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【割腹自殺】●●三島由紀夫3●●【肉体改造】
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0100無名草子さん
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2010/10/07(木) 23:58:34
インチキな平和的・民主的秩序なるものの面皮をひっぱがそうとしたのではないか。ムダ死にだったことにより、
逆に象徴的行為としては完全に成功した。


おたがい、つくりごとをもって生業としている文士の仲間として、つくりごとだからけしからんとか、
つくりごとだから品が下るとかいうこと自体が、そもそもありえない。
つくりごとの結果、つくりごとでない、かけがえのない人生の重大事が実現された、ということにもしなるならば、
文学的原理からいって、これほど格式の高いことはないではないか。
この人(松本清張)の文体批評は、皮肉にも、三島氏の最後の文学的演技に対する最高の讃辞を、自らの意に
反して内包している、ということにもなります。アピール自殺として、三島事件はほとんど完璧に近い。

いいだもも
三島事件についてのコメントより
0101無名草子さん
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2010/10/07(木) 23:59:28
(辞世の句は)いかにも紋切型です。
三島文学最後の文章としては、近代的文学鑑賞にとうてい堪えないことは、いうまでもないところでしょう。
しかし、それでいいのです。三島氏にとっても、辞世の句というものは、そういうものです。
およそ、儀式というものは紋切型にきまっており、紋切型でなければならないので、それ以外の、あるいは
それ以上のなにかを望むのは、一種の近代病にすぎないのです。

いいだもも
三島事件についてのコメントより
0102無名草子さん
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2010/10/08(金) 00:00:14
まさにわれわれ左翼の思想的敗退です。あそこまで体を張れる人間をわれわれは一人も持っていなかった。
動転したね。新左翼の側にも何人もの「三島」を作らねばならん。体制側の動きがそういう人間を作ってくれる。

滝田修(京大パルチザン軍団)
三島事件についてのコメントより
0103無名草子さん
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2010/10/08(金) 00:01:33
日本は、外国から一人前の国家として扱われていない。国家も、人間も、その威が行われていることで、
はじめて国家であったり、人間であったりするのであって、何の交渉においても、外国から、既に、尊敬ある
扱いをうけていない日本は、存在していないのと同じである。そんな国の下で平和を歎び、春夏秋冬口に入る果物、
野菜を讃へ、牛肉、鶏、(それらはすべて、体の中に蓄積されれば死の危険のある物質を含んでいる)を、
巴里の料理人を雇って来て料理させているレストランで会食して、得々としている、滑稽な日本人の状態を、
悲憤する人間と、そんな状態を、鈍い神経で受けとめ、長閑な笑いを浮べている人間と、どっちが狂気か?
このごろの日本の状態に平然としていられる神経を、普通の人間の神経であるとは、私には考えられない。
議会の討論を聴いても、新聞を読んでも、私には日本の政府が暗愚だ、というよりも、狂気しているとしか
思われない。
私が三島由紀夫の怒りを見て、子供以上の純粋に感動したのは当然である。

森茉莉「気ちがいはどっち?」より
0104無名草子さん
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2010/10/09(土) 00:44:05
私はこの三年にわたって折にふれ三島とあってきたが、私がいつも感じたのは、彼は現存の日本人のうちでは
最も重要な人物だったということだ。当然のことながら、私には彼がその生涯の終わりにどのようなコースを
たどるかについては想像もつかなかったが、たとえその範囲は限られたものであるにせよ、彼はその
ダイナミズムと懐疑主義と好奇心によって日本の歴史に永久にその名をとどめる地位を占めるにちがいないと
確信していた。(中略)
三島の行動は、今日の日本の右翼の大物たち――その名前をあげる必要はあるまい――を、道化役者のように
見えるようにした。私と議論した一部の人々は、三島はその行動によって、笑止千万なピエロの役割を演ずる
ことになったと主張した。これに対し私は三島はピエロどころか、逆に他の人々をピエロとして浮かびあがらせた
――つまり、彼等をつまらない行動によって、金をもらいたがったりするようなピエロに仕立てあげたのだといいたい。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より
0105無名草子さん
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2010/10/09(土) 00:45:17
三島を高く評価したい私の次の理由は、私の見るところでは、彼は日本の政治論争にこれまで見られなかった
深みをつけ加えた点である。(略)…三島を「右翼の国家主義者」といった言葉で片づけることはできない。
三島は「右翼」とか「国家主義者」とかいったレッテルを貼った箱に、絶対におさめることのできない人物である。
彼の思想の広さといい深さといい、そうした単純な分類に入れることを許さない。
三島が何をいわんとしていたか、それを一言にして説明するには、何か新しい言葉を見つけださなければなるまい。
三島について注目すべき理由はほかにもある。彼は今日の政治論争のすべてを公開の席に持ちだした――(略)
…これらの問題については、自民党の幹部たちは私的な場所でのみしばしばその意見を表明してきたのである。
しかるに三島は敢然として、政治家たちがこれまでおっかなびっくりで、私的な場所だけで取りあげてきた
政策論争を、公けの席に持ちだした。職業政治家になぜこれができなかったのであろうか。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より
0106無名草子さん
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2010/10/09(土) 00:47:25
…三島を西洋に「説明」できるだけの資格を持つ西洋の学者は、ほんの一にぎりしかいない。しかもこれらの
学者たちでさえ、今までのところでは、三島をもっぱら文学者としてだけ扱い、彼の政治活動は重視していない
ようだ。私はそれはあやまっていると考えるし、三島自身がなくなる二週間前に、これらの学者について
語った言葉から推察すると、こうしたあやまりは彼自身予想していたようだ。彼は英語でこう言っていた。
「あの人たちは日本の文化の中のやさしいもの、美しいものばかりを取りあげる」したがって外国の批評家に
限っていえば、三島が全く誤解されてしまう可能性はきわめて大きい。この国の政情の非現実性――国防の
問題をトランプ遊びかポーカーの勝負をやっているかのように議論する国である――を、認識できる人は
ほとんどあるまい。(略)外国人は日本で自由な選挙が行なわれ、それに過剰気味なくらいおびただしい
世論調査と言論の自由があるという事実こそが、日本に民主主義のあることを物語っていると頭から
信じこんでいる。三島は日本における基本的な政治論争に現実性が欠けていること、ならびに日本の民主主義原則の
特殊性について、注意を喚起したのである。

ヘンリー・S・ストークス「ミシマは偉大だったか」より
0107無名草子さん
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2010/10/13(水) 00:45:25
天賦のもの、その質量ともに、作家としてこゝ何十年来、無類の人だつた。
その才能を人工する努力と、その多彩さに於ても、想像を絶した人だつた。
しかも絢爛とした人工造形に、天恵の感情がつねに匂つてゐる、かういふ評語を、殆ど第一級点で当てることが
出来るやうな文士だつた。
その上に、わが使命観を自ら律したその今生の風懐は、エヴエレスト山の頂を超えた。それは不思議なことか、
当然のことか、彼は、学ぶ以前に、知つてゐた。わが平安盛期の文脈の情意の如きも、それを学んだと思へない先に、
少年の彼は、驚くべき濃密度で知つてゐたことだつた。
彼を初めて知つたころから、東京帝国大学の学生だつた時代にかけての印象である。
私が彼を知つたのは、その中学校時代の終り方だつた。

保田與重郎「たゞ一人」より
0108無名草子さん
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2010/10/13(水) 00:45:46
日本の民と国との歴史の上で、天地にわたる正大なる気を考へる時、偉大なる生の本願を、文人の信実として
表現した人は、戦後世代の中で、日本の文学の歴史は、三島由紀夫たゞ一人を記録する。
過渡期を超越したこの人である。
…三島氏は、日本人について、「繊細優美な感受性と、勇敢な気性との、たぐい稀な結合」と云つた。
そして「これだけ精妙繊細な文化伝統を確立した民族なら、多少野蛮なところがなければ衰亡してしまふ」と云ふ。
この史観と実践倫理を、彼の一代の生き方の上に重ねた時、わが身心は、たゞおののく感じである。

保田與重郎「たゞ一人」より
0109無名草子さん
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2010/10/14(木) 00:18:56
三島由紀夫氏の最後の四巻本の小説は、小説の歴史あつてこの方、何人もしなかつたことを、小説の歴史に
立脚した上でなしあげようとしたのであらう。さういふ思ひが、十分に理解されるやうな大作品である。

三島氏も、人のせぬおそるべきことを考へ、ほとほとなしとげた。
そこには人間の歴史あつてこの方の小説の歴史を、大網一つにつつみ込むやうな振る舞ひが見える。

人を、心に於て、最後に解剖してゆくやうな努力は、私に怖ろしいものと思はれた。
三島氏ほどの天才が思つてゐた最後の一念は、皮相の文学論や思想論に慢心してゐる世俗者よりも、さういふものとは
無縁無垢の人に共感されるもののやうにも思はれる。
その共感を言葉でいひ、文字で書けば、うそになつて死んでしまふやうな生の感情である。

保田與重郎「日本の文学史」より
0110無名草子さん
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2010/10/14(木) 00:19:43
新聞や週刊誌の中には、しごく単純に三島を異常性格者ときめつけ、最初から彼が自分の文学の主要テーマとして
選び貫いた同性愛をも風俗の眼で眺めたあげく、ホモだオカマだと立ち騒ぐ向きまであるのには一驚した。
死んだのは流行歌手でも映画スターでもない、戦後にもっとも豊かな、香り高い果実をもたらした作家である。
彼の内部に眼玉ばかり大きい腺病質の少年が棲み、あとからその従者として筋肉逞しい兵士が寄り添ったとしても、
それをただ劣等感の裏返しぐらいのことで片づけてしまえる粗雑な神経と浅薄な思考が、こうも幅を利かす時代なのか。
異常というなら、わけ知りの、ありきたりの、手垢まみれな説の援用でなしに、その淵に息をつめて身を潜め、
自身の眼でその深みの神秘をさぐろうとはしないものか。この一九七〇年代に、異常というレッテルを小抽出しに
張って、もうそっぽを向いていられる“正常人”がこれほど多いというなら、それこそが異常の証しであろう。

中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より
0111無名草子さん
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2010/10/14(木) 00:20:02
(中略)
ただ、あれほど感性すぐれた彼に、いま一言、突っこんで話をしたかったと思うのは、ぷよぷよとした肉体、
指で押すとちょっとの間はへこむが、またすぐ元に戻って知らん顔をする、さながら腐肉そのままの感触を、
何よりも徹底して憎悪していたのではないか。なぜそれを最後まで、ありのまま憎みとおさなかったかという
点である。「世の中すべて気に入らぬことばかり」にしろ、われわれを包んでいる情況の本質がそこにあり、
一番の敵がそれであることは三島も当然知りぬいていたので、この気持もまた、彼の死後にも変わらない。(中略)
芥川や太宰が、なぜ志賀直哉と長生き競争をしなかったのか、私には不思議でならない、というより、無理にも
そう思いたいのだ。三島にも、また。

中井英夫「ケンタウロスの嘆き」より
0112無名草子さん
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2010/10/14(木) 11:03:15
床に転がる三島由紀夫の首は雄弁だった。言葉そのものであるような首だった。殆ど理解不能な、意味を
こじつけることもできない言葉を耳に痛いほど首は喋り続けていた。(中略)
その限りなく音楽的な言葉はオルゴールの音のように美しく、彼が生きた時代に投げかける呪いとなっていた。
呪いにかけられた坊やはここにいる。
(中略)
僕は、ジャポン語のより深い理解力を身につけた時のために三島由紀夫の切腹と文学に関する新聞記事を
切り抜いて、富士山山頂の石やうさぎの毛皮でつくった拳大のコアラのぬいぐるみやベトナムのコインなどと
一緒にクッキーの空缶にしまっておいた。それは火事が起きたら何が何でも持って逃げるつもりの宝物だった。

