老いて益々】田中長徳ファンのスレ その6【老化】
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思い出を語りましょう 過去スレ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ Part4 http://mint.2ch.net/test/read.cgi/camera/1414410549/l50 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その3【耄碌】 http://yomogi.2ch.net/test/read.cgi/camera/1262227407/ 【老いて益々】田中長徳ファンのスレ その5【徘徊】 https://mevius.5ch.net/test/read.cgi/dcamera/1496927773/l50 田中長徳(たなか ちょうとく 本名はおさのり) 1947年東京生まれ 日本大学芸術学部写真学科卒業 日本デザインセンター勤務の後、フリーランスとなる オーストリアのウィーンに遊学 ライカのコレクションを始める 帰国後 ライカなどクラシックカメラに関する執筆をカメラ雑誌に 連載する。以降、クラカメの権威として多くのファンを集める その写真は時代の空気を切り取り、その時その場所を歴史に定着させたものとして世界的に評価が高い 写真展では氏の写真の前でじっと動かず、滂沱の涙を流す人が後をたたない その端正な風貌から写真界の貴公子との異名を持ち今日なお多くの女性の心を捉えて放さない 同好の老爺を引き連れ定期的に都内各所を徘徊する様は醸し出される加齢臭も相俟って今や東京の風物詩となっている Facebookへの書き込みは一日数回に及ぶが、多くは過去の書き込みの繰り返しで世間の注目を集めている 地下鉄の駅といっても地上をちゃんと走る部分もある。初めてこの130年前の駅を見たときにはオペラハウスかと思った。それほど立派な駅なのである。 ウィーンの旧市街の西側の環状道路に沿って作られている。この路線は高架線であって、地上からかなり上の方を走っている。そしてその下の部分はレンガで包まれた構築物でそこが商店になったり、あるいは飲み屋になったりしている。 昔の古い映画キャバレーに登場したベルリンの交通システムとまさに同じスタイルだ。私はこの高架線の駅の風景を撮るのが好きである。それもプラットフォームの反対側にいる人々を撮影するのは何か非常にドラマチックで舞台芸術を見ているような気分になる。 ギャラリーバウハウスが扱っているモノクロームの作品で、つい最近コレクターが収集したのも、同じ地域でホームの反対側を取った作品である。私のウィーンをテーマにした500ページの2.5キロの重さがある写真集でも、この鉄道の駅のプラットホームは結構頻繁に登場してくるわけで、私のウィーンのモチーフとしては欠かすことができないのである。 光文社から出された書き下ろしの文庫である。私の出した135冊の本の中で、これは再販にならなかった珍しい本である。初版8000であったが、内容が面白すぎるので売れなかった。だから、今でもサイン会などでこの本を出して、私にサインを求めてくる人は本物の私の読者だと考えている。 アンブローズ・ビアスの悪魔の辞典は私の大学時代にもかなり話題になった。タイトルをくれたのは、当時のカメラジャーナルの編集長中川である。それでこれを書くためにあと40%位原稿が残っていると言うところで、ハードディスクがクラッシュしたのだった。 当時はiCloudと言うシステムがないから、自分のハードディスクがクラッシュしたらそれでアウトである。しかしそのマイナスポイントをプラスに置き換えてこれこそチャンスと言うので、私はイスタンブールに通ってイスタンブールで原稿を書いた。 イスタンブールのど真ん中にブルーモスクがあって、その向かいが最高裁判所である。どういう理由か知らないが、最高裁判所の隣には典型的なトルコの3階建ての木造住宅がある。それがホテルなのである。3階の3マルイチ号室と言うところが私の常に宿泊している部屋である。あそこら辺は非常にモスキートが多い。 それでバスルームで居眠りをしているモスキートを叩き落としたりした。白い壁は血で真っ赤になった。その赤い血と言うのは私の血液なのである。革命のフランジを高く掲げて進む革命軍と言う感じだな。 このホテルAlserと言うのはよく使ったのだがホテルのオーナーが絶好のロケーションだから改造してきれいにすれば、外国人にはベストのロケーションになるであろうと言うので、大改造を行って部屋代0を1つつけたのである。それで行くのはやめた。 画像の関係で下がカットされているが、腰巻を書いてくれたのは赤瀬川さんである。これも懐かしいね。 天ぷらそばの画像を探してトップヒットしたのは、カップめんの天ぷらそばと称する商品である。これは困ったものだ。これは天ぷらそばじゃないからな。 以前はガストロノミーの鬼であったから、取材とは言え、ミシュランレストランを何10軒もハシゴしてえらい目にあった。その反動でガストロノミーから何年も遠ざかっているから、それに関連して蕎麦屋に行くこともないので天抜きで日本酒を飲むと言う習慣から何年も離れている。考えてみれば、酒飲みが勝手に考え出した非常に不健康な。しかもお店に対して失礼なオーダーの仕方だと思う。 要するに、最初からそばを食べてしまうと、腹がいっぱいになるので、天ぷらそばのそばをカットしたものが天抜きであるが、下品な注文であるから、本当はおおっぴらにできない種類のオーダーなのである。 文芸評論家の福田和也さんとよく銀座で飲み歩いて、銀座の老舗のお蕎麦屋さんに入った時に出た話題であるが、何かのライフマガジンで天抜きのことが紹介された。そのお蕎麦屋さんの記事を見た若い人が翌日来て天抜きを注文したら、女将さんにそのオーダーは10年早いと言われたそうである。 実際にそのオーダーは多分通したと思うけれども、こういうものはスピークイージーに近いものであるから話題にしないのが社会の安全と言うものだ。 六本木ヒルズに仕事場があった十数年前の話であるが、帰りに銀座の裏通りで小さなお蕎麦屋さんがあって、そこに入って天抜きで日本酒をいっぱいやるのが習慣のようになっていた。本当は天ぷらも排除した方が良いのであるが、まさかお蕎麦屋さんでおそばのお汁だけくださいと言うオーダーは商業道徳に反する。それで天抜きを注文。 私の長い天抜きの歴史の中で、1番驚いたのは、倉敷の商店街にあるお蕎麦屋さんで、天抜きというのが、なんと印刷されたメニューの中に入っていたことだ。あれにはびっくりしました。 1950年代の終わりに、当時のライフのスターフォトグラファーであったアルフレッドアイゼンスタットが、その時最新型のライカM3に来クラビットをつけるようにライカの会社に提案したのである。当時のライフのフォトグラファーはスーパースターであったから、ライカの会社はすぐにその提案を受け入れて、ライカM3をプロフェッショナルフォトグラファーの時に改造したライカビットAMPを装着したライカモデルMPを発売したのである。 この特殊なカメラは、ライカM3からセルフタイマーを省略したモデルであったが、値段はライカM3にプラスする。50ドル位の価格であった。ところがこれが予想通りというかなんというか全く売れなかったのである。 実際に販売されたのは300台に満たなかった。それでLINEがファンの間ではRy夏モデルMPのカタログは存在しないと言うことになっていたのだが、割と最近その存在が明らかになったのである。 まずカメラの会社の損益分岐点としては当然の話であって、例えばその生産台数が250ユニットしかなかった。ライカの特殊なターレットレンズ交換装置であるが、これはカタログは存在していない。さらにライカの総合カタログにも掲載されていなくて、リーフレットが存在するだけであった。 