里芋の煮物をひとくち食べて、喜一郎は天井を見上げた。
首を元に戻し、おもむろに自宅の固定電話に手を伸ばす。
「ヴイィィィィン福島県……地方気象台発表の…………」
別に、天気が知りたいわけじゃない。
喜一郎は駅までの道程をとぼとぼと歩かなければならなくなった。

携帯電話の普及で、公衆電話は軒並みその姿を消した。今、思い浮かぶのは、……駅まで20分は掛かる。六十を越えるわが身には煩わしい距離。刑事を辞めるとき、その携帯電話を個人の物まで解約したことが今更、悔やまれる。
「もしもしお父さん? なんで公衆電話から?」
娘への用件がすみ、喜一郎はすこし悩んで更にもう一本、電話を掛けた。
それも終えると、先ほどからの視線に耐えかね 「おねえさん○○マイルド」
ニコニコしている自分と同世代だろう、タバコ屋の看板娘に声をかける。
 ……2年続いた禁煙は破られた。
(ぷかー)
家までの帰り道、立て続けに吸ってしまうと流石に自己嫌悪になる。
「あら、お散歩ですか?」
「たまには歩きませんと。あの……煮物、本当に初めてですか? 上出来です」
「よかった。でも適当に作ったので同じものが作れるかどうか」
 今どき珍しい、品の良い黒髪がゆれた。
引き戸を閉める。喜一郎はまた、我があばら家の天井を見上げた。
…………煮物が旨すぎる。
警察を退官後、娘が住む福島に移り住みそろそろ一年になる。 自分と入れ替わるように隣家が空き家となり暫くは売り物件の看板が虚しく雨風にさらされていたが、やがて買い手が見つかった。……買ったのは、若い夫婦だという。
「この度、お隣に越してまいりました不破ふわと申します」
律儀に挨拶をする女の横で、金髪の若者がそっぽを向いた。隣家には、不破芳男ふわよしお、弓絵ゆみえの表札が並んだ。
暫くは何もなかった。二週間ほど経ってからだろうか? 頻繁に女が我が家を訪たずねて来るようになった。
「作り過ぎたので」テーブルに残った煮物も、そう言って持ってきたものだ。
煮物が旨うまくて、何か問題があるだろうか?
隣町に住む娘が好物だからと、とある惣菜屋でよく煮物を買ってきてくれる。
そこはただの惣菜屋ではない。京都嵐山の有名料亭で板長をしていた人物が、余生の嗜たしなみにと開いた店で外見は普通でも、味は別格。それと……同じ味。
無論むろん、味が問題なのではない。
問題は、なぜ作ってもいない煮物が余ったか? である。
普段なら気にも掛けない疑問……自宅の電話が、盗聴されてさえいなければ。
当初、喜一郎は背筋を凍らせた。警察組織の恐ろしさはそこに居た人間にしか分からない。公安に何らかの疑いでも持たれたか?  
だがそんな疑念は直ぐに払拭される。
(電波の飛ばしで雑音が入るなど……現役がこんな不細工な仕事はしない)
誰が? 何の目的で? 頭を覆うような思案にここ数日、悩まされていた。
で、……煮物が旨かったのである。