世界が有である、と仏は説かない。世界が一つである、と仏は説かない。
また世界が無である、と仏は説かない。世界が多である、と仏は説かない。
それらの考えは常見、あるいは断見に堕するものである、と仏は説かれ、
それらの考えが人々を苦しめることはあっても、苦しみから逃れさせる道理は無いと説かれ、
それらの考えを退けられた。
どうして仏が退けられたことを説く者が仏を自称する道理があろうか?
それは彼が人々を苦しみから逃れさせる目的以外の他の目的があるからだ、と私は言う。