「限りなく黒に近い灰色」→「灰色に近い」の改ざんで、
羽生の東郷平八郎化はすでに始まっている。


晩年において海軍における東郷の権威は絶大で、官制上の権限は無いにもかかわらず
軍令・軍政上の大事は東郷にお伺いを立てることが慣例化していた[注釈 5]。
海軍省内では軍令部総長・伏見宮博恭王と共に「殿下と神様」と呼ばれ、
しばしば軍政上の障害とみなされた。そして伏見宮すら「自分と東郷の意見が
分かれるようなことがあってはならん」と気にしていた。
井上成美は「東郷さんが平時に口出しすると、いつもよくないことが起きた」と述懐したうえで、
「人間を神様にしてはいけません。神様は批判できませんからね」と語っている。
また岡田啓介・米内光政・山本五十六なども、東郷の神格化については
否定的な態度をとっている。昭和期の海軍内の抗争において、
東郷・伏見宮は艦隊派を後援し、岡田らは条約派に属した。

東郷に関する著作物中、重要なものは「東郷の私設副官」といわれた
小笠原長生による[12]が、日本海海戦時に「三笠」艦上にあった今村信次郎は
東郷の前で事実と異なる点を指摘し、東郷は「証人がいては仕方ない」と
小笠原に訂正を指示している[13]。山路一善は小笠原に対し「閣下の東郷元帥に関する
著書や講演のなかには、潤色が度に過ぎて誇大に失するものがあり、
日本の歴史を誤るのではないかと憂える」と述べたとされる[12]。

晩年

末次信正、加藤寛治らのいわゆる艦隊派の提督が東郷を利用し軍政に干渉した。
昭和5年(1930年)のロンドン海軍軍縮会議に際して反対の立場を取った
ロンドン軍縮問題[注釈 3]はその典型であるが、その他に明治以来の懸案であった、
兵科と機関科の処遇格差の是正(海軍機関科問題。兵科は機関科に対し
処遇・人事・指揮権等全てに優越していた)についても改善案について
相談を受けた東郷は「罐焚きどもが、まだそんなことを言っているか!」と反発し、
結局、この問題は第二次世界大戦の終戦直前に改正されるまで部内対立の火種として残された。