【晩年】大江健三郎 8【様式】
岩波新書ででるらしい
親密な手紙
渡辺一夫をはじめ、サイード、武満徹各氏、エリオット、オーデン、ジョイスなどを語る魅力的な読書案内。『図書』好評連載。
https://www.iwanami.co.jp/book/b633365.html 大江が書き残した厖大な小説を毎年数作ずつ読んでいき、
やがて全作読破するというのが愉しみになっている 「新しい文学のために」がkindleになったので買った
大江文学を知るための必読書
新しい文学のために
私という小説家の作り方
作家自身を語る
がkindleで揃った なんとも寂しいお別れ会だったな
文学的功績には誰も触れることができず
黒柳も楽しい話をしてくれたというだけに留まる。 戦後最大の小説家という視点がない論者はバカヤローだ
いかに『セヴンティーン』『万延元年のフットボール』
『洪水はわが魂に及び』がすごいかを語らねばならぬ >>8
しかしパクリ文学だろ
だから戦後最大の作家など
まともな感覚を持っていればみんな恥ずかしくて言えない
筒井康隆が言う様に、戦後は大江の時代だったの
かもしれないが、大江は時代の空気を読んだ
燃料を投下してきたと言うだけだったのであって
価値があったと言うわけではない。 古典を読めば、文学はおしなべて先行文学の引用で
成り立っていることが分かる
パクリという輩はろくに文学を読んでいないトーシローにすぎない
無視するに限る >>10
忘れられている個人的な体験は
アップダイクの「走れうさぎ」を模倣したものとか >>10
あんたはクロートか。
文学板は俺以外は馬鹿阿保しかいないと思ってたが。 大江の問題はその主たるリベラル読者層の保守性ではないか?
大江の過激さを彼等は敢えて無視してきたような。
そうさせたのには大江自身の渡辺一夫に対する思いの権威主義的なところとかが影響してたのではないか? 戦後最大とか20世紀最大とか大げさに書くやつがトーシロー
恥ずかしくて聞いちゃおれん 検索してて見つけた記事。1999年『宙返り』刊行に際して八重洲ブックセンター
にて開かれたサイン会で大江を撮影したカメラマンのエッセイ。
意外に気さくで奥さんのことを「かみさん」と呼んでいたこと。カメラマンに
「君、キムタクに似てるね」と言ったこと、など。大江さんが奥さんを
「かみさん」とコロンボみたいな言い方してた、「キムタク」という言葉を使っ
た、どうみても大江さんなら「家内」と言い「木村拓哉」とフルネームで呼ぶと
いうイメージ。
公式な場所でないときは意外な気さくな人だったというのが回想されて
面白い。
http://nakayama1999.blogspot.com/2011/04/blog-post_20.html >>15
>大江さんが外人の方とお話している英語が、
>見事なジャパニーズイングリッシュだったのがとても印象的
これホントそうなんだよな
流暢だし明晰なんだけど、発音がとにかく日本人
ネイティブに近づけたいという興味がまったくないのかしら 大江や村上春樹とかは柄谷行人、中上健次、蓮實重彦ら野球チーム「枯れ木灘」の面々から無言の迫害を受け続けて来た訳だが、
淡々と?迫害に耐え抜いた。 大江健三郎の小説は映画化されてないの?
川端康成は映画化された作品があるから
読んだことない人も名前知ってたりするんだけど >>20
「偽大学生」(増村保造監督)
「飼育」(大島渚監督)
「静かな生活」(伊丹十三監督)
他にある? 調べてみたら「飼育」はカンボジアでも映画化されているようだ
https://eiga.com/news/20111029/7/
芽むしり仔撃ちとか映像化されてないのかしら 『万延元年のフットボール』を別役実の脚本で吉田喜重監督が撮るという企画があったとか。それが流れたから、同じ布陣で『戒厳令』(三國連太郎が北一輝を演じた)が製作されたのかな? むかし、ラジオドラマで『ふたりの部屋』っていうのがあったけど
そこで音声化されたのはあるかな
氷室冴子『なんて素敵にジャパネスク』(声 小林聡美&坂上忍)
寺山修司『赤糸で縫い閉じられた物語』
椎名誠『さらば国分寺書店のオババ』(声 伊武雅刀&島津冴子)
なんていう作品が音声化された。 『個人的な体験』はルイマル監督の『死刑台のエレベーター』みたいなタッチで(要はモダンジャズをBGMに使う)撮れば良いと思う >>25
ありがとう
「飼育」はAmazonプライムビデオで観られるようだ
「われらの時代」もかつてはAmazonプライムビデオにあったようだが、今は観られない >>23
へえー、へえー。それは知らなかった
なんでも、「われらの時代」「偽大学生」「飼育」の映画をいまいち気に入ってなかったみたいだね
その例外が「静かな生活」。伊丹十三だから許可したんだろう
以下、『大江健三郎 作家自身を語る』より
64、映画を見に行かれることはありますか。DVDをご覧になることは?
私は若い時から二時間暗闇でいることを恐怖する(その間、本をチラリとでものぞけないから)人間で、武満徹さんの友人でいながら、かれと一度も映画を見に行ったことはありませんでした。ヴィデオの時代になって、はじめて映画に入門したようなものです。DVDでオペラを観ますが、映画はかぎられたものを、何度もくりかえして見るほか、のんびり楽しむことはありません。
78、ご自作の映画化、演劇化を許可されることはあるのでしょうか。
ほとんどありません。私の仕事はやはり「文章」による本質のものです。試みてくださる人たちが、たいてい成功されないのが苦しいし。 大島と増村作品は当時から評価は高かった
後者の原作『偽証の時』は素晴らしい
左翼学生運動のマイナス面を描いている
全集に入っているね 『万延元年のフットボール』の映画は大江が承諾しなかったため実現しなかった
その後、友人かつ義兄の伊丹十三監督『静かな生活』しか映画化を許さなかった
今後は遺族次第だが、どうなるかな >>24
「死者の奢り」がラジオドラマ化された
録音したのを思い出した、どこかにテープがあるはずだが >>32
サンクス
『革命女性』を映画化してほしいね。
永田洋子をモデルにしたヒロイン「娘」は
今なら黒木華だな
一昔前なら裕木奈江
松たか子も三十半ばくらいならグー 映像化ならやはり初期短編だな
下降生活者なんか今やったらウケそうだが 大江健三郎の新しい人間とは何だったのか。
あいまいにしたまま逃げる様に死んでいったな。 『「雨の木」を聴く女たち』の高安カッチャンて設定からして大学時代の
友人てことだけど、タチが悪いのなんの。まとわりついて面倒くさい話ばかり
持ちかける迷惑な男なんだけど。文学青年の成れの果てみないにも見える。
完全な創作じゃなくて文壇や雑誌編集に実際によくいる面倒くさい人種みたいな
そういうのを見てきて付き合ってきた成果(笑)でもあるキャラクターじゃないか
と見える。ああいうのって作家やってると必ず現れる元クラスメイトで「あいつが
作家やれるんだから俺がやれないはずがない」と決め込んで、上手くいかないと
憎悪や嫉妬や向けてくる。そういう人種の象徴なんだろうね。ああいう人種に
付きまとわれた経験もあるんじゃないかて思えてくる。身に染みてる感じが(笑)
大江さんて教養人とか知識人とかみられることが多かったけど、実はstory
tellerとして卓越した奇譚師だったよね。嘘かホントか見分けのつかない噺を
始める。こういう人いるなって人物を登場させてそれと自分が巻き込まれていく
展開。噺家としてのテクニシャンぶりとヴィヴィッドな時代性とが合わさった
面白さがいついもあったね。人物造型の腕も良かった。噺家として面白いのが
やっぱり小説家として延命させた力の1つでしょうね。 レインツリーを聴く女たち
いちばん最後の、水泳教室を舞台に男を挑発する女が殺される話だけ読んでない。そこに『静かな生活』の最終章で映画版なら今井雅之が演じた男のモデルが出てくるが『静か…』もそこだけ読んでない 『「雨の木」を聴く女たち』新潮文庫1986年新刊帯本を当時購入
あまり好きな本ではない
特に最後の「泳ぐ男ー水のなかの「雨の木」」は大嫌い
これほどありえない上に噴飯物の話は大江の小説には珍しい
ありえなくとも笑えるホラ話ならいいんだがね 高安カッチャンてのは実際にモデルが居るんではないかとも思えるし。特定の
ね。あまりにリアルで蒙る迷惑もリアル。仏語&英語の二か国の雑誌を西武G?
の支援を取り付けて発行したい。そこに高安の小説も載せたいとか勝手に決めて
おり、しかもその西武?Gの娘らしいのが随行してるがその娘は無愛想で話も
できる感じではない。高安はその夜、酔っぱらって中国人コールガールを連れ
て大江の部屋を訪れ、女を世話するのだから君は俺に300$払う義務があると
か。
いかにも雑誌編集者にいそうな挫折した文学部出身小説家志望。やたら人脈
だけは持ってる。でいかがわしい人間と連れ立っている。噂と難癖が大好物で
ある。大物につきまとう。また大物も大江のように人の好いのがいるので
食い物にされやすい。
高安カッチャンのモデルって実は無名時代の絓秀実だったのではないかという
疑いもある。彼は批評家として有名になるまでは「日本読書新聞」の編集者を
していた。あれは書評がメインだから大江健三郎とは頻繁に会っていたとして
不思議はない。高安が色んな業界人の合成だとしたら、絓秀実もそこに合成
されていたのではないか(笑)。酒場にたむろする業界人や取り巻きにはいそうな
人間。 ハワイの東西文化センター主催の会合で高尚な話をアレン・ギンズバーグなど
としている最中につきまとってくる人間ということになってるが、大江は
内心迷惑でも付き合うタイプで、ああいうタイプから相当な被害を被っていた
のではという疑いも受けた。
作家生活・高尚なる知識人という世間的な顔の背後にああいう生臭い人間関係
があったとしても不思議じゃない。
自宅に勝手に訪問してくる輩の対応で忙しいと言ってる批評家もいた。読者
だということで追い返すこともなく、いちいち聴いてやってたと。作家って
そういう生活が、日常的にある人らしいというのはあのとき感じた。
作家生活のいかがわしさが頻繁にリアルに再現されている。これまた全部ホント
なように見せている凄技の賜物。
あまりに生臭いというので敬遠する読者もいたというのがまた面白い。大江
さんの読者ってやっぱり行儀のよい人が多かったってことなのかもしれない。
いかがわしい人は苦手みたいな(笑) >>41
ああいうタイプってどういうタイプ?
大江と同じ目線になって話してしまっているのは
笑える。
大江の最初の絶交は伊丹に始まり絶交の名人だよ。
読者との関係を語ったのは別に大江に始まった
事じゃない。太宰治が描いたりしている。
太宰がどんな酷い生活をしているのかと会いに来た
女の読者をがっかりさせるという話。
それも本当かどうかわからないが、正直言って
大江の書いていることは太宰治の二番煎じだよ。 >>39
レインツリーなどという文殊の知恵みたいな事を書いて
それで良いのか?という過去の実存主義者だった
自分からの批判に応えての最後の話
ということなんだろうか?
しかし、むしろそれは欺瞞の塊となった大江の姿を露呈した
ことになったんじゃないかと思う。
あまりにもそれは醜くて誰も批判できなかったわけだけど。 >>40
「あれはたいそう才能のある男だと思うがこれからもあんな風にして時間を無駄に過ごすのかね」という台詞が出てくるから
スガ秀実ではないでしょう。
小谷野敦が塙某だと
このスレを意識してか
Twitter(X)でツイート(ポスト)してたよ なんか文学板の大江スレで
凄くキツイ妄想語ってる痛々しいオッサンらしき香具師を発見したので
ここに晒します。
【晩年】大江健三郎 8【様式】
https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/book/1694354374/
40 吾輩は名無しである sage ▼ 2023/09/17(日) 10:22:37.44 ID:zsWj1uog [1回目]
高安カッチャンてのは実際にモデルが居るんではないかとも思えるし。特定の
ね。あまりにリアルで蒙る迷惑もリアル。仏語&英語の二か国の雑誌を西武G?
