【晩年】大江健三郎 8【様式】

0001吾輩は名無しである2023/09/10(日) 22:59:34.38ID:q3Zsuteu
御冥福を祈ります

0322吾輩は名無しである2024/02/19(月) 10:09:02.01ID:AOasIbtH
ノーベル大江を奉るのは

オオエ真理教

と言います。

0323吾輩は名無しである2024/02/20(火) 07:29:15.92ID:gzFYJNqF
大江健三郎スレで
小学生みたいな書き込みするやつwww

0324吾輩は名無しである2024/02/21(水) 17:12:54.77ID:w8pwzHL5
食い過ぎました
オーエッ

0325吾輩は名無しである2024/02/21(水) 17:14:36.43ID:w8pwzHL5
伊丹十三とあの世で語り合っているだろ

0326吾輩は名無しである2024/02/23(金) 00:47:06.85ID:VzvcH9v9
日本人にクソなものを残し大切なことを忘れさせた男
それが大江健三郎

0327吾輩は名無しである2024/02/28(水) 03:25:06.83ID:kSrs+Wxp

0328吾輩は名無しである2024/02/28(水) 03:25:20.26ID:kSrs+Wxp

0329吾輩は名無しである2024/02/28(水) 03:25:40.96ID:kSrs+Wxp

0330吾輩は名無しである2024/02/28(水) 13:11:59.10ID:K+dYGF32
>>329
日本国にとってと言っているんだから
日本国を壊そうとしている人間は関係ないし
日本に礼儀を示さない人間も例外ということだろう。

0331吾輩は名無しである2024/02/29(木) 04:48:03.93ID:qpWfp1wN
>>330
相手の言っていることを殊さらそうやって曲解して、揚げ足取りをしようとしているんでしょうけれども、それも空振りしていますよ、申しわけないけれども
https://i.imgur.com/3Xolt38.jpg

0332吾輩は名無しである2024/03/03(日) 07:35:01.04ID:Biwsy7zg
3月3日、大江健三郎が亡くなって1年が経った
これからも大江の小説を毎年何作か読んでいく

0333吾輩は名無しである2024/03/17(日) 19:52:18.64ID:l54zonfI
全小説の解説マジでいらねーな
害悪でしかないだろ
尾崎とかいうカスは
無知なりにそれをなんとか少しは克服しようとする努力すら放棄してる
こんなのにインタビュー本といい仕事が回ってくる謎

0334吾輩は名無しである2024/03/17(日) 19:59:10.57ID:Nb3kF/PC
尾崎の解説は確かにあってもなくても構わない薄いものだ
害悪とは言い過ぎだがね
大江は賢いし、勉強家だったので、どの批評家も歯が立たないんだよ

0335吾輩は名無しである2024/03/20(水) 19:06:20.70ID:AyxHKXCV
今日から裁判記録の本読み始めた

0336吾輩は名無しである2024/03/23(土) 15:46:15.51ID:PBLT3ShK
あらためて大江はサイコパスだったんじゃないかと思う。

そのサイコパスが反核に目覚めた結果が大江の作品。

そして、サイコパスの特徴として責任を取らない。
支離滅裂でも責任を取らない。
それが大江の人生。

0337吾輩は名無しである2024/03/24(日) 15:06:19.70ID:rofQiEz6
>>336
安倍晋三「私たちが責任を取ればいいというものではありません」
https://i.imgur.com/gA9FxJ5.jpg

0338吾輩は名無しである2024/03/26(火) 16:23:24.01ID:iJMNF+20
>>337
大江の初期の作品はまさにサイコパス的所業だよ。

あらゆるものを記号に置き換えて次々と問題解決していくみたいな。
人はそれを見てびっくりしたわけだけど
しかし大江は人間ではなくてサイコパスだったんだろうと思う。

0339吾輩は名無しである2024/04/02(火) 20:36:24.63ID:tQ882LCH
ノーベル賞作家で亡くなったのに記念館みたいなのが無いのは寂しいね。
本人の意思なのかな?

