>>722
https://www.dailyshincho.jp/article/2018/05010616/?all=1&;page=1

> 「大韓航空機事件を知ったのは、その日の午前4時頃でした。午前6時頃に、私は外務省、防衛庁からも報告を受けた。
> 事情が正確に把握できたのは昼頃でした。夜中になって、やるなら思い切ったことをやらないと駄目だと考え、自衛隊が
> 傍受していたソ連の戦闘機と樺太の基地との交信記録を米側に提供することを、早期に決断しました。交信記録を
> 私の手元に持ってきたのは、内閣調査室でした。ところが、防衛機密保持の上から、後藤田官房長官や防衛庁の幹部は
> 提供に消極的でした」
>
> 「私はソ連を全世界の面前でやっつける絶好のチャンスだと思い、交信記録を提供して日本の傍受能力が多少知られたとして、
> この場合には損はないと考えたのです。ソ連に対する日本の強い立場を鮮明にする好機であり、対米友好協力関係を強化する
> 意味もありました。レーガンに知らせてやるのは、得になることはあっても、損になることはないと、私は反対意見を押し切って、
> 機密情報をアメリカに渡しました」

当時の首相の中曽根が証言しているけれど?

以下の著作です
『中曽根康弘が語る戦後日本外交』新潮社