の支援を取り付けて発行したい。そこに高安の小説も載せたいとか勝手に決めて
おり、しかもその西武?Gの娘らしいのが随行してるがその娘は無愛想で話も
できる感じではない。高安はその夜、酔っぱらって中国人コールガールを連れ
て大江の部屋を訪れ、女を世話するのだから君は俺に300$払う義務があると
か。
いかにも雑誌編集者にいそうな挫折した文学部出身小説家志望。やたら人脈
だけは持ってる。でいかがわしい人間と連れ立っている。噂と難癖が大好物で
ある。大物につきまとう。また大物も大江のように人の好いのがいるので
食い物にされやすい。
高安カッチャンのモデルって実は無名時代の絓秀実だったのではないかという
疑いもある。彼は批評家として有名になるまでは「日本読書新聞」の編集者を
していた。あれは書評がメインだから大江健三郎とは頻繁に会っていたとして
不思議はない。高安が色んな業界人の合成だとしたら、絓秀実もそこに合成
されていたのではないか(笑)。酒場にたむろする業界人や取り巻きにはいそうな
人間。 すぐ上のをコピペしなくても
アンカーつければいいだけ ちがう。
>>46
は誤投稿ですよw
スレ間違えちゃっただけ。 しかし、たしかに太宰の小説に、太宰の自宅を男が訪ねてきて、その男は
自分であなたと会ったことがあると言ってるが太宰は覚えていない。男は
酒は呑むは作家生活の批評はするは、徐々に嫌味っぽくなってきて、
早く帰ってくれないかと思うんだけど意外と帰らずに長居され、とうとう
帰ることになって発した一言が「いばるな」という一言だった。
太宰の「親友交歓」は覚えているし、吉本ならばさしずめ‘太宰の自虐的な
視線がよく表れている’などと評する類いの
作品だが、あれはあれで楽しめる作品で、加えて作家生活で遭遇する不運でも
あり、奇妙な体験でもあり、色んなことを感じさせもするが、大江の『「雨の木
」』連作もまた、舞台を太宰の戦中戦後から1980年に移行させて、そこで
遭遇する奇妙な人間たちやあるいは大江の友人でもある、実在する芸術家や
研究者の織り成す奇妙なトラブルー自分のもあり周囲にいた仕事仲間のもあり
ーを描く、新しいタイプの擬‐私小説だといえる。
どうやら彼はこのころから自分とはっきり分かる人物に、実在する人物、
また架空の人物を織り交ぜて物語を構築する技法に凝り始めた。これ以後に
なるとますます凝ってきて、それはそれで彼の新しい世界を開いていくことに
もなった。
先の吉本隆明によれば、世界文学の1節をたびたび引用しながら自己の生活や
ら周囲の人間やら描いていくその作風が、太宰と違い読者にサービスしない、
さも高尚なことをやっていると勘違いしている、退屈であり知的なイモである、
とか謂われていたが、『「雨の木」』連作を辿るかぎり、これはこれで
ホントか嘘か分からぬ現代の奇譚を創作し、進めていく技法が退屈させないし
良いのではないかと今は思える。色んな奇妙な人間たちの渦に巻き込まれていく
その主人公の姿が滑稽でもあり、笑えもし、はたまた悲惨でもあり、彼の
物語の技法の斬新さを感じさせるし、今振り返ればけっこう良いのではないかと
思う。 先に検索して分かったが、色んな彼の小説に登場するギー兄さんて実は実在
しないとか。奥さんや息子は実在。で小説登場。ギー兄さんはしかしフィクシ
ョン。とまた手の込んだ仕掛けを考える。
『「雨の木」』連作には有名人もイニシャルで登場。奥さんも登場。息子も
登場。反核運動を盛り立てるために活動し書籍も書いたジャーナリストKさん
も実在した人。その有名人とのやり取りもしばしば出てきて主人公を批判し
たり問い詰めたり多彩な役回りを演じたりしてる。某私鉄基盤の企業も出てくる
し、高安カッチャン&その妻はフィクションだと思うがこれも実際はわからない。
セミナーで日本文学講義をサポートするペルー人の男性がいてこれは実在する
と思われる。この人はまたよく喋るし長い会話で登場する。いやまあ楽しい話を
ー内実はしみじみする話や夢のような体験、怖い体験もあるがーありがとうと
いう感想。ご本人は楽しくはなかったかもしれないが、こうまで多彩な、有名人も
まじった人間関係が描かれるとまあ楽しい。現代の奇譚めいた面白さもあり、
退屈させない小説。この時期の内省内面も基調としてあり、全体が叙事でもあり、
また一篇の長編詩のような詩情が流れているのがさすがの作品。 ギー兄さんは渡辺一夫と伊丹十三の合成だと思ってきた >>50
に触発されて
この本を買って「逆さまに立つ雨の木」
の冒頭部分を読んでみたよ。
あまりの馬鹿らしさにそっと本を閉じた
太宰の言葉で言えば
ぶん殴ってやりたいと思った。こんな本を読まされて
批評する事を迫られる日本の批評家に同情したよ。
なんでこの作者はホモがそんなに好きなんだろうか?
大江をからかう性的ユーモアが美味かった
伊丹十三などとの付き合いが元になって
いるのかもしれないが
ホモを持ち出して目眩しして逃げるのではなくて
ちゃんと人間を語り作品を作って欲しかったものだ。 >>53
ホモを否定してレベル高くないと言われるのは本望だよ。 大江は政治的リベラルに依存し過ぎたから、リベラルにありがちな能天気の阿保馬鹿の読者も多かったが、
さすがにホモフォビアが大江の本を買うとか、あほらし過ぎる。 高安かっちゃんの女房であるペニーの人間像が
あり得なさすぎる。
高安かっちゃんはおそらく伊丹を反映したもので
主人公が大江だが、
大江に同性愛の気持ちがあったじゃないかと
それで、高安かっちゃんが仕掛けた、仮の同性愛になる
女房の自分との性交を、
なぜ、断ったのかとその女房が言う話。
一体俺は何を読まされているのかと思った。
そういえばジェイムズジョイスは
主人公の排便を描いて小説を作ってたんだっけ?
と思い自分を慰めるが
あり得ない人間を描いて何の意味があるんだろうかと
本当に思う。原稿用紙の無駄。 「泳ぐ男」では強姦殺人犯の罪を赤の他人が身代わりになってやり、助けてあげようとする、ありえないバカバカしい話
こんなものを褒めるヤツは全く信用できない >>56
ちなみに、「逆さまに立つ雨の木」は、その後、原爆の話になるのだが、そうするとやたらと文章が読みやすく流暢になる。小説の中に政治的な事をそれまでの流れとは違う文体で割り込ませることについて、あるエッセイで書いていた様に思うが、いやらしい男だった。 昔、磯田光一と吉本隆明との対談が1971年にあって、そこでどちらかが
近年の某作家の作品に触れ、その作家が炭鉱労働者や被爆者やのことを相変わ
らず書いてるが、実際の彼は都会に生活するグータラな都会人にすぎない。にも
かかわらず相変わらず社会派のように旧態依然の題材で書いている。そういう
ところに現在のあの作家の嘘が現れている。もしも本当にリアルに描いていく
なら、彼は都会に住むグータラな自分を書いているのに違いない。そう喋って
いる箇所があった。
大江の『「雨の木」』連作のなかに「逆さまになった「雨の木」」というのがあ
るが、特徴として、主人公は大江と見做される「僕」だが
、その周辺に多様な、いかがわしい或いは立派な或いは平凡な、或いは知的だが
卑猥な、多様な人間が現れて翻弄されていく。翻弄されていくなかで、
「逆さまになった大樹の中を堕ちていく人間」「しかし自分では大樹のなかを
天空へ登っていくのだと思い込んでいる」というイメージが最後に登場して
締めくくる。
全体が、当時のD=Gの思想を思わせる脱=領土化。決まった役回りから
逸脱する、浮遊し、多様化する人間。そこで思わぬ連結、離反、を演じる人間。
が次々に登場し、消える。 故意か偶然か、この作品にはD=Gの「リゾーム」にある様々な概念が、
そのまま作中の動態に当て嵌められ、そのまま、多様に流動し、入り混じり、
そのまま器官なき身体さながらの絵図を展開する。これがD=Gのような先進的な
思想をヒントにした可能性もあるし、仮にそうなら、そこからエッセンスを
汲み取り、自己の世界に繰り込む手つきは見事だと思われる。小説のなかで
全体のシンボルである大きな樹木。雨のあとには小さな葉に水滴を貯め、
そこから水滴をいつまでも垂らす樹。というのは恵みの木のようにみえ、
しかしこの作品では最後に、天国に通ずると人間は思っているが実は地獄に
通ずる通路のようになっていく。この変換もまた面白い。
1971年の磯田×吉本が提出した、都会に不自由なく生活しながら、そこは
書かないで変わらず社会派を気取った欺瞞。自己の虚しい作家生活の実体こそ
彼が書かなきゃいけないのに、リアリティがない。と言われていた、その批判を
実践するかのような手法にもみえる。様々に読める作品。
ちなみに大江はこの作品で、高安カッチャンの元妻である中国系アメリカ人
女性と性交したと書いている。場所はこの女性の友人のアパートである。
性交したが、さほど良くはなかったと女性から言われる。こういうことを書い
てるから実の奥さんから、不信感を抱かれることにだんだんなったのではないか。
小説に自己とおぼしき人間が登場。奥さん以外と性交。というのが家庭生活に
及ぼす影響がないとは思えない。彼の家庭生活の大変さを想像し家庭生活は
大丈夫だったのかと思わず心配させられる。あの外見でこうまで性的に大胆な
ことをやっている(ことになっている)というのがまた感心するくだり。
底が見えないな人物だったと思う。 大江の小説に登場する主人公の作家はいろんな女と性交するが、全てフィクションだ
これは大江が尾崎真理子に言っているし、石原慎太郎は大江に向かって一穴主義と言った
大江の小説に私小説はない >>61
それで自分は私小説を壊した人間だと
ほくそ笑んでいたのだとしたら
ほんとバカなやつだなと思うな。 >>60
最後、ペニーは運賃代わりに大江からもらった中古の本を
それを、大江からのメッセージだと捉えて
世界の終わりに漂着物を拾って生活していくという
新興宗教をはじめる。往々にして女はこの様に
バカなわけだが。
読書というのは作者との一対一の対話の様な
ところもあるのではないかと思うんだが
俺は、大江との一対一の対話は本当に懲り懲りなんだな。
大江の小説はもっと世界にオープンになっていくべき
だろうと思う。
ちなみに中国系のペニーは
憂い顔の童子に出てくる白人のローズと何が違うのかと
思った。 >>56
ありえない人間、とかあまり言わない方がいいよ
現実のほうがなんでもありだから
ブログなんかたどるだけでもいろいろ見られる
でも、小説としてのリアリティというのは読んでる方にはたしかにあって
現実そのまんまだと小説にならないわな 性的人間の痴漢少年が線路に落ちて死んだのって偶然だったの?それとも故意?
幼女を誘拐する→幼女が線路に降りたのを確認したところで助けに行く→幼女を安全な場所に逃した上で自身は電車にはねられて死ぬ
痴漢少年はここまでを全て計算に入れた上で人生にピリオドを打ったのかな 幼女が反対側のホームにいる母親へ向かって飛び出す→その幼女を助けた後で自身は電車にはねられて死ぬ
この流れが偶然だったとしたら痴漢少年は幼女を誘拐した後で何をするつもりだったんだろう? >>59
漢代の中国の俗信に、龍は尺木(せきぼく)の中から天に昇るという信仰がある。
中野美代子いわく、漢代の思想家・王充によれば、これを単純に龍は木の中から天に昇ると解釈して良い。 >>61
って言いながら若い頃は娼婦買ったこととかありそう
古井由吉みたく死後のセクハラスキャンダルがないから晩年は健全な「進歩的文化人」だったんだろうが >>68
別に左翼だろうと女に汚い奴なんていくらでもいるし(鳥越俊太郎とか)、
むしろ進歩的なやつの方がフリーセックスを楽しんだりしてる
女がらみの噂が出ないのは、単にそういう性分じゃなかったってだけだろ 大江の寸評はなかなか鋭い
朝日の筑紫哲也をオオザッパと一刀両断に切り捨てた
筑紫は相当応えていたようで、自分でこの話題を取り上げて
負け惜しみのようなこと言ってたな 生贄男は必要かと投げかけた大江健三郎
日本文化を後退させたものとして本当に罪深いものが
あったと思うよ tk_tk (不要な方のN.G登録用)
更に家族等などに紹介する側になり、更に¥4000×人数を入手可能。
https://i.imgur.com/b0JE56b.jpg タイミング的に
「人間の羊」は話題になっていいんじゃないか
ジャニー喜多川も進駐軍の端っこにいたし
短いからすぐ読めるし 俺は大江先生から書店で
取り替え子の出版記念でサインいただいたこと
あるからなあ。悪い気持ちはないよな。
伊丹十三の映画の方がオモロくて
好きだったんだけどな。 >>76
自分の描くことは
よく読めば誰かの模倣ばかりで
突き詰めればそこにしか自分の存在価値はないと
思っていたということだろ。 >>80
それも新潮文庫の短編集に入ってんだっけかな
あの短編集は、短編が並んでて読み易いんで
若い子もとっつきやすそうじゃん
もっと宣伝すればいいのにね 「不意の唖」は日本の村落共同体を描いた傑作
「戦いの今日」は朝鮮戦争脱走兵を描き、齋藤飛鳥たんが言及した作品 >>82
しかし、それは偏狭な一人の左翼としての評価でしかなく
日本を代表する三島を超えるような評価はそこにあったのかね。
それで大江が思いついたのが反原発としての自分。 『個人的な体験』新潮社、1964年 アップダイク
『万延元年のフットボール』講談社、1967年 フォークナー
『みずから我が涙をぬぐいたまう日』講談社、1972年 三島
『洪水はわが魂に及び』上・下 新潮社、1973年 旧約聖書
『ピンチランナー調書』新潮社、1976年 ラブレー/筒井?
