―現在、東京と大阪にある将棋会館は大山先生の尽力でできたそうですね。

有吉 ええ、そうです。先生は東京の将棋会館を造られたあと、すぐ大阪の将棋会館の建設に回られたんです。
連盟はお金がないですからファンや財界の基金でできたんですが、大山先生がその機関車役でした。
東京の将棋会館を建てる時は、たまたま高輪に日本棋院の空き家があって、そこを臨時に借りて私たちも対局してたんですが、
大山先生は朝9時に来られて職員と二人で資金集めに出かけられました。
夕方6時に帰ってきて反省会をやり、明日はどこどこへ行こうと決められて。そういうお姿によくお目にかかりました。
先生は手空きのときは一生懸命、外を回っておられたんですよ。
それで東京の会館ができてから1年もしないうちに、「今度は大阪をやろう」と言われたんです。
みんなビックリして「これは大山先生、少し指し過ぎじゃないか」と。というのは東京が済んで大阪といっても、将棋ファンというのは東京も大阪も同じでしょう。
東京のときは日本で一つの会館ということで賛同を得やすいけど、大阪は二つ目ですからね。
当時、私は周囲から「大山先生に”もう少したってからのほうがいいんじゃないか”と言ってほしい」と言われたことがあります。
それで先生に「いまはあまり景気も良くないかし、東京の会館が建ったばかりだから、どうなんですか」と聞いたことがあります。
そしたら先生は「大変なのはよくわかっている。時期が悪いって言ったら、いつだっていい時はないんだ。
やろうと思った時が一番いい時期なんだよ。自分が元気な間でないと、大阪に会館はできないよ」と言われました。
私は「先生がそこまでおっしゃるなら」と言うしかなかった。それでおやりになったんです。でも、やるといってもお金がないわけでしょう。土地もない。
しかし会館がどこに建つか曖昧模糊としてたんじゃ仕方がないというので、まず土地を確保しようとなった。
それと並行して土地を買う資金を何とかしなけりゃいかんと。つまり二つの難題があったんです。
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