本物のカメラよりもレアなアイテムである。ライカMPのカタログであるが、読んでみると面白いことが書かれている。つまり、このイラストのカメラマンと同じような次第であって、フィルムの巻き上げは迅速に行うことができるが、フォーカシングはできないと書いてある。 これがライカの会社の非常に正直なところである。ライカM3の場合なら右手の親指でフイルムを巻きながら、左手でレンズのフォーカシングをする事は可能である。ところが左手が巻き上げのほうに使われてしまうとフォーカシングをする。右手がなくなってしまうわけである。 このレアなカタログであるが、私がびっくりしているのはカメラを構えている。カメラマンが実はどうも私のライカの会社の知り合いではないかと言うことなのである。シュミットさんと言うお名前の方で、彼がライカエム8を企画しているときに、結構頻繁で東京に来て有楽町あたりで焼鳥屋でいっぱいやった友人なのである。 シュミットさんはこのカタログばかりではなく、ライカM2とかM3、すなわちライカが最高のレベルにあった頃のカタログに登場しているのである。 そしてその当時のルフトハンザは、ファーストクラスのパッセンジャーにバラの花を1輪を贈呈すると言うなかなか粋なサービスがあったのだが、植物検疫のほうはどうなっているのか気になってそれにフランクフルトに到着してから年寄りがバラの花、いちりん持って旅をするゆとりは無い。手荷物で手一杯であるからだ。 まだ若かった頃にやったらファーストクラスに乗りたがる時期があった。これは1種の病気のようなものだな。今は夢から見ると不思議なのであるが、当時は日本ヨーロッパのファーストクラスのスタンバイチケットというのがあった。 当時のフルプライスだと1,300,000円位だが、その半額位でスタンバイでファーストクラスなのである。こういう変わったのはもう存在しないだろうね。ルフトハンザの話です。2001年以前の話であるから、セキュリティーのシステムが違っているので、ラゲッジをごろごろ引いてサテライトまで行って、そこでスタンバイするのである。 かなり特殊な体験であるので、その時の事はよく覚えている。20世紀末の記憶の1部だ。2001年以降とそれ以前で1番異なったのはコックピットへの立ち入りが可能であったことだ。 20世紀末のルフトハンザの成田フランクフルト便等はコックピットに入ると私が変なドイツ語を話すのでキャプテンが大歓迎してくれた。その時のリコーカメラで撮ったスナップショットと言うのはハードカバーの写真集に入っている。コックピットには、キャプテンが渋谷のタワーレコードで買ったLPレコードがたくさん積まれていた。これペイロードに問題あるんじゃないの?などと私が冗談を言ったりした。 その当時のロシアの区域を飛ぶときはバーチカルセパレーションであるとキャプテンが教えてくれたあと30秒後にフランクフルトから北京行きの飛行機がすぐましたをすれ違うからと言うのである。何も見えなかったが私の目が悪いので直前になってルフトハンザのジャンボが我々コックピットの3000フィート位下の方を反対方向に飛び去っていった。 ガラクタ屋さんの2代目のお父上は小豆島出身である。それで30年近く前に小豆島に招待されてそこで講演会をやったことがあった。 小豆島の次の私の予定はイタリアのシチリア島であった。それでオリーブがどういう感じであるのかと言うのをイタリアに行く前に小豆島で勉強していったのである。買取名人によれば、小豆島のオリーブは地場産業として最近できたと言うお話だったが、調べてみたら、なんと100年以上前からオリーブ栽培をしているのである。 大阪城の石垣は、小豆島の石を切り出して、それで作ったと言う話を聞いた時、映画24の瞳の撮影現場とか、いろいろ名所旧跡を観光バスで案内してもらった。伝統的な農村歌舞伎をやる古風な舞台があって、その近くで餅つきをやっていたところに遭遇して、買取名人はそこに飛び入り参加で非常にうまくお餅をついたのでびっくりした。 こういうのはまさに体が覚えていると言うことなのであろう。 ところで、うちのマンションの前に立派なオリーブの木が植わっているのである。そのオリーブの葉っぱを見ながら、イタリアとか小豆島を思い出していたのであるが、しご年前の台風の時に、この写真のオリーブが根こそぎ、強い風で倒されてしまったのであった。 それでそのオリーブの木がまた復活するのかと思ったら、そのままどこかに運び去られてしまったのは残念であった。もともと建物の立っている柄が駐車場の広いのがあるわけだから地盤がしっかりしているわけではない。それでオリーブの木がしっかり地面の中に音を貼ることができなかったのであろう。。 亡くなった写真家の須田さんと東京を撮影しながらいつも2人で冗談に口癖のように言っていた言葉が-あるそれは モチーフから引いて引いて、、コンプラ大明神様が乗り移り と言うような地口であった。つまりコンポラ写真で重要なのは撮影距離を詰めることではなくモチーフから引いて周りの環境を入れ込んで全体の印象を薄めてしまうところにその目的があると言うわけだ。 つまりリアリズムの写真と正反対の距離感を目指しているのがコンポラ写真なのである。それでエプソンがあるディーワンで撮影したこの2枚の写真であるが左側のページのぶら下がっている生ハムとその隣のレストランでメニューを真剣に眺めている人の写真の距離感の事について触れてみる。 生ハムの写真だがこれが旅行雑誌などであれば生ハムにもっとクローズアップしてその生ハムの人生の重みや深みを撮影しないと商売にはならない。一方で右の男性が有名な舞台芸術家であったりするとやはりドキュメンタリー写真としてはこの親父さんにカメラは接近して舞台演出家としてのうまさとか深さと言うものをクローズアップすると言うのが普通のやり方である。 ドキュメンタリーの連中に言わせるとカメラの撮影距離がモチーフから遠いと言うのは最初からアウトなのである。土門拳がいつも提唱していたこれは彼らの重要なセオリーなのだ。 一方で我々コンポラ軍団は逆のところに価値を見出している。カメラがクローズアップする事はその人鳴り物なりの本質を見失わず行っていることだ。演劇写真とかミュージシャンのライブ映像とか、間に無意味に人物をクローズアップして、その不自然な演技をキャッチすることがリアリズムの本質であると言うような変な考えを私は持っていない。 中学1年の時に父親に買ってもらったカメラがニコンエフフォトミックであった。これはご承知のようにTTLではなくて外部速攻色のCDエスメーターなのである。同じ時代のライカの場合は、ライカメーターエムアールというのがあって、これは必要に応じてライカの上に取り付けると言うシステムだった。 ニコンエフのその以前の電気露出計と言うのは、寝込んメーターと言ってセレン式の露出計であった。これはうまい具合に三角型のペンタプリズムを覆い隠すような感じでカメラの上に取り付けることができるし、それをまた外すこともできる。 セレン式のニコンメーターを寝込んエフに付けたときの感じと言うのは、何か御神楽の舞台のような感じで、そこに極めて日本的な美学というか、精神構造を感じるので私は好きである。 それで手元にいくつかのニコンエフ用のニコンメーターがある。それらはガラクタ屋さんで手に入れたものが多い。もちろんその時代のセレン式メーターであるから動かない。しかしこれだけ古くなってくるとセレン式メーターが動くか動かないかと言う事は、大した問題ではなくなってくるのだ。ちなみにガラクタ屋さんで買った1936年のアメリカのウェストンが作った世界最初の電気露出計はちゃんと作動していて今でも露出を継続することができる。 話を戻すと、1番最初の外部から光を速攻するニコンのフォトミックファインダーはそんなに使っていて違和感がなかった。それが改良されてTTL方式になってしまうと、その全体のフォルムがやたらかさばっていて、私にはへんてこりんに思えたのである。 