『同時代ゲーム』新潮社、1979年 バフチン/山口
『「雨の木(レイン・ツリー)」を聴く女たち』新潮社、1982年 ラウリー
『懐かしい年への手紙』講談社、1987年 ダンテ
『キルプの軍団』岩波書店、1988年 ディケンズ
『燃えあがる緑の木』三部作 新潮社、1993〜1995年 イェーツ
『あいまいな日本の私』岩波書店 <岩波新書>、1995年 川端
『宙返り』上・下 講談社、1999年 R・S・トーマス
『憂い顔の童子』講談社、2002年 セルバンテス
『さようなら、私の本よ!』講談社、2005年 ドストエフスキー
『臈たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』新潮社、2007年 ポー
『水死』講談社、2009年 漱石 俺の文豪ベスト10
漱石 10年であれだけの作品を残した
谷崎 漱石と1、2を争う近代随一の作家だろう
秋声 海外文学を読み込んで西洋に負けない小説を書いた
賢治 童話だから侮られがち、詩と童話すばらしい
太宰 心理学者のような内面の描き方
三島 万能。ゲイだから恋愛が描けないのがマイナス
大岡 理路整然とした文章
文六 てんやわんや、読んでみろ
司馬 なんだかんだ近代最大の歴史もの作家
大江 昭和の最良の小説は良い。平成からあとはゴミ >>85
性的人間なんって
最後のシーンがミュージカル的で良いなと思ったけど
仲間の一人が電車で轢かれるシーンは
俺はら太宰治の「ダスゲマイネ」(津軽弁でだからだめなんだと言う意味らしい)からのパクリだと思ったんだけどな。
最後、主人公はオリジナリティとは何なのかとわからなくなり、反狂乱になって線路に入り込み轢かれる。
そして仲間の二人が何やら語って終わる。 わが近代日本十大作家
二葉亭四迷
夏目漱石
徳田秋声
島崎藤村
志賀直哉
谷崎潤一郎
川端康成
埴谷雄高
三島由紀夫
大江健三郎 >>89
「反日」とかそういう言葉を使う頭のおかしい人の炙り出しになってるな >>90
安倍総理がこの国の左翼の実態の
炙り出しになったみたいにか? マスゴミのジャニーズ問題と
大江健三郎が社会を誘導した
政治的な力と、俺は何か関係があるのではないかと
思っている。
アンタッチャブルなものを大江はこの国に
作ったんだろうと思う。戦後憲法の醜さについて語るのは
反動的だと洗脳するのと同じように。
アメリカの核は汚くて中国の核は綺麗な核であるとする
大江のダブルスタンダードはないものとするように。 >>93
「大江が中国の核実験を賛美した」というデマをまだ振り撒いてるのか
デマでも何でも振り撒いて攻撃して良いみたいな態度だからウヨク=頭イカれた奴ら
という社会的扱いができあがるんだよ >>94
文化大革命を讃美して中国の核実験にはダンマリだっただろ。
ジャニーズへの今のマスゴミの忖度する性格は
大江天皇や大江ファシズムが影響したもの
なんだろうと思うよ。 大江の政治姿勢は賛同できないものが多いが
小説は素晴らしい定期 若いときに『同時代ゲーム』『「雨の木」を聴く女たち』
『新しい人よ、目覚めよ』読もうとして、さっぱりピンと来なかったんだけど。
最近高齢になってから『「雨の木」』を再読してあまりの面白さに感心した
よ。「僕」という大江本人と思われる主人公の周囲に出没する人間の多彩さ。
市民もいれば元同級生ー現、いかがわしい業界人ー、その妻、自称日本大使館
の勤務ー本当は不明。いかがわしいー、アルゼンチン人のテロリストの仲間が
いる女の元夫はメキシコの大学での「僕」のアシスタント、スウィミングクラ
ブのサウナ室で遭ったHなOL,そのOLにおっぱいやらオマンコやらチラ見させ
られて誘惑されている大学生、とにかく多彩な登場人物に逸話が満載で飽きさ
せないこと。
よくここまでいかがわしい、大学や出版業界にいそうな人間を描いたなと
感心した。そういう「僕」もHなOLのおっぱいやオマンコやチラ見させられて
しっかり勃起してるという(笑)それも「水泳パンツが痛いくらいに激しく」
というから相当な勃起(笑)ホントに面白いお方。 大江から小説とったらただの津田大介だろwww
小説は過去作引用の悪癖がでてきて以後どうかなと思うがそれでもすごい 歴史修正主義右翼と戦う、立派な知識人の仕事だろ
沖縄ノートなんて政治家ぐるみのスラップ訴訟がその高い価値を裏書きしたようなもんだ >>100
だいたい民事裁判は刑事裁判のように9対1で勝敗が
決まるものじゃないだろ。
6対4でも勝敗が決められる。
大江を訴えた人たちは
大江が嫌ったリアリストだったんじゃないのかね。 誰か同時代論集買いましたか
自分40年前の出発点持ってるんですが買い換えようか迷っています 『新潮文学アルバム』ってシリーズあるけど大江健三郎の巻はまだ出ないのかね
。まあ鋭意編集中なのかな。あと対談集や講演集も刊行されてよいと思うが。
『同時代論集』は持ってないけど60-70年代の大部のエッセイ集3冊「厳粛なる
綱渡り」「持続する志」「鯨の死滅する日」は改めて目を通しておきたい。彼の
出発点での意志的な姿勢が明確に出されてる本だと思うので。チラとは読んだけ
どけっこう言葉がきついと言えばきついんだね。多様な容貌を持ってはいるが
戦後民主主義の守護のためには過激なエッセイストでもあったみたいだね。 岩波書店『世界』編集部
@WEB_SEKAI
大江健三郎をテーマにすると、どうして人は己を語りはじめるのだろうか。
「大江の良き読者とは言えない」著者が、作品、そして作家に接近するにいたった二つの手がかりとは?
渡辺祐真/スケザネ「読み読まれ、書き書かれる主体――大江健三郎に入門するために」 #岩波世界 大江健三郎氏が晩年書きそうだったら、どんな粗筋の小説がありえたか?
Bingで質問みんなしたと思うけど改めてどうぞ。 『夢見る星』でした。 大江健三郎氏が晩年書きそうだったら、どんな粗筋の小説がありえたか?
Bingで質問みんなしたと思うけど改めてどうぞ。 『夢見る星』でした。 >>106
生きていたらどんな小説?を考える場合、小説家として後半に、どんなことを
書いてたかが問題になるでしょう。1990−2010年代。それを思うと、彼が
形を変えて書き続けた、故郷の森の伝承。死んだ魂が森の大樹の根方に降りて
いき、それからまた転生する、という。その伝承と、森を守る守護者としての
、土地の神話の伝承者。それから、そういった諸々のなかに、本当の生き方とは
?という問いかけがある。そこに、モノの氾濫する時代に、モノを持たず、
知性も持たず、貧しく清く、全体に合一しながら生きていく生き方を、大江を
思わせる小説家「K」の故郷の友人「ギー兄さん」が体現する。「ギー兄さん」
は一度死んでしかし森の長老から任命される二代目の「ギー兄さん」まで
現れて、「ギー兄さん」というのが謂わば現代文明と合わない極致みたいな
人間として「僕」にさまざまに関わりメッセージを送る。初代「ギー兄さん」は
ただのイデオローグ的で人物はなくて「僕」の性的指南まで引き受ける。
故郷の象徴みたいな考え方でかつ大事な友人。
「ギー兄さん」に象徴させる人物が現代文明ーモノや主体性ーと背反し、
森を守護しようとする。そして森が魂の輪廻を引き受けていることになっており
、作品としては、魂の守護はいかにして可能か、という問いを秘めていくんです
よね。そこで都市化やその住民やと対立も起こる。 あと、特徴的なこととして、森の守護をする「ギー兄さん」の思想として、
都市を破壊する文明にはいつか天罰が下る。という思想が出てくる。それが
また住民の反感を買って、より対立が激しくなる。徐々に「ギー兄さん」に、
反‐文明の色が出てきて、二代目「ギー兄さん」は手かざしによる病気の治癒
までやるようになり、そこで失敗してまたそれでインチキだと糾弾される。
こういう反‐文明のムーブメントが小説ではテロになったり、神秘家になったり
。で、90年代以降のこういう小説が、オウム真理教事件を予告していたとも
言われていたんですよね。小説の中のそういうムーブメントの場合はオウム
の実像よりか、スキャンダラスではない。しかし文明と敵対するという側面は
オウムと共有してる。住民と敵対したり。で、大江を連想させる「K」とか
「僕」は、「ギー兄さん」にも住民にも加担はせず、見守るという姿勢でいる。
だいたい実際の大江健三郎も成城の自宅に生活し、対立を知りながらどちらにも
つかない。そこでの魂の問題とや清貧の思想には共感。
それが後半の小説ではよく出てくる。それででも「僕」としては魂の問題に
共感はしても、「ギー兄さん」とともに行動はしないんですね。一線を画す。
そこで大江健三郎という人の、文明への姿勢や評価や、分裂したまま最期まで
進んでしまうのと重なる。小説家としても、対立を描く記録者としての立場を
固持したまま亡くなったでしょう。
後半の小説世界での、文明化と自然との対立。魂の問題に魅かれながらも
一緒に行動はしない「僕」。過激な行動に同伴はない。しかし、思想としては
「ギー兄さん」に共感はしている。頻繁に意見の交換もするし。しかし
行動は無い。が小説の中の「K」「僕」の姿勢なんですね。これは現実の大江
の姿勢と一致する。そこで分裂していく自己を描き続けたまま亡くなった。
と言えるんじゃないですかね。
だから仮にまだ存命で書いていたとしても、この分裂について、いまだに
書いていたんじゃないか、て気はしますね。 >>110
>都市を破壊する文明にはいつか天罰が下る。という思想が出てくる。
は
森を破壊する文明にはいつか天罰が下る。という思想が出てくる。
の間違いです。よろしく。 水死は晩年の傑作
これだけ父親をかくのをしぶってたのはなぜだ 英語の原詩があるし。しかも訳文ない。自分で訳すしかない。あと、森の
信仰や伝承や民話や自然の風物も多い。古今東西の宗教家。なにやら難しい
語彙も出てくる。そにたびにgoogle検索もしくはIMEパッドもしくは漢和辞典
もしくは英和辞典。
百匁蝋燭、木蝋、鞠躬如、シーガルの石膏、これらが数ページのなかで
話に出てくる。読み方、意味、事項の内容、一々調べる必要が出てくるので
とにかく検索&調査が多い。スマホもPCも辞書もないなら多分読めない。
村上龍、埴谷雄高、の小説が小説の一番最近読んだものだが、ここまで
調べることはなかった。あたかも高校時代に戻ったような気分。読むのに
一々読めない漢字や事項を調べる必要のある小説とか、あまり経験しない。
他の人もこれ、苦労するよね。苦労しないで読んでる人はいないだろう。
かなり教養のある人でも苦労するだろう。読者が減って行った要因の1つで
しょう。読むのが大変すぎる。 英語の原詩があるし。しかも訳文ない。自分で訳すしかない。あと、森の
信仰や伝承や民話や自然の風物も多い。古今東西の宗教家。なにやら難しい
語彙も出てくる。そにたびにgoogle検索もしくはIMEパッドもしくは漢和辞典
もしくは英和辞典。
百匁蝋燭、木蝋、鞠躬如、シーガルの石膏、これらが数ページのなかで
話に出てくる。読み方、意味、事項の内容、一々調べる必要が出てくるので
とにかく検索&調査が多い。スマホもPCも辞書もないなら多分読めない。
村上龍、埴谷雄高、の小説が小説の一番最近読んだものだが、ここまで
調べることはなかった。あたかも高校時代に戻ったような気分。読むのに
一々読めない漢字や事項を調べる必要のある小説とか、あまり経験しない。
他の人もこれ、苦労するよね。苦労しないで読んでる人はいないだろう。
かなり教養のある人でも苦労するだろう。読者が減って行った要因の1つで
しょう。読むのが大変すぎる。 大江記念館みたいなのが無いのは本人の意思?
