将棋で反則をしたら、いさぎよく負けを認められるか

打った瞬間に気がついた。そして、指が離れたか離れないかのうちに、指し直そうとした。
血の気が引くという言葉があるが、まさに顔から血が下がっていくのが、自分でもわかった。
 その時、
「離れたんじゃないの?」
 と相手がそう言った。何秒かの後、何を言ったのかは忘れたが、私は負けを認めた。
「いや、いいんだよ」
 という言葉もあったと思うが、とても続行する訳にはいかなかった。
 自分でも離れたかも知れないという気もしたし、その少し前に、離れた離れないで、
理事会裁定となった将棋があっただけに、そういうことだけはするまい、という気持ちもあった。
 帰り道は暗かった。また今期はダメかと思うと、絶望感が襲ってきた。
将棋の盤面は、△7一歩と△7六歩と、そして▲7七角の、たった三枚しか覚えていなかったが、
その時の暗い気持ちは、ついこの間のことのように覚えている。

出典:青野照市『将棋マガジン』1989年1月号