だから、今まで長いこと、ニコンエフとお付き合いしているが、フォトミックファインダーのついたカメラを使った事は1度もない。それで今回どんな気分なのか改めて使ってみるとカメラをホールドしてしまうと、別にあの不格好なファインダーのフォルム等は気にならなくなるのだ。 iPhone 3の頃に何が話題になっていたかというと今ではお笑いなのであるが黒川紀章さんの息子さんもiPhone G3を使っていて撮影した画像をすぐ第三者に送ることができると言うことで、そのレベルでワクワクしていたのだから懐かしい時代である。 それで私もiPhone G3を使うようになったがほとんど役に立っていなかった。本格的にiPhoneを使うようになったのはその次のジェネレーションの4ではなくてさらにその次の5である。 iPhone4に関しては私はずいぶんいろいろなところにエッセイを書いたのだがそれはiPhoneジー4が出たときにスティーブ・ジョブズがこの新型のiPhoneはクラシックライカのように美しいといったことだ。スティーブジョブスの本音はわからないけれどもよく言ったものだと思う。 その後iPhone5から本格的に使うようになったがその理由はテザリングができると言う事だった。これが15年近く前の話であって、当時は外を歩いていてもただ漏れ電波等はどこにもないので自分で電波の発生の本を持ち歩く必要があったのだ。 その後iPhone sixを使うようになってかなり時間が経ったがそれも壊れてしまったので数年前に家人が使っていたiPhone SEをお下がりでもらったのである。家人のほうはアンドロイドとか言う私からすると知らないブランドを使うようになった。 iPhone SEを使うようになった犯行の動機は古い友人の野々宮が登場したときに第一世代のSEを使っていたのでそれを真似したのである。 それで私と私の周辺がiPhone SEを使うようになったのだが、この間ギャラリーバウハウスのトークをやったときに野々宮が来てくれて彼の使っているのを見たらiPhoneの13とか14とか言うような最新型であった。彼はアメックスのグリーンカードをずっと使っていて私はそれに影響されて私のプラチナカードからグリ段階を落としたりしたこともあったのでこれはなんというかシンプルなiPhone SEを使っている飲み屋がいいと思っていたので友人に裏切られたと言う感じですね。 それで思ったのであるが、クラシックiPhoneユーザクラブの設立をここに宣言するものである。共産党宣言みたいなものだな。 雑司ヶ谷マーケットがどこにあるかと言うのを口で説明するのはかなり困難なことである。雑司が谷の迷路の中に分け入ってウロウロして完全に方向がわからなくなったなぁと思っているときに、雑司ヶ谷マーケットは忽然と眼前に出現するのである。 雑司が谷のこの界隈は、リスボンのアルファマとよく似ていると思う。しかし、道の関係を理解するには、極東の雑司が谷の方がはるかに難しい。リスボンのこの迷路は1980年に初めて訪問して、それから20年経過した。2000年にはもうその迷路の全体を理解することができた。 一方で、雑司が谷のラビリンスのほうは、初めて出会ったのは、私が子供の頃1950年代であると思うが、全体の迷路の構造を理解できても、ここからあそこに行くにはどうしたらいいのかと思った。完全に把握したのは少なくとも50年はかかっている。 雑司ヶ谷マーケットは2つのパラレルな細い道を南北に結ぶ通り抜け道なのである。通り抜け道と言うのは、ウィーンとかプラハなどでも伝統的な路地裏のマジックとでも言うものであって、2つの地点をショートカットするには非常に便利な。しかもレベルの高い通り抜けの道なのだ。 この通り抜け道には、魚屋とか生活必需品のお店が並んでいて、その道の真ん中あたりがこの靴屋さんであった。その靴屋さんの靴の看板の存在感が、いかにもマニエリスムの精密に書かれたエッチングのような感じがして、雑司が谷に行くときには、これを鑑賞するのが好きであったものだ。 この名物看板がなくなって、すでに10年は経過しているであろう。 2週間滞在の間にヘルシンキのメトロのほとんど全部の駅に降りて路面電車も全部の路線に乗ってみた。それでもう充分と言うことになったのは、私が街を探検して歩く時は徹底的な絨毯爆撃の撮影をするのであるが、それをやったのであっという間に街をみんな見てしまったわけだ。 軍用カメラのレプリカで、ヘルシンキの街を撮影して、まず20本位の成果であったがなかなか手ごたえがあった。ところがカラーネガで撮影して現像の上がった。そのフィルムを私は佃島のカメラジャングルで噴出していまだに発見できないのである。 軍用ライカのフェイクで撮影したので、ライカの神様が撮影現像済みのネガフィルムをどこかに意地悪して隠してしまったとしか思えない。 スオミの言葉は、ヨーロッパ系とも違う独自なものなのだそうだが、発音が日本語に似ているやつもあって、メトロのステーションの名前でカラス頭と言うところがあるのが面白くて、いまだにそれをよく記憶している。 ヘルシンキ在住の遠藤さんにヘルシンキの1番危ない。街に行きたいと言ったら場所を教えてくれて充分注意するようにとサジェスチョンをされた。電車を乗り継いで。その場所に行ってみたらいい。天気のお昼すぎて誰も歩いていないのでがっかりした。1980年代のマンハッタンの危なさを知っていると、どうも基準が変わってしまうようである。 ジャンリュックゴダールは、毛沢東思想が変形した疑似的な共産主義者でそれを商売にしていたようなところがある。それでフランスのスタジオに据えた、巨大なミッチェルカメラの前で自分の想像するベトナムを語っているのである。 一方で、オランダ出身のドキュメンタリー映画作家、ヨリス・イヴェンスは、ハノイに飛んで、北爆の警報の鳴っている中、北ベトナム兵士がマンホールの中に隠れると言うショットを撮影している。 その場所は今でも存在していて、ハノイの中心部の一角で、ホーチミンの巨大な肖像画が掲げられている広場の場所で、北ベトナム軍の兵士が隠れたマンホールと思われるものも現存している。 それほどベトナムは遠く離れていたのだ。 それの言葉の関連として、私が今口の中で反芻しているのは、ガストロノミーを遠く離れてと言うワードである。バブルの頃に、今とは日本のマネーのパワーが全く違っているから取材であったとは言え、世界中のガストロノミーを体験できたことは私の財産といってもよろしい。 大体ブルゴーニュ2週間行ったり来たりして、毎回の食事が全部最低ミシュランの一つ星であるなどと言うのは精神的にも身体的にもいいわけがない。ロマネコンティの畑がサッカーグラウンド位の小さなスペースであったなどと言う。真実の発見はそれなりに素晴らしかった。 私のミシュラントラベルは唯一教わった事と言えば、ヌーボー料理はやたらすぐ皿がでかいと言うことぐらいであった。しかも取材の間私はひどい腰痛にやられていて、旅の最後の方でオペラ座近くのホテルにいた時は、もうベッドから起き上がれなくて、同行のエディターにジャンボサンドとミネラルウォーターを買ってきてもらった位である。ミシュランの贅沢三昧の最後がこういう結果というのが象徴的でした。 ガストロノミーを遠く離れたハノイの1番の味の素の巨大な袋が北爆の時代のハロウィンと異なることを強烈に感じさせる。しかしこれは北爆より質が悪いガストロノミーからの逃走である。 135冊ぐらい本を出していて、そのうちの写真集は30冊位だと思うけれど、残りはカメラ本である。だから私の名前を認識している人はカメラ好きなじいさんと言う認識があるわけで、これは間違っていない。 しかし、その他に30冊は真面目なストレートフォトグラファーとしての仕事を発表しているのであるが、そちらのほうはあまりカメラ付きの人は評価してくれないようである。まぁそれはそれでよろしい。 スーザンぞんたくが音フォトグラフィーでも指摘しているが、シリアスな優れた写真家は時代遅れの単純なカメラを使うとある。