それともただ人気無いから? あと、森のなかに生活してる登場人物が主人公だから、色んな植物、川魚、
山用語、も多い。これも知らないから検索もしくは辞書で調査。「朴の木」
って読める人いないでしょ。何を指してるのかも当然不明。イメージを持つのに
一苦労。
そうそう。あと人物たちが生活する山の地形があるんだけど、その地形を
もとに人物は移動したり、話が出来上がる。その地形が把握されないと、
話にもついて行けない。当然。作者のお手製でもよいから図面を書いておいて
くれないとキツイ。これ、彼の後期の小説での定番の読者からのクレーム
じゃないのか。なんで作者が谷間の図面を書かなかったのか。それがないと
イメージを描けないですよ。おかしい。完全に。読者おいてけぼりで勝手に
書いてる印象。これじゃあ作品を味わうにも一苦労。ここのこと、指摘する人
いたのかな。おかしい。不親切すぎ。読者の苦労を考えてない。自分だけが
分かってる。これで読者が徐々に減ったとしても当然ですよ。 その森の中の地形。生活する場所の位置。そこが分かりにくい。そこが
分かりにくいと話がリアルにはならない。そこで作者だけが分かってる。
まずいでしょう。で、こういうことを誰も指摘しないまま亡くなったんだよね
きっと。「大江さん。これ、読んでて地形が把握しにくいですね」て
誰も、研究者も謂わなかったんだよね。分かったような顔して。分かったような
顔するなって言いたい。研究者や編集者がちゃんと指摘しないからこうなった。 ちなみに上レスでクレーム入れたからといって大江健三郎の小説が
読む価値なしとか言いたいわけではない。それは別問題。考えさせる小説である
ことに変わりはない。ただ、読者に不親切が過ぎる。そのために読みにくさを
増幅させていたのではないか。そこを言いたかった。大江氏が自覚しないなら
編集者とかが気を利かせて「屋敷」「谷間」の見取り図を添付してくれたら
大江氏の後期の小説がより読みやすくなったのは間違いない。そこで読者に
たいする怠慢があったということ。そこから「大江の小説は読みにくい」の風説
も出たんじゃないか、そこを言いたいわけ。作者本人も多分この点について
気づいてないまま亡くなってる。
大江健三郎のクラスにもなると、編集者も意見を言いにくくなっていたのでは
ないか。+彼がノーベル文学賞を受賞してしまうと、ますます言いにくくなる。
それによって、一般読者からすると、大江健三郎の小説は語彙が事典・辞典
ないと読めない。また小説の人物の生息する地域の地形がまったく把握
できない。そういうマイナス評価が後期は特に増幅していたのではないか。
私の場合も大江健三郎の小説1980年以降読んでなかったので、どういう
ことになっているのか把握はしてなかった。最近、彼の小説を読みながら、
ここは作者による補足が必須ではないかと思える箇所がある。特に「僕」の
生まれ故郷である、四国の森の地形図は、小説を読み進めるうえで必須では
ないか。必須であるにもかかわらず、彼の本にそういう図面が添付されている
例がない。これは明らかにおかしいし大江健三郎の小説を読みにくく
させていた重大なる要因の1つであると言いたくなった。そういうことです。 なんかすべてポイントがズレてて、要するにアホなんで
よほどのアホでないと反対意見的なものも書く奴いなさそうwww 今年の秋、読む大江小説は、われらの時代、いかに木を殺すか、
取り替え子、の3冊に決まった >>121
いっそのこと講談社版大江健三郎全小説全15巻買ったらよいのに。
紀伊国屋書店のwebで¥85`400(税別)で宣伝してます。これであなたの
部屋に、あの大江健三郎の小説がすべて揃います! >>122
大江の小説は全て持っている
その全集に入っていない作品も そういや大江健三郎全小説を買った時に勢いで『夜よゆるやかに歩め』も買ったんだった
まだ読んでねーわ
それにしてもいいタイトルだ >>119
大江の小説は不親切というけれど
大江の文章は悪文だと言う批評には
しっかり、はっきりと、言語学者の
大野晋氏が日本語として
正しいと、お墨付きを与えてくれたと、これみよがしに
発表して自分を守ってたよな。
それにならって、筒井康隆は
大江の文章を読みにくいという奴は読めないだけだと
いう批評を導き出す。
そういう風にして悪文という批評を政治的に
封殺する。大江は、そういう自分を護る
能力はしっかり持っていたわけだ。 大江を悪文と批判するヤツは低能にすぎない
文学はムリなんだろう
東野圭吾あたりを読んでいればよい >>126
百歩譲って、日本語として首の皮一枚間違って
いないのかもしれないが
褒められた文章ではないだろ。
サブカルチャーすぎる。 >>125-126
俺も大野晋や筒井康隆に同意
なんでも分かりやすければいい文章なわけもないし、
分かりやすくリライトすることでこぼれ落ちるものがあるのが文学の文章
>>127
分かりやすければ褒められる、分かりにくければ褒められない文章であると
一元的な序列付けの評価をするという時点で非文学的な態度だ
また「サブカルチャーすぎる」ってのは意味不明
あなたの文章の方がよほど日本語になってない
大江の文はあれでいてかなり明晰 >>128
文章は明晰であれば良いってもんじゃないだろ。
日本語としての音楽的なものも日本語の
大きなメッセージの一つ。 >>129
言葉の使い方の問題かもしれないが、概して文豪として名の残ってる人の文章はおしなべて明晰
言語というものは意味を伝えるものであることを考えると意味不明の文章であってはならない
また、なんで明晰の反対が音楽的なのかも意味不明
そして「日本語としての音楽的なものも日本語の大きなメッセージの一つ。」って何?w
メッセージってどういう意味を伝えたくて使ってるワードなの
確実に言えることは、あなたの文章は明晰ではないということ >>130
日本語には、これまで日本人が生き抜いてきた
知恵が込められているんだろうと思うよ。
それは、日本人の心も育ててきてたはず。
日本語は日本人の心を表してきたけれど
日本語から日本人が学んできた部分も
あると思う。
そういう正しい日本語から大江は外れるだろ。
だから大江はサブカルチャー。 大江の文章は悪文だと篠田一士がはっきり言い切ってるな
篠田の非批評が >>132
訂正
篠田の批評が正鵠を射たものかどうかは別として、そういう批判が
一定数あるのは事実 篠田一士こそ悪文
あのデブに似つかわしいダブダブの文章だった >>131
思うよ。
はず。
と思う。
だろ。
全部あなたの感想ですね
ありがとうございました 伊藤整の文学論って空疎な専門用語が並んでるだけでくっそ読みづらい
しかも内容がない
川端の文学論の代作で自信をつけたらしいが、小林秀雄からは批判されてる
時間の無駄だった 大江健三郎というと80年代にさんざん「知的なイモ」とか某批評家に言われて
散々だったけどね。なんでテキストを巡ることが、自分が読書した記録が
小説になるんだ、障碍者の息子が溺れるのを見て海外文学の原語を思い出して
助けないんだ、人倫に反するだろう、とかね。エコロジー
傾倒する主人公出して主題主義で文学として勘違いしてるとか。
とにかく不親切だからね。用語がめんどくさいし地形が分からないし。引用
されてる英詩には訳がないし。教養ない人間は読まなくていいと言ってるよ
うなもんだし。
褒める人間も教養主義で鼻が高く。人から好かれないのが褒めてた。褒める
人間がタチが悪いのでそれもあって嫌われてたんだろうね。蓮實重彦、
渡部直己とかね。間違っても好かれない。渡部はセクハラで有名だし
蓮實も屈折が激しくてネクラが顔に出てるし凡庸バカにしてるし。 >>139
散々って吉本隆明がなんか下品な口調で悪口言ってたってなんか意味あんの?
むしろ吉本隆明自体が今となっては散々だろ >>139
お前が凡人すぎて呆れる
大江を読まずに春樹を読んでいればいいんじゃね 80年代以降の彼の作品。大江健三郎自身と思われる「僕」が東京と四国
往復。四国では幼馴染や「僕」のお眼鏡にかなった人物が森を守る運動家。
手かざしの宗教家。その周囲の人間は皆彼に理解がある人ばかりで守る。
そういう噺と、実際に大江の小説を読んでいる読者層の乖離が激しいのでは
ないか。家族も親族も崩壊。孤立して都市生活。手かざしを信仰などすれば
まだやってるの?と笑われる。下手するとオウムの残党かと通報される。
立派な身分のノーベル文学賞作家だからこそある優雅な生活(笑)それを
崇める信者(笑)これが読まれなくなったとしても当然といえば当然。都市生活者
の毎日とはかけ離れてる。喜んでるのは大江信者のみ。1億分の8人くらいの
登場人物。これが我々の精神になんらかの力を付与し、世界を変革する力を
付与?あまりにマゾヒスティックで悲惨。それがあの作品みたいに明るく
天真爛漫って有り得ないんじゃないか?そもそもあの森の生活。自給自足生活
自体、天の賜物。登場人物も同じく天の賜物。天から授かった物語。それが
大江さんの小説?(笑)それってどこまで読者は自分の話として読んでる?
信者を除いてそんな読者いる?非常に疑問。 あと、ここに書いてる愛読者らしき書き込みも「頭がいい」選民意識が
高い。「凡人」は読むなとかね(笑)そういう言い方を聴いたら大江氏は
どう思ったろうね。まああの顔がますます憂鬱になって暗くなったのは
間違いない(笑)「僕の読者はこういう人ばかりだったのだ。僕の目の前は
真っ暗に変わり眩暈がした」とか「僕」が書いたでしょう。可哀そうに(笑)
ついでに「ギー兄さん」から「君の小説の内容が一般人とはかけ離れてる。
なんでもっと親しみ易い設定で書かないのか。一度でも考えたことが
あるのかな。それで戦後民主主義とその小説とはどういう関係があるのかい?
何もない。ただKちゃんの趣味だよね」とか言われてたんじゃないの?(笑)
「君が四国の生活に愛着をもってることはよく分かる。でも多くの読者に
とっては夢の亦夢なんだよ。Kちゃんの書いてる生活は。考えたことがあるのか
い?だから小説がだんだん売れなくなったんだ」とかさ。大江氏の小説に
まさに引用されそうだ(笑)そういうことを書いて新潮社に送信してやればいい
のに。担当者も「ああ。俺もなんとなくそう思ってたんだけど。大江さんは
大作家だから言えなかった。俺だけじゃなかったんだなあ」て思うだろう。 >>142
だとすると
むしろ君が何を優れた文学として定義しているのか知りたいな
例えばその同時代の作家で、どの作家がどういう意味で、誰の救いでどう素晴らしいとか
まあこう聞きながらまともな答えは返ってこないという強い予感があるんだが 僕が気になったのは、ギー兄さんからメールで送信された、次のような
文面であった。
《それと最近気にかかったのは、某インターネットサイトで、Kちゃんの
小説について話してる人間が、「凡人は読まなくていい」という意味の文言を
書いていたことだ。無論、読者と作者とは同一ではない。しかし、読者を
誘発するのはやはり作者である。僕はそう言うしかない。Kちゃんの中の、
なんらかの素質が、読者を誘っているのだよ。そこで、「凡人は読まなくて
いい」と暴言する読者の何と、Kちゃんの小説が引き寄せ合うといえるのか。
僕は考えてみたんだ。
きっとこうだと思う。Kちゃんの小説には、教養小説ともいうべき引用が
豊富にある。なかには僕がKちゃんに貸したり贈ったりした本の一節も混じって
いる。だから引用それ自体はKちゃんだけの責任ではない。とはいえ、それを
自らの小説に引用し、翻訳もつけずに話を続行する、これはどうみてもKちゃん
の責任なんだ。そういう手つきはある程度の教養がある人しか読ませない。
わかるよね。それが今のKちゃんの書いている小説なんだよ。そこから、先の
ような「凡人は読まなくていい。〇〇の小説でも読んでろ」などと暴言を
吐く輩が現れる。たぶんKちゃんの意図に反してね。そこについて、Kちゃん
自身はどう思っているのか。ちょうど最近読んだ、批評家Yのテキストで、
Kちゃんの小説のことが取り上げられて。テキストを巡ることがなんで小説
になるんだ?と疑問を呈し、喝采を浴びていた。僕からすると、そうだよ、
それも小説なんだ、て言いたいくらいだったけどね。》
このギー兄さんからのメールはしばし僕を俯かせ、無言にもさせるもの
であった。 >>141
どっちも駄目でしょ?タイプの違うダメさ
大江は読みづらい
春樹は中身がない
どっちも面白くないのが弱点(笑い >>144
私が今文学として成立すると強く考えるのは、親子関係の破綻。育児放棄。
子供の乳児時代のあるいは胎児時代のトラウマ。そこから生じる成長後の
世界の破綻。破壊衝動。
作品としてあげればサルトルのフローベール論『家の馬鹿息子』また、
こっちはまったく一般的には知られてはいないが樹村みのりという漫画家が
80年代初頭に描いた『海辺のカイン』という作品。とりあえずはこの2作は
現代日本の精神、心、の深部における閉塞にまともに対峙する作品だと
みている。両方ともamazonで入手できる。読んでみたらいい。
サルトルのフローベール論は初期の『存在と無』など比較にならない
realityがある。近代の心と精神の深部を照らすいまだにリアルな考察が
全編にある。初期のサルトルしか語られないのが残念でならない。
樹村みのりの漫画は言うまでもない。誰も知らない。
大江氏の小説も悪くはないんだけどね(笑)私は嫌いではないよ。初期の
エッセイも好きだしね。 親密な手紙早くKindleにならないかな
大江が晩年に若き日に夢中になったオーデンについて何を語ったのか読みたい ヴィスコンティの『家族の肖像』で若者がオーデンの詩を
朗誦する場面があったっけ >>148
読んだけどあんまり期待しないほうがいいよ
一篇一篇がすごく短くて、内容も大江の熱心な読者ならとっくに知っていることばっかりだと思う。文学論とか政治について語ることもほぼなく、基本的には思い出話がずっとつづく感じ。ある意味リラックスして読める。
『万延元年』で大江は、蜜三郎(兄)よりも鷹四(弟)のほうに自己投影してた(自己認識が近かった)、っていうのは意外だった。 大江の文学論読んだら「異化」がよっぽど重要だと思っているらしい
あの文体も「異化」の実践なのだろう
しかしあれを芸術だと言えるだろうか >>150
蜜三郎という名前は
まさに大江健三郎そのものなんだけどな。
人間の羊に出てくる人間も蜜三郎っぽい。
渡辺一夫に、君には逃げ道が必要だからと
逃げ道がある城の模型をもらったというエピソードも
蜜三郎。 >>151
人を没入させるための方法論みたいなものだろうか。
年末年始はドストエフスキーに浸るみたいなこと
どこかで言ってたけど、今それを思い出すと若かったな。 鷹四は蜜三郎のことを陰険と言っていた。
まさに大江健三郎のことなんじゃないのかな。
仮に、二人とも大江健三郎の一部であったとしても
蜜三郎が大江健三郎であるということも
事実なんじゃないのかな。
大江が憲法改正反対という時
その陰険的覚悟があってのことなんだろうとは
思ってきた。 『燃え上がる緑の木』てオウム真理教を内側から眺めた目線を感じるね。
実はあそこが数々の凶悪事件で炎上する前から書かれていたということで
予告した小説とも言われたらしいけど。
あそこは凶悪事件や住民トラブル、信者トラブルで崩壊するんだけど、
どっか集団リンチの犠牲になった側面もある。今話題の山崎まさよしの件も
そうだけど。集団リンチのために生きているような不特定多数の存在という
のが現代の特徴で、そういう多数をすでに『燃え上がる緑の木』は描いてる。
そこもオウム事件にまつわる事象として入ってくるし、そこもあの小説は
描いてる。
疑似超能力をギー兄さんが持っていると評判になり、そこは自ら最終解脱者
を自称した麻原とは違うんだけど、支持者のなかには実際に自分の病気が
麻原に触ってもらったり、で治ったと思ってる人もいただろうから。そこも
或る程度共通するというふうに視えてしまう。
『新しい人よ目覚めよ』以降吉本に酷評されて。反核で酷評。小説で酷評。
と良いとこ無しにされていったけど、今読むと、『燃え上がる緑の木』は
オウム事件の深層に偶然とはいえ届いてるし、そんな小説家は同時代に
いなかっただろうし貴重な存在だよ。麻原はヨーガ修行者としては優秀だと
吉本は擁護していたし、あの小説などは認めて然るべきと思うが言及はなし。
散々批判していざ拾うべきものを出してももう読んでない。ああいうところ。
まあ視力が弱くなったのもあるんだろうが、手薄に感じるね。あそこまで
酷評したならその後どうなったくらいフォローするべきだと思うが。してなさ
そうなのが。 麻原はサイズが余ってるなあ。顔も太ってる、死刑にしたけど。風紀の乱れ。 ああいうのより厳選した下の値打ちじゃないものを、メディアに。 あの当時の精神性じゃなくても死刑は死刑だ。後悔無い。セクハラの疑い。 吉本の大江氏の小説酷評の最たる『懐かしい年への手紙』にしても、「こんな
小説は知的なイモ」「こんな小説まともに読んでるのは世界中僕一人」とか
太宰治シンポジウムで発言するんだが。ギー兄さんから大江自身らしいK
ちゃんが何かと批判されたり疑義を呈されたり。痛烈な自己批判も入ってる。
『燃え上がる緑の木』でも、自分は世田谷に住んで、しきりと故郷の伝承とか
神話を書いてるが、自分が故郷から離れて都会人やってることの自己弁護じゃ
ないのかと新ギー兄さんからも批判されてる。自己批判が入ってるってことは
吉本は指摘しないが、疑似私小説で自己批判までしてるって凄いことだし
誠実さの現れといえる。そんなことは吉本の批判には書いてないが。ここも
手薄なんだな。読んでるならそこは指摘しないと。誠実さはあるって。
しかも『懐かしい年への手紙』ではギー兄さん、その大学時代の女友達2名、
Kちゃん、ギー兄さんの父親のお妾さんだったセイさんの5人のあいだで
だんだん男女関係が入り乱れてきて、Kちゃんが思春期で性の興味が爆発する
年齢なこともあって際どいHなシーン満載で、「修身の教科書」とは程遠い。
そこも吉本は指摘すればいいのにしない。読んでみてあまりのえげつなさに
引くくらいな性描写のえげつないグロイこと。
ああいうの。吉本さんは指摘できてないと誰かが言えばよかったのに
結局遠慮して言わなかったんだろうね。なにせ「あの吉本」だから。 >>163
オウム真理教事件を、魂の問題、近代化の加速のなかで忘却され捨象されて
いくものと、近代化の二項対立の問題として考える。そこをあの事件から
抽出することは可能。ただにあなたのように、「ろくでもないのが引き起こした
」だけでは片づけないのがまあ文学の役目であって。どうやらそこを、
偶然とはいえ大江健三郎は引き受けていた。それが、読めてくるということ。
あなたのように「死刑の何が悪い」といった視線とは一緒くたにはできない。
やはり大江健三郎だったということ。あなたにはだから『燃え上がる緑の木』
は書けない(笑)それが回答ですよ。根本的なアンテナというか、時代の感度
の差があると思う。あの吉本も見抜けなかったものが。
「死刑で何が悪い」はもう聞き飽きたし読み飽きた。少しは別の話を
してくれって感じだ。 >>159
自動人形の悪夢
でしたね
顔がちっちゃくて丸いのがマーちゃんの特徴らしいが
モデルとなった菜摘子もそういうルックスなのか?
