セルジオ・レオーネが情熱を傾けて作り上げたバロック風の西部劇は、必ず大げさな決闘シーンで締めくくられていた。思い入れの込もった編集にモリコーネの音楽を重ねながら、対決する二人、時には三人を俯瞰する全景から始まり、イーストウッドとリー・ヴァン・クリーフの全身、そしてバストアップ、腰の拳銃の周囲を揺れる手のクローズアップに続いて顔が短いカットで示され、遂には瞳に向かってズームアップされるといった技法が、いかにも凝視の緊張感を高め、監督自身が悦に入っているかのような苛立ちを伴うものだった。しかし、そこには「西部劇はすべて決闘に集約され、しかも決闘は凝視の争いだ」という俗説が、重くのしかかっていたに過ぎない。

それがいかに致命的な誤りであり、また映画に対する誤解から生まれているかを示すには、西部劇作家であると同時に、言葉の真の意味での映画作家でもあるジョン・フォードが、個人的な決闘の一瞬を必ず作品から排除していることを思い出すだけで十分だろう。