その時代遅れな単純なカメラはらいたであったりすることが多いが、我々が大問題なのはそういうクラシックなカメラをたくさん集めて、細かいことに興味を示してばかりいて、写真表現のほうに全く焦点が向いていないと言うところにある。 とにかくライカ本はよく売れるので、私も1番たくさん出したのがライカにまつわる本であって、これがコンタックスの本になるといきなり売れなくなると言うのも市場原理であるから、今更文句を言っても仕方がない。 ところで、このライカ本のカバーなのであるが、こんな本を出した事は無いというのが、私の最初の良い認識であった。確かこの本は、ライカエム4のブラックペイントがカバーになっているはずである。それがなんで古いバルナックライカになってしまったのだろう? それで気がついたのは、ブックデザインの人が何種類かのデザインを上げてきて、それをディスカッションで選ぶというのがこういう編集作業の普通のプロセスであることを今更ながら思い出した。 つまり、これは実際の出版には至らなかった。本の1つのエグザンプルなのである。去年出した東京の写真集もそうであって、あの時は3つや4つではなくて5つ下6つの表紙のサンプルが登場して最終的に決まりかかった拍子をもう一回変換させて今出ているようなToday Tokyoの写真集の表紙になった。 ところが心理的には面白いもので、実際には実行されなかった方のカバーというのが実は良かったのではないかと言うふうに思い出してしまうのもまたいつもの状況なのである。 50年前のウィーンでは牛タンと言うのは安いもので、大きな市場に牛や豚の内臓を専門に扱っているお店があって、そこでよく買ったものである。大きな牛の舌が500円位だった。それで色々と手間ひまかけて美味しく牛タンを食べていたウィーン時代であった。 日本に生活するようになって、今から四半世紀前だが、京都の錦小路の裏手にある肉屋の前を通ったら、牛タンの加工品、スモークしたものだが、それを売っていたので1本丸ごと買ってきた。その値段が三千半なので、牛タンもずいぶん出世したなぁと感心をした。 佃島に暮らすようになって、3十数年になるが、近くの業務用スーパーで1時は冷凍の牛タンを売っていて高いと思いながらも買ってたんシチュー作っていたのであるが、最近は品物が見えない。 と言うよりか周りのFacebookの書き込みなどを見ていると、これはお金持ちが腕自慢で休みの日に牛タンを買ってきて、シチューを作ると言うようなかなり高度なレクリエーションになってしまったらしくて流通の経路が私の手から外れているのは当然だと思った。 一昨日の話だが、我楽多屋のにだいめさんが家にわざわざ来てくれて、2時間半にわたって写真のバトルトークをしたのは非常に楽しかった。その他にも楽しいことがあって、昭和20年代2眼レフを35ミリフィルムで使うレアな付属品を譲ってもらったりしたのである。 しかし、それより嬉しかったのは、この写真に示すようなタンシチューの缶詰をもらったことだ。東日本大震災でやられた石巻には知り合いもいるけれども、その石巻の水産加工業者が5年間と言う長い時間をかけて作ったのがこの牛タンのシチューだと言うのである。 私はヨーロッパ仕込みのシチュー作りとしては自信を持ってるから何か文句を言ってやろうと思って食べ始めたのだが、これなら100%合格と言うわけにはいかないけど、合格点は与えられると言うのでアマゾンなどで扱っているのでこれを買うことにした。 ガラクタやにだいめさんはご自身でも牛タンが好きだと公言している。美食かであるから、そこら辺の具合は信用できる。牛の舌もなかなかうまいものだが、人間の二枚舌とは違うのでもともと信用できる。 12年ほど前のFacebookを見たらその5年前に西安に行ったときのことが書いてあった。これはマイレージのポイントが余ったので、ニューヨークに行こうとしたら、それには足りなくて中国の西安だと往復できるのである。 それで出かけたらJALのビジネスクラスの客が私1人でエコノミークラスも20人はいない位のガラガラだった。ビジネスクラスの飛行機の1番後ろにキャビンアテンダントさんが毛布をかぶって寝ている。エコノミークラスの1番後ろでゲームをやっているジェントルマンがいて、服装を見ればキャプテンであることがすぐわかる。 キャプテンに話を聞いたら、要するに西安の滞在時間が短いので、クルーは外に出ることなくマシンの中で交代してそのまま戻ってくるのだそうだ。大変な仕事であると思った。 2週間ほど西安の街を歩いて行ったり来たりして、城壁もぐるりと半分だけ回った。ウィーンの城壁などはすぐ取り壊されてしまうが、中国の城壁はなかなか頑丈である。この城壁の上で西安マラソンでもやったら面白いのではないかというのが私のアイディアだった。 中心部のホテルから歩いて、城壁の北西の方向にラマ教寺院があってそこを撮影した。その先のほとんど城壁の壁がそそり立っている。手前のところにラーメン屋さんがあった。と言うよりx虎面店と言う屋号であるが、最初の一文字は忘れてしまった。皮肉なことに西安にいても、虎と言う文字を見ると、ガラクタやにだいめを思い出すのである。 大変な人気のお店のようで非常に混んでいる。食べているのは皆さん炸醤麺である。これが非常にうまいので西安2週間の間に5日間毎日通ってお店の人に私の顔覚えてもらった。 それで時間は17年経過して地元のスーパーで喜多方ラーメンを買ってきたが、スープの塩分が8.3グラムもあるのでとても食べる勇気は無い。それでカジンガ考えて炸醤麺のようなものを作ったので、17年前の記憶をもとに味を復元してみたら、結構食べられる偽物の西安の炸醤麺ができた。 ウクライナから0円スキーが駆けつけて、結局平和の集まりではなくて軍拡を確認する集まりになってしまったのは大笑い。地元の高校生のインタビューでは、なぜロシアからプーチンを呼ばないのかと言う正しいコメントもあったのは凄いと思う。 宮島に行って偉い人が入り口でリラックスしている写真はいい感じだが、日本のネトウヨ界隈からするとけしからん行動であると言うことになるらしい。しかも手前に英語と日本語で座るなど書いてあるんだからけしからんと言うのである。G7のメンバーをこういう形でリラックスさせるのが嫌ならば、岸田は最初からそのことをG7のトップに伝えておくべきだった。 ヨーロッパ人もアメリカ人も普段は環境が良いから、パブリックスペースにベンチがあるけど、日本の神社はヨーロッパのチャーチと違って、座るところがないのが基本の基本だから偉い人も疲れたので、こういうところでちょっと休憩しただけの話。 ルールとしては、座ってはいけないところを欧米人の感覚でどうやって見分けるかと言うと、例えばウォールストリートであるが、トレーダーは昼休みにそこら中で座ってランチを食べたりしている。 それで管理している連中の方としては、座らせたくない所には金属の棘が生えたプロテクターを置いてあるのだ。これならばちゃんとわかる。これならば、物理的に正解である。 だから、この神社もG7に欄干に座らせたくないのなら、金属の棘をここに生やしておけばよかった。英国首相はヒンドゥー教だから特別に興味を持ったのでやろうな。 今回のG7のトップの映像の中でこれが1番リラックスしている感じがして私は好きです。英国の首相インドカレーの配達人と誤認したバイデンプレジデントはやはり辛そうに見えるね。しかしやはり顔が違うような気がするけど、そこら辺どうなんだろう? 六本木ヒルズで仕事をしていた時はあそこはライブラリーなので私の本が本棚の右から左まで50冊以上並んでいた。だからエッセイを書いていて何か調べたいときには非常に便利だった。 ガラクタ屋さんに最近入荷したChotoku本がこれだけあるのにびっくりした 何にびっくりしたかと言えば言うまでもなく20年ほど前はカメラと言うものは全部フイルムカメラがメインであったと言う厳粛な事実である。 