0340吾輩は名無しである2024/04/02(火) 20:38:39.80ID:tQ882LCH
大江は秋元康みたいな容姿がイマイチだな。
過激なこと書いててもなんか迫力が足りない。
三島、漱石、太宰、川端、谷崎とかに比べて見た目が良くない・

0341吾輩は名無しである2024/04/02(火) 20:43:02.34ID:tQ882LCH
大江は子供のことを書きすぎだな。
作品の幅が狭まった。

0342吾輩は名無しである2024/04/03(水) 18:38:21.38ID:f1CjmNup

0343吾輩は名無しである2024/04/20(土) 19:01:05.53ID:l6C+U+E4
>>340
三島、漱石、太宰、川端、谷崎は顔がぱっと思い浮かぶね
大江もそうだが、最近の作家の顔は特徴がないのか全く浮かんでこない
というか、それ以前に知名度が低すぎて、一般に知られている作家は純
文学ではせいぜい村上春樹くらいだろ。

0344吾輩は名無しである2024/04/20(土) 23:32:40.00ID:ggJEsDdQ
現代で本当に押しが強い人は作家じゃなくユーチューバーとかになるんじゃないの
そいつらのほうが鋭い顔してる
ほとんどがチー牛か(いい歳なのに)大学デビューしました、みたいなツラのやつらしかいない

0345吾輩は名無しである2024/04/20(土) 23:42:05.31ID:Tl2KE0gP
屁理屈を言っても良いんだというのをこの国に広めた
大江健三郎

0346吾輩は名無しである2024/04/21(日) 20:03:08.14ID:Q+D8NXoC
三島の書いたものに迫力なんぞない
背筋にくるものが何もない
もはやキャラクターとして残っているだけ

0347吾輩は名無しである2024/04/22(月) 11:29:50.58ID:o2lTOxC/
昨年の暮れに出た、安藤礼二「死者たちへの捧げもの」青土社の、大江と三島の天皇感の比較が中々興味深い
明治政府が作ったアマテラスを皇祖とする現人神の天皇像が三島で、それを脱構築した折口信夫のシャーマンとしての天皇像が大江だという

0348吾輩は名無しである2024/04/22(月) 13:33:28.03ID:5Ql0bBnA
>>347
大江の方が後ろの世代で本筋とは違う形で神話化されていた
ということだろ。
正直どうでも良い。

0349吾輩は名無しである2024/04/22(月) 16:25:34.77ID:0n7QjSpo
明治政府が作ったアマテラスを皇祖とする現人神の天皇像が三島で、それを脱構築した折口信夫のシャーマンとしての天皇像が大江

脱構築wwwwwwwww
未だに脱構築wwwww

0350吾輩は名無しである2024/04/22(月) 23:16:24.69ID:IzZ55L9+
世の中全員脱構築しとるもんな
犯罪者を讃えたりなw

0351吾輩は名無しである2024/04/23(火) 11:59:00.19ID:/z7wXzgs
全然違う、戦後、天皇が「人間宣言」したことに対して反発したのが三島で、天皇を改めて明治以前のものに戻して構築し直そうとしたのが折口信夫
安藤の評論は、三島の「英霊の声」と大江の「セブンティーン」「政治少年死す」の比較で、大江に折口の影響があるのを分析したものである
大江の中にある天皇像を、「セブンティーン」「政治少年死す」の主人公の天皇像として描いてるのであって、左翼の立場から批判的に書いた小説ではないということだ

0352吾輩は名無しである2024/04/24(水) 19:31:48.40ID:/o4KU8oU
>>351
スタンドバイミー的な少年時の甘い心の対象として
天皇があったという大江の嫌味が入った分析
何だろうけれど
果たしてそれは事実なんだろうか?
三島由紀夫の金閣寺は事実とは違うとよく言われるもの
だけれど。

0353吾輩は名無しである2024/04/24(水) 21:24:30.36ID:HeeGRTIS
事実かそうじゃないかはどうでもいいんでしょ
机上の空論が精密でさえあれば

大江にもそんなところがあったから
燃えあがるや取り替え子は残念な仕上がりになってる

0354吾輩は名無しである2024/04/25(木) 10:38:47.62ID:xukiiJCe
読売新聞で、仏文学者で東大教授の郷原佳以がこの本を書評している (2024.4.14)