島田雅彦「僕は模造人間」より
0113無名草子さん
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2010/10/14(木) 11:03:35
自己の作品化をするのが、私小説作家だとすれば、三島由紀夫は逆に作品に、自己を転位させようとしたのかも
しれない。
むろんそんなことは不可能だ。作者と作品とは、もともとポジとネガの関係にあり、両方を完全に一致させて
しまえば、相互に打ち消しあって、無がのこるだけである。そんなことを三島由紀夫が知らないわけがない。
知っていながらあえてその不可能に挑戦したのだろう。なんという傲慢な、そして逆説的な挑戦であることか。
ぼくに、羨望に近い共感を感じさせたのも、恐らくその不敵な野望のせいだったに違いない。
いずれにしても、単なる作品評などでは片付けてしまえない、大きな問題をはらんでいる。作家の姿勢として、
ともかくぼくは脱帽を惜しまない。

安部公房「憂国」より
0114無名草子さん
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2010/10/15(金) 11:36:04
応援席の中から、中等科一年生を見分けることはたやすかった。学帽や徽章は、「貫禄」をつけるためわざと
よごされていても、襟章の金の桜のま新しさは残っていた。それになにより、カン高い声、彼らは小鳥のように
たえず動いていた。一年生は、付属戦の応援を休むことはできない。彼らにとって、上級生は教師よりこわかった。
…その一年生の中にいるはずの平岡公威、のちの三島由紀夫を探しに行った。私は高等科三年だった。
私は一年生の集団に近づき、うしろに立っている一人の肩をたたいた。彼はふりかえると、直立不動の姿勢をとった。
「平岡公威(こうい)という人はいないか?」「は。おります」
彼の視線は、最前列のベンチで、帽子をとり合ってはしゃいでいる一群に走り、そこでとまった。
「あれです。あの白い奴です」「すまないが、呼んで来てくれ」
人波をかきわけて、華奢な少年が、帽子をかぶりなおしながらあらわれた。首が細く、皮膚がまっ白だった。
目深な学帽の庇の奥に、大きな瞳が見ひらかれている。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0115無名草子さん
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2010/10/15(金) 11:36:26
「平岡公威(きみたけ)です」
高からず、低からず、その声が私の気に入った。
「文芸部の坊城だ」
彼はすでに私の名を知っていたらしく、その目がなごんだ。
「きみが投稿した詩、『秋二篇』だったね、今度の輔仁会雑誌にのせるように、委員に言っておいた」
私は学習院で使われている二人称「貴様」は用いなかった。彼があまりにも幼く見えたので。
…「これは、文芸部の雑誌『雪線』だ。おれの小説が出ているから読んでくれ。きみの詩の批評もはさんである」
三島は全身にはじらいを示し、それを受け取った。私はかすかにうなずいた。もう行ってもよろしい、という合図である。
三島は一瞬躊躇し、思いきったように、挙手の礼をした。このやや不器用な敬礼や、はじらいの中に、私は
少年のやさしい魂を垣間見たと思った。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0116無名草子さん
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2010/10/15(金) 11:36:49
そのまま私はたち去ったが、同級生の質問責めにあっている少年を背後に感じた。
あの人の稚児ではないか、といったからかい半分、やっかみ半分の質問をかいくぐって、最前列のベンチへもどる
まっ白な少年が、目に見えるような気がした。
そのころの学習院では、稚児遊びが盛んだった。私も中等科一、二年のころ、上級生から、厚い封筒を
おくられたことがある。(中略)
しかしこうした稚児遊びは、男色と呼ばれるようなどぎついものではなかった。むしろ、初恋よりも淡々しい、
思春期の、一種なまめかしい情緒だった。
そうして三島と私との場合、私を三島に結びつけたものは、肉親にめぐり逢うたようななつかしさ、とでもいおうか、
昭和十二年秋、三島十二歳、私は二十歳、たとえば上記のようにして、私たちは邂逅した。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0117無名草子さん
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2010/10/15(金) 11:37:25
三島にわたした文芸部の雑誌『雪線』第三号には、私の小説『鼻と一族』が掲載されており、それは二・二六事件に
関した作品であった。この二・二六事件が、後年の三島に大きな影響をもたらしたことは周知の通りであるが、
事件の起こった昭和十一年二月には、三島はまだ初等科五年、私は高等科一年であった。(中略)
(三島の)感じやすい魂は、事件の背後にあるものを、本能的に読みとったのではあるまいか。それは、三十年後の
『天人五衰』に、本多の考えとして書かれている「日本の深い根から生ひ立つたものの暗さ」である。
われわれのはるかなるふるさとの、暗いともし火である。それは『春の雪』に結実した「優雅」であるとともに、
『奔馬』における「暗い熱血」でもあった。
…しかしふたつながら、「近代」の前に消え失せようとしている、すでに不在の残像かもしれない。
その火影を、三島は十二、三歳の歳、みずからも手の届かない心のおくがに、見てしまったのではなかったろうか。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0118無名草子さん
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2010/10/15(金) 11:38:27
昭和十五年夏、私は信州追分の泉洞寺の離れに一室を借りて、国文科の卒業論文を書いていた。(中略)
落下傘のやうに 開かぬこともあるのかしら 咲き遅れた月見草よ
七月、私はこんな詩を、東や三島に書き送った。三島は、「落下傘のやうに」という比喩を褒めてくれた。
「時代の不安」が、そこはかとなくあらわれている、といって。
(中略)短い一行のなかに、三島が「時代の不安」をよみとってくれたことはうれしかった。
その年の九月、三島に送った詩はつぎのとおりである。

新たな眠りに半身の侵される儘に 
額に額をおしあてたままに 
見るとなくあなたを眺めるとき
近過ぎて朧げな唇は 青い空気に湿つた
不機嫌に目覚めた山肌から 
立ち昇る香の漂ひに 
幽かにしののめが響いてきた
頬にもつれる髪の潤ひ 
髪にもつれる息の静けさ
冷え冷えと 
冷え冷えと 
光ほのかに白らむ窓

…そのころの作品を読みかえしてみると、このように、至るところに、少年三島が投影していることに気づくのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0119無名草子さん
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2010/10/15(金) 11:43:05
『詩を書く少年』の先輩Rは、私である。Rは少年に自分の恋愛を告白する。(中略)
私はこの恋愛を『舞』と題する小説に書いた。昭和十六年から十七年にかけてのことである。
三島は『舞』が、事実にもとづいて書かれたものであることを百も知っているのに、まったくの虚構としてあつかい、
たとえば、「こんな会話はあり得ません」とか、「こんな情景はあり得ません」といった言い方をした。
今になって考えると、三島の言葉には省略があった。「われわれ(貴下と私)の文学の世界においては、
こんな会話はあり得ません」という意味であった。三島は『文章読本』で、「格調と気品」を守るためには、
多少の現実性は犠牲にしても、会話における倒置法などは用いない、と記している。ところがそのころの私は、
実際の会話をそのまま写して、得意になっていた。だから三島は、「こんな会話はあり得ません」といったのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0120無名草子さん
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2010/10/15(金) 11:43:34
(中略)三島は度し難いと思ったのであろう。手をかえて、この女主人公は下品だとか、野卑だとか言い出した。
あるいは、この地の文は、新聞記事のようで個性がない、とか。
私はその時気づかなかった。十六歳の三島は、すでに脱皮していたということに。三島はもう『詩を書く少年』
ではなかった。清水文雄氏はじめ、『文芸文化』の同人にみとめられ、『小説を書く少年』になっていたのである。
Rの中に滑稽なナルシスムを発見した少年は、みずからのナルシスムにも気づいたのである。(中略)
こうして、私の恋愛は、ひそかに私が期待していたのとは反対に、三島からも、そうして東からも、何の尊敬も
同情も得られなかったばかりか、むしろそのために、私は彼らから見棄られた恰好になった。
彼等は、私のかわりに徳川義恭を仲間に入れ、『赤絵』を創刊した。それは私に対する叛旗であり、私の恋愛に
対する、彼らの復讐のような気がしたのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0121無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 11:43:51
(中略)私から完全に消え去るためには、三島はあまりに高名であった。私はいやでも神輿をかついでいる
彼の写真や、ボディ・ビルできたえた肉体のそれを見なければならなかった。
…私にはそんな三島が、いたずらに、鬼面人を驚かす貝殻に、つぎからつぎと宿ってみせる、宿かりのように
見えたのだった。勿論、三島の真意は、そのような趣味の問題ではなかった。最も不慣れな、不器用な面で、
彼は生きようと欲したのである。この血のにじむ「生」のなかにしか、彼の求める「創造」はあり得なかった。
ある時、末弟俊周がこんなことを言った。「三島さんに会ったらね、俊民さん、お元気、って聞いていたぜ。
三島はこのごろ、変な映画を作ってるといって、俊民さん笑っていなさるだろうな、って」
三島の共通の知人に出会うと、これに似た三島の言葉が、何回か伝えられた。しかし、所詮は戻ることのできない
彗星の小さき影として、三島は私のはるかな空に、またたいているにすぎなかった。
…かくして二十年の時はながれた。


坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0122無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 11:44:08
昭和四十五年正月のある日だった。偶然手にした月遅れの婦人雑誌の新刊書紹介の欄に、『春の雪』の梗概が出ていた。
「やった。とうとうやった」と私は思った。私は早速『春の雪』を購入、ひと息に読んだ。『春の雪』の世界は、
三島の世界というよりも、私の世界に近かった。登場人物のすべては、あるいは私の肉親であり、親戚であり、あるいは
その召使であるような気がした。広大な松枝邸も、鎌倉の別業も、かつてそこに遊んだ記憶があるように思われた。
三島が十四、五歳のころ、私は『夜宴』という散文詩を書いた。
「今度はぼくに書かせてください」三島は言った。「坊城伯の夜宴を」
三十年前のこの約束が、今、目の前に果たされたのを、私は見た。三島と私との、二十年に及ぶ空白は、一瞬にして
消滅している。三島は少年の日のように、ふたたび私のかたわらにある。奇蹟は、まさに起こったのである。


坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0123無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 11:44:33
そうして、読後のこころよい興奮のうちに、『源氏物語』をはじめて読んだ日々のことが、二重写しになって、
おもむろに浮かんできた。
…今になって『源氏』が読みたくなった…(中略)
『夕顔』にいたるや、小躍りして私は思った。これこそ『源氏』だ、と。ふたつのイメージが重なったばかりでなく、
重なると同時に、忽然、ひかりを発し、匂いを発し、小天地はおのずから展開してゆく。私は静かな熱狂を覚えた。
そのしずかな熱狂が、『春の雪』読後、私によみがえった。
それは、この国の暗い地下水、「優雅」に対する讃嘆であった。


坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0124無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 11:47:41
(中略)優雅とは、洗練された、優美繊細なものと一般に言われているが、その根底には、いつも野性を秘めて
いなければならない。(中略)
優雅とは、地上のあらゆる権勢富貴を、つねに見おろす魂の高貴さにあり、言い替えれば、すべての物質に
対する精神の優位を示すものである。(中略)
まことの「優雅」は、現代人のいわゆる「優雅な生活」を棄てた人たちの手によって、受け継がれて来たのである。
(中略)私は『春の雪』が、三島のすべてではないことを知っている。しかしそこには、作者三島のふるさとがある。
三島ばかりでなく、日本文学が、否定しようとしても否定できないもの、脱皮しようとしても脱皮できないもの、
ひとたびは回帰すべき、この国の「深い根」が描かれている。「優雅」が描かれている。だから私は『春の雪』を、
『豊饒の海』の第一巻としてばかりでなく、三島の全作中の、最も高い位置に置きたいのである。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0125無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 11:48:02
(中略)「坊城さん、ぼくは五十になったら、定家を書こうと思います」
「そう。俊成が死ぬとき、定家は何とか口実を設けて、俊成のところへ泊らないようにするだろう?あそこは面白かった」
「あそこも面白いですが、定家はみずから神になったのですよ。それを書こうと思います。定家はみずから
神になったのです」三島の眼は輝いた。(中略)
今になって思うのだが、三島は少なくともそのころ、四十五年正月ごろは、進むべきふたつの道を想定して
いたのではなかったろうか。ひとつは、世人が皆知っている、自決への道である。これを三島の表街道とすれば、
裏街道は、定家を書く道であった。裏街道をたどらざるを得ないことが起こったとすれば、それは三島にとって
不本意にはちがいなかろうけれども、私は後者をとってほしかった。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0126無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 11:48:19
(中略)きみは自決の六日前、最後の手紙を書いてくれた。
「十四、五歳のころが、小生の黄金時代であったと思ひます。実際あのころ、家へかへるとすぐ、『坊城さんの
お手紙は来なかつた?』ときき、樺いろと杏子いろの中間のやうな色の封筒をひらいたときほどの文学的甘露には、
その後いきあひません。」(中略)
フロベエルの、なつかしい『トロワ・コント』モオパッサンの『メエゾン・テリエ』こうした題名を目にしただけで、
あのころの学習院が、きみとはじめて会ったころの、昭和十年代の学習院が、瞼に浮かんでくる。きみは中等科一年、
ぼくは高等科三年だった。きみが『春の雪』に克明に描いている、天覧台の芝生、お榊壇、血洗の池……。
そうして、誰がいつ掃除したのかもわからない、古い寮の一室、すなわち、雑然たる文芸部の部室。(中略)
…ラディゲもまた、反近代の戦士のひとりに数えられるだろう。伝統の美神の帰依者だった。これら文学の
大先輩達を、われわれはいかに讃美したか。あのころ、きみは十四、五歳。ぼくは二十二、三歳であった。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0127無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 11:48:37
(中略)三島由紀夫の最期は、私にとって、みずからが生きるみちの困難さを、思い知らされるものがあった。
(中略)現代とは、アメリカの一作家によれば、「社会が、熟練した、facelessな人間を求めている時代」である。
即ち、人間は、その故郷の灯を見失おうとしている。忘れるということならば、思い出すこともあろう。
けれども、忘却ではなくて、喪失の時が来てしまったような気がする。(中略)
絵文字のやうに
楔形文字のやうに
我等の詞華は滅びるであらう
しかし 誰か人あつて我等の廃墟を訪ひ
たれか人あつて我等の文字を目にする時……
三島由紀夫とめぐり逢うた二十歳のころ、私はこんな詩句を彼に示した。
…この気持は少しも変わっていないので、ここに揚げて結びの言葉にかえたい。

坊城俊民「焔の幻影 回想三島由紀夫」より
0128無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 20:38:27
鈴木邦男『遺魂=三島由紀夫と野村秋介の軌跡=』 発売記念トーク

11月1日(月)午後7時より 阿佐ヶ谷ロフト
0129無名草子さん
垢版 |
2010/10/15(金) 20:40:12
「三島由紀夫と蕗谷虹児=うたと講演のつどい」

11月6日(土)午後6時半より
新潟県新発田市 生涯学習センター

 第1部 ソプラノ歌手の柳本幸子さんによる「三島由紀夫と蕗谷虹児の世界を歌う」
 第2部 講演「三島由紀夫と蕗谷虹児=一枚の挿し絵にこめた想いとは」
0130無名草子さん
垢版 |
2010/10/16(土) 11:15:10
「花ざかりの森」の作者は全くの年少者である。どういふ人であるかといふことは暫く秘しておきたい。
それが最もいいと信ずるからである。
若し強ひて知りたい人があつたら、われわれ自身の年少者といふやうなものであるとだけ答へておく。
日本にもこんな年少者が生まれて来つつあることは何とも言葉に言ひやうのないよろこびであるし、日本の
文学に自信のない人たちには、この事実は信じられない位の驚きともなるであらう。
この年少の作者は、併し悠久な日本の歴史の請し子である。
我々より歳は遙かに少いが、すでに、成熟したものの誕生である。
此作者を知つてこの一篇を載せることになつたのはほんの偶然であつた。
併し全く我々の中から生れたものであることを直ぐに覚つた。さういふ縁はあつたのである。

蓮田善明
昭和16年「文芸文化 編集後記」より
0131無名草子さん
垢版 |
2010/10/16(土) 11:15:54
交遊に乏しい私も、一年に二人か一人くらいづつ、このやうに国文学の前にたゝづみ、立ちつくしてゐる少年を
見出でる。
「文芸文化」に〈花ざかりの森〉〈世々に残さん〉を書いてゐる二十歳にならぬ少年も亦その一人であるが、
悉皆国文学の中から語りゐでられた霊のやうな人である…。

蓮田善明
昭和18年「文学 編集後記」より
0132無名草子さん
垢版 |
2010/10/17(日) 02:33:38
三島由紀夫の憂国による割腹自殺は、敗戦に際し国体護持を念じてピストル自殺をとげた蓮田善明の影響だろう
……とは、由紀夫の少年時代のシンパだった富士正晴氏をはじめ、大久保典夫氏その他の推量である。晩年の
由紀夫に、蓮田善明伝の序を頂戴するという特別のかかわりを持った私は、あながちその推量を否定しえない。
(中略)善明が由紀夫を「われわれ自身の年少者」という親愛な言葉で呼び「悠久な日本の歴史の請し子」と
仰望をしたのは、まだ由紀夫が学習院中等科五年生の昭和十六年九月だった。(中略)
「われわれ自身の年少者」という愛称と、正体をわざと明かさぬ思わせぶりな語韻のどこかには、まるで
お稚児さんにでも寄せるような愛情がぬくぬくと感じられる。まことこの日頃、由紀夫を伴い、林富士馬氏と
一緒に善明を尋ねたことがある富士正晴氏は、帰りに善明がわざわざ駅まで見送ってくると、まるで恋人が
別れの際にするような別れたくないといった感情を、あらわに由紀夫に示したのを見ている。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
0133無名草子さん
垢版 |
2010/10/17(日) 02:33:55
又、由紀夫の方も、「花ざかりの森」を発表したのを契機に、たびたび寄稿を許され、あまつさえ同人の集まり
にも出席を認められた。そして同人の(略)栗山理一氏に対しては大人のシニシズムを感応しているが、特に
善明には「烈火の如き談論風発ぶり」に、男らしさと頼もしさを感じたのだった。
当時、由紀夫は十七歳、善明は三十八歳だった。善明は由紀夫の十七歳に、己の十七歳を回想したであろう。
善明も人一倍に早熟だったからだ。彼は中学の学友丸山学と刊行した回覧誌『護謨樹』に、すでに次のような
老成した人生観を述べていた。(引用略)
敗戦で自決した覚悟の決然さの萌芽は、すでにこの少年の日にできていたのである。この善明の悟達は、
十五歳の歳一年間、肋膜炎で瀕死の床にあった経験から、死を凝視める習慣がついたものだった。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
0134無名草子さん
垢版 |
2010/10/17(日) 02:34:10
(中略)善明の「死から帰納した生涯」と由紀夫の「椿事待望」の早熟な資質は、やがて「死もて文化を描く」
という夭折憧憬につながるのだ。換言すれば、それは「大津皇子」と「聖セバスチャン」の邂逅――殉難の
讃仰なのである。
大津皇子は朱鳥元年(六八六)父天武天皇が崩御してから一ヶ月も経たぬうちに決起を思い立った。(中略)
「『予はかかる時代の人は若くして死なねばならないのではないかと思ふ。……然うして死ぬことが今日の
自分の文化だと知つてゐる』(大津皇子論)
この蓮田氏の書いた数行は、今も私の心にこびりついて離れない。死ぬことが文化だ、といふ考への、或る
時代の青年の心を襲つた稲妻のやうな美しさから、今日なほ私がのがれることができない…(略)」
(三島由紀夫「蓮田善明とその死」序)
由紀夫の決起への啓示は、ここに発していたのかもしれない。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
0135無名草子さん
垢版 |
2010/10/17(日) 02:34:30
(中略)
元旦の夜、楯の会と浪漫劇場のごく親しい人々が三島邸に集まったとのことだ。(略)談たまたま亡霊談義に
なるや、(略)由紀夫の左肩のあたり、顎紐を掛け刀を差した濃緑の影が佇んでいるのを、丸山明宏氏が
発見したということだ。「あッ!誰か貴方に憑いてます」と丸山氏が注意すると、由紀夫は真顔になって、
「甘粕か?」と問い、たて続けに二三の姓名を上げ、最後に二・二六事件の磯部の名をあげた由である。
同席の村松英子さんは丸山氏に亡霊を追払ってくれと要請した。すると由紀夫は笑って、『豊饒の海』が
書けなくなるから止めてくれといったという。
私はこの記事を読んで冷水を浴びたように慄然とした。丸山氏の記憶せぬ二三の姓名の中に、間違いなく善明の
名も入っていたはずだからだ。と、いうのは、その日頃、由紀夫は拙著『蓮田善明とその死』の序を執筆して
いたか、執筆すべく構想をしていたからだ。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
0136無名草子さん
垢版 |
2010/10/17(日) 02:35:02
執筆にあたって彼は、当然シンガポール近くのゴム林に眠っている善明を想起し、その霊を呼んだろう。(略)
そういえば善明は前にも海を渡って帰ってきた。昭和二十年八月十九日、敗戦の責任を天皇に帰し、皇軍の
前途を誹謗し、日本精神の壊滅を説いた職業軍人・上條大佐をピストルで射殺し、かえす筒先で己がコメカミを
射抜いて果てた善明は、その時の完全軍装の姿で熊本県は植木町の留守宅に帰ってきた。明け近く、青蚊帳を
透かし、縁の外に佇んでいる夫をみつけた敏子さんは、「おかえりなさい」と挨拶した。善明は佇んだままだった。
「どうなさいました。お入りなさいまし」というと、前にくずおれるように姿はかき消えた。
その善明が、由紀夫の決起を知って帰ってこぬはずはない。
二人の合言葉は、『英霊』の「などてすめろぎは人間となりたまひし」であったはずだ。そう、私が夢想し
思量するのも、或いは絶作『豊饒の海』の輪廻転生の示唆なのかもしれない。

小高根二郎「善明と由紀夫の黙契」より
0137無名草子さん
垢版 |
2010/10/17(日) 02:47:01
二十五年このかた、全世界をつうじて、自分の祖国の解放独立に挺身した戦士たちが出現し、何百万という人々が
彼らをヒーローとしてその信念の継承につとめてきた。
このヒーローの名をミシマに拒絶することが、どうしてわれわれに許されようか? 彼の自殺の、いささか
「文学的」環境は、その自殺の偉大性をも、意味をも、けっしてわれわれの目に軽減せしめることはないのである。

ミシェル・ドロウ(文芸フィガロ編集長)「三島特集」より
0138無名草子さん
垢版 |
2010/10/18(月) 00:01:50
どう考えても私にとって不思議で仕方がなく、理解を絶するとしかいいようがないことは、戦後二十五年の
平和体制が、たとえばロマンティシズムといったような文芸上の観念にまで、有無をいわさず貶下的な内容を
付加してしまうような雰囲気をつくりあげているということだろう。 これは、経済的繁栄のみを目途としてきた
支配体制のつくり出すムードに、文学者までもが巻きこまれているのか、それとも、その支配体制と表裏一体の
関係にある共産党のふりまいた、人工甘味料入りの神話の賜物か。
「いつわりの人間主義をたつきの糧とし、偽善の団欒は世をおおい…」と作品中で歌った三島氏の声が、まさに
呪いの言葉のように響いてくるのは、かかる時であろう。

澁澤龍彦「絶対を垣間見んとして……」より
0139無名草子さん
垢版 |
2010/10/18(月) 00:02:06
要するに、事柄はきわめて明瞭なのだ。すなわち、三島由紀夫氏は一個の過激派だったということだ。
右とか左とか限定なしの、絶対追求者としての過激派である。そして三島氏の壮絶な死に対して、おっかな
びっくりの批判なり攻撃なりを加えているジャーナリズムないし評論家諸氏は、左右を問わず、すべてことごとく
過激派を怖れている連中にすがない、ということだ。こんなに簡単明瞭な事柄はないはずなのに、すでに
これが論壇で半ばタブーとなりかけているということは、どこまで日本人が「いつわりの人間主義」の癌に侵され、
無気味なものから顔をそむけたいという、無意識の偽善的な欲求に左右されているかということを示すものだろう。