そのフイルムカメラが当時新品でも20年経つとクラシックフィルムカメラになる。それでクラシックなフイルムカメラは今見ても今この本を読んでもそれなりに面白いのである。ガラクタ屋さんもそうだけど最近の若い連中を中心にしたフイルムカメラのブームも興味深い。 一方で20年以上前のデジタルカメラと言うのはまずスペックからしても相手にならないと言うわけで読む元気もなくなってしまう。 フイルムカメラの命に長くデジタルカメラの命短し 私は自分が出版した本は持たないことにしているがプレゼンテーション等でどうしてもペーパーに印刷された本が必要になることがあってその時は全国のチェーン展開の日本の古本屋で探して買うことにしている。 私の本がよく発見できる古本屋さんと言うのは立石に1つと千葉の八幡に1つあった。でも最近ではガラクタ屋さんに私の方が在庫することがあるので大抵写真集などはガラクタ屋さんで買っている。値段も安いしね。 古本屋さんの間で稀覯本と言うのは数が少なくて高い本である。例えば私の出した本のタイトルで東京ニコン日記とか、Chitoku@workと言うタイトルの写真集などは稀覯本ではないけれども数が少ないので登場するとかなり高いことになる。 私はペーパーの出版物に関してはオンラインの方が攻撃力があると思うからこれからはペーパーに印刷した本は出さない。ただし例外はペーパーに印刷された写真集は重要だと思うのでこれからも出すつもりだ。 いつも不思議に思うことなのだが、テレビなどで登場するタレントさんはペーパーの本を出版することにかなり価値を見出しているというのが時代錯誤で滑稽だと思う。 畏友飯田鉄が昇天した。東京カメラ倶楽部以来の長い付き合いだった。 ライカカメラが素人さんを騙す、しょうもないエム型ライカの新製品を次々に出している中で、私が唯一認めているのがレンズ交換のできない28ミリレンズ付きのこのシリーズである。 ライカQ3の新製品のインフォメーションで出ている。上の2つのタイトルは象徴的で非常に気に入った。 逆に心配しているのは、今までエム型デジタルライカに騙されていた皆さんが、真実のカメラの存在に気がつくと、ライカの売り上げを引っ張るのではないかと言うことだ。つまり、ライカの会社は、勢いがついて本音を言ってしまったというところが笑える。 ライカデジタルオタクの皆さんは、画素数が60,000,000になったとかこれで900,000円と言うのはお買い得だといろいろデジタルライカ床屋談義をしているのが面白い。 ライカQ2が出たときに自分の使っていたライカの最初のQと比較したバーチャルレポートを書いたことがあるが、それは実際にライカの新型を手にしたレポートではなかった。要するに、スペック上で比較すると言うことの無意味さを批判しているのである。 日常性に寄り添ったデジタルカメラと言うキャッチコピーはなかなか迫力があってよろしい。日本製のほとんどの高級デジタルカメラが追っかけているところは単なる高性能であるから。 カメラメーカーのビジネスにしてみれば、交換レンズで利益を上げると言うところを最初からレンズ交換ができない。28ミリというのが評価できる。 思えば、ライカの会社とパナソニックが一緒にビジネスをスタートしたのが、2001年のことであったから、その時間軸を思い出してみるとなかなか興味深い。その時、その仕事でライカの本社に行った時にワールドトレードセンターがアタックされたのだった。 新書サイズのユニークな写真集。東京ニコン日記である。四半世紀前に約3000枚の東京のプリントを作って、その中から700点位を選んで分厚い新書版の写真集になった。 その頃の私の考えは、この新書版の写真集は、きたるべき、東京の写真集の予告編と言うつもりだった。それから四半世紀が経過して、ハードカバーの東京の写真集Today Tokyo が昨年出版された。 サイン会等で東京ニコン日記を持参して、サインを求める人を私は尊敬の目で見ている。私の仕事を1番正しく理解してくれている人だなと思うからである。 この本は最近では結構レアになってきて、私なども日本の古本屋にリクエストを出してあるのだが、なかなか発見できない。たまに発見できても10,000円位する高価な本になっている。 Facebook友達の猫の中田さんは、幸福姉妹と言うお二人の猫のお父さんである。ついこの間結婚23周年を迎えられたそうである。おめでたいおめでたい。 その猫の中田さんであるが、奥様が病院に行くときの付き添いで持参したのがこの東京ニコン日記なので、私としては結構嬉しくなった。病院の待ち時間と言うものはなかなか難しい時間つぶしであって、私などは書きかけの原稿を書くことにしているが、こういうアトランダムでやたらと写真の数の多い本をペラペラめくるのは非常にクレバーな方法だと思う。 それでFacebookで中田さんが指摘したのはこの見開きページである。中田さんのご出身は高輪であって、例の有名な高輪消防署が撮影されている。もう一つのページには目白台の東京カテドラルが写っている。 誠に編集の偶然とは言いながら、この見開きページは中田さんのルーツがそのままにそこに具現化されているのである。中田さんは、目白台の急な坂を下って江戸川を越えたところにお住まいなのだ。 Josef Sudekのアトリエと言うのは、プラハのモルダウ川のほとりからちょっと西に入った普通の建築物の中に入った。2つ目の中庭に建てられたガーデンハウスであった。 1番有名なシリーズは、真冬の氷付いたウインドウを撮影した1連の作品である。それともう一つ注目されるシリーズは、彼の非常に乱雑なアトリエでそこら辺に落ちているペーパーとか空き瓶とかグラスとかガラクタで構築された。1連の作品シリーズでこれが素晴らしい。 ガラクタと言っても、歴史と美術の街プラハのガラクタであるから、そこには少なくとも数百年の時間経過があって、バロックの影がガラクタに斜めから照射されているのである。だから単なるガラクタがガラクタではなく、マニエリスム的な存在感がそこに漂うのである。 それと、彼の作品ですごいのは日常的に食べている。ゆで卵とかひときれのパンをちゃんとモチーフにしていること。その光の使い方が素晴らしいのであるが、それは自然光で窓から差し込んだ逆光なのである。そこら辺がこの光のコントロールする大変なマエストロと言うわけだ。 私の34年間、暮らしたプラハのアトリエの角にはこの大写真家が実際に撮影に使った縦3センチ× 18センチの蛇腹カメラが置いてある。私の日本カメラから出した。3冊のカメラの本のシリーズの1番最初の表紙には、この偉大な写真家が使ったカメラと、実際に彼が撮影したのと、同じアングルでプラハのセメトリーを撮影しているのである。 プラハのアトリエには、ちょっと幻想的な光の反射が見られるアクリルのキューブがある。そのうちの1つをプラハのアトリエから10,000キロ東に持ってきて撮影したのがこのワンショットである。 ライカインコのフィギュアは、2009年前後に我楽多屋の2代目さんからもらったもので、スティルライフとしてはうまく機能していると思う。 数多くの名作が撮影されたJosef Sudekもう悟りであるが、第三者がそこに入って撮影した記録写真では、足の踏み場もないほどの雑駁な居住空間なのである。それが写真家の手にかかるとそういうマイナスなポイントは一切見えなくなって、光と影の幻想的空間がそこに出現すると言うのは、やはりこの写真家は凄いと言わざるを得ない。 私の好きなフランス翻訳者の堀内大学の日本語訳を愛読していた私であったが、結婚して数年後にいきなり家人が堀口大学は親戚にあたると聞いてびっくりしたというか嬉しいというか戸惑ったのである。 家人の父が亡くなってしばらく経って遺品の整理で新潟に行った。カジンガ古いアルバムから2枚の写真を剥がして持ってきた。うちの1つがこれである。