>>850の続き

ところが、>>846の『歴史群像』によると、

「米側の索敵計画では、毎日22機のPBYが各機ごとに割り当てられた
最大進出距離700浬、最大開度15度の扇状の索敵線を張り、
ミッドウェー島の南南西から北北西の広大な範囲を索敵して、
接近する日本艦隊をできる限り遠距離で発見することとなっていた」(p115)

ここに”最大開度15度”とあるので、>>847の通り、
北西方面だけでなく、全方位二段索敵であり、
索敵機の総数は22機ですが、索敵線は11本だったようです。