澁澤龍彦「絶対を垣間見んとして……」より
0140無名草子さん
垢版 |
2010/10/18(月) 00:02:27
(中略)三島氏の掲げるイデオロギーと、切腹という異様な自殺の方法とが、諸外国にどんな悪影響をあたえるか、
といったような政府与党的な配慮には、私はまったく興味ない。(略)ひるがえって、もし諸外国に、日本に
関してトランジスターの商人の国とかいったイメージしか定着していないとすれば、その情けないイメージを
日本刀によって打ちやぶった三島氏の功績は、どんな文化使節のそれにも勝るであろう。
私は冗談をいっているのではない。ヴェトナム人の焼身自殺は、ヴェトナム政府がいかに苦々しい顔を示そうとも、
少なくとも私たち外国人の目には、精神の価値をまざまざと示す行為として映ったのである。

澁澤龍彦「絶対を垣間見んとして……」より
0141無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:18:24
私の知るかぎり、三島は、ある種の危険を冒しても、ものごとを素直に述べようとする人であり、しかも
その発言は、私にいろいろと考えさせることが多いからである。三島という人は、世評によれば、それこそ
海千山千のしたたかな才子であるのかもしれないが、私はほとんどそうは思わない。
私見はいつか三島由紀夫伝めいたもので述べたことがあるが、私は三島を(国木田独歩流にいえば)一種の
「非凡なる凡人」としか考えたことはない。そして、そういう愚直な人物の正直な発言というものは、近頃では
稀少価値をさえもっているのではないかと思う。自分の眼で、自分の直覚でものごとをとらえることのできる人間は
(少なくとも、もの書きの世界では)だんだんと少なくなっているのではないかと私はひが目で見ているのだが、
三島はそうでない人物の一人に見えるからである。そして、そういう人物の書いたり、したりすることは、
私などにはいつも共感と刺激の種になるからである。

橋川文三「美の論理と政治の論理」より
0142無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:18:47
私は、かつて、三島の小説に対する私の関心は、芸術作品に対するものというより、むしろそこに戦中戦後の
青年の血腥い精神史のスペクトルを見る思いがするからだという、甚だ非文学的な感想を述べたことがある。(中略)
現代の思想家、芸術家を通じて、彼ほどに精確に自己の精神史を描いてみせる人物はむしろ稀である。
しかし、三島の「告白」ないし自己省察の方法が、日本人の伝統的な自己認識の方法と異質であることは、
いわゆる私小説のそれと比べるなら直ちに明かになる。後者はいわば個々の告白によるそのつどの決済、きわめて
人間的で自然なその日ぐらしの清算という意味をもっているが、三島のそれは、一定の生活体系に組織化された
近代的個人の予定された意味に関する、一種終末論的な非人間性をおびた合理的自己検証である。それはむしろ
告白の拒否を原則とする自己表現という意味をもっている。

橋川文三「夭折者の禁欲――三島由紀夫について――」より
0143無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:19:13
三島はどこかで「大体私は『興いたればたちまちになる』というようなタイプの小説家ではないのである。いつも
さわぎが大きいから派手に見えるかもしれないが、私は大体、銀行家タイプの小説家である」と、みえをきっているが、
事実、彼の自己審査は、あたかもあの「資本主義の〈精神〉」の担い手たち、カルヴィニストのペシミズムと
畏怖にみちみちた自己審査に似ている。彼らは己れの救済と幸福のためにその「仕事」に努めたのではなく、
「知られざる神」によって、自己が永遠の昔から救いに、もしくは亡びに予定されているという絶大な恐怖心から
免れるために、その非人間的な禁欲と孤独の組織化を行ったのであるが、三島の一見華麗なきわまる芸術的行動もまた、
まさにそのような恐怖の影に包まれており、人生や芸術の栄光のためにではなく、ある「知られざる神」の
ためにする営為という印象を与える。

橋川文三「夭折者の禁欲――三島由紀夫について――」より
0144無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:19:37
戦争のことは、三島や私などのように、その時期に少年ないし青年であったものたちにとっては、あるやましい
浄福の感情なしには思いおこせないものである。それは異教的な秘宴(オルギア)の記憶、聖別された犯罪の
陶酔感をともなう回想である。およそ地上においてありえないほどの自由、奇蹟的な放恣と純潔、アコスミックな
美と倫理の合致がその時代の様式であり、透明な無為と無垢の兇行との一体感が全地をおおっていた。(中略)
いうまでもなくこのオルギアは、全体戦争の生み出した凄絶なアイロニイにほかならない。三島のように、
海軍工廠の寮に暮らしながら、「小さな孤独な美的趣味に熱中」することも、戦争の経過に不惑となることも、
この倒錯した恣意の時代では、決して非愛国的異端ではありえなかった。そしてまた、たとえば少年が頭を
銀色の焼夷弾に引き裂かれ、肉片となって初夏の庭先を血に染めることも、むしろ自明の美であった。全体が
巨大な人為の死に制度化され、一切の神秘はむしろ計算されたものであった。たとえば回天搭乗員たちは、
射角表の図上に数式化された自己の死を計算する仕事に熱中していた。

橋川文三「夭折者の禁欲――三島由紀夫について――」より
0145無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:20:02
しかし、このような体験は、いかにそれが戦争という政治と青春との偶然の遭遇にもとづくものであったにせよ、
その絶対的な浄福の意識において、断じて罪以外のものではありえない。(中略)
そこではいかなる意味でも日常性は存在しなかった。それはいわば死の恩寵(カリスマ)によって結ばれた
不滅の集団であり、したがってまたいかなる日常生活の配慮(ゾルゲ)にも無縁であった。すでに生の契機が
無意味であった以上、罪や告白ということもありえなかった。
この世代は何かを犯したわけでもなく、個々の兇行を演じたわけでもなかった。しかし、まさにそのことが
歴史にとっては究極の罪であった。(略)彼らもまた亡びに予定された人間たちであった。

橋川文三「夭折者の禁欲――三島由紀夫について――」より
0146無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:23:31
敗戦は彼らにとって不吉な啓示であった。それはかえって絶望を意味した。三島の表現でいえば「いよいよ
生きなければならぬと決心したときの絶望と幻滅」の時間が突如としてはじまる。少年たちは純粋な死の時間から
追放され、忍辱と苦痛の時間に引渡される。あの戦争を支配した「死の共同体」のそれではなく、「平和」という
もう一つの見知らぬ神によって予定された「孤独と仕事」の時間が始る。そしてそれは、あの日常的で無意味な
もう一つの死――いわば相対化された市民的な死がおとずれるまで、生活を支配する人間的な時間である。
それは曖昧でいかがわしい時代を意味した。平和はどこか「異常」で明晰さを欠いていた。
「敗戦は私にとつては、かうした絶望の体験に他ならなかつた。今も私の前には、八月十五日の焔のやうな
夏の光りが見える。すべての価値が崩壊したと人は言ふが、私の内にはその逆に、永遠が目ざめ、蘇り、
その権利を主張した。…」(『金閣寺』)

橋川文三「夭折者の禁欲――三島由紀夫について――」より
0147無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:23:48
戦後、三島は己れの青春を「不治の健康」と名づけることによって出発した。これはもとより逆説である。
しかし、およそ生きるものが病み、やがて死んでゆくという有機的自然の過程こそ、三島たちにとってかつて
許されたことのない世界であった。死は、無機物との出会いにおいて、夭折においてしか不可能だったからである。
通常の意味における「死」がありえなかったように、日常の生もまた拒まれていた。もしなお生一般を生きるとすれば
それは仮面による生、たえず変貌する日常性を仮装した、永遠の問いかけという形でしかありえない。それはあの
禁欲者たちが、自己の生の確証のためにではなく、隠された決断者の恣意の確証のために行動したのと同じように、
不断に生を拒否するために行われる組織的な自己規制という意味をもつ。 三島の文体の人工的な華麗さは、
実は生の不在の精緻なアリバイを構成しようとする禁欲的な努力をあらわしている。彼は生の此岸からではなく、
いわば反世界の側から様式を作り出そうとする。

橋川文三「夭折者の禁欲――三島由紀夫について――」より
0148無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:24:08
三島の日本精神史における意味は、この点にもっとも鮮明にあらわれているといえよう。そして、もう一つ
つけくわえれば、三島は日本の思想に、一種のものすごいフモールの感覚をもちこんだといえるかもしれない。
ハイネのスタイルでいえば、おどけた仮面の双の眼玉からのぞいている死神の眼のイメージである。しかし、
これは不詳の言い方であろうから、私はむしろ三島の生き方における『葉隠』の倫理を説いた方がよいかもしれない。

橋川文三「夭折者の禁欲――三島由紀夫について――」より
0149無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:25:00
二・二六における天皇と青年将校というテーマは、ほとんどドストエフスキーの天才に俟たなければ描ききれない
であろうというのが、私の以前からの独断であった。それは何よりも神学の問題であり、正統と異端という
古くから魅力と恐怖にみたされた人間信仰の世界にかかわる問題だからである。端的にいえば、それは日本人の
魂の世界における「大審問官」の問題にほかならないからと私は考えている。
かつて、私はそんなことを書いたところ、何と大げさなとある人からからかわれたことがある。しかし、
「大審問官」の問題が日本人にはおこらないだろうと思っているなら、それは日本人を見くびった話である。
二・二六事件はもとより、前の戦争の意味などもごく型どおりにしか考えていないからだろうと私は思っている。
しかし、それはさしあたりの問題には関係がない。

橋川文三「中間者の眼」より
0150無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:25:15
「英霊の声」の作品評を改めてしようとは思わない。その主題と構成についてもすでによく知られているものとして
話をすすめたい。問題はこれがある巨大な怨念の書であるということである。ある至高の浄福から追放された
ものたちの憤怒と怨念がそこにはすさまじいまでにみちあふれている。幽顕の境界を哀切な姿でよろめくものたちのの
叫喚が、おびやかすような低音として、生者としての私たちの耳に迫ってくる。
三島はここでは、それら悪鬼羅刹と化したものたちの魂が憑依するシャーマンの役割をしている。
昔から能楽のもつ妖気の展開様式に熟練している三島は、ここでも巧みにその形式を利用している。

橋川文三「中間者の眼」より
0151無名草子さん
垢版 |
2010/10/19(火) 00:27:20
私は、今でも深夜「二・二六事件」(河野司篇)をひもどくとき、そのとあるページを直視するにたえないが、
この作品の鬼気にはそれに通じるものがある。彼らの方が生きており、お前たちの方がそうではないのだぞと、
そのとあるページのデスマスクは不気味な言葉で語りかけてくる。そういう迫力において、この作品は、
あれらの人々の心情をみごとに再現している。
しかし、こうした印象批評に私が関心があるのではない。三島はやはりここで、日本人にとっての天皇とは何か、
その神威の下で行われた戦争と、その中での死者とは何であったか、そして、なかんずく、神としての天皇の死の後、
現に生存し、繁栄している日本人とは何かを究極にまで問いつめようとしている。
これが一個の憤怒の作品であるということは、それが現代日本文明の批判であるということにほかならない。

橋川文三「中間者の眼」より
0152無名草子さん
垢版 |
2010/10/20(水) 12:02:19
「……それにしても、『天皇陛下万歳』と遺書に書いておかしくない時代が、またくるでしょうかね。もう二度と
来るにしろ、来ないにしろ、僕はそう書いておかしくない時代に、一度は生きていたのだ、ということを、
何だか、おそろしい幸福感で思い出すんです。いったいあの経験は何だったんでしょうね。あの幸福感は
いったい何だったんだろうか……」(『対話・日本人論』)
これは、三島の読者にはすでによく知られているあの浄福感の回想である。それは戦争という「死の共同体」の下で
いだかれた幸福感ばかりでなく、さらに古代そのままの部族神(=現人神)の庇護下にあるという浄福感とを
渾然と統合した感覚であった。
この不滅の幸福感は、天皇の人間宣言と、戦後の開始とによって亡びねばならなかった。しかし、それは不滅の
本性をもっていたから、決して死滅することはできなかった。三島はいわゆる「仮面」のもとにその仮死の幸福感を
包み、かえって残酷な「平和」時代を二十幾年も生きつづけて来た。