私の知っている堀口大学はかなり晩年のものでどっかの呉服屋のじいさんみたいな写真であったが、このアルバムから話されたら写真は、青年の堀口大学である。 文芸評論家の福田和也さんにこの写真を見せたら、こんなに若い時代の堀口大学の写真は珍しいと言っていた。 写真は2枚あって、これは奥様のお子さんが撮影したものだと思われる。もう1枚の写真は3人のお子様が写っていて、これは奥さんが撮影したらしい。 この写真に接して、すでに20年ぐらいなのであるが、以前から疑問だったのは、なぜバルコニーに全員揃って記念写真を撮ったのかと言う事だった。 さっきその理由がわかったのである。 理由は単純である。この時代のカメラのフイルムの速度と言うものは、この写真が撮られた背景を見ると、マストのついたクラシックな船が写っているような時代であるから、室内で写真を撮るのは不可能である。それでバルコニーに全員が顔を出して、それでようやく適正露出で撮影できたわけだ。 永井荷風の断腸亭日常を読んでいると、堀口大学がメキシコあたりからインキスタンドを送ってきたと言うので、感謝している行がある。そんな背景で、私は単調体に特別な感情を持っているわけだ。 昨年の春のギャラリーバウハウスの写真展の時に、私のトークショーに来てくれた人である。しかも2回。トークショーに両方とも来てくれて、2度目のときには私のポートレートを手渡してくれたので嬉しかった。 20年間看護のお仕事をしていて、今ではその方面のスペシャリストで大学でも教えているそうだ。それで最近東京の中野方面に引っ越しされたそうだが、いきなりカナダに居住することになったので私も感心しているのである。 池を見ると言う名前が哲学的でよろしいね。しかも彼女のトロントで開催された展覧会の右上のほうに私のポートレートも展示されているけれども、このアーティストのやる事は正統派キュビズムと言うところがあって、パースペクティブの分解が自然に開始されているのである。 最初池を見る人から、私のポートレートをニューヨークで展示すると言うメールが来たので、これは面白いと思っていたら、何でもナイアガラフォールズからニューヨークに徒歩で入国できるところで入国を拒否されたのだそうである。別に彼女が政治的な危険人物であると言うわけではなくて、ESTAを取得していなかったので入れなかったらしい。調べてみたら、昨年の10月まではナイアガラの滝から徒歩でアメリカ側に入国できたそうである。レギュレーションが変わったのだな。 それで池を見る人は、今ではトロントから移動してモントリオールに滞在することになったらしい。これが日本を出発してから10日目なのだから、エキセントリックである。 我々の世代から見て若い人がなかなかやるなと思うのは、言葉はしゃべれなくて当たり前。それで翻訳ソフトのデバイスなどを使って意思疎通をしていると言うのは逆にスマートだと思う。 1970年代にウィーンで使っていたカメラと言うのは別に今使っているカメラと変わらないんだね 5年ほど前70歳になった時にガラクタ屋さんを中心とする悪の枢軸の皆様が盛大なパーティーとそれに付属して写真集を作ってくださった。誠にありがたい次第である。 その悪の枢軸の3人のうちの写真家の狩野さんが私が預けた50本ほどのいや実際には49本であったのだがそれをセレクションしてくれた。後十数ページの写真集だが全部の画像が縦画面というのが気にいった。 その後私が75歳になった時も記念に同じ体裁の写真集を悪の枢軸我楽多屋さんが作ってくれたのである。これも画面構成は全部縦画面である。片岡義男さんが喜びそうな本のデザインだな。 その時狩野さんが私に送ってくれた使わなかった写真の中に当時のウィーンのアパートメントで私がその頃使っていたカメラを床に置いて撮影した写真がある。それで私が感心したのは今使っているカメラと全く同じカメラの構成であると言うこともあるが、私の住んでいた100数十年前につくられたアパートメントの床が寄木座異空であると言う事の方が余計にびっくりしたのである。 ^_^そこに置いてあるカメラを細かく見ると1番面白いのはライカのレンジファインダーを外したモデルエム1が見えるがそれにはライカビットが付いている。さらに驚いたのはその初期型のエム1は巻き戻し機構がデンバーではなく押しボタンなのである。このカメラを手に入れたときのこともよく覚えていて確か1970余年の雪の深い日に家から歩いてウィーンの西駅の近くにあったカメラ屋さんで手に入れたのであった。その時の値段は3600シリングだったからまず60,000円と言うところか 20年位前だったかな?新宿のヨドバシカメラに行った時に私に声をかけてくれたジェントルマンがいた。この人がJTBの加藤本部長であって、あの当時はシートアサインがまだシステムでできないので、ヨーロッパ行きのシートアサインを本部長にお願いして座席の予約をしていただいたのも懐かしい。 本部長のお嬢さんの名前がライカちゃんと言うので、大昔のガラクタ屋さんでかわいい女の子に会ったこともあった。 妙蓮寺と言う場所は日本独特の地形であって、似たような場所で、ヨーロッパアルプスだとかなり高いとこにあるから、私のようなのが後期高齢者のアルピニストは楽しめない。 妙蓮寺の辺りは見晴らしの高台なのである。本部長は、我楽多屋さんが企画した悪の枢軸の重要ポストなのであるが、お住まいが妙蓮寺で、この肉屋さんで本格的な赤いチャーシューを私に教えてくれた方なのである。 日本郵船の氷川丸の1000ページの写真集を作った関係で撮影ポイントから1番近くのニューグランドにいつも宿泊していたのである。それで本部長に教えられて妙蓮寺の伊藤精肉店に行って、赤いチャーシューを500グラムほど買った。そういう買い方をする人はいないらしくて、投機筋の外人と勘違いされたようである。 思えば、あの赤いチャーシューを500グラム買った時は、私の帯状疱疹がスタートした時であって、その後2年間ぐらい大変な思いをした。ニューグランドで赤いチャーシューでいっぱいやってゆっくりお風呂につかった時は体調が戻ったのでそのまま帯状疱疹が治ったかと思ったのであるが、実際にはこれが長い闘病生活のスタートであったのだ。 その翌年の春に完全に治っていないままにパリに行ってニコンSPで撮影をした時は私は左手は完全に使えないので、パリのそこらここらにある。緑色のベンチに座って右手だけでフィルム交換をしたのが懐かしい。 妙蓮寺の高台から降りていく左側にある集合住宅の糸杉を見て、ピカソを思い出したのも記憶に新しい。 そのサイズはベルギーのワーテルローの巨大なパノラマにはかなわないけれども、それよりはるかに小さいけれど、独特な存在感がある。それは小学校の理科室で見るような人間の手作り感覚なのである。豆電球の光の砲弾がピカピカ光ってディエンビエンフーが攻撃されて背景のボール紙でできた空が赤くなる。 これはベトミンの攻撃なのである。一方で、最後の戦いで必死に防衛するのはディエンビエンフーのフランス軍だ。このパノラマシステムをハノイの博物館で見て、私は急にディエンビエンフーに行きたくなった。 ハノイからディエンビエンフーは列車はなくて車だと2日と12時間で徒歩だと6日と5時間ぐらいかかると言うのをソフトウェアで知ってびっくりした。それで私はベトナム航空でハノイ空港からディエンビエンフーに飛行したのである。 しかし飛行機の連絡が悪いから、いずれにしてもハノイには1泊しなければならない。それで翌日の昼過ぎに到着したディエンビエンフー空港はもともと日本軍が作ったとこらしいが、街の中心部から歩いて1キロメーター位の近距離にあるのだ。世界で最も都市部に近い空港であろう。 到着した初日は様子がわからないで、小さな街と言うよりも村を歩いていて、食事ができるところがどこにもない。食品を売っているところもない。それで部屋でプチ断食をして翌日街に出てみたら、川の近くに巨大なマーケットがある。それは朝に開いてお昼ごろにしまって何もなくなっているように見えるのだ。 