映画では佐伯日菜子?が演じて、まあ合ってたと思うけど
竹中直人監督の『連弾』の長女役を演じた
冨貴塚桂香がピッタリなんじゃないか
手足が長くてでも顔は毬のように丸い。
家庭教師のトライなんかのCMに出て、映画も連弾以外に一作くらいしか出てないで、恐らく引退。
希有なルックスでずっと役者やってほしかったなー
そういや、連弾での役名もマリちゃんじゃなかったか?
脚本家の経塚丸雄か竹中監督が『静かな生活』読んでたのか? >>165
中上 もう一つ、批評家は圧倒的に作家より本を読んでいないとね。
柄谷 しかし、大江健三郎のように本を読んでる人はいないね。
中上 そうだろうな。
柄谷 それでみんな、大江をやっつけるんだから、世話はない。
中上 誰も、やっつけてないよ。
柄谷 やっつけられないだろう。 あんなに繰り返し語るほど四国の森が好きなら年とってから故郷に帰る選択肢もあったろうに
息子の世話が必要なら松山あたりに住むとかさ 机上では強引に整合性が取れているように見えるが
現実では何かおかしい
それが大江健三郎。 >>170
俺はそれについては別に何も思わないんだが
同じように子供の頃の記憶と町について描いている
スティーブンキングは
生まれ育った町で地元の人と草野球をしながら
執筆を続けているらしいな。20年近く前だけど。 >>169
古井由吉との対談でそう知られていない私小説家をよく読んでいたり
日本の古典とかも読んでて驚いた
難解な外国作家ばかり読んでるのかと思っていたので >>173
超保守の古井さんに対して大江は反省しなかったんだろうか? 重藤さんの奥さんが「何でもない人の話」をピントのズレた切り上げ方で締めくくるくだりまで読んだ 図書11月号は追悼大江健三郎さん
駒場の同級生山内久明氏の個人的な追悼文が
こころに沁みた >>176
はぐらかすことを容認した大江健三郎は
停滞する日本の元凶なんだろうと思うよ。 2023/11/11 ETV特集「個人的な大江健三郎」11/11 23:00~24:00(1時間)NHK Eテレ
案内→https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/schedule/
「とてつもないエネルギーが体を通過した」(スガ シカオ)・・・危機の時代に、なぜ大江健三郎の文学が必要なのか。
齋藤飛鳥、中村文則、ウクライナ人作家ら8人の言葉。
ETV特集 個人的な大江健三郎
放送日時:11月11日(土)午後11:00~午前0:00(1時間0分)
チャンネル:NHK Eテレ1・東京
今年3月、大江健三郎が亡くなった。
「大きな危機にある時、私は大江さんの作品を読む」芥川賞作家・朝吹真理子は言う。
「うじゃうじゃしてるものが許される」(齋藤飛鳥)「きれい事ではない言葉がほしかった」(中村文則)・・・危機の時代に、なぜ人々は大江文学を開くのか。
「戦争の真実は人間の物語を通してしか伝わりません。ヒロシマ・ノートのように」(ウクライナ作家・クルコフ)
絶望は、再生へ。
8人が語る大江健三郎。 >>179 ありがとうございます
10/20の本よみうり堂に市川紗央さんの記事
「空の怪物アグイー」に15歳で出会い大江
文学に傾倒とある彼女の大江文学との個人的
体験は是非とも聞いて見たい >>178
はぐらかしたことを容認したのは娘のマーちゃん
大江=Kは海外滞在中 >>179
おお!見るぞ!多分
斎藤飛鳥も出るんだね スガシカオも大江を読むのか
『性的敗北』は『万延元年のフットボール』にインスパイアされたのか?鷹四に菜採子を寝取られた蜜三郎に共感して
とてつもないエネルギー(NTR嗜好への目覚め)が体を通過した⁉ >>184
萌えた?
【スガ☆】大江健三郎 9【シカオ】
次スレタイトル つのだ☆ひろ
みたいだけどね
つのだじろうもよろしく@うしろの百太郎 スガシカオの正式表記は「スガシカオ」でも「スガ⭐︎シカオ」でもなく「スガ シカオ」 フォークナーを読んでいて感じるのはこの人はストーリーテラーだということだ
つまりエンターテイメントの技術で書いているということ
黒人か白人かわからない主人公とか、去勢、殺人、放火という猟奇的な道具立てでサスペンスを展開する内容は
無教養な一般大衆向けの扇情的なペーパーバックの特徴である。
フォークナーの弟もペーパーバックライターだったし、「金のために書いた」と自分で行っている通り「サンクチュアリ」はペーパーバックで
出版されている。
ただ文章が純文学的重厚さと華麗さをもっていたことが何も知らない評論家に深読みされて評価された原因ではないかな。
フォークナーが映画脚本家としても成功したのは元来エンターテイメント作家だったと考えれば理解できる。
ただしフォークナーの代表作と言われているものも、エンターテイメントであって「黒人と白人の対立」とか「南部社会」といった
社会問題をテーマにしているわけでは全然ないと思う.
もっともペーパーバックライターというのは褒め言葉であって、フォークナーの影響を受けたという作家がストーリーテリングの技術を
学ばずに読みにくい面白くない作品を書いたのを嘆いているのである 藤野が論じるように、フォークナーはモダニズム作家として一定の評価を得たが、
それとは裏腹に作品のセールスは芳しくなかった。樋渡真理子は、売れない作家フォー
クナーの作品が名物編集者、マルカム・カウリーの周到な販売戦略によって「切り売り」、
「再売出し」されたことが、文豪フォークナーという後世の揺るぎない評価につながっ
たことを詳述する。その販売戦略というのは、一冊でその膨大なフォークナー文学全
体をコンパクト(とはいえ、600頁程度)にまとめた『ポータブル・フォークナー』の出
版だ。詳細は省くが、当該書籍の出版は、アカデミズム界隈におけるフォークナーの
認知度を飛躍的に高め、大学カリキュラムに欠かせない存在になったことが明かされ
る。樋渡の論考を読む限りにおいては、どうやら『ポータブル・フォークナー』が積
極的に大衆読者の支持を得ることはなかったようだ。とはいえ、本のつくりや編集方
針によって、フォークナーが再評価された事実は、商品としての文学と読者層を考え
るうえで興味深い。軍用文庫版『エミリーへのバラとその他の短編集』(1945)が、お
およそモダニズム文学とは無縁の多くの兵士たちのあいだで流通した経緯があること
にも頷ける。
馬場 聡
書評「藤野功一編『アメリカン・モダニズムと大衆文学──時代の欲望/表象をとらえた作家たち』
『英文学研究』(日本英文学会) 97 105-109 2020年 >>194
『ポータブル・フォークナー』がでるまでほとんど知られていなかったのは常識だろうにね そういや「八月の光」だけ読んでフォークナーを語るバカおったな 8月の光はいまだに人生ベスト10にはいるな
あれよりおもそろいフォークナーの小説あんの? 普通に「響きと怒り」「死の床に横たわりて」があるだろ
モダン・ライブラリーでもラドクリフでも上位にはいってる >>201
自分もフォークナーならその二作を選ぶ
大江の『万延元年のフットボール』はドストエフスキーとフォークナーの融合から生まれた >>201
響きと怒りにしてもナラティブの面白さ精密さはあるけど中身は馬鹿な一族の話でしかない
フォークナーはやはり語りの構造の工夫が本質だと思う
中身ではない
ある同じ出来事を別の視点人物から描いたり、信頼できない語り手の物語が別の語り手によって明確になっていくとか
、複数の物語が一つに合流したりというプロットの妙や設計図が面白い。
別に新しい手法とは思わないがそれでも一定の成功を収めていると思う 本質だ、中身が〜、別に〜とは思わないが〜、一定の〜とか語り口がとにかく古い >>35
曖昧にしたまんまのことが多いよな、救いだのなんだの
それをもし後世の読者に深読みしてもらおうってんならろくでもねえ
大江の場合モチーフは過去の文学作品から援用しているだけに余計にな フォークナーは手法が一貫している
ヨクナパトーファ・サーガと言われるが、一つ一つの作品がヨクナパトーファ・サーガになっている
つまり複数の人物の物語がバラバラに語られて全部合わせてピースがハマれば全体が一つの物語になっているという手法
中身よりも手法優先の作家だと思う >>207
曖昧な日本の私と言った時
みんな「は?お前が一番曖昧だろ」と思ったのじゃないかと
思うんだけど、共産党が憲法改正の議論すら許さないように
そのような発言をすることを許さなかった。
ひどい独裁者だったし、今もそれは続いていて
日本は自立できずにいる。 >>208
お前、フォークナーを何作、読んで言ってんの? 「綺麗事じゃない言葉が欲しかった」
ん?
実存主義が否定された今、実存主義とはいえないから
言葉を変えた感じか ETV見たよ
冒頭のお別れ会、黒柳徹子や池澤夏樹にまじって
一瞬、蓮實重彦が映ってなかった?
あと、朝吹真理子は、ホントは『新しい人よ眼ざめよ』の文庫の表紙画のティムポが目当てで
あの本を買ったんだと思うよ
それがバレないためだけに何度も読んだんだよ
内容が頭に入ってないと、ティムポ目当てで読んだとバレちゃうから
何冊も買った理由もティムポの絵が古くなっちゃったからだろうなー
エロい女じゃー!朝吹ケイトかよ ETV見たよ
冒頭のお別れ会、黒柳徹子や池澤夏樹にまじって
一瞬、蓮實重彦が映ってなかった?
あと、朝吹真理子は、ホントは『新しい人よ眼ざめよ』の文庫の表紙画のティムポが目当てで
あの本を買ったんだと思うよ
それがバレないためだけに何度も読んだんだよ
内容が頭に入ってないと、ティムポ目当てで読んだとバレちゃうから
何冊も買った理由もティムポの絵が古くなっちゃったからだろうなー
エロい女じゃー!朝吹ケイトかよ 大江と会ったときに失神したと言ったけど
失禁の言い間違いじゃないんか?
もちろん普通の意味じゃなくてAV的な意味
つまり大江の顔を見てパブロフの犬的条件反射で
潮吹いちゃった!
朝吹真理子じゃなくて潮吹マ〇コ? 飼育、芽むしり仔撃ち、セヴンティーン、ヒロシマ・ノート、個人的な体験、洪水はわが魂に及び、新しい人よ眼ざめよ レイトワークは伊丹十三に触れなくてはならないから
ドル箱ドラマあまちゃんに貢献した信子夫人を気づかって
あんまり出てこないのはしょうがない
しかし、万延元年のフットボールは外せないだろう 齋藤飛鳥は大江の初期短篇しかまだ読んでないようだが、
『万延元年のフットボール』『洪水はわが魂に及び』の感想も聞きたいね 洪水、好きなんだけど、なんでこんなに読まれないんだろ
万延ほど重くないカラッとした感じがバカっぽいからか?w >>220
前スレのタイトルに【斎藤】【飛鳥】とあったから
Eテレ職員が目をつけて抜擢したのか? >>220
万延の寝取られシーンを読んでどう思ったか知りたい(;´Д`)ハァハァ
附箋を貼ったりするかなあ(;´Д`)ハァハァ >>221
小谷野は江藤淳とのW伝記では作品としては評価してないね。しかし大江健三郎の精神分析には重要な作品としている。
蓮實と筒井康隆の対談では両者とも肯定的だったような。 >>226
小谷野って敦のことだよ
もちろん
あのモテモテ糞メガネ TlKTOK LiteでPayPayやAmazonギフトなどにチェンジ可能な4000円分のポイントをプレゼント中!