橋川文三「中間者の眼」より
0153無名草子さん
垢版 |
2010/10/20(水) 12:02:35
しかし、それほども永い間、いわば肉体を欠如したまま仮死状態におかれていた幸福は、ある時期、本当に
死滅するかもしれないという微妙な予感におびえ始めたのかもしれない。不死の存在は、あまりにもながく
その仲間たち――かつてのあの戦士共同体――からの通信は絶たれていた。日常の中に瀰漫して眼に見えぬ媒介を
行うものたちがしだいに消失して行くのに気づいて、三島の中の隠された幸福感は、事態の緊急性にいらだち
始めたのかもしれない。三島自体についていえば、戦後を生きるために計算されつくしたはずの計画が、
思いがけない破綻に直面していることを知ったということになるのであろうか。
…解決は、ノスタルジアの果に来る狂か、死か、または政治というもう一つの芸術か、であろう。

橋川文三「中間者の眼」より
0154無名草子さん
垢版 |
2010/10/20(水) 12:02:58
『金閣寺』は、鴎外風の冷徹な文体を用いて、不朽の美と人生との不条理な関係という、混沌としたテーマを
追及した観念小説というべきものである。
…金閣寺は、この作品において美の象徴であり、しかも戦火によっていつ焼亡するかもしれないという時期、
凄まじいまでの美をあらわしている存在である。主人公は、その終末の予感に陶酔しつつ、金閣寺=美との
共生にいいがたい浄福を感じている。これは、すでに伝記において見たとおり、孤独な美的趣味に熱中する
三島の精神風景と同じものである。
しかし、その反面において、美に憑かれた人間にふさわしい現世的不具性もまた、主人公の運命である。人生を
象徴する女性との性行為の瞬間、金閣の幻影はたえず現出して主人公を不能におとし入れる。三島がその作品で
しばしば描くそのような挫折の瞬間は、金閣寺と京都の歴史がよびおこすある人工的なイメージに助けられて、
この作品においてもっとも成功しているといえよう。

橋川文三「主要作品解説 金閣寺」より
0155無名草子さん
垢版 |
2010/10/20(水) 12:03:12
敗戦の日、金閣寺と主人公の共生は断たれる。金閣寺は、あの失われた恩寵の時間を凝縮して、永遠の
呪詛のような美に化生する。主人公は美の此岸にとりのこされ、もはや何ごととも共生することができない。
――この辺りには、戦中から戦後へかけての青年の絶望と孤独の姿が、比類ない正確さで描き出されており、
金閣=美を戦中の耽美的ナルシシズムにおきかえるならば、戦後もなお主人公を支配する金閣の幻影が、
青年にとって何であったかを類推するに困難ではないであろう。そこから、金閣寺を焼かねばならないという
決意の誕生もまた、戦後の三島の精神史にあらわれた「裏がえしの自殺」の決意にほかならないことも明らかに
なるであろう。こうして、この作品は、実際の事件に仮託しながら、三島の美に対する壮大な観念的告白を
集大成したような観を呈しており、美の亡びと芸術家の誕生とを、厳密な内的法則性の支配する作品の中に、
みごとに定着している。『仮面の告白』に遙かに呼応する記念碑的な作品である。

橋川文三「主要作品解説 金閣寺」より
0156無名草子さん
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2010/10/20(水) 12:05:18
ここ(『鏡子の家』)に描かれている四人の青年たちと鏡子とは、ある秘められた存在の秩序に属する倒錯的な
疎外者の結社を構成している。かれらのいつき祭るもの、それはあの「廃墟」のイメージである。三島がどこかで
「兇暴な抒情的一時期」とよんだあの季節のことである。
…じっさいあの「廃墟」の季節は、われわれ日本人にとって初めて与えられた稀有の時間であった。ぼくらが
いかなる歴史像をいだくにせよ、その中にあの一時期を上手にはめこむことは思いもよらないような、不思議に
超歴史的で、永遠的な要素がそこにはあった。そこだけがあらゆる歴史の意味を喪っており、いつでも、随時に
現在の中へよびおこすことができるようなほとんど呪術的な意味をさえおびた一時期であった。ぼくらは、その
一時期をよびおこすことによって、たとえば現在の堂々たる高層建築や高級車を、みるみるうちに一片の瓦礫に
変えてしまうこともできるように思ったのである。それはあのあいまいな歴史過程の一区分ではなかった。
それはほとんど一種の神話過程ともいいうる一時期であった。

橋川文三「若い世代と戦後精神」より
0157無名草子さん
垢版 |
2010/10/20(水) 12:05:34
(中略)三島がどこかの座談会で語っていたように、戦争も、その「廃墟」も消失し、不在化したこの平和の
時期には、どこか「異常」でうろんなところがあるという感覚は、ぼくには痛切な共感をさそうのである。
…つまり、そこでは「神話」と「秘蹟」の時代はおわり、時代へのメタヒストリックな共感は断たれ、あいまいで
心を許せない日常性というあの反動過程が始まるのであり、三島のように「廃墟」のイメージを礼拝したものたちは
「異端」として「孤立と禁欲」の境涯に追いやられるのである。「鏡子の家」の繁栄と没落の過程は、まさに
戦後の終えん過程にかさなっており、その終えんのための鎮魂歌のような意味を、この作品は含んでいる。
元来、ぼくは、三島の作品の中に、文学を読むという関心はあまりなかった。この日本ロマン派の直系だか
傍系だかの作家の作品のなかに、ぼくはつねにあの血なまぐさい「戦争」のイメージと、その変質過程に生じる
さまざまな精神的発光現象のごときものを感じとり、それを戦中=戦後精神史のドキュメントとして記録することに
関心をいだいてきた。
橋川文三「若い世代と戦後精神」
0158無名草子さん
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2010/10/20(水) 12:05:51
私は、研究室で突然三島の死を聞いたとき、どういうわけかすぐに連想したのは、高山彦九郎であり、神風連であり、
横山安武であり、相沢三郎などであった。
これらの人々の行動はいずれも常識を越えた「狂」の次元に属するものとされている。この「狂」の伝統が
どのようにして、日本に伝えられているのか、それはまだだれもわからないのではないだろうか。ただ、すべての
「異常」な行動を「良識」によって片づけることは、これまでの日本人の心をよくとらえ切っていない。日本人は、
否、人間は、自分の内部の「狂」をもっと直視すべきではないだろうか。
三島は私の知るところでは非常に「愚直」な人物である。私のいう意味は、幕末の志士たちのいう「頑鈍」の
精神であり、私としてはほめ言葉である。(中略)
私は三島をノーベル賞候補作家というよりも、その意味では、むしろ無名のテロリスト朝日平吾あるいは
中岡良一などと同じように考えたい。

橋川文三「狂い死の思想」より
0159無名草子さん
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2010/10/20(水) 17:50:03
(三島事件のあと)あるポーランド人の団体から招待されたときのことが想いだされてくる。
きっかけをつくったのはソルボンヌにおける私の学友、ポニアトスキー(仮名)だった。(略)長身で赤ら顔の
ポーランド人で、つねに微笑をもって語り、その人柄は善意にあふれていた。いつも詰襟に丸首のカラーをしていた。
カトリック神父だったのである。
(中略)事件後ちょうど一ヶ月、クリスマス・イヴのことだった。その数日前まえに思いがけず、この友から
電話があった。
「きみのテレビ放送を見たよ。われわれの仲間は、みんな、ミシマのことを知りたがっている。ぜひ来て、
話してくれないか……」
「仲間」とは、誰だろう? その夜、パリ某所の指定された建物に出向いてみると、そこはむしろ、ささやかな
宗教的共同体といった感じの場だった。自分は出版社で働いているとかねがねポニアトスキーは言っていたが、
じっさいは、その家は、出版社兼宗教結社だったのである。(中略)

