特別に「映画ファン」でもなければ「ゴダールファン」でもなかった私ですら、『気狂いピエロ』のあれこれのカットが「素晴らしい」とか「美しい」とは感じたのだから、その程度のことなら「誰にだってわかるし、言える」のである。
なにしろ映画作家は、可能な限り多くの人が「美しい」「素晴らしい」と感じるようなショットなりカットなりを目指し、それを達成しようとした成果が「見事なショット」なのだから、それは「わかって当然」なものでしかなく、それがわかること自体は、別に自慢できることでもなんでもないのである(お花がきれい、太陽が眩しい、というのと同じレベルのことでしかない、ということ)。

では、蓮實重彦やゴダールという「本物の映像的変態」と、それ以外の「エセ映像的変態」の違いは何かといえば、それはそのショットの「素晴らしさ」が何に由来するものなのかを「説明する」あるいは「実際に表現してみせる」能力の有無にある、と言えよう。

蓮實重彦なら「なぜ、そのショットが素晴らしいのか」の「説明ができる」し、ゴダールなら、自分の思う「素晴らしいショットを実際に撮ってみせることができる」わけだが、彼らの猿真似でしかない「エセ映像的変態」たちは「あれがすごい。これがすごい」とは言うけれど、それを、他人の口真似(コピペ)ではなく、自分の目と頭と言葉によるものとして(オリジナルなものとして)「説明する」ことはできないし、ましてやそれを自分で撮って示してみせることなどできない。
そうした「現実的な裏付け(証拠)」が示し得ない者は、「エセ映像的変態」だということなのである。

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そんなわけで、映画評論家を含む「映画マニア」たちが、ゴダールや蓮實重彦などにひきずられて「映像重視主義」に偏っている現実とは、じつのところ「アブノーマルなエリート趣味」でしかない。
単なる「エリート」ではなく、少数例外である「本物の変態」以外は、「エリート趣味=変態趣味」でしかない「偽物」であり「猿真似」でしかないのだから、そうした特殊であったり、逆に通俗的であったりする極端な態度を、「映画鑑賞の王道」だなどと考える必要は、さらさらない。