「著者はデビュー以来、折口信夫について論じ続けてきた批評家である。
2014年の大著『折口信夫』のなかで著者は、「大嘗祭の本義」を始めとする折口の天皇論をこうまとめている。
「近代的な天皇制を、前近代的であるとともに超近代的でもある〈野生の天皇制〉へと解体し、再構築してしまうこと。
すなわち、天皇を『脱構築』してしまうこと」。
そしてこの構想は、フレイザーの『金枝篇』やモースの「呪術論」など、霊的な力を探求する民族学の視点に拠っていると指摘した。
(中略)
しかし、問題提起において圧倒的なのは間違いなく、大江健三郎と三島由紀夫をめぐる冒頭の2章、および、大江と村上春樹をめぐる終章である。
著者は、一見対照的に思われる三島と大江の天皇感の以外な関係性を暴き出す。
「政治少年死す」における右翼少年の「純粋天皇」崇拝は、単に切り捨てるべき愚行として描かれたのではなく、大江自身が取り憑かれていた想念だった。
この想念を介して大江と三島は交錯する。
そして三島の自死によって、大江は三島に呪縛されつつ別の方向へ歩み始める。
そこで支えになったのが、三島が抗った折口の思想だった。
著者は、大江と三島の対立の象徴となる1968年を起点として、以降の日本文学史を描き直してみせる。
 終章では、その後にやって来る村上と大江の関係が、三島と大江の関係の反転として論じられる。
大江の『水死』と村上の『1Q84』が共にフレイザーの『金枝篇』の王殺しの場面を引用しており、
共に折口の思想を反復しているという指摘は説得的だった。」

0355吾輩は名無しである2024/04/25(木) 11:32:29.82ID:wD7LtKaQ
>>354
要するに昔の柄谷がやったようなことを別の切り口で反復してるだけってこと?書評がクソすぎてどうしようもない

0356吾輩は名無しである2024/04/25(木) 16:07:56.60ID:Yvr/N++A
>「近代的な天皇制を、前近代的であるとともに超近代的でもある〈野生の天皇制〉へと解体し、再構築してしまうこと。
すなわち、天皇を『脱構築』してしまうこと」。

↑笑止千万。「天皇制を脱構築」って具体的に何よ?
意味不明の文章を書き連ねて、それが「説得的」とはねw

0357吾輩は名無しである2024/04/25(木) 23:27:36.21ID:wD7LtKaQ
概念で遊んでいるだけでしょう
ニューアカの頃と何も変わらん
もう皆騙されないだけでw

0358吾輩は名無しである2024/04/26(金) 11:33:26.23ID:nkdFiDsc
安藤礼二とは何者か
2009年の第3回大江健三郎賞の受賞者である
大江健三郎賞は、その年に「文学の言葉」で書かれた作品の中から、大江自身が一人で選考して勝手に受賞者を決める
受賞者にとってはまさに晴天の霹靂だが、賞金はない代わりに英独仏語のどれかに翻訳するプロジェクトが始動する
折口信夫の代表作「死者の書」を分析した安藤の受賞作「光の曼荼羅 日本文学論」は、「死者の書」と共に英訳されて2017年に出版された
一般の文学賞は、受賞者とその名前を冠した作家はもちろんのこと選考委員との間にも関係は生まれないが、この賞は両者の間に交流が生まれる
大江は、安藤から贈られた英訳の「死者の書」を、「いただいた朝から読み始め、その流麗さに一日中、ベッドから起き上がらないというふうだった」とお礼の手紙に書いている

0359吾輩は名無しである2024/04/26(金) 11:36:04.58ID:nkdFiDsc
では、大江にとって折口信夫はどういう存在なのか
大江のトレードマークの丸メガネは折口に憧れて真似したものだと講演で語っている
折口信夫全集が出たときは最初の購入者になったという
折口の影響が直接出てる作品は「万延元年のフットボール」(1967年)である