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0160無名草子さん
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2010/10/20(水) 17:50:26
晩餐の部屋に降り立つと、すでに十数人の人々がテーブルについて待ちうけていた。思いがけなく、私が主賓だった。
(略)…うすぼんやりとした光のせいで、地下の窖にも似たその部屋の光景は、どこか抑圧された秘密の影を秘め、
カタコンベの一部といった感じさえした。この印象があながち間違っていなかったことを程なく私は知らされ
ようとしていた。ひととおりの会話のあと――その席上で私は先に国営テレビの文芸討論会で発言したことを
敷衍してしゃべったのであったが――長老格の人物が立って、こう述べたからである。
「国の従属の縄目(いましめ)を断ち切って立たんとした人の死が、いや、日本独自の、あの儀式的意志的死が、
イエスの十字架の思想より見たとき《受肉の完成》としての意義を顕わにするであろう、とのご高説には、
われわれ一同ふかく心を打たれております。(中略)貴国の偉大な作家ミシマの驚嘆すべき行為は、まさしく
この微行性(アノニマ)につうずるものであったと、いまや私どもには信じられるのです。……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0161無名草子さん
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2010/10/20(水) 17:50:44
と、白髯を垂らしたその老神父は、左手で、黒のスータンの胸にかけた金色の十字架にそっと触れながら、
いったん句切りを置いた。
「……イエスにとって《受肉の完成》とは、十字架とともに復活をもって成しとげられるものでした。
ミシマにとっては……なんと言いましょうか……彼の復活の思想はなかったのですか?」
「彼の、ではなく、日本人の、とと申しあげましょうか……」と私は答えた。
「われわれが《七生報国》と呼ぶ思想こそはそれに当たるのです……」
じっとわれわれの会話に耳を傾けていた周囲のポーランド人たちから、「ほほう!」といった嘆声が洩れた。
枝付燭台の向こうで、長老の頬は紅潮していた。(中略)ポニアトスキーは大きな手をさしのべながら私に
こう言った。
「私どもの祖国の政治的状況は、きみも知つてのとおりだ。同胞の読みたがっている本も、そこでは自由に
出版することができない。こうして、パリ経由でわれわれがやっているわけなんだよ……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0162無名草子さん
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2010/10/20(水) 17:51:04
いまや私には彼の言葉の意味するところは明瞭だった。私を招きいれた人々は、要するにポーランド独立の
地下抵抗運動の同志たちだったのだ。カトリックという精神領域を武器としての。
そしてこれらポーランド人たちにとって、世界の果ての国日本の一作家の信じがたき決起と死は、あの
第二次大戦末期、(中略)…いまにいたるソ連支配の屈従の運命に抗する勇気をあたえてくれるものだったのだ。
日本で、われわれのヒーローが「右翼」とレッテルを貼られ、「グロテスク」、「時代錯誤」と譏(そし)られ、
「恥さらし」―対外的に……――と罵られている、まさにそのときに。あるいは、現代日本のタイラント、
偏向したマスコミ中心の世論を怖れて、大半の知識人が、いっそ沈黙することを選びつつあるそのときに。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0163無名草子さん
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2010/10/20(水) 17:51:22
(中略)
他者への殺害ではなく自害によって決着するその行為が、いかに深く西欧のもっとも高貴なる魂を振起し、
その魂の屈折をとおしていかに深く日本の名誉を購わんとしたものであるか、その夜、このうえなくはっきりと、
私はその名証を見たのだった。(中略)
しかも、氏の自刃が西欧人の心に掘りおこした感情は、ひとりキリスト教にとどまるものではなかった。
キリスト教と対立する古代精神の領域にまで広がるものであることを、やがて私は知らされようとしていたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0164無名草子さん
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2010/10/21(木) 23:26:10
明けて一九七一年となった。その年の六月にパリで開かれた《憂国忌》について、ここで語らなければなるまい。(中略)
この企画(映画「憂国」特別鑑賞会)が伝わるや、見たいという有志がぞくぞくと名乗りでてきた。
スポンサーは、詩人エマニュエル・ローテンがひきうけてくれた。惜しくもすでに故人となったが、小背で
容貌怪異、みずから好んで「フランドルの土百姓の出で……」と冗談をいうのがつねであった。(中略)
エマニュエル・ローテンと私とのあいだで初めて三島由紀夫が話題になったのは、氏の邸内においてであった。
事件後まもなくだったと記憶する。それというのも、そのときローテンは、例の「文芸フィガロ」誌の三島特集号を
手にして私のまえに現れるなり、朱の色をバックに抜刀したヒーローの大写しの表紙をこつこつと拳で叩きながら、
野獣の咆哮のごとく、こう言ったからである――「私は、あらゆる暴力に反対だよ!」と。
しかし、まもなく、この詩人の意見は一変してしまうのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0165無名草子さん
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2010/10/21(木) 23:27:06
一つの偶然が、私のもくろんだ集いを大いに盛りあげることを助けてくれた。作曲家、黛敏郎氏の参加を得た
ことである。黛氏は三島由紀夫の『金閣寺』のオペラ化の打合わせでベルリンに見えていたが、パリにはいって
私と会い、企画を聞くや、言下に参加を快諾してくれた。われわれはそれが初対面の間柄であったけれども。(中略)
(参加者に)ガブリエル・マズネフ氏がいたことを、真先に挙げたいと思う。(中略)
ガブリエル・マズネフが当夜われわれあいだにいたということの意義は小さなものではあるまい。彼は
『挑戦』の一冊を手に会場に駆けつけてくれたが、あとで私はその扉につぎのような献辞を見いだした。
「タケオ・タケモトに、この私の処女作をささぐ。本日、貴君のはからいで見たミシマの忘れがたきフィルムが
まさにその開花であるところの、美と死とのこの出会い、自殺のストイックなる理想を、本書のうちにまさに
貴君が再見されるであろうがゆえに。 ガブリエル・マズネフ」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0166無名草子さん
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2010/10/21(木) 23:28:17
(中略)ほかに、《パリ憂国忌》出席者についていちいち詳述するいとまをもたない。ただ、全体に、右の
ガブリエル・マズネフ、ミシェル・ランドム(作家、映画監督)、バマット(ユネスコ文化局長)の三氏がその
代表例であるように、集まった碧眼の知識人たちはきわめて精神的傾向が強く、一様に「日本のミシマ」の
果断の行為に心を奪われ、現代において――つまり日本においてのみならず――それがいかなる意味をもちうるか
ということを真剣に問う人々であった事実を記せば足りるであろう。(中略)
黛敏郎氏は次のように回顧している。
〈…映写が終り、客席が明るくなってからも、暫くのあいだ誰も声を発する者はいなかった。隣席のローテン氏は、
ポロポロと涙を流しながら、私の手を強く握りしめたままだった……〉
そうだ、エマニュエル・ローテンの、この変化こそは、観客全体の感銘を代表して余りあるものだったのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0167無名草子さん
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2010/10/21(木) 23:29:29
黛氏はつづいて書いている。
〈ややあって、立ち上ったローテン氏は、声涙ともに下る短い演説をした。「いま皆さんが、スクリーンで
観られた三島氏は、この映画さながらの古式に則った武士道の作法通りに切腹して果てた。このような天才的な
芸術家が、何故、このような行為に出たのだろうか?」〉
あとはもう言葉ならなかった。
私は、胸を打たれて、いかつい顔のこの人物が頬鬚を涙でぐしょぐしょに濡らしながら嗚咽を抑えるさまを、
ただまじまじと視つめるのみだった。「私はあらゆる暴力に反対だ!」と、最初、事件を知って叫んだローテンの
意見をかくも急旋回せしめた力は、いったいなんであったか?
ここでわれわれは、事件の本質に関する甚だ重要な一点に立つのである。
観客のすべてが別室に引きあげてからも、ローテンだけは、場内にただひとり佇んでいた。そして私の姿を
見かけると、なおも涕泣しつつこういうのだった――「《愛と死の儀式》――私がここに見たものは、まさしく
神ということなのです……」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0168無名草子さん
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2010/10/21(木) 23:31:40
エマニュエル・ローテンといっしょに私が映写室を出ると、小さなサロンに一同は頬を紅潮させて集まっていた。
一言でいえば、それは、打ちのめされた光景だった。(中略)黛敏郎氏はこう書いている。
〈当然、私は質問攻めにあうことになった。私は、私に考えられる限りの、三島氏の自刃に対する見解を述べた。
要するに三島氏は、大東亜戦争敗戦後の虚脱状態から一転して今日の経済的繁栄を手にした現代の日本人たちが、
芸術的にも、精神的にも、日本古来の伝統を軽視し、それが天皇ご自身をも含めた日本人一般の風潮となって、
日本がその文化のすべてのよりどころとしてきた天皇制の危機を、誰よりも強く感じ始めたこと。(中略)あの
事件が世の中に与えるショックの性質と限界とは、氏にとっては計算済みのことであって、氏の目指したのは、
「精神的クーデター」の火をつけることであり、それは見事に成功して、あのショック以来、日本の知識人の多くは、
深刻に自己を見つめ始めたこと。以上のような説明が、私の口からなされると、讃同の意を表わしてくれる
フランス人たちが多かった。(中略)〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0169無名草子さん
垢版 |
2010/10/21(木) 23:37:14
「《ユウコク(憂国)》とはどういう意味ですか?」と真先に私に尋ねてきたフランス人があった。批評家
クリスチャン・シャバニ氏である。(中略)
「それは、国の運命を憂うる、ということです」と私は答えた。
そう聞くと相手は、「ああ、なんという美しいイデー(思い)だろう!」と叫んだ。
「つまり、単なる《愛国(パトリオチズム)》とは異なるんですね。…(略)そこには、深く民族の帰趨を案じ、
精神的にこれを指導する予言者の役を果たし、時いたらば人柱となって死するをも辞さじという、苦悩と殉教の
精神が、より脈々とあふれでている……ヒーローよりも、予言者の心情というべきではなかろうか。バビロンの流れ、
ケバル河のほとりで、幽囚の民族の運命を嘆いた旧約の《レ・グラン・プロフェット(大予言者たち)》のように」
どんなにか私は彼の手を握りしめたかったことであろう! この打てば響くような素早い理解、深い共感性……。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0170無名草子さん
垢版 |
2010/10/21(木) 23:38:09
地球の反対側で、ほかならぬ同胞のあいだで、犯罪者・精神錯乱者・エグジビショニスト、等々、ありとあらゆる
罵声が浴びせられつつあるあいだに、ここではその「元凶」は、「予言者」の名をもって語られつつあったのだ。
「ぼくは、はっきりとローマ派の人間だが……」と、ここでガブリエル・マズネフが口ゆ切った。…「つまり、
高徳のストイシャンだった古代ローマ人の生きざまを全幅に肯定する人間だが、しかし、このぼくにしてからが、
このフィルムを観て、まったく『シャッポー(脱帽)!』と叫ばざるをえなかったよ」(中略)
「…ローマの偉人たちはストア派の哲学に勇気の糧をもとめたのだ。もっとも、なかには、その勇猛をもって
鳴る武将、小カトーのように、プラトンの『パイドン』を読んだあとで自殺したという変わり種もあるけれどもね。
…(略)ところで、この小カトーの自殺が割腹によるものだったことは、ごぞんじでしょう?」マズネフの
問いは私に向けられていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0171無名草子さん
垢版 |
2010/10/21(木) 23:38:38
「ええ『ブルタルコ英雄伝』の、ぼくは熟読者ですからね」
「ぼくも同様……要するに、剣は、ローマ共和国の武人たる以上、もっとも尋常の自殺の具だったんですよ。(略)」
「ちょっと待ちたまえ……」と、ここで初めてアフガニスタン人の剣豪バマットが口を開いた。…さながら
「面!」の掛け声を掛けるかのごとく繰りかえしていう――「待ちたまえ! しかし、それら顕然たるローマの
歴史的武将たちは、自決するときに、なんらかの儀式(リット)にもとづいてそうしたかね? …(略)
日本のサムライの死は、勇気のあらわれというだけのものではないよ。プラスなにかが、そこにはある。
それゆえの切腹の儀というべきではなかろうか?」
「そうだとも!」
と、バマットのうしろから、そのソファの背にもたれて話に聞きいっていたエマニュエル・ローテンが叫んだ。
「それこそはミシマの言いたかったことのはずだよ」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0172無名草子さん
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2010/10/21(木) 23:42:26
同時に、「セ・ジェスト(そのとおり)!」「ヴォアラ(しかり)!」「アプソリューマン(まったくそうだ)!」
という声々が、あちこちから興った。(中略)
しかし、間髪を置かず、一座の声々に呼応して、マズネフもこう言っいた。
「だから…だから…ぼくも、さっき、こう言いかけていたんだよ。『シャッポー』とね!」(中略)
バマットがまたも切りこみをかける「つまり、ローマ的自殺には、なんというか、《フォルム》がない。
フォルム――カタ(型)ですね……」と私のほうを向いて刀の柄を両手で握りしめるそぶりを見せる。
「つまり、文明全体のありかたにかかわるかどうかということだと思うな……」とミシェル・ランドムが静かに
言葉を挟んだ。「いいかね、すこし告白をしていいかね……」細い銀縁眼鏡の奥で、不適な彼の顔の表情と
不釣合な優しい目が、一、二度、しばたたいた。この人物もまた、疑いもなく、私がヨーロッパで知った第一級
知識人の一人である。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0173無名草子さん
垢版 |
2010/10/21(木) 23:46:39
「日本で武士道といわれるものが、もし単に勇気と武技の結合したものであるだけなら、ローマと日本のあいだに
なんの差異もないことになるだろう……
こういうことをぼくに教えてくれたのは、弓道のハンザワ(半沢)先生だった。ハンザワ先生といえば、
『弓と禅』を書いたあのドイツのオイデン・ヘリーゲルの師範――有名な東北の阿波研造名人の弟子にあたる
人だけれどもね。…このハンザワ先生の全人格から放射してくるもの、これは、断じてヨーロッパには
見当たらないなにかだった。つまり、そこに浸っているかぎりは死は存在しないといった……ハンザワ先生の
弓を見ていて、ぼくはそれが単なる武技ではないと悟った。先生は、射るとき、目をつぶっておられたのだから…」
私は、その光景を知っていた。ランドム氏のフィルム、『武道』のなかで、それはもっとも美しいシーンであったから。
また私は、半沢師範の訃報に接して彼が子供のように泣いたということも聞かされていた。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0174無名草子さん
垢版 |
2010/10/22(金) 18:05:33
(中略)会話は、こうして、いつのまにやら日本とローマの自決比較論のようになってしまった。
「問題は、しかし、二千年まえのそうした超越的死が、その後も脈々とわれわれの文明の頂点の一形式として
伝えられてきたかどうかということだよ……」声の主は、ふたたびミシェル・ランドムだった。
「日本にはそれがある。それがル・ブシドー(武士道)というものだ……」ぴしりと決まった一言だった。
日本人自身がその持てる最上の伝統を擲ってかえりみないときに、西洋人の側からこうした信念の吐露が
なされるということも、考えてみれば奇妙なことではあった。(中略)
たった一つ、その夕べ、会合者のあいだから洩れた「政治的」発言はミシェル・ランドムが発したつぎの質問だった。
「さきほどのムッシュウ・マユズミの言葉によると、ミシマは、天皇ご自身までが日本の伝統的精神の否定者で
あったと見ておられたとのことだが、それはどういうことなのですか?」と。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0175無名草子さん
垢版 |
2010/10/22(金) 18:05:58
(中略)日本的神聖の持続の問題は彼にとって重大関心事だったのだ。「日本はまさにカミ(神)の国だよ…」
ぽつりと彼の口を洩れたこの言葉の意味を、その後しばしば私は想いだしたものである……
「天皇は飽くまで神であらせられるべきだった、というのが三島の考えだったのです」と、そこで私は
『英霊の声』を想起しながらランドムの問いに答えた。「しかし、それにもかかわらず、自衛隊バルコニーで、
『天皇陛下萬歳!』を三唱して三島は死んでいったわけですが……」
「それはじつに重要なことだ! それはじつに重要なことだ!」ランドムは、驚いたようにこちらをじっと見て、
そう繰りかえし叫んだ。頃あいやよしと見て、エマニュエル・ローテンが、立ちあがって声をかける。
「メッシュー(みなさん)、今宵は、われわれの精神の通夜です。談論風発のつづきは、このあと、ぜひ拙宅で
やってください。亡き日本の天才をしのんで、心ゆくまで語りあおうではありませんか!」

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0176無名草子さん
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2010/10/22(金) 18:06:14
(中略)ここでまた何人かの新規の参加者があり、そのなかに美術批評家ミシェル・タピエ氏の姿もあった。(中略)
「私は、ここに、なによりもシントー(神道)を感ずるよ……」
これが、サロンに足を入れるや、ミシェル・タピエがわれわれに放った第一声であった。「ここに」とは、
問題の自刃の行為をさして言ったものであることは、いうまでもない。
「ヨーロッパでは、《混沌(カオス)》といえば、それまでだ。しかし日本のそれは、コントロール(制御)
された混沌なのだよ……」警句めいた一言である。(中略)
ふたたび黛敏郎氏の記録にゆずろう。
〈…最後に、みんなの希望で、たまたまローテン氏が愛蔵していた拙作で、三島氏も生前好きだといってくれた
『涅槃交響曲』のレコードをかけながら、思い思いの瞑想にふけり、三島氏の魂を慰めようということになった。
『涅槃交響曲』のコーラスの響きが長く尾を引いて静まったとき、ローテン氏は静かに立ち上り、目に涙を
一杯たたえながら即興の詩を朗誦した……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0177無名草子さん
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2010/10/22(金) 18:06:45
世にも気高い《愛の物語》…… 
愛、おお かくばかりの愛! 
かくばかりの高貴な生! 
絶大の荘厳、《意志》の頌歌…… 
服喪の空は その暑いしずくを哭き 
ゆるやかな血流は落日を崇高ならしめる。

九腸よりほとばしる斑点の飛沫! 
一体となった双生の命 
一心となった二つの手の古代壺(アンス) 
そして求める《彼岸》への絶対の供物。

入念に死を決意して三島は 
意志の典礼を一点にむすぶ――
すなわち森厳の盛儀、切腹の行為を 
超越的《放棄》の聖なる戦慄へと。

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)――三島にささげる詩」
0178無名草子さん
垢版 |
2010/10/22(金) 18:07:13
千古脈々たる誇らかな儀式(リット)、
この久遠の神話(ミット)よ、
愛まったくして 死かくも辛く潔し。
剣はこのししむらを刺し、鞭打した。
恐るべき死の創傷を深めよと…… 
だが深められるのは夜ではなく《生の彼岸》なのだ。
介錯がこの供献を成就する。
だが成就されるのは自殺ではなく 
この讃歌なのだ。

融化した存在、密かなる聖体拝受(コミュニオン)よ! 
淋漓たる鮮血にこそ美の高潔があり、
淋漓たる《至誠》の書にこそ 
精神の解脱の場がある。

かくてこそ絶対の恩沢へと 
いま 精神は飛翔する、
大死一番の狂える寛容もて 
かの無限へと――
《Kami(神)》の一語もて 
名づけられた無限へと……

エマニュエル・ローテン「愛と死の儀式(憂国)――三島にささげる詩」
0179無名草子さん
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2010/10/23(土) 00:19:56
偉大な芸術作品はすべてある意味で作者の遺書である、とマルローが三島をめぐって言った言葉が想いだされてくる。
その意味で、たしかに『憂国』ほどぴったりと「遺書」と呼ばるべき作品も稀であろう。
(中略)かつて――一九五八年――ド・ゴール大統領のもとにフランス第五共和国が成立したとき、フランスは
アンドレ・マルローを特使として日本に派遣し、国交を樹立したことがあった。そのとき、偉大なる使者は、
満堂の聴衆を集めた講演席上において次のように提唱した。「西欧全体にたいして
フランスは日本の精髄の《受託者》たらんとするものであります」と。(中略)
日本の精髄の受託者……この精髄のいかなるかについて、そのときマルローはなんと言ったか? 
日本民族によって永遠に記憶され感謝されてしかるべきその言葉を、ここで石碑に文字を刻むがごとく
繰りかえしておくことは無意味ではあるまい。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0180無名草子さん
垢版 |
2010/10/23(土) 00:20:33
マルローはこう言ったのだ。
〈この日本の精髄について全世界が甚だしい無知のなかにいるということを、どうか、しっかりと肝に銘じて
いただきたい。全世界にとって日本とは、依然としてエキゾチズムか絵葉書風景の国、目もあやな、あの版画に
描かれたかぎりの国にすぎないのであります。さればフランスは、なによりさきに、こう表明しなければ
なりません――
日本は中国の一遺産ではない、なぜなら日本は、愛の感情、勇気の感情、死の感情において中国とは切りはなされて
いるから。騎士道の民であるわれわれフランス人は、この武士道の民のなかに、多くの似かよった点を認めるように
つとむべきであろう。かつ、真の日本とは、世界最高の列のなかにあるこの国の十二世紀の偉大な画家たちであり、
隆信(藤原)であり、この国の音楽であって、断じてその版画に属する世界ではない、と。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0181無名草子さん
垢版 |
2010/10/23(土) 00:21:13
〈そして冀(ねが)わくば、日本とフランスとの接近が、フランスをして、その言葉に耳を傾けようとする人々
すべてにたいし、かく言わしめんことを。すなわち――
諸君が、かくも長いあいだ、目もあやなピトレスクの国民であると思いこんできた人々は、じつは英雄の民だったのだ。
もしこの民族の魂を知らんと欲すれば、彼らの絵画のなかではなく、むしろ音楽のなかにそれを求めよ。
鉄の琴に合わせて歌われたその歌は、死者の歌、英雄の歌、深淵なるアジアのもっとも深淵なる象徴の一つに
ほかならない! と。〉
(中略)マルローの講演を聞いて、時の宰相以下の日本の貴顕の士の全代表は、これに熱烈な感動の拍手を送った。
武士道の礼讃――たしかにこれは言うべくして美しい。つまり、遠来の賓客の讃辞としては。だが、その後、
いったい、誰が、教授なりジャーナリストなり批評家なりの誰が、投げられたこのテーマの発展をはかっただろうか?