その市場をぶらぶらしていたら、川魚の大きいのを焼いているのである。それを注文したら焼きたてをバナナの皮に包んでくれた。これの味が非常に良いので30%位食べて残りの70%は家人のお土産と言うことで、しっかり冷蔵庫に保管して数日後に東京に持ち帰って家人に食べさせたら今まで食べた川魚で1番おいしいと言うので、面目を施した。 ところがディエンビエンフーからハノイを経由して東京に行く飛行機便は連絡が悪いので、午後の飛行機でハノイについて空港のそばのホテルにいっぱくしたのである。このお魚と一緒にディエンビエンフー名物の重さが2キロ位あるチキンのハムをお土産に買ったのである。 パッケージツアーと言うのは当然のことながら1度も参加したことがないと言いたいところなのだが、実は1度だけ参加したことがある。25年以上前のことで厳密な年代がわからないけれども今はもう廃刊になった日本カメラのドイツのカメラ見本市を取材すると言うのでホテルも飛行機も何も取れないような状態だったのでそういうときにはこういう手があるのかとびっくりしたのであるがその当時の梶原編集長と私はあるパッケージツアーのメンバーとして2人分だけそこに滑り込んだのである。 そのルートについては既によく記憶していないのであるがフォトキナがらみと言う事だったのであろうそれでないと普通のパッケージツアーではフォトキナに行くなどと言う事は最初から予定に入れていないからである。それで2日か3日ほどケルンで取材して、もう話わかったと言うことでその後に行ったのがスイスのユングフラウヨッホがどこだか忘れたけれどもアルプスの上の方であった。なぜ覚えているのかと言うとその時私は持参のワイドアングルローライフレックスでケーブルカーの1番上からアルプスを撮影している記憶が残っているからだ。 そしてもう一つワイドアングルローライフレックスで私が撮影した記憶と言うのはロンドンで日曜日にダイアナがどっかの教会に行ったときの後ろ姿なのである。非常に大柄な人でピンクのスーツを着ていた。私は有名人でも芸能人でもそこら辺の通行人でも正面から撮影するのは好まないのである。顔が割れると言うわけでつまりつまらなくなってしまう。それでダイアナが後ろ向きになって教会に入っていくところを目の上に持ち上げたワイドアングルローライフレックスで盲撃ちにしたのだが後から見たらちゃんと映っていた。この顔写真と同じピンクのスーツだったな。 至近距離からダイアナを見たと言うことで私はダイアナにある種の近親感覚を持ったわけである。それから10年後ぐらいにあれは1997年8月31日であったが偽ライカ同盟のメンバーと板橋の北部を歩いていた時に私のことを知っている写真愛好家が車で走っているときに私を認めて急停止してその時にダイアナがパリで交通事故にあったと言うことを教えてくれたのだった。 ウクライナとロシアの戦争で、ロシアのマクドナルドはそのままお店の名前を変えた。ハンバーガー屋になったと言うニュースを聞いて感心したのである。 1971年のモスクワ。中心部のモスクワ中央郵便局の向かい側にマクドナルドができてすごい長い列があった。私は日本で最初のマクドナルドで1971年に銀座4丁目の三越のエントランスの脇にあったところで、初めてのマクドナルドの立ち食いを経験していたのである。 それまでは立ち食いをすると言う事は、立ち食い寿司屋ぐらいしかなくて、立ち食いの蕎麦屋もあったけど、いずれにしろ下品な事と言う認識があった。それがマクドナルドができた後10年前にそのルールが完全に帰られてしまったのだ。 日本のマクドナルドの最初が1971年でモスクワのマクドナルドが10年後にオープンしたのだから、時間としてはずいぶん短いような気がするな。それで私がマクドナルドモスクワで味を見てみようと思ったのは、単なる好奇心である。 そのマクドナルドを求める列の最後尾に並んだら脇に立っているモスコビッチが私が外人であることを認識して、あっちの方向を指差しているのである。帝国主義者である私によるハンバーガーはないよと言っていたのかと思っていたら、そうではなかった。長い長い列に隠されていたのであるが、誰も並んでいない職員の入り口みたいなところがあった。行ってみたらそこはドルで支払いができるエントランスなのである。 帝国主義者の1部である=ドルで金を払ってしまえばニューヨークにいるのと全く同じことになってしまう。それでかなりがっかりしたのだった。 私は日本国内でマクドナルドを食べる習慣は無い。理由は単純でライセンスの関係なのであろうが、ヨーロッパのマクドナルドはビールが出るのである。だからビールを買ってフライドポテトをつまむ程度である。 2001年9月のワールドトレードセンターのアタックの朝とその日に私は仕事でドイツを旅行していた。それでフランクフルトから遠く離れたカントリーのマクドナルドに入った。お店の店内には巨大なマンハッタンのツインタワーの夜景のパネルが並んでいた。何かマンハッタンに対する 葬式のような感じがして、そのことだけよく記憶しているのである。 取材で世界中にいろんな料理を撮影に行ったりしたが、もともとカレーが好きであるからオールドデリーにカレーを体験しに行ったこともある。オールドで駅前の菩提樹の下でインドの哲学者みたいな人が巨大な鍋を掻き回しているのがなかなか格好良いので、私はそれをデリーの野立カレーと命名した。 私がいつもノスタルジーを感じているのは外国にいて、日本のカレーパンのことを思い出すポイントなのである。これはまさしく日本で発明された加工食品である。資料を調べると深川のあたりにあるカトレアとか言う名前のお店が日本で1番最初のカレーパンを作ったと言うことになっている。 その話に惹かれて深川のその店に買いに行ったこともある。その頃は私も初心者であったから、カレーパンは辛口に限るなどと言っていたのであるけれども、最近は辛さはチリペッパーで自由にコントロールできると言うことに気がついた。 30年ぐらい前の話だが、家人と川越市内を歩いているときに、それが何であったかよく記憶していないのであるけれども、パッケージの表面のラベルを見ると、それはカレーパンの中に入れるカレールーの会社の包装物なのである。 それで感謝したのは、そのラベルが田中食品、なんとか工業と読めたことだ。これが非常に気に入ったのである。カレーパンは世の中になくてならない重要な日本の食品であるから、そのカレーパンの中身を作っている会社がもちろん存在するであろうと言う事は推測していたが、その食文化の一端を担っているのが田中さんであると言うことがわかって嬉しかったのだ。 私がいつも食べているのはこんなブランドだけど、2週間ぐらい在庫が向かいのスーパーで切れていた。それで再度このカレーパンが登場したらなんと10円も値上げしているんだね。ディズニーけしからん話だ。 40年以上前に、ニューヨークのカメラ、雑誌の編集長のケプラーさんについて、日本中回った時に京都の俵屋さんに泊まった。別に編集長が高級志向と言うわけではなくて、ケプラーさんと中学校のマンハッタンの同級生がアーネスト、佐藤さんであったと言うだけの話だ。 その頃の俵屋さんはまだクレジットカードも使えなくて、お勘定の時に私が20ドル札の束を持っていって町場で支払いをした記憶がある。当時はなかなか厳しくて一見さんは止めない。しきたりだったらしいけど、最近はオンラインで予約ができるらしい。 コロナ以前は京都によく行っていたものだった。それで錦市場で行きつけの店と言うほどでもないが顔見知りのお店ができて、そこでいろんなものを買った。季節にタコの卵を買ってそのままホテルに忘れて新幹線に乗ったこともあった。 この間部屋の隅から出てきたのがこのお皿なのである。その行きつけの小さな錦小路のお店で刺身か何かを買った時にこのさらに盛られてきたものだと思って皿を返してみたらどうも記憶違いのようである。それでこの屋号を調べてみたら、錦小路には違いないが、ふぐとはもの専門の料亭だそうである。 