「ここで蜜三郎が妻に説明している祝祭、この「念仏踊り」こそが『万延元年のフットボール』全体を貫く通奏低音になる。
「ふるさと」に生起するさまざまな出来事、過去と現在、そしておそらくは未来までをも含めたさまざまな出来事は
「念仏踊り」のなかに取り入れられ、それが繰り返されるたびに活性化され、「ふるさと」の新たな歴史として産み落とされる。
そうした祝祭の在り方を、大江は、この一節中に固有名が明記されている通り、折口信夫がその生涯の最後に残した、ある意味では折口の遺言ということも可能な長編論考「民族史観における他界観念」にもとづいて再構築しているのである。
つまり『万延元年のフットボール』に描き出された「ふるさと」とは、現実の「ふるさと」に、テクストの解釈によって導き出された仮構の「ふるさと」が重なり合うことによって形づくられたものだった。
テクストの創造的な反復こそが「ふるさと」を生起させていくのである。
 このとき大江が折口を選んだことはきわめて重要である。
なぜなら、アジア・太平洋戦争以前からその敗戦の後に至るまで、ただ折口だけが「天皇」を脱構築することに成功しているからだ。
折口は生涯を通して道徳としての神道、「国家神道」に意義申し立てを行い続け、もう一つ別の近代を模索し続けた。
そのためには、神道は道徳ではなく宗教でなければならない。
神道の基盤である「神憑り」にいま一度戻らなければならない。

0360吾輩は名無しである2024/04/26(金) 11:36:36.89ID:nkdFiDsc
 京都の皇典講究所と東京の皇典講究所(國學院大學)、「神憑り」から生まれた教派神道各派と密接な関係を持っていた研究団体「神風会」への熱狂的な参加等々、
出口王仁三郎による「神憑り」の実践と折口信夫による「神憑り」の研究は、その背景においても理論においても、きわめて深く共振するものであった。
三島由紀夫が出口王仁三郎を選んだとしたなら、大江健三郎は折口信夫を選んだのである。
『万延元年のフットボール』の源泉である折口信夫の「民族史観における他界概念」、そのものずばり「念仏踊り」と題された節は、こうはじまっている。
「村を離れた墓地なる山などから群行して、新盆の家或は部落の大家の庭に姿を顕す。道を降りながら行ふ念仏踊りは、縦隊で行進する。
家に入ると、庭で円陣を作って踊ることが多い。迎えられて座敷に上ることもあり、屋敷を廻って踊ることもあり、座敷ぼめ・厩ぼめなどもする。」
大江は、『万延元年のフットボール』のなかで、ここに描き出された「念仏踊り」をそのまま再現し、物語の最後、「ふるさと」に隠されていた秘密をあらわにすることで自ら命を絶たなければならなかった鷹四の「御霊」を慰撫するであろう。
つまり大江健三郎は、折口信夫が最後に到達した地点に立つことによって、自らの現実の「ふるさと」を脱構築することをはじめたのだ。」
(「死者たちへの捧げもの」P.60-62)

0361吾輩は名無しである2024/04/26(金) 11:38:47.67ID:nkdFiDsc
大江健三郎が、あるいは折口信夫がよみがえらせようとした「御霊」とは、このようなものであった。荒ぶる霊魂の、未開の荒野に立つ。
そのことによってはじめて、靖国と天皇に体現された近代的な施設であるとともに人、極東の列島に育まれた宗教と文化にとっては突発的で特殊な制度であり機能であったものが根底から解消される。
「英霊」を「御霊」に戻し、天皇を「霊魂」の操作者に戻す。
折口にとって列島の原初の神とは人格をもつ神、人間的な神ではなかった。荒ぶる「御霊」のような非人格的な神、霊魂としての神であった。
天皇は、そのような霊魂としての神を自らの身体に憑依させるのである。
アマテラスではなく、アマテラスという「かたち」が与えられる以前の非定形で不定形の、つまりは明確な「かたち」をもたないことによって逆に内部に無限の変化可能性を秘めた「たま」としての神を。
折口は、そのような神を、本居宣長、平田篤胤と続く「国学」の伝統に従って『古事記』の冒頭にあらわれる神、「産霊」(ムスビ)とした。
無限の霊魂をそのなかから産出し、森羅万象あらゆるものに生命を賦与する根源神、自然そのもののもつ荒ぶる破壊する力と生成する穏やかな力をあわせもった神。
そのなかから、あらゆる「かたち」を生み出す神。アマテラスは「産霊」から生み出された一つの「かたち」に過ぎなかった。
アジア・太平洋戦争終結後の折口は、こう宣言する。
天皇を「祖先神」(アマテラス)から切り離さなければならない、と。
三島由紀夫の「純粋天皇」に根底から異議申し立てをしなければならなかった大江健三郎が、折口信夫を選んだことは必然であった。(同上P.66-67)

0362吾輩は名無しである2024/04/27(土) 21:30:19.13ID:DAMklrYb
>>361
もののけ姫かよ。

宮崎駿も左翼だが
「もののけ姫」も反天皇のためのフラグであったとしたら
笑えるな。

0363吾輩は名無しである2024/04/29(月) 08:27:36.86ID:EV6cBIAq

0364吾輩は名無しである2024/04/29(月) 12:09:59.82ID:85tLFGwJ
三島と大江の違いで重要なのは、東京出身と田舎の村出身というところである
左翼の人間でよくいたのが、戦前の軍国教育を批判し、戦後の反天皇・反君が代・反日の丸の日教組教育を正当化するために、自分は軍国少年だったと声高に言う連中である
子供の頃は、国家の教育のため軍国少年になったが、戦後は改心して平和主義の民主主義者になったと主張する、軽薄な人間である
大江は、こういう連中と違い、子供の頃の軍国少年であったことを、自分自身の中にある内なる天皇を晩年の作品「水死」に至るまで問い続けた
都会の子供にとっての天皇は、国家による教育で教え込まれるものに過ぎないが、田舎の子供にとっての天皇は、共同体の年中行事などの神事と係わり合いがあり、
憲法が変わり、国家による教育が変わったからといって、簡単に消えてしまうものではない
大江が、折口信夫の民俗学、古代学をたよりに生まれ育った村の共同体と天皇を生涯問い続けたのはそのためであろう
一方、都会育ちの三島は、国家神道の天皇にこだわり続けるしかなかった

0365吾輩は名無しである2024/04/30(火) 12:47:56.67ID:VtkeetCQ
age

0366吾輩は名無しである2024/05/01(水) 23:06:25.96ID:kkPB96b6
>>364
問題時大江の戯言など
もう記憶しておく価値などないだろう。

0367吾輩は名無しである2024/05/02(木) 10:40:27.54ID:cf1/LAQI
そもそも大江は社会正義を盾にして
戦後民主主義者に転向したやつを軽蔑している

0368吾輩は名無しである2024/05/03(金) 13:18:37.19ID:fjVGotnI
(359-361の続き)
 王仁三郎は、壮絶な「神憑り」の最中、お筆先として過激な「神の言」を撒き散らし続ける出口なおと出逢い、すぐさまなおに帰依し、
なおを「神主」、自らを「審神者」とする「鎮魂帰神法」を、理論においても実践においても、確立していったのである。
最大の力をもった「神主」こそが最大の力をもった天皇なのである。
アマテラスが憑依した天皇は、その度ごとに、文字通りアマテラスそのものとなる。
大本的な「鎮魂帰神法」にもとづいて小説「英霊の声」を書き上げた三島由紀夫は、続いて評論「文化防衛論」において、伊勢神宮とアマテラスを論じることになる。
三島は、そこで、こう宣言する。
日本文化の大きな特質の一つは、本来的に「オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」ところにある。
その端的な例は、伊勢神宮で二十年に一度行われている式年造営と、そこに祀られているアマテラスと天皇の関係に見出すことが可能だ。
伊勢神宮は内宮と外宮の二つの神域からなる。
それぞれの宮を構成するすべての建物、そのなかに収められたすべての宝物は二十年に一度完全に破壊され、まったく同じものが、すぐ隣の空白の地に造り直される。
 三島は、ここにこそ近代以前にして近代を乗り越えていく日本文化の特質があるのだと断言する。
「持統帝以来五十九回に亘る二十年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、
オリジナルは、その時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。
このような文科概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にないところの天皇制の特質と見合ってゐる。」
 憑依という反復によって時間も空間もゼロへと滅び、あらためてゼロからよみがえってくる。
もしそこに「かたち」が、「仮面」がなければ、誰もが、何もが自己同一性を保つことができなくなるであろう。
三島由紀夫は、反復の度ごとに同一性が保たれる「かたち」を選んだ。
『万延元年のフットボール』を書き上げた大江健三郎は、おそらく違う。
反復の度ごとに同一性が破られ、差異性が産み落とされる「かたち」以前の「かたち」、「かたち」の母胎、「純粋天皇の胎水」たる「ふるさと」を選ぶ。
(同上P.52-55)