※既存TlKTOKユーザーの方はTlKTOKアプリからログアウトしてアンインストールすればできる可能性があります。
1.SIMの入ったスマホ・タブレットを用意する
2.以下のTlKTOK Liteのサイトからアプリをダウンロード(ダウンロードだけでまだ起動しない)
https://lite.tiktok.com/t/ZSNfG1ddq/
3.ダウンロード完了後、もう一度上記アドレスのリンクからアプリ起動
4.アプリ内でTlKTOK未使用の電話かメールアドレスを使用して登禄
5.10日間連続チェックインで合計で4000円分のポイントゲット
ポイントはPayPayやAmazonギフト券にチェンジ可能!
家族・友人に紹介したり、通常タスクをこなせば更にポイントを追加でゲットできます。 >>221
カラッとしているか?
ドストエフスキーがカラッとしているのか? 『大江健三郎全小説9』には4つの小説が収録されている
文庫はそのうちの3つが品切れになっているが、
なかなか面白い巻だと思う 大江は中編や小さめの長編で作家としての真価を発揮するよな
長編になると気合が入りすぎるのか空回りしてとっちらかっているものも多い
そしてその空回りを有難がってる愛読者が何故か多いw
いかにも日本的だ 大江のストーリーテラーとしての力量って
どの程度のものだったんだろうな。
豊富な読書量でネタは豊富にあったのじゃないかと
思うんだが、同じ程度の読書量の人間から見て
ストーリーテラーとしての価値はどの程度のもの
だったんだろうかと思う。
どの話もどこかで見たような話ばかりじゃないか? 『静かな生活』「自動人形の悪夢」読了
残るは最終章
映画で今井雅之が演じた水泳コーチの話
そして『雨』 そして『雨の木を聴く女』の最終章も読み残しになってて
ここに出てくる男が、今井雅之演じた男のモデル なんで伊丹十三は「静かな生活」などを取り上げたかね。
伊丹十三の不明な行動の一つ。それで大失敗。
今井さんも、零戦を扱った芝居で
評価を受けていたけど早死に。
大江の命を今井さんに与えてほしかった。 >>234
>豊富な読書量でネタは豊富にあった
あの読書ネタも『燃え上がる緑の木』とかああまで多いとよっぽどネタが
他にはないのかと訝るね。あと生のままネタを出し過ぎ。テキストそのまま
ではなくて咀嚼して出せばいいのに。そこも下手くそ。生煮えの人参食ってる
感じ。しかもその読書ネタに翻訳が付いてるときが
あるが、分かりにくいこと。引っ張ってくる本がキリスト教のしかも翻訳は
古語。何のことかわかりにくい。
そもそも「魂のこと」って何よ(笑)それ謂われて日本人皆分かるのか?
分かった人いるのか?(笑)
同じ『燃え上がる緑の木』の人物がフランス語を喋るシーンがあるが
せめて翻訳位つけなきゃまずいだろう。何考えてるんだか。フランス語を
知らない読者は読むなとでも言いたいのかね。
あと大江健三郎本人だと思われるK伯父さんがカッコよすぎ(笑)彼って生前は
「息せき切って喋る」とか「どもりながら喋る」とか言われてたし、あの丸メガ
ネからして田舎臭い(笑)それであのK伯父さんじゃ異和感あるわ。自分を使って
笑わせたほうが面白いと思うが出来なかったのかね。
「K伯父さん、そんな息せき切って話されても何言ってるか分かりません」
「K伯父さん、もっとゆっくり喋っていいんですよ。誰も急いで喋ってなんて
言ってないんですから」
とか忠告される場面があっていいのに一個もない。自分が喋りが下手だって
思われるのが嫌だったのかね。皆生前は思ってたのに(笑) 喋りが下手、でいうと、昔のエッセイで「あいつはどもりながら喋る、と僕は
言われている」とか書いてたように記憶してるが。それなら小説でもどもりを
入れなきゃまずいだろう。なんでそこを省くのか。あの『燃え上がる緑の木』
全体がどっかカッコつけてる感がある。大江健三郎本人もかっこいいし(笑)
高安カッチャンの息子のザッカリー・K・高安もなんか親父と違ってかっこ
いい。あれじゃ親父は変態で口は悪くて自己中で鼻が高くて最低だったんだが
息子も似たようなもんにすればよかったのに設定失敗だろう。つまらない(笑)
なにがロックバンド(笑)しかも建築学科で?教会の設計?何でもできて
かっこいいし逆につまらん。そんな人間を高安の息子にしてどうする?
似たような変態の自己中にすればよかったのに。設定下手(笑)高級感出し過ぎ。
ノーベル賞狙いか何か知らないが読んでるとシラケること(笑) 大江は作家を見る目がないね
大岡昇平や安部公房を日本最高だと思っている
安部はもう忘れ去られようとしてるし、大岡は俘虜記以外は失敗作じゃないか? >>238
自分へのレスになるけど
「静かな生活」は、いわば伊丹十三からしたら
姪っ子が主人公になった小説なわけだな。
そして大江はアメリカに行ってしまっていると言う。
だから伊丹十三は「静かな生活」を映画化に
選んだと誰かの話を読んだけど
まぁそう言うことなのかなと思う。
>>240
それが正直な感想なんだろうと思うよ。
そう言う感想を言わせない日本社会や
日本人にはまったく未来を感じない。 『美しいアナベル・リイ』
帯付きの綺麗な文庫本、売っていたので購入した
単行本も持っているが、タイトルとカバー画が違う 「親密な手紙」(岩波新書)
渡辺一夫をはじめ、サイード、武満徹、オーデン、井上ひさしなどを思い出とともに語る魅力的な読書案内。『図書』好評連載を収録。
https://www.iwanami.co.jp/book/b633365.html
おー、今まで未収録だったやつ単行本になったんだ うちの市の図書館に大江本1冊しかないってどういうことじゃ!
なかなか順番回って来ないお 私も「燃え上がる緑の木」を読んで心底がっかりした口だ。
普通、大江クラスの作家は大作になればなるほど良い意味でも悪い意味でも中身が充実する。つまり小手先の技術だけではどうにもならない境地に達して作家自身の生身の人間性までもが剥き出しになるわけだね。この作家による自己との対決が、また紛れもなく大作の醍醐味でもあるし、読者の方も彼らの必死の悪戦苦闘には瞠目させられるんだ。
ところが「緑の木」は終始スッカスカのまるで出がらしだよ、これはいかん。無意味に長いというだけなんだから。いわば引き延ばしだが、そのダメなところを厳しく指摘しない文学界ごとダメだと思った。
大江はハッキリと万延元年が最高で、これは当代随一、洪水も面白い。しかし基本的には独特の文章力で読ませる短編作家で、それ以外には見るべきところの乏しい凡庸なインテリに過ぎないのではないか。
……などと、少し大江文体を意識して感想を書いてみたよ。
言うて緑の木も好きなんだけどね、ごめんね大江! 文体だけなら緑の木はみずから我が涙にも匹敵するくらい濃厚ではないでしょうか!80年代のいわば習作とされた小説を総合しようとしてとうとう収集がつかなくなっただけではないでしょうか!まぎれもなく才能のある小説家が大失敗を厭わなかったというのは爽快と受け取られるはずでした!同時期のノーベル文学賞受賞のせいでその後の見え方が変わってしまったのはたいへん残念です! 『燃え上がる緑の木』と『懐かしい年への手紙』は設定が似てるんだけど
後者は大江の大学浪人時代までの森での生活が主で、性の目覚めとか周囲に
いたギー兄さんはじめギー兄さんの女友達やらギー兄さんの父親のお妾さんの
セイさんとの行為とか、いかがわしい性の場面が目白押しで滑稽でもあり
イヤラシクもあり、楽しいんだよねーギー兄さんの女友達2名がいて1人は
潔癖なんだけど結局は我慢できなくなってギー兄さんとの3Pになっちゃう
とか(笑)作者の毒があるし笑える。K少年はギー兄さんにオナニー指導されて
セイさんの前で実験。精子がセイさんの口元に飛んじゃってる(笑)
『燃え上がる緑の木』は主人公が両性具有者で性器が2つある。それで
性行為もするしどんな場面だろうと思ったらあっさりしすぎてる。あれは
拍子抜け。主人公サッチャンが内省的で前作にくらべて性で思いっきり開放
しないんだなあ。どっかいつでも内省してる。そこが詰まらない。性で
内省ばかりしてる人間て性行為しても詰まらないって分かった(笑)
シモーヌ・ヴェイユの問題が第三部で出てくるんだけど、ピンと来ないんだな。
ヴェイユってもう信者といっていいほどキリスト教に入ってるし、そういう人の
テキストはダメ。こっちに入ってこない。だいたい「神」とか言われて
神の実在とか、信仰してる人って今の日本じゃよほどの熱烈な、ほぼカルト
といっていい人だと思うよ。そんな人のテキストをやたら引用するけど
大江はああいうのが通じるはずだって錯覚してる。日本人を誤解してる。
だから上滑りする。作者の大江だけが熱中してる(笑)それは分かる。熱中してる
のは。でも読者にはほぼ通じないと思う。 1980年代から90年代にかけての大江は失敗作が多い
『懐かしい年への手紙』と『燃えあがる緑の木』がその代表
だらだらした弱々しい文体が延々と続いて冗長だ
扱った題材は重要な物だが、文体と構成で失敗している いや、昭和までが素晴らしく、平成以後は作家としての情熱を失ってる
もう障害者の子供との付き合い方をテーマにしてこじんまりした作家になりさがった そうでもない
アナベル・リイや二百年はれっきとした練達の仕事 古今東西の古典的テキスト参照。原語に翻訳はついてない。読者のみなさん、
頑張って訳しましょう。勉強は大事です。大江さんみたいにカード作って
赤線引きましょう。仏語辞典と英和辞典と漢和辞典は私の小説には必須です。
持ってない人は買ってください。くだらないゲーム買うくらいなら辞書に
おカネ使いましょう。
この人にはこの本が合ってると思ったら勝手に贈りましょう。その人は読むべき
なのです。読まなければいいけない!貴方のために!と言ってあげてください!
大江さんや総領事やギー兄さんはそうしています。くだらないネット記事は
読まなくてもいいのです!
