し、同時に南翼から騎乗歩兵を侵入させた。
騎乗歩兵の迂回はオスマン軍を効果的に牽制し、21日にはユデア丘陵から
ヨルダン河谷に出る道を抑えるイェリコの町の守備隊は撤退して、町はイギリス軍の
手に落ちた。
しかしヨルダン川西岸には砲兵を含む有力なオスマン軍部隊が残り、ヨルダン河谷の
支配権はいまだどちらに帰すとも定まらない情勢であった。 ユニークで個性的なパソコン一台でお金持ちになれるやり方
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TXLRX 色々出てるのを読むと既に当時のイギリスは、調停能力もないほど影響が低下してたと
いうが、第一次大戦の前だから疲弊はしてないだろうに。 ゴミみたいな陸軍しか持ってない時点で大国レベルになると英国から脅された所であまり気にならないだろうし >>864
一方ドイツは、いまの中国みたいな状態だったわけで
なに言ったって聞きゃあしねえw
それと、孤立主義下で世界中の貿易拠点の維持続けて、制度疲労の兆候ははっきりでてたよ 1918. 2. 23
赤衛軍、ロストフを占領
もとロシア軍大本営幕僚長のアレクセイエフ将軍は、10月革命後にドン川河口に近い
ノヴォチェルカスクに逃れ、コサックのカレージン将軍と協力して反ボリシェヴィキ闘争を
呼号した。
アレクセイエフのもとにはコルニーロフ将軍も合流し、アレクセイエフを軍政長官に、
コルニーロフを軍司令官にした反革命軍が組織された。
これに対しボリシェヴィキ政権は1918年初頭から討伐軍を送り込み、この日ロストフを
占領してドン川流域を制圧した。
反革命軍は黒海岸のクバン地方にまで撤退した。 1918. 2. 24
エストニア独立宣言
ロシアとの講和会議の一時的な停止と、それに引き続くドイツ軍の攻勢再開によって、
バルト海岸はドイツ軍の占領下に入ろうとしていた。
エストニア西部に樹立された民族主義者の団体、エストニア解放委員会は、この日
ドイツ軍とともにエストニア最大の都市タリン(レヴァル)に入り、エストニアは独立した
民主的な国家であることを宣言した。
ドイツ軍は28日までにナルヴァまで前進し、エストニアのほぼ全土を占領下に置いた。 1918. 2. 24
仮装巡洋艦「ヴォルフ」、ドイツに帰還
1916年11月30日にキールを出撃したドイツ仮装巡洋艦「ヴォルフ」(艦長カール・
アウグスト・ネルガー中佐)は、インド洋から南西太平洋を股にかけ、451日にわたる
通商破壊行動を行ってこの日無事ドイツに帰還した。
その間に直接捕獲・撃沈した敵船は14隻、機雷によって沈めた船は13隻。
この偉大な功績により、ネルガー中佐はプール・ル・メリト勲章を受章した。 1918. 2. 24
オスマン軍トレビゾンドを奪回
10月革命に伴い、ロシア軍はカフカス・アナトリア戦線から総撤退を開始した。
1917年12月18日には地域のオスマン軍と停戦協定が結ばれた。
この地域の非トルコ人諸民族は自衛のためにロシア軍の放棄した装備で民兵部隊を
組織した。
オスマン軍はほぼ無防備と化した前線を見て、停戦ラインを超えて戦前の領土を
奪回しようと進撃を開始した。1918年2月12日のことである。
南カフカスの諸民族、特にオスマン帝国から虐殺を加えられたアルメニア人組織は
オスマン軍に立ち向かったが、力の差は歴然としており、オスマン軍は前進を続けて、
この日黒海岸の主要都市トレビゾンドを奪回した。 政治家全員マジ全部国民や外国のせいにしかしてないので それを指摘することは事実だから合法 あと愚痴を公共の場で言うと嫌われます 気をつけましょう 陛下に世界平和のバースデープレゼント オリンピックのゴミ掃除 あと嘘をつく国は独裁国家なのでクーデターを起こせます 1918. 3. 1
ファルケンハイン、パレスチナ方面軍司令官職から解任
この日、前年のイェルサレム失陥の責を負って、パレスチナ方面のドイツ軍司令官
ファルケンハイン将軍(もと参謀総長)は解任され、トルコ勤務の長いリーマン・フォン・
ザンデルス将軍が後任となった。
ファルケンハインは白ロシア占領軍の第10軍司令官に移され、そこで終戦を迎えた。 1918. 3. 3
ドイツ軍キエフを占領
独立ウクライナ政府と講和した中央同盟軍は、条約に従ってウクライナ領内へ進駐し、
東から迫る赤衛軍と衝突した。
装備と統制に勝るドイツ軍は瞬く間に赤衛軍を駆逐し、この日ウクライナの首都キエフを
占領した。ウクライナ政府はこれに従ってキエフに帰還した。 ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています