こういうことが平気で行われてた時代だからねえ…

なお、大山の側も、朝日新聞社が名人戦を主催するようになって以降は相当の盤外の圧力を被っていたという説もある。
升田が勝てば役員総出で大宴会になり、大山が勝ったらそのまま全員帰った、大山が升田に敗れればカメラマンが何度も投了の瞬間を再現するよう迫ったという逸話が伝えられている[43]。
これで奮起した大山は2期後に名人位を升田から取り戻し13期連続、通算18期名人位を獲得し、その後二度と終生のライバルであった升田にタイトルを譲る事はなかった。


大山側が行った盤外戦術の方は被害妄想と思われるともいわれている
有名な高野山の決戦でもこう述べられている

「B級1位を参画」という制度変更は、「順位戦の開始前」にされていた筈だ。(升田は知らなかったかもしれないが)順位戦が終わった段階での、制度変更は考えられない。
なお「B級1位を参画」は七段時代の升田が、木村名人との五番勝負に勝った結果として「B級の逸材にも挑戦のチャンスを与えよう」という流れである。
井口は、高野山での対局を毎日新聞社で担当した者に話を聞いた。当時は食糧難で対局場所を探すのも困難であり、食糧が十分確保されている高野山が対局場所として適所としてあげられた。
なお、「途中は寒くても、寺に入ってしまえば防寒の用意は発達している」と高野山側の説明を受けていた。
毎日側は升田に連絡しようとしたが、升田の所在がわからず困惑していた。朝日新聞側の担当者も、升田に連絡がつかないことを心配していた。
敗戦から3年を経た昭和23年、未だ日本の食糧事情は厳しく、「高野山の決戦」については、対局の前夜に供されるすき焼きの材料は主催社の毎日新聞社が提供し、
高野山滞在中に関係者が食べる白米(出典には「銀飯」とある)は高野山が提供し、左党の升田に欠かせない酒は後援者が提供した[42]。食糧確保のための関係者の努力は多大なものであった[42]。


まぁ麻雀や酒に関しては自覚なしの盤外戦術だったかもしれんけどな