どっかうざったいし大きなお世話というか(笑)
たぶんこういういかにも知的教養に引きずりたがる癖。こういうのって同時代では
大江さんだけでしょう。ここまで東大教養学部なのは(笑)むしろ今は稀少で
面白いし付き合ってあげますよ、て感じだけど。ただ、こっちが頑張る割には
見返りが少ないのが侘しいけど(笑)
あと、最初は「インチキ」と糾弾してた地元の亀井さんがすぐに転向して仲間
になっちゃうんだけど。最後まで「こいつらは胡散臭い。出てけ。この土地には
いるな!」ていう人も大勢いたはずでしょ。そこも暁新報の花田記者くらいで。
そこでもめるはずなんだけどイイ具合に地元に溶け込んでる。松山市の大資本と
も取引成立。ホントかいな(笑)そこもなんだか地元と溶け込みすぎというか(笑)
もっと摩擦がホントならあるでしょう。ムシがいいんだよね。書き方が。
こんなに溶け込むか?という(笑) 燃えあがる緑の木に関しては集団を導入しながらもその集団を無個性に描いており、ほとんどキャラが立っていないし、有象無象のモブにしかなっていないところは確かにダメと言い切ったほうがいい
大衆というものをナメていたとしか思えない
大風呂敷を広げた個人が敗者となる物語を書くのが好きでしたね、この人は 万延元年最初章はネイティブアメリカのホピの習俗を関連連想されて納得して評価しないと。大地との接続 大江さんの『懐かしい年への手紙』読んで一番残るのはやっぱり人間、Hって
大事だなあ。
あの小説で最も癒される場面。ギー兄さんの大学時代の女友達2名が四国の
屋敷にやってきて滞在。1人はギー兄さんの元恋人。1人は潔癖なその友人。
元恋人のところに夜な夜なギー兄さんは夜這いしてる。しかし元恋人の友人は
そこでイチャついてる2人が気に入らない。ところがKちゃん交えて呑んでる
うちに「私がギーちゃんが射精しても妊娠しないようにしてあげる。ギーちゃん
の睾丸をギュッと引っ張って射精が遅れるようにしてあげる」とか言い出す。
実はこの射精操作はKちゃんとセイさん(ギー兄さんの父親の元お妾さん)が
Hするときにセイさんがやってた射精操作で、Kちゃんがイキそうになると
セイさんは睾丸を下から引っ張り、射精を遅らせるように操作する。その間
Kちゃんはペニスを抜いてセイさんの腹などに出す。それをKちゃんが酒の
席で喋ったら、潔癖なほうの女友達が興奮しちゃった!(笑)「私が協力する」
とかいってその晩から3Pになる(笑)
あと2人の女友達が入浴中にギー兄さんとKちゃんで窓の外に秘密の鏡を設置。
中が映るようにして覗くシーン。いやらしさ満点。そのうちギー兄さんは風呂場に
勝手に入り、風呂桶の端に座りそこへ恋人が跨り挿入。潔癖な友人はそれみながら
耐え切れなくなって思わずマ〇コを弄る(笑)それを外から覗いてるKちゃんは
思わずオナニー。それをセイさんの娘である子供がまた見てしまうという
Kちゃん赤面のハレンチな結末。
ああいうの読んでてつくづく人間にとって必要なのは牧歌的で開放的なH
なんだってよく分かる。同じ設定の『燃え上がる緑の木』がイマイチなのは
その辺が足りないんだよね。生真面目な主人公なせいか。大江さんの良いところが
消されてしまってる。そこが惜しいと思う。 >>259
しかし、そこで、両性具有とかいう
主人公を登場させてしまうところは
攻めてるなとは思ったけどな。
なかなかそこにチャレンジできる
人間は少ないと思う。
男を主体にするのか、女を主体にするのか
非常に難しい問題。
その点において、厳粛な綱正渡りの大江は
健在なんだなとは思った。 >>263
両性具有とか相当なエロじゃないと知らない話
しかし、大江は知ってたんだからな。
そして勉強もしたんだろう。 筒井さんがまだ無名だった頃から知り合いだったという大江さんとの親交はかなり深かった。かつて筒井さんはエッセイに「ずっと大江健三郎の時代だった」と書き(「群像」2017年9月号 講談社)、
その最高傑作として『同時代ゲーム』(新潮社)を挙げている(『笑犬楼vs.偽伯爵』(筒井康隆、蓮實重彦/新潮社))。筒井さんは語る。
「『同時代ゲーム』は、もうギャグ満載ですよね。最初からしてすごいよね。痛む歯茎の腫れを消し去るために、石斧を歯茎に打ち立てるなんて。僕なんか想像も及ばない。」
筒井さんに言わせれば、『同時代ゲーム』の魅力は「荒唐無稽」であることだという。その破茶滅茶な内容は、
決していい評判ばかりではなかったが、筒井さんはそんな評判に真っ向から立ち向かってきた。「失敗作である」という悪評が出た時には、「失敗作であることさえ度外視すれば傑作」と評を書き、どうやらこのフレーズは大江さんのお気に召したらしい。
どうにか不評からこの作品を守りたかった筒井さんは、日本SF大賞の設立にも奔走し、『同時代ゲーム』をその第一回の受賞作にできないかと画策する。しかし、それは、他の選考委員たちの反対で実現しなかった。1980年のことである。
「星新一・小松左京は『大江健三郎の作品』というだけで拒否反応だった。だけど、自分たちが強力に推す作品があったわけではなかったんですよね。ただ、大江健三郎という名だけで、『これはSFではない』と言って反対されて」 左京は純文学諦めてSF作家になってるから嫌だったのかね 筒井康隆にお追従されるぐらいに安全な作家だったよな 「大江健三郎さんはセックスを偉大な荒野だと言っているが、そんなことはないと思う」
と大江健三郎の全盛期に言ったのが山田太一 好書好日の赤松りかこへのインタビュー記事
大江健三郎への賛辞が凄いね
大江健三郎の新作がもう出ない世界を生きる
ために新人賞に応募して受賞した「シャーマン
と爆弾男」hontoやアマゾンで新本としてもう
取り扱いしてないや-読んだ方います? >>272 ありがとう
やっぱ新潮11月号でしか読めそうにないね
図書館巡りでもしてみるわ やっぱり安倍総理は殺されたんだろうと思うな。
大江を支持する左翼に。
悠仁親王殿下にナイフで突きつけたような左翼に。
なぜなら、大江が守りたがっていた教育基本法を
無くした大功績をあげのが安倍総理だから。 沖縄戦指揮官の元軍人をけしかけて大江に沖縄戦スラップ訴訟起こさせた弁護士の徳永信一は統一教会の代理人らしいな
月刊Hanada()で統一教会擁護の論陣はってる
こんなんクソ笑うわ カルト右翼と宗教の親和性は高いからな
今のネトウヨ教祖系ってだいたいそうだろ
むかしはそんなことなかったんだけどな 同時代論集を1巻除き全巻置いてあるつわ者の本屋発見
買うなら何巻がおすすめかな
自分的には10巻を買うつもり >>278
しかし宗教はバカにはできない
宗教がない真空地帯には
共産主義が入り込む
三島由紀夫は結局「午後の曳航」や「天人五衰」を書いて
敗北したんだろ。それは三島が頭だけの無宗教の人間だったから。 大江が三島に対して書いた
「みずから我が涙を拭いたまう日」
などというものは
的外れなトンチンカンな小説としか言いようがない
日本人は大江と心中をするのか
三島と日本を守るのか
その、二つに一つを今、迫られているのじゃないかと思う
大江と心中するなら泣き言はいうなと思う。 >>283
大江には障害児がいたから
大江シンパは障害者は大切にしなければならない
障害者を殺した植松はとんでもないと
思ってるかも知れないけど
まぁ、一般国民もそう思うべきものとは思うけど
しかし、共産主義の世界とは、芥川龍之介の河童のように
父と母の遺伝子は大したことなさそうだがら
生まれてくるのをやめますと
合理的に考えるのを是とする世界だよ。
なんとしても生きなければならない
障害者を差別してはならないというのは宗教の
支えなしにはあり得ない。
日本教を都合よく考えてはならない。 『静かな生活』やっと読了。
これで、小谷野敦が『芥川賞の偏差値』巻末で偏差値70〜80をつけた作品を全部読んだことになる(個人的、万延、キルプ、取り替え子、水死、静かな生活) 小谷野って評伝まで書いてるけど、あれを読むと明らかに作品自体は読んでないよね >>286
洪水、入ってないんだ?結構、面白かったけどな
万延元年を明転したような作品で毎度の救世主挫折物語だけど
読みやすいしおすすめ 小説しか読む気はない
正月は『われらの時代』を読んでいた
次は『いかに木を殺すか』、結構気になるタイトルが多い
揚げソーセージの食べ方とか、グルート島のレントゲン画法とか >>294
読んだ
軽めのエッセイだけど
遺稿として読むからやはり特殊な感慨がある 次はレインツリーの泳ぐ男読んで静かな生活のルーツ辿る 実存主義というのがあったから
注目されただけ。
それがなければ何もなし。
日本を卑しめて日本に大迷惑をかけただけの
人間だった。 小説と評論・エッセイはまるで別物
自分は進歩的知識人には興味がないから評論は読まない
小説は面白い >>298
日本に大迷惑をかけた安倍みたいな極右勢力と対峙した立派な知識人だったな >>300
安倍総理は日本の恩人だろ
日本を左翼化しようとする左翼に真っ向から対峙した偉人 小説家や映画監督にはやたら左翼が多くて
その言い分が正しいとお互い認め合うんだが、
国全体では左翼が少数派なのは選挙でよく分かる
サイレントマジョリティとはよく言ったものだ 政治的には、平和憲法バカの大江より安倍の方が偉いと思うが。
大江は韓国の反日も煽ってた。
慰安婦冷遇する日本、その根っこは天皇制、大江健三郎「日本政府の謝罪、充分ではない」
https://s.japanese.joins.com/JArticle/198369?sectcode=440&servcode=400 >>304
真っ当なことしかいっていないじゃないか あれだけの作品を残し、芥川賞もノーベル文学賞も受賞したのにも関わらず、
大江健三郎はさっぱり一般読者には読まれないね。
近代日本文学では、太宰、三島の後、大家健三郎や中上健次をすっ飛ばして
村上春樹に行くんだよなあ。 三島も実際読むとつまらん小説いっぱい書いてるよ
大江のほうが一般受けすると思う 痴漢にこだわった大江健三郎ってなんだったんだろうな。
いい加減書物も一緒に地獄に落ちるべきなんじゃ
なかろうか。 三島も潮騒なんかは割りと通俗的な雰囲気あるけど大江でその手の作品をパッと出すことは難しい 古代のイオニアに興味を持った関係で、エウリピデスの戯曲「イオン」の粗筋をwikiで読んだが、
大江の「個人的な体験」と似てると思った。実の親が自分の気に入らない子供を殺そうとする点で
共通している。 >>310
地獄という概念を信じてる......あっそっちの宗教かw >>313
現生の価値に上下があると言うことは
地獄もあると言うことだよ。 >>315
お前には価値基準というものがないのかね。
俺は無政府主義者は悪だと思っているよ。
また実行に移した大江のような存在なら尚更。
だから地獄に行って当然の存在だと思っている。 >>311
『夜よゆるやかに歩め』は大江唯一の恋愛小説で、ほどよく通俗性もある >>317
何を言っているのかわからない
大江は天皇制には反対せど、無政府主義なんぞ唱えちゃいないだろう
しかしツボの部分に触れないというのはやはりそういうことか。 >>319
ツボツボうるせぇな
俺は朝鮮人は半島に帰れと言う立場だ。
大江が朝鮮人を守ろうとして今のような日本に
したんだろう。 >>318
大江の恋愛小説とは
気になるので読んでみたい ノーベル大江を奉るのは
オオエ真理教
と言います。 大江健三郎スレで
小学生みたいな書き込みするやつwww 日本人にクソなものを残し大切なことを忘れさせた男
それが大江健三郎 >>329
日本国にとってと言っているんだから
日本国を壊そうとしている人間は関係ないし
日本に礼儀を示さない人間も例外ということだろう。 >>330
相手の言っていることを殊さらそうやって曲解して、揚げ足取りをしようとしているんでしょうけれども、それも空振りしていますよ、申しわけないけれども
https://i.imgur.com/3Xolt38.jpg 3月3日、大江健三郎が亡くなって1年が経った
これからも大江の小説を毎年何作か読んでいく 全小説の解説マジでいらねーな
害悪でしかないだろ
尾崎とかいうカスは
無知なりにそれをなんとか少しは克服しようとする努力すら放棄してる
こんなのにインタビュー本といい仕事が回ってくる謎 尾崎の解説は確かにあってもなくても構わない薄いものだ
害悪とは言い過ぎだがね
大江は賢いし、勉強家だったので、どの批評家も歯が立たないんだよ あらためて大江はサイコパスだったんじゃないかと思う。
そのサイコパスが反核に目覚めた結果が大江の作品。
そして、サイコパスの特徴として責任を取らない。
支離滅裂でも責任を取らない。
それが大江の人生。 >>337
大江の初期の作品はまさにサイコパス的所業だよ。
あらゆるものを記号に置き換えて次々と問題解決していくみたいな。
人はそれを見てびっくりしたわけだけど
しかし大江は人間ではなくてサイコパスだったんだろうと思う。 ノーベル賞作家で亡くなったのに記念館みたいなのが無いのは寂しいね。
本人の意思なのかな? 大江は秋元康みたいな容姿がイマイチだな。
過激なこと書いててもなんか迫力が足りない。
三島、漱石、太宰、川端、谷崎とかに比べて見た目が良くない・ 大江は子供のことを書きすぎだな。
作品の幅が狭まった。 >>340
三島、漱石、太宰、川端、谷崎は顔がぱっと思い浮かぶね
大江もそうだが、最近の作家の顔は特徴がないのか全く浮かんでこない
というか、それ以前に知名度が低すぎて、一般に知られている作家は純
文学ではせいぜい村上春樹くらいだろ。 現代で本当に押しが強い人は作家じゃなくユーチューバーとかになるんじゃないの
そいつらのほうが鋭い顔してる
ほとんどがチー牛か(いい歳なのに)大学デビューしました、みたいなツラのやつらしかいない 屁理屈を言っても良いんだというのをこの国に広めた
大江健三郎 三島の書いたものに迫力なんぞない
背筋にくるものが何もない
もはやキャラクターとして残っているだけ 昨年の暮れに出た、安藤礼二「死者たちへの捧げもの」青土社の、大江と三島の天皇感の比較が中々興味深い
明治政府が作ったアマテラスを皇祖とする現人神の天皇像が三島で、それを脱構築した折口信夫のシャーマンとしての天皇像が大江だという >>347
大江の方が後ろの世代で本筋とは違う形で神話化されていた
ということだろ。
正直どうでも良い。 明治政府が作ったアマテラスを皇祖とする現人神の天皇像が三島で、それを脱構築した折口信夫のシャーマンとしての天皇像が大江
脱構築wwwwwwwww
未だに脱構築wwwww 世の中全員脱構築しとるもんな
犯罪者を讃えたりなw 全然違う、戦後、天皇が「人間宣言」したことに対して反発したのが三島で、天皇を改めて明治以前のものに戻して構築し直そうとしたのが折口信夫
安藤の評論は、三島の「英霊の声」と大江の「セブンティーン」「政治少年死す」の比較で、大江に折口の影響があるのを分析したものである
大江の中にある天皇像を、「セブンティーン」「政治少年死す」の主人公の天皇像として描いてるのであって、左翼の立場から批判的に書いた小説ではないということだ >>351
スタンドバイミー的な少年時の甘い心の対象として
天皇があったという大江の嫌味が入った分析
何だろうけれど
果たしてそれは事実なんだろうか?
三島由紀夫の金閣寺は事実とは違うとよく言われるもの
だけれど。 事実かそうじゃないかはどうでもいいんでしょ
机上の空論が精密でさえあれば
大江にもそんなところがあったから
燃えあがるや取り替え子は残念な仕上がりになってる 読売新聞で、仏文学者で東大教授の郷原佳以がこの本を書評している (2024.4.14)
「著者はデビュー以来、折口信夫について論じ続けてきた批評家である。
2014年の大著『折口信夫』のなかで著者は、「大嘗祭の本義」を始めとする折口の天皇論をこうまとめている。
「近代的な天皇制を、前近代的であるとともに超近代的でもある〈野生の天皇制〉へと解体し、再構築してしまうこと。
すなわち、天皇を『脱構築』してしまうこと」。
そしてこの構想は、フレイザーの『金枝篇』やモースの「呪術論」など、霊的な力を探求する民族学の視点に拠っていると指摘した。
(中略)
しかし、問題提起において圧倒的なのは間違いなく、大江健三郎と三島由紀夫をめぐる冒頭の2章、および、大江と村上春樹をめぐる終章である。
著者は、一見対照的に思われる三島と大江の天皇感の以外な関係性を暴き出す。
「政治少年死す」における右翼少年の「純粋天皇」崇拝は、単に切り捨てるべき愚行として描かれたのではなく、大江自身が取り憑かれていた想念だった。
この想念を介して大江と三島は交錯する。
そして三島の自死によって、大江は三島に呪縛されつつ別の方向へ歩み始める。
そこで支えになったのが、三島が抗った折口の思想だった。
著者は、大江と三島の対立の象徴となる1968年を起点として、以降の日本文学史を描き直してみせる。
終章では、その後にやって来る村上と大江の関係が、三島と大江の関係の反転として論じられる。
大江の『水死』と村上の『1Q84』が共にフレイザーの『金枝篇』の王殺しの場面を引用しており、
共に折口の思想を反復しているという指摘は説得的だった。」 >>354
要するに昔の柄谷がやったようなことを別の切り口で反復してるだけってこと?書評がクソすぎてどうしようもない >「近代的な天皇制を、前近代的であるとともに超近代的でもある〈野生の天皇制〉へと解体し、再構築してしまうこと。
すなわち、天皇を『脱構築』してしまうこと」。
↑笑止千万。「天皇制を脱構築」って具体的に何よ?
意味不明の文章を書き連ねて、それが「説得的」とはねw 概念で遊んでいるだけでしょう
ニューアカの頃と何も変わらん
もう皆騙されないだけでw 安藤礼二とは何者か
2009年の第3回大江健三郎賞の受賞者である
大江健三郎賞は、その年に「文学の言葉」で書かれた作品の中から、大江自身が一人で選考して勝手に受賞者を決める
受賞者にとってはまさに晴天の霹靂だが、賞金はない代わりに英独仏語のどれかに翻訳するプロジェクトが始動する
折口信夫の代表作「死者の書」を分析した安藤の受賞作「光の曼荼羅 日本文学論」は、「死者の書」と共に英訳されて2017年に出版された
一般の文学賞は、受賞者とその名前を冠した作家はもちろんのこと選考委員との間にも関係は生まれないが、この賞は両者の間に交流が生まれる
大江は、安藤から贈られた英訳の「死者の書」を、「いただいた朝から読み始め、その流麗さに一日中、ベッドから起き上がらないというふうだった」とお礼の手紙に書いている では、大江にとって折口信夫はどういう存在なのか
大江のトレードマークの丸メガネは折口に憧れて真似したものだと講演で語っている
折口信夫全集が出たときは最初の購入者になったという
折口の影響が直接出てる作品は「万延元年のフットボール」(1967年)である
「ここで蜜三郎が妻に説明している祝祭、この「念仏踊り」こそが『万延元年のフットボール』全体を貫く通奏低音になる。
「ふるさと」に生起するさまざまな出来事、過去と現在、そしておそらくは未来までをも含めたさまざまな出来事は
「念仏踊り」のなかに取り入れられ、それが繰り返されるたびに活性化され、「ふるさと」の新たな歴史として産み落とされる。
そうした祝祭の在り方を、大江は、この一節中に固有名が明記されている通り、折口信夫がその生涯の最後に残した、ある意味では折口の遺言ということも可能な長編論考「民族史観における他界観念」にもとづいて再構築しているのである。
つまり『万延元年のフットボール』に描き出された「ふるさと」とは、現実の「ふるさと」に、テクストの解釈によって導き出された仮構の「ふるさと」が重なり合うことによって形づくられたものだった。
テクストの創造的な反復こそが「ふるさと」を生起させていくのである。
このとき大江が折口を選んだことはきわめて重要である。
なぜなら、アジア・太平洋戦争以前からその敗戦の後に至るまで、ただ折口だけが「天皇」を脱構築することに成功しているからだ。
折口は生涯を通して道徳としての神道、「国家神道」に意義申し立てを行い続け、もう一つ別の近代を模索し続けた。
そのためには、神道は道徳ではなく宗教でなければならない。
神道の基盤である「神憑り」にいま一度戻らなければならない。 京都の皇典講究所と東京の皇典講究所(國學院大學)、「神憑り」から生まれた教派神道各派と密接な関係を持っていた研究団体「神風会」への熱狂的な参加等々、
出口王仁三郎による「神憑り」の実践と折口信夫による「神憑り」の研究は、その背景においても理論においても、きわめて深く共振するものであった。
三島由紀夫が出口王仁三郎を選んだとしたなら、大江健三郎は折口信夫を選んだのである。
『万延元年のフットボール』の源泉である折口信夫の「民族史観における他界概念」、そのものずばり「念仏踊り」と題された節は、こうはじまっている。
「村を離れた墓地なる山などから群行して、新盆の家或は部落の大家の庭に姿を顕す。道を降りながら行ふ念仏踊りは、縦隊で行進する。
家に入ると、庭で円陣を作って踊ることが多い。迎えられて座敷に上ることもあり、屋敷を廻って踊ることもあり、座敷ぼめ・厩ぼめなどもする。」
大江は、『万延元年のフットボール』のなかで、ここに描き出された「念仏踊り」をそのまま再現し、物語の最後、「ふるさと」に隠されていた秘密をあらわにすることで自ら命を絶たなければならなかった鷹四の「御霊」を慰撫するであろう。
つまり大江健三郎は、折口信夫が最後に到達した地点に立つことによって、自らの現実の「ふるさと」を脱構築することをはじめたのだ。」
(「死者たちへの捧げもの」P.60-62) 大江健三郎が、あるいは折口信夫がよみがえらせようとした「御霊」とは、このようなものであった。荒ぶる霊魂の、未開の荒野に立つ。
そのことによってはじめて、靖国と天皇に体現された近代的な施設であるとともに人、極東の列島に育まれた宗教と文化にとっては突発的で特殊な制度であり機能であったものが根底から解消される。
「英霊」を「御霊」に戻し、天皇を「霊魂」の操作者に戻す。
折口にとって列島の原初の神とは人格をもつ神、人間的な神ではなかった。荒ぶる「御霊」のような非人格的な神、霊魂としての神であった。
天皇は、そのような霊魂としての神を自らの身体に憑依させるのである。
アマテラスではなく、アマテラスという「かたち」が与えられる以前の非定形で不定形の、つまりは明確な「かたち」をもたないことによって逆に内部に無限の変化可能性を秘めた「たま」としての神を。
折口は、そのような神を、本居宣長、平田篤胤と続く「国学」の伝統に従って『古事記』の冒頭にあらわれる神、「産霊」(ムスビ)とした。
無限の霊魂をそのなかから産出し、森羅万象あらゆるものに生命を賦与する根源神、自然そのもののもつ荒ぶる破壊する力と生成する穏やかな力をあわせもった神。
そのなかから、あらゆる「かたち」を生み出す神。アマテラスは「産霊」から生み出された一つの「かたち」に過ぎなかった。
アジア・太平洋戦争終結後の折口は、こう宣言する。
天皇を「祖先神」(アマテラス)から切り離さなければならない、と。
三島由紀夫の「純粋天皇」に根底から異議申し立てをしなければならなかった大江健三郎が、折口信夫を選んだことは必然であった。(同上P.66-67) >>361
もののけ姫かよ。
宮崎駿も左翼だが
「もののけ姫」も反天皇のためのフラグであったとしたら
笑えるな。 三島と大江の違いで重要なのは、東京出身と田舎の村出身というところである
左翼の人間でよくいたのが、戦前の軍国教育を批判し、戦後の反天皇・反君が代・反日の丸の日教組教育を正当化するために、自分は軍国少年だったと声高に言う連中である
子供の頃は、国家の教育のため軍国少年になったが、戦後は改心して平和主義の民主主義者になったと主張する、軽薄な人間である
大江は、こういう連中と違い、子供の頃の軍国少年であったことを、自分自身の中にある内なる天皇を晩年の作品「水死」に至るまで問い続けた
都会の子供にとっての天皇は、国家による教育で教え込まれるものに過ぎないが、田舎の子供にとっての天皇は、共同体の年中行事などの神事と係わり合いがあり、
憲法が変わり、国家による教育が変わったからといって、簡単に消えてしまうものではない
大江が、折口信夫の民俗学、古代学をたよりに生まれ育った村の共同体と天皇を生涯問い続けたのはそのためであろう
一方、都会育ちの三島は、国家神道の天皇にこだわり続けるしかなかった >>364
問題時大江の戯言など
もう記憶しておく価値などないだろう。 そもそも大江は社会正義を盾にして
戦後民主主義者に転向したやつを軽蔑している (359-361の続き)
王仁三郎は、壮絶な「神憑り」の最中、お筆先として過激な「神の言」を撒き散らし続ける出口なおと出逢い、すぐさまなおに帰依し、
なおを「神主」、自らを「審神者」とする「鎮魂帰神法」を、理論においても実践においても、確立していったのである。
最大の力をもった「神主」こそが最大の力をもった天皇なのである。
アマテラスが憑依した天皇は、その度ごとに、文字通りアマテラスそのものとなる。
大本的な「鎮魂帰神法」にもとづいて小説「英霊の声」を書き上げた三島由紀夫は、続いて評論「文化防衛論」において、伊勢神宮とアマテラスを論じることになる。
三島は、そこで、こう宣言する。
日本文化の大きな特質の一つは、本来的に「オリジナルとコピーの弁別を持たぬ」ところにある。
その端的な例は、伊勢神宮で二十年に一度行われている式年造営と、そこに祀られているアマテラスと天皇の関係に見出すことが可能だ。
伊勢神宮は内宮と外宮の二つの神域からなる。
それぞれの宮を構成するすべての建物、そのなかに収められたすべての宝物は二十年に一度完全に破壊され、まったく同じものが、すぐ隣の空白の地に造り直される。
三島は、ここにこそ近代以前にして近代を乗り越えていく日本文化の特質があるのだと断言する。
「持統帝以来五十九回に亘る二十年毎の式年造営は、いつも新たに建てられた伊勢神宮がオリジナルなのであって、
オリジナルは、その時点においてコピーにオリジナルの生命を託して滅びてゆき、コピー自体がオリジナルになるのである。
このような文科概念の特質は、各代の天皇が、正に天皇その方であって、天照大神とオリジナルとコピーの関係にないところの天皇制の特質と見合ってゐる。」
憑依という反復によって時間も空間もゼロへと滅び、あらためてゼロからよみがえってくる。
もしそこに「かたち」が、「仮面」がなければ、誰もが、何もが自己同一性を保つことができなくなるであろう。
三島由紀夫は、反復の度ごとに同一性が保たれる「かたち」を選んだ。
『万延元年のフットボール』を書き上げた大江健三郎は、おそらく違う。
反復の度ごとに同一性が破られ、差異性が産み落とされる「かたち」以前の「かたち」、「かたち」の母胎、「純粋天皇の胎水」たる「ふるさと」を選ぶ。
(同上P.52-55) 三島は、伊勢神宮の式年遷宮は、コピーがオリジナルになるといっているが、これがそもそも問題なのである
20年ごとに造られる社や宝物は、完コピではなく「づれ」がある
図面通り作れるなら20年ごとにやらなくても、壊れそうになったらやればよい
20年ごとにやるのは、図面には現れない「わざ」があり、それを人間によって伝承する必要があるからであろう
こういった構造の「づれ」を問題にするのが広義の「脱構築」だろうが、原義は形而上学の同一性に関るものである
「イデア」と「現前」の同一性を、三島の天皇論に当てはめると、イデアがアマテラス、現前が天皇になる
この関係は脱構築されねばならない 「脱構築」について、浅田彰ではなく、『へるめす』で大江と同人だった中村雄二郎の『術語集』(岩波新書)から引用してみる(P.196-200)
「ドゥルーズ『意味の論理学』では、プラトン主義のうちにある本質界と仮象界の区別が問題にされる。
すなわち、プラトンは本質を仮象から、オリジナルをコピーから、原型を模像から分けた。
それは、本物を贋物から見分け、区別し、探し出すためであった。
そして、本物=イデアとの対比で、模像(ずれと改変を含んだコピー)はいやしめられ、抑圧された。
では、そのように模像を退けるプラトン主義において、真理の基準となるものはなにか。それは同一性と相似性にほかならない。
だがそれらではなく、模像と差異の立場に立つときは、本質はもとより、オリジナルも原型も特権をもって存在しえなくなる。
相似は模像の外にあらわれた効果にすぎないし、同一性は差異を前提として存在しているにすぎない、とドゥールーズは言っている。」
「<ロゴス中心主義>と<脱構築>というのは、たしかに西洋文化の根幹にかかわる重要な問題である。
そして私たちとしても、明治以後西洋文化をこれだけとり入れてしまった以上、その問題は決して他人事ではない。
けれども、さらにその先に考えるべきは、私たちにとって脱構築の対象とすべきもの、私たち日本人の考え方を根本的に支配するもの、
西洋文化でのロゴス中心主義に当たるものはなにか、ということである。
それはなんといっても文化概念としての<天皇制>であろう。
こうして私たちにとって、脱構築の作業は文科概念としての天皇制に向けられるべきことになるが、あたかもデリダ『根源の彼方に』のうちに、その点で私たちにとって切実なことばがある。
《脱構築の試みは必然的に内部からの働きかけとなり、逆転のための戦術と力とをすべて古い構造から借りうけるため、
その構造的につまり要素や原子を分離せずに借りうけるため、ある意味では必ずみずからの仕事の犠牲にならざるをえないのである。》」 >>370
敵の褌で相撲を取ろうとか笑止千万。
そもそも敵認定をしてしまう性根がそもそも間違っている。
金のために死体遺棄を平気でしてしまう若者(朝鮮人)が
話題になっているが
これもふざけた脱構築によりタガが外れた一つの犠牲なんだろうと思う。