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升田九段とも親しかったんだ・・(^^
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8A%A0%E8%97%A4%E4%B8%80%E4%BA%8C%E4%B8%89
加藤 一二三(かとう ひふみ、1940年1月1日 - )
(抜粋)
神武以来の天才
1951年[注釈 6]、大阪市の日本将棋連盟関西本部で板谷四郎に飛香落ちで指導対局を受けている時に升田幸三に棋才を見出された[24]。たまたま通りかかった升田は、加藤と板谷の対局を小一時間ほども見つづけ、終局後に以下の言葉を発した[24]。

この子、凡ならず。
??升田幸三、[24]
後年の加藤は、升田から受けた恩義を次のように振り返っている[25]。

升田九段は私が小学生の時に出会ってから終生、私に目をかけてくれた。有益な助言も数知れない。
??加藤一二三、[25]
同年9月[26]、南口繁一門下[26]、3級で[10]、関西奨励会入り[26][注釈 7]。田丸昇は、加藤の奨励会入りの経緯について、小学6年生の夏休みに京都の親類を父と共に訪ねた加藤が京都の将棋大会に参加し、審判長を務めていた南口の指導対局を受け、2枚落ちで2連勝し、加藤の棋才に感嘆した南口から棋士を目指すよう勧められたもの、と述べている[26]。

奨励会時代の加藤は、関西本部で升田幸三に誘われ、良く将棋を指した[24]。升田は棋才を認めていた加藤に自らの研究をぶつけていたのだが[注釈 8]、木村義雄・大山康晴・塚田正夫と並ぶ当時の最強棋士である升田と平手で指しても、加藤は簡単には負けなかったという[24]。

内藤國雄は、加藤が四段に昇段する半年ほど前に関西奨励会に6級で入会した[27]。2018年現在、内藤は関西奨励会時代の加藤を直に知る唯一の人物といえる。内藤は、『将棋世界』2018年9月号の加藤引退記念特集に寄せたエッセイで次のように述べている[27]。

いまから思えば、奨励会三段のあの頃〔加藤には〕すでにA級八段に近い棋力があったような気がする。
??内藤國雄。〔〕内は引用者が挿入、[27]