0369吾輩は名無しである2024/05/03(金) 13:20:31.60ID:fjVGotnI
三島は、伊勢神宮の式年遷宮は、コピーがオリジナルになるといっているが、これがそもそも問題なのである
20年ごとに造られる社や宝物は、完コピではなく「づれ」がある
図面通り作れるなら20年ごとにやらなくても、壊れそうになったらやればよい
20年ごとにやるのは、図面には現れない「わざ」があり、それを人間によって伝承する必要があるからであろう
こういった構造の「づれ」を問題にするのが広義の「脱構築」だろうが、原義は形而上学の同一性に関るものである
「イデア」と「現前」の同一性を、三島の天皇論に当てはめると、イデアがアマテラス、現前が天皇になる
この関係は脱構築されねばならない

0370吾輩は名無しである2024/05/03(金) 13:21:02.93ID:fjVGotnI
「脱構築」について、浅田彰ではなく、『へるめす』で大江と同人だった中村雄二郎の『術語集』(岩波新書)から引用してみる(P.196-200)

 「ドゥルーズ『意味の論理学』では、プラトン主義のうちにある本質界と仮象界の区別が問題にされる。
すなわち、プラトンは本質を仮象から、オリジナルをコピーから、原型を模像から分けた。
それは、本物を贋物から見分け、区別し、探し出すためであった。
そして、本物=イデアとの対比で、模像(ずれと改変を含んだコピー)はいやしめられ、抑圧された。
 では、そのように模像を退けるプラトン主義において、真理の基準となるものはなにか。それは同一性と相似性にほかならない。
だがそれらではなく、模像と差異の立場に立つときは、本質はもとより、オリジナルも原型も特権をもって存在しえなくなる。
相似は模像の外にあらわれた効果にすぎないし、同一性は差異を前提として存在しているにすぎない、とドゥールーズは言っている。」

「<ロゴス中心主義>と<脱構築>というのは、たしかに西洋文化の根幹にかかわる重要な問題である。
そして私たちとしても、明治以後西洋文化をこれだけとり入れてしまった以上、その問題は決して他人事ではない。
けれども、さらにその先に考えるべきは、私たちにとって脱構築の対象とすべきもの、私たち日本人の考え方を根本的に支配するもの、
西洋文化でのロゴス中心主義に当たるものはなにか、ということである。
それはなんといっても文化概念としての<天皇制>であろう。
 こうして私たちにとって、脱構築の作業は文科概念としての天皇制に向けられるべきことになるが、あたかもデリダ『根源の彼方に』のうちに、その点で私たちにとって切実なことばがある。
《脱構築の試みは必然的に内部からの働きかけとなり、逆転のための戦術と力とをすべて古い構造から借りうけるため、
その構造的につまり要素や原子を分離せずに借りうけるため、ある意味では必ずみずからの仕事の犠牲にならざるをえないのである。》」

0371吾輩は名無しである2024/05/03(金) 17:44:43.80ID:w4U4kaVX
脱構築=換骨奪胎

0372吾輩は名無しである2024/05/04(土) 13:46:19.91ID:UStIoom6
>>370
敵の褌で相撲を取ろうとか笑止千万。
そもそも敵認定をしてしまう性根がそもそも間違っている。

金のために死体遺棄を平気でしてしまう若者(朝鮮人)が
話題になっているが
これもふざけた脱構築によりタガが外れた一つの犠牲なんだろうと思う。

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