甲州街道は最後の峠を抜けて長い下り坂を下り、山間部に平野が広がって山梨県に入った実感が涌く。
 慎重なブレーキ操作をして信号2つを停止せずに駆け抜けた小林さんの顔を見ると
爽快そうな顔で達成感を噛み締めている。
 ただ、読めない奇妙な動きに苛立ったのか、後ろの大型ダンプが、プシュン、プシュンとエアブレーキの排出音で威嚇しながら鬼のように煽ってきている。
 気づいていないのか。心配していると小林さんが笑顔で言った。
「結城さん、後ろを見てください」
 ん? 気づいているのか。それなら笑顔が謎だ。わかってはいるが後ろを見る。
「いま流行りの煽り運転です」
「なに笑ってんの!」
 小林さんは口を押さえて吹き出した。
「だって、私の車に迫ってはブレーキを踏んでエネルギーを無駄にしてるんですよ? あの巨体を動かすエネルギーを何だと思ってるんでしょうか、滑稽です」
 それはそうだろうけど斜め上すぎる。普通の女子は怯える所だ。つうか俺が怯えてる。
「これ以上の無駄をさせるのはかわいそうです、道を譲りましょう」
 そういって見つけたバスレーンに入った。怒りのアクセル操作でダンプは走り去った。謎の上から目線の小林さんは
憐れそうな目で見送っている。多分だけど、地獄でもがく餓鬼を見ているような気分なのだろう。知らんけど。
 再び軽ワゴンは走り出した。数分走って既に目的地の中にいることに気付き、そこで今さらながらに菌の採取ってどうやるんだろうと疑問が湧いた。
「ねえ、菌てどうやって採取するの」
「そうですねぇ、まずは山林で腐葉土を採取して、水に混ぜて撹拌したあと上澄みを寒天倍地に垂らしてコロニーを生成させます、そのあと、あ、ワイナリーが見えました」
「山林は!」

 明治時代が発祥というワイナリーでツアーを申し込んだ。ここでも小林さんはマイペースでツアーガイドの腰を折りまくる。
 もう首相撲からの膝蹴りをされているかようなガイドさん。質問に答えられなくて職人の元に走ること数回。いよいよこのワイナリーの名物、石でできた桶の発酵蔵に来た。開口一番。
「桶からサンプルを取ってもいいですか?」
「は、はい?」
 小林さんがトートバッグの中から小型のティッシュ箱のようなものを取り出して、そこからゴム手袋を2つ引き抜いて装着した。もうこの時点でガイドさんは茫然自失で完全無抵抗だった。
 俺のように小林免疫が無いならこうなるだろう。そのあとレトルトっぽい袋を開けて
中から脱脂綿にプラスチックの取っ手がついたような器具を取り出す。
 それでパタパタと桶を叩いた。それを検視官のようにジップロックに入れたあとニコニコしながらガイドさんに言った。
「ありがとうございます」
「い……いえ、どういたしまして」
 小林さん自体は謙虚で臆病なのだが、知識の威力で知らず知らずのうちに人を威嚇していて、それに気づいていないような気がする。
 場合によっては高慢で鼻持ちならない人間に見えるだろう。その場合の物腰の柔らかさは怪しくしか見えない。そこが解っていない小林さんははっきり言って危うい。詐欺師なら詐欺感を紛らわすが、小林さんにはその意識はない。