朝一番で出勤する事が苦痛にならなくなってきた。炊事場でヤカンを火にかけているとジジっとタイムカードの音がしてスパーンとラックに納める音がした。池田主任だ。
 私はにやけ顔をする。妻は主人より早く起きてサポートするものだ。職場でそう仮定するようになってからは仕事が楽しくなった。全員にサービスするのも池田主任への気持ちを隠す目眩ましに過ぎない。
 今日も主任の調子は抜群だ。タイムカードの音で分かる。主任がひょこっと顔を出す。
「おはよう、今日も早いね、武田君」
 私は今気付いたような演技をする。
「あっお早うございます主任」

 私は飛ぶ鳥を落とす勢いの主任から仕事を貰うと勇気が出た。どんなに過酷でも辛くはなかった。同期が失敗してそのリカバリーに主任が着手すると、一体感が生まれた。
 仕事が課長から下知された後は主任の指揮するオーケストラ状態だった。この会社を儲けさせてる。そのメンバーの1人だと思うと誇らしかった。この時が永遠に続けばいいのに。

 そんな願いに終演をもたらす大王が降ってきた。課長が中途採用の新人を紹介した。
「宇賀神梨杏さんだ、みんなよろしく」
「宇賀神です、よろしくお願いします」
 そう言って小太りの女が頭を上げた時、うっすら笑っているように見えた。
 宇賀神という名前にみんな戦慄した。この房前商事の社長が宇賀神賢一だからだ。田中山田ならともかく到底無関係だとは思えなかった。
 会社で一番稼ぐ花形部署に身内をねじ込んだようにしか見えない。年齢から言って孫か何かか。しかし社会に暮らす以上この現象は珍しい事ではない。
 私は普通に接しようと努力した。まずは紙媒体に打ち出した書類のチェックを頼んだ。
「一行づつチェックして誤字が無かったら赤ペンで検付を打って、数字はこっちの書類に根拠があるからそれも符合して検付打って」
 宇賀神梨杏は舌打ちをした。私はこのとき軽く切れたが、笑顔はそのままだったと思いたい。

 その後彼女を観察したが、どうみても目くらめっぽうでチェックしている。結局私が再チェックする事になり、間違いも3ツほど見つかった。
 それから1週間。三味線弾きのような彼女の振る舞いに部署の雰囲気は最悪だった。さすがに新人にお茶を出すのはプライドが許さなかった私は、お茶出しもしなくなった。
 飲みたい人は自分で炊事場に行っていた。私の小さなプライドのためにと思うと申し訳なかった。せめて朝一番で沸かしたお湯を給湯器に入れるのが私の仕事だった。

 宇賀神梨杏が言った。
「あたし帰るから5時になったらタイムカード押しといて」
 何を言ってるのかわからなかった。ポカンとする私をまるで無いもののようにバッグを整理している。そして彼女はどこかに行ってしまった。

 池田主任も彼女の扱いには困っていて、明らかに調子を崩して以前のような勢いが失われていた。
 そんな日が続いて、ついに今日、池田主任が宇賀神に捕まって手を振りほどき、逆ギレで罵られているのを見てしまった。
 初めて思った。こんな会社辞めたい。

 私はついに開き直った。社長の身内が何するものぞ。あいつに一泡吹かさでおくものか。
 私は次の日、パソコンでオセロに興じている宇賀神の前に立って書類を叩きつけた。
「オイ新人、これ昼までにあげろ」
 怪訝そうに私を見上げて何か言おうとした瞬間、三倍のをドンともう一冊叩きつけた。
「これは今日中だ」
「あのさ……」
「だまれ!」
 そこに池田主任が割り込んできた。
「宇賀神さん今日はもういいから帰りなよ、タイムカード押しとくし」
 私は絶望した。あんなに素敵な私の主任が彼女に味方するなんて。涙が溢れた。でも主任は続けた。
「2度と目の前に現れないでくれるかな」
 驚愕している宇賀神はワナワナと震えたた。
「なによ! 結婚してあげてもいいと思ってたのに!」

 彼女が去った後、主任は渇いた笑いで言った。
「俺の送別会よろしく」
 皆が主任に歩み寄ったどさくさに紛れて私は首にぶら下がった。そしてそれを誰も邪魔しなかった。