私ははもは食べないから、そういうお店に行くはずは無いが、なぜこのお皿が私の行きつけのお店から私のほうに流れてきたのであろうかと言うことを考えて未だにわからない。 出雲で活躍している写真家の小池夫妻である。奥様の方がこの写真集の顛末をFacebookがノートとかに書き込んでくれたので、私の記憶が新たに呼び覚まされた。 なんでもここに表紙を飾っている双子の娘さんに友人から連絡があったそうで、その写真集が東京のどこどこの喫茶店に置かれているとかそういう話なのである。それを撮影者と連絡が取れて、その時の懐かしいプリントを送ってもらったとか言ういわゆる人間と人間の美談と言うことなのだ。 小池さんのところは今小池さんの父上が撮影した。昭和30年代の笑顔の子供時代の写真集がついこの間出たようである。全く今の子供はゲームばっかりやって笑顔は完全に忘れているからね。 面白いと思ったのは、この表紙の2人のお嬢さんが十数年経過するとちゃんとした大人になっていると言うのは、細胞分裂の結果として当然のことながら、やはり写真が果たす役割というのは大きいとびっくりせざるを得ない。 双子の写真で、1番有名なのはダイアンアーバスが撮影した有名な作品がある。それから何十年かたって彼女たちが今どうなっているかと言うのを別の写真家が撮影したのかな? 私はウィーンで素敵な同じ衣装を着た双子のおばあさんを撮影したことがある。ヨーロッパにはそのような伝統な習慣があるみたいだ。私が撮影したこのワンショットは1970余年のカメラ毎日の1月号に掲載された非常に好きな写真なのであるが、8ページのそのポートフォリオの双子のおばあさんの裏側は、独裁者の肖像とか言うカリカチュアのポスターを路上で撮影したものであって、アドルフとかホーチミンとか毛沢東が写っているのである。 これが当時の毎日新聞社の内部コードに触れたらしくて、カメラ毎日は発売直前にその2ページを切り取ってしまった。ただし北海道とか沖縄は間に合わなかったのでそのままになったらしい。 1976年夏に私が来日してカメラ毎日の山岸さんにお目にかかった時、山岸さんはジャーナリストとして恥ずかしい、そのことを忘れないために、20冊のカメラ、毎日を梱包して、自分の教室のいつも見えるところに置いてあるとおっしゃったのである。 その後、山岸様が急死したので、これが最後にお目にかかる機会になってしまった 29歳の時に、winで、映画の本編の撮影をやったのであるが、その日本の映画のうちの1つは1930年代のドイツ語圏と言う設定であるので、結局ロケ地がオーストリアのウィーンになった。 1976年のロケであって、監督は私よりちょっと年上のまだ30代のアレクサンドリア生まれのギリシア人だった。50年も会ってないのでどうなっているかと思ってその監督の名前をFacebookでチェックしたら健在であったのは嬉しかった。人間というのは面白いもので、後期高齢者になるとその風貌というのが私のような東洋人であっても、ギリシア人であっても非常に似てくるのである。ー つまり、人種とか言うカテゴリーよりも、後期高齢者と言うカテゴリーの方が特徴が際立ってくるということがわかって非常に面白い。 このショットは、10年近く前にウィーンの郊外で撮影したものである。路面電車の終点から歩き出したら、いきなりこのような展開が多かったので、私が何が面白かったかというと、例えばこの手前に本編の主要な人物がいて、背景がこの3人のエキストラさんと言うふうに考えてみると、エキストラさんの配置の仕方は非常にうまい。 私が携わって映画はボンバーとパガニーニと言うタイトルでびっくりしたことにYouTubeでその2時間近いアクションムービーを今でも見ることができるのだ。それも懐かしかったけれども、その映画の中でエキストラさんがどのように動いているかというのを見るのも非常に面白かった。 これはウィーンの周辺部のドナウの岸辺に近いところであって、いわゆる新しい建築物が立っているところだから、ウィーンの旧市街とはかなり様子が違っている。左の薬局もモダンな薬局で車椅子用のスロープがあったりする。右のオーストリア銀行と言うのは、30年位前に名前が変わったのであるが、以前はウィーン中央金庫と言う名前で私の写真展を開催してくれたりした。お世話になったバンクなのである。 左側で体を支えている老人などは、当時は気分がわからなかったけれども、今の年代の私になってみると、その気分がよくわかる。そして右の松葉杖の人は何か全体のドラマを展開するキーになりそうなアクションを起こしている。 だから、こうしてみると、日常の何でもないようなん風景と言うのは、実に多種、多様なドラマが起こり得る要素をその表面に内包しているということがわかる。 フォトコンテスト言う月刊、カメラ雑誌の1965年12月だったと思うが、そこにセカンドプライスで入選した富士山の近くの白糸の滝に集まっている。ツーリスト。このレンズで撮影した。そのタイトルは単純明快で観光客と言うのではなかったか? これが私がカメラ雑誌に写真を発表した最初の機会であって、本当に嬉しかったな。でも、その後私が同じ会社のカメラ雑誌で新しく発行されたカメラ時代と言う今見てもシリアスな写真集にほぼ1月おきに8ページの東京のシリーズのモノクロ作品を出していたのに、比べると、1番最初の私のデビューと言うのはかなり方向違いなやり方だった。 要するに、最初にデビューした写真は200ミリから400ミリのズームレンズであったのに対して、その翌年から本格的に発表する。1連のシリーズはカメラは同じニコンエフであるが、レンズはニッコール2.1センチで全く異なっているからだ。 それでもこの200 400ミリレンズはよく使ったもので、不具合が起きると赤羽の駅から徒歩10分位の木造2階建ての普通の住宅に持ち込んで。そこで修理をお願いしたものだった。看板も何もついていない普通の住宅であったから、今までそれがタムロンの赤羽営業上だと思っていたのは、私の勝手な勘違いで、埼玉の本社まで来てもらうのは恐縮だと言うので、タムロンの社員の方のご自宅に私がレンズを届けると言う形になったらしい。 クロネコヤマトの宅急便が登場する数、10年も前の話である。 最初に手にした200 400タムロンズームだが、本当はニッコール200ミリが欲しかったのだが、何しても値段が高すぎる。それでこのレンズで我慢したわけだが、それが結果として面白い。私の写真表現の展開のスタートになったわけだ。 それに1960年代に作られたこのレンズの仕上げのクオリティーが非常に高いと言うことに。60年後に気がついて驚いているのである。 チョートク先生、温厚でジェントルなシニアだな 理想だぜ >>180 たぶん100歳まで生きる。まだまだ時間はあるよ。 HISの団体ツアー客がとったみたいな写真よーけ出品しとるの ヤフオク出品見てるとかなり金コマなのかな 少し心配だわ ヤフオクの終活っぷりが凄すぎて、ちょっと引いてるわ ニューヨーク時代の貴重なメモとか出してるよ ヤフオクにリンホフ テヒニカや大判レンズも出てきたな チョッと楽しみ きったねぇ出品も多くあれを買ってやるとしたら本人の生活支援の意味だな >>185 MoMAを訪問したときの個人的なメモにそんなに価値があるのか? >>188 一応文化庁からの派遣芸術家として行ってるだろ >>185 わりと入札あるしなあ 美術史の研究家とかは欲しいのかもしれん こういうのはなまじ本人が死んでから捨てられるよりこのほうがいいのかもね 怒濤の出品、ゴミ屋敷の整理がはじまったな 四季も近そう メモの入札なんか捨て垢からだろ、田中長徳研究なんて誰がやるんだ。 佃島のカメラジャングルって今もあるのかな? 動画は自宅のゴミ屋敷から? ■ このスレッドは過去ログ倉庫に格納されています
read.cgi ver 07.5.0 2024/04/24 Walang Kapalit ★ | Donguri System Team 5ちゃんねる