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0182無名草子さん
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2010/10/23(土) 00:22:53
とんでもない。大半の人々の耳に、フランス文化大臣のあの言葉は、いわば過去の甲冑に対する礼讃として
響いたにすぎないのだ。「武士道と騎士道の対話」ということをマルローが暗示したとき、本気で彼がそれを
われわれの文明の死活の問題として呈したのだということに気づいた人士は、まずほとんど皆無だったのである。
そして、おそらく天皇ご自身でさえも……(中略)
われわれにとって「武士道」とは、葬りさられたもの、断罪されたものにすぎなかったからだ。(中略)
いっぽう、フランスの側から見れば、そんな日本は軽蔑と無視の種でしかなかった。ド・ゴール大統領と
「対話」した日本の政治家にしても皆無である。…池田勇人首相にしても、むなしく相手から「トランジスター
商人」との寸評を得たにすぎない。彼我の観点の相違は、じつに歴然たるものがあったと言わなければならない。
われわれにとって「平和憲法」の名で正当化されるものは、フランスの目にとって隷属の条件にほかならなかった
からである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0183無名草子さん
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2010/10/23(土) 11:53:58
現代の予言者とは、なによりも、「収容所列島」の現実を知り、これにたいして精神と歴史の両面にわたって
絶対的「ノン」のアクションを取りうる人々である。(中略)
それはまた、「文武両道」と彼が呼んだものの、現代的発露の方向でもあった。自己の身命を擲(なげう)っても
自由を守ろうとする文化の原理と、自由を擲っても生命以上のものを守らんとする武士道との統合は、がんらい
至高の矛盾の統合であって、およそ「文民統制(シヴィリアン・コントロール)」などという考えをもって
量りきれるレベルの問題ではない。(中略)
なぜなら、ここにいう「文武両道」とは、(略)…自衛隊バルコニーから絶叫した次の瞬間には古式に則って
自分の腹を掻きさばいていたという超越的抗議形式によって、ヨーロッパ知識人の目に、「人間の条件」と
「日本の条件」を同時に乗りこえる意志を示した壮絶無比の行為として映ったところのものにほかならないからである。
彼らの目に、この場合、文学的死、政治的死の区別はなかった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0184無名草子さん
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2010/10/23(土) 11:54:22
(中略)日本は、他の諸文明が宗教によって「人間の条件」をこえる超越軸を求めてきたときに、ただひとり、
武士道によってそれを求めてきた点において、たしかにユニークだったのである。ここのあたりの実相を
もっとも適格に見据えていた人ありとすれば、それが、日本においては三島由紀夫その人であったと言わなければ
ならない。(中略)
「一つの墓をも寺をも建てえなかったわれわれの文明……」という、マルローの議会演説中の言葉が、さながら
応答のように、静かに、同時にここでわが胸によみがえらずにはいない。「日本人の死の衝動」と言ったとき、
期せずして三島は、日本のみならず、《彼岸》なき現代文明の運命そのものについて語っていたからである。
「ル・カ・ミシマ」をヨーロッパが、政治に始まり人間に終る、ないし日本に始まり西欧に終る文明の問題として
受けとった理由はここにあるといえるであろう。無理もあるまい。文明の没落の意識において、彼らはわれわれに
半世紀余も先んじた地点に立っているのだ。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0185無名草子さん
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2010/10/24(日) 20:33:47
そのようなヨーロッパ的反応の興味ぶかい一例を示そう。巣鴨教誨師として東条英機以下「A級戦犯」七士の
処刑に立ち会った花山信勝師に、そのかけがえのない体験を記録した『平和の発見』なる名著がある。同書の
見事なフランス語版ならびにイタリア語版の翻訳者であるピエール・パスカル氏なる人物が、われわれにとって
まことに胸打つばかりの反応を示しているのである。パスカル氏は、一九四九年、『平和の発見』が日本で
刊行された年に、いちはやくこれを入手し、かつ翻訳していたという。しかし、その後二十年間というもの、
訳稿を筐底に秘めておかざるをえなかった。〈過去百年にもわたる進歩主義者たちの放埒のただなかにあっては〉
これほどの本を出版したところで、ただ無理解をうけるのみ、と判断したからである。ところが、三島事件を
聞いてパスカル氏は愕然として目覚めた。そして、時こそ至れと、感嘆すべき克明な注解と研究を付して堂々の
訳書刊行にいたったのであった。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0186無名草子さん
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2010/10/24(日) 20:34:06
およそ日本では考え得ざるほどの、自由かつ雄弁なる訳書の体裁であって、じつに内容は、東京裁判に始まって
三島礼讃に終っているのであった! 本文そのものは「東京裁判」にちがいないが、付録の一つになんと
「ユキオ・ミシマの壮絶無比の選択」なる一文が添えられ、さらに巻末には訳者による手向けの歌まで加えられて
いるのである。「一九七〇年十一月二十六日、日本の宮中のお歌所の伝統にならいて詠める」と詞書きして、
フランス語による「俳句十二句ならびに短歌三首」が披露されているのだ。題して「ミシマ・ユキオの墓」という。
その情熱、炯眼、大胆に、ほとほと私は感ぜずにはいられなかった。なにより驚いたことは、東京裁判から
三島決起にいたる因縁の糸を見事に読みとき、これを手繰りよせたことであった。日本人が行なってしかるべき
ことを、この未知のフランス人がやってのけたのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0187無名草子さん
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2010/10/24(日) 20:34:28
(中略)これだけの炯眼ぶりを氏が発揮したことの裏には、「東京裁判」そのものにたいするその仮借なき
批評眼があった。いかにしてここから三島礼讃の挙にまで行きついたかを知るために、その主張するところを
瞥見してみよう。
〈…「東京裁判」は、実際には、何人かの被告を見せしめに裁き、全員、愛国心のゆえに有罪なりと宣言したに
すぎない。(中略)民主主義思想の愚鈍ぶりは、東条英機をして「ファッシスト的」独裁者たらしめた。これは
歴史的真実に反するのみならず、当時の君主制日本の神制政治上の概念にも相反するものである。諸政党解党に
つぐ大政翼賛会の唯一党結成は近衛公の意志によるものであって、東条英機将軍は、公に代って帝国政府の
総帥となるに及び、連合国にたいする政府の決断躊躇をすべて引きつぐ結果となったのである。連合国側こそ、
「経済制裁」に名をかりて、宣戦布告もなく日本を窒息死せしめんとしていた事実を忘れてはならない……〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0188無名草子さん
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2010/10/24(日) 20:34:49
〈…捕虜収容所の日本人指揮官のなかには、無数の捕虜にたいする扱いが穏当でなかった者も、それは多々
あったであろう。しかし、「捕虜虐待」で絞首刑にされた人々の運命たるや、シベリアへの「死の行進」や
カティンの大虐殺をやってのけた連中、またケニヤ・エジプト・北アフリカ・インドなどの収容所の警護者どもの
思いもおよばないようなものだったのだ。
…リチャード・ストリーがその著『近代日本史』のなかで記しているごとく、日露戦争時において、ロシア兵の
捕虜ならびに支那の民間人にたいする日本軍のふるまいは「世界中の尊敬と感嘆を勝ちえた」事実を思うがよい。
でなくして、旅順開城ののち、露軍司令官ステッセルは、なぜ乃木将軍にその白馬を献じようと欲したであろうか?〉
(中略)一冊の極東軍事裁判記録も刊行されなかったフランス、いやヨーロッパにあって、このような発言は
貴重と言わねばならない。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0189無名草子さん
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2010/10/25(月) 13:33:21
(中略)パスカル氏はいうのだ。
〈正義の審判の名のもとに《不正義》によって刑死せしめられた人々の想い出が、いまや、裁いた者たちの
想い出よりも日一日と荘厳となっていく。裁いた者たちのほうが、早くも使い捨てという忘却の闇へと沈んで
ゆくのだ…(中略)
キリスト再臨を待つまでもなく、正義はすでになされたのだ。…あの日、一九七〇年十一月二十五日、…
《夷狄の君臨》にたいして相変らず不感症のまま日本が、黙々として世界第三位の産業大国となりつつあったとき、
ユキオ・ミシマは、その儀式的死によって、みずからの祖国と世界とにたいして喚起したのである。この世には
まだ精神の一種族が存し、生者と死者のあいだの千古脈々たる契りが、いまなお不朽不敗を誇りうるということを。
おのれの存在を擲ち、祖国に殉ずることによって、もって護国の鬼 le remords de cette patrie と化さんと、
生の易きに就くよりも、かかる魂に帰一することのほうを、ミシマは望んだのであった。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0190無名草子さん
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2010/10/25(月) 13:33:50
〈個人的絶望によってではなく超越的《愛他主義(アルトルイズム)》によって、かつ、愛のかなたの愛によって
決行されたユキオ・ミシマの聖なる自殺は、《共和国擁護》を叫ぶ古蛙どもの、いつ果てるとも知れぬ金切声の
大合唱を西欧世界に喚起するにいたった……畢竟、それらは、遠い昔にとっくに地に堕ちた名誉なるものに
たいする、一種の畏怖心にすぎない。…まるで、もうちょっとで、あちこちに、《反ファッシズム監視委員会》の
どさ廻り小屋でも造られかねない勢いだった。〉
(中略)一息入れてパスカル氏は、またも筆を取りなおす。〈このユキオ・ミシマが自己犠牲をあえてした場所が、
「愛国心の囚人」にたいして米軍があえて有罪宣告を下した旧日本帝国大本営の跡地、市ヶ谷台上であったのだ。〉と。
(中略)ミシマに触れたヨーロッパならびに海外の無数の記事のなかで、ずばぬけて出色の出来であったとして
同氏は、一九七〇年十二月一日付のローマ紙「イル・テンポ」に掲載された「東京のハラキリ」なる一文を挙げている。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0191無名草子さん
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2010/10/25(月) 13:34:27
尊敬すべき洞察力をもって、その執筆者マギナルド・バヴィエラ氏は書いているのだ。しかも、三島自刃の
直接目的――改憲と防衛の問題にまで突っ込んで。…まず、アメリカの対日政策の変化が語られる。
〈…アメリカ人は、自分たちが精を出した毒草除去の作業が完全すぎたという結果を、恐怖心をもって視つめてきた。
(略)…(ドイツ、日本、イタリア)の野心をあまりにも徹底して摘みとりすぎたために、これら蛇蝎のごとき
三国が歴史のつんぼ桟敷に追いやられて商人国家へと変貌していくさまを、「アンクル・トム」はただ呆然と
見守るほかはなかった……われわれヨーロッパ人が、自国侵略の危険をはらんだロシア赤軍用のトラックを
競争さわぎで製造しつつあるあいだに、もはやどこからも侵略の恐れなしと信じきった日本は、アジアの警備役は
アメリカにまかせっぱなしで――日本株式会社は二度と軍事大国になるつもりはないと公言しつづけてきたのである。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0192無名草子さん
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2010/10/25(月) 13:38:49
〈なんとかして日本人にもういちど尚武の気概と世界政治の巨視観を持ってもらいたいと、アメリカ人の側で
躍起になってきたのも、むべなるかなというべきである。(略)…全アジアの骨組がひっくりかえってしまったいま、
太平洋の防人の役は徐々に日本に肩代りしてもらいたいというのが、彼らの本音にほかならないからである。
(略)…(日本の)首相は、にんまりと、憲法第九条があるじゃありませんかと応じたものだった。(略)…
恒久武装放棄を声高に誓わされた、あの屈辱の憲法である。(略)…「残酷な戦争をもって日本を敗北せしめたあと、
その憲法をわれわれに押しつけたのは、あなたがたのほうではありませんか。こんどは、こっちのほうでそれを
大事にする番ですよ…」かくて日本は、豪華けんらんとしてかつ陰鬱なるヴァカンスを享受しつづける安楽へと
兎跳びに跳びあがり、富裕にして怡悦なき一億の日本人は、熱狂の空虚を、国家的目標と集団的希望の欠如を、
時とともにはっきりと認識するにいたった。〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0193無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 00:21:54
〈日本――だが、誰がその真実の姿を知ろう? (中略)
再度日本を訪れたおりに、私自身、ここにはきっと秘密の国が隠れているにちがいないとの直感を持った。
それは、たまたま私が、防衛庁の位置する市ヶ谷の丘を昇っているときのことだった。(中略)訪う人なきこの丘、
いまなお一軍が身を隠しつづける丘から、だが、一つの叫びが、いま、われわれの耳に届いたのだ。沈黙は破られた。
ヴェールは、一瞬、かなぐり捨てられた。ユキオ・ミシマ――この世界的名声の作家が、万人の面前で短刀を
自分の腹に突き立てたのだ。いまはなき特権階級(カスト)、サムライの儀式的自殺である。(中略)
祖国はもはや自分が夢みた国ならずというのでスペインのファランへ党員が自分の心臓に弾丸をぶちこむ。
盟主ロシアが共産党員としての自分の夢を打ち砕いたといってプラハの学生が火だるま自殺する。祖国日本が
非武装に甘んじ、もはや歴史舞台への回帰を放念したという理由で、一人の作家が東京で自刃して果てる。…〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0194無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 00:22:50
〈これら自殺者たちは何を信じ、何を得ようと望んだのか? 世界中の良識の徒は、一様にただ、せせら笑いを
浮かべるのみである。
しかし私としては、この問題を考えるとき、あまたの自殺のイメージをとおして古代ローマがわれわれの心に
なお生きつづけているという真実を思わずにはいられないのだ。生を厭うがゆえにではなく愛するがゆえに、
古代ローマ人は自ら生命を断った。これは、この方面の研究の第一人者、ガブリエル・マズネフも書いたとおりである。
たしかに、そこからして彼らは解放者ジュピターを自殺の守護神として選びさえもしたのだった。ジュピターとは、
愛する者のため自己犠牲という至高の自由を選ぶ寸前に彼らが熱祷をささげたところの、最高神だったからに
ほかならない。
その後、ミシマに負けじと、事もあろうにゼンガクレンの、しかしミシマを崇拝してやまない一学生が、
「われはよりよき世界に生きたし」という言葉を遺して自殺している。いったい、なにがどうなっているのであろうか?〉

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0195無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 00:23:55
〈(中略)ともあれ、私は、ここに告白する。これらの恐るべき秘密をもってわれわれ諸外国の人間のみならず
自分たち自身をもいまなお驚嘆せしめる能力を持った一民族にたいして、そぞろ自分は羨望の念を禁じえない、と。…〉

(中略)三島をめぐる論争は、パリからローマへと飛び火した。「高度経済成長」の奇蹟として世界中の人々を
驚かせてきた日本――は、じつは「政治的には両手を断ち切られた国」(アンドレ・マルロー)であったと、
白刃によって切裂かれたヴェールごしに人々はその実像を初めて直視したのである。(中略)これはわれわれの
問題であるとともに現代史の問題そのものであることを、「イル・テンポ」紙の記事は喚起している。(中略)
現代の日本人がいかに眉をひそめようと、現実に彼らがユキオ・ミシマにおけるこの《日本的流儀》によって
魂を震撼せしめられたという事実だけは、いかんとも覆いがたいのである。

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0196無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 00:24:57
ピエール・パスカル氏も、その無数の紅毛人のなかの一人であった。だれから頼まれるでもなく、この人物は、
前述のごとく『永遠の道』一巻の最後に自作のフランス語「ハイク」と「タンカ」を添えて日本の英雄の霊を
弔っている。(略)…全ヨーロッパに向かって敗者日本の声なき慟哭を伝え、その魂魄いまだ死せずと叫んだ、
花も実もあるこの人物の義挙――どうして義挙でないことがあろうか?――を深く徳とし、その二、三首を
拙訳をもって、ここに日本人の感謝のあらわれとしたい。士道の華――それは見事にヨーロッパで咲いたのだ。

 ユキオ・ミシマの墓   ピエール・パスカル

いましわれいのち消ゆとも火箭(ひや)となり神の扉に刺さりてぞあらむ

獣(けだもの)の栄ゆるときは汝(な)が首を斬りてぞ擲げよ友らつづかむ

この血もて龍よ目覚めよその魂魄(たま)は吠えやつづけむわが名朽つとも

竹本忠雄「パリ憂国忌 三島由紀夫VSヨーロッパ」より
0197無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 23:33:44
Q――日本は異常な死によって先に三島由紀夫を失い、いままた川端康成を失いました。
(中略)このような死はどう映りますか?

アンドレ・マルロー:現在までに、たしかに相当数の日本人作家が自決してきています(se sont tues)。
西欧では、これらの人々をさして自殺した(se sont suicides)と言っているがね。しかし、彼らは、ぜったいに
自殺したなどというものではない。自殺ではなしに自害した、すなわち武士道たけなわなりしころの死とおなじく、
意志の力によって、一死よく生をまっとうしたと見るべきだと思うのです。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
0198無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 23:35:56
三島については、これは、あまりにも偉大な現実的証というほかはありません。そこには偉大な伝統が息づき、
儀式(リット)がものをいっている。気合もろとも…(左から右へぎりぎりと腹を掻き切る身振りをして)
この行為の意義は甚大と言わなければならない!(中略)
日本的自決ということには、はかり知れない大問題が秘められている。いかなる文明も、死なるものをエリートの
与件として問題化したことは他にないからです。ある流儀によってこれを問題化したものこそは、日本の
武士道であった。しかし、武士道と私はいうのであって、日本そのものとは言いません。それにしても、
なにゆえ、ある流儀と、あえていうのか?

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
0199無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 23:38:00
ああ、もし人が、《死》なるものがまったく存在しないような一文明と遭遇したとしても、なんとそれは
当然の(自然的な)ことだろう! だれもが、そこでは、子供のころから、自分の自害すべき瞬間を選ばねば
ならないと知っているような文明と遭遇することは……。
こういって正しいのか間違っているのか、私自身にもはっきりとは言いがたいのだが……私はね、ガス管で
自殺するよりは三島のやりかたで死ぬほうが、ずっと自分自身にふさわしい気がするんだよ。いま、「自殺」
という言葉を使ったが、これがけっきょく西欧流の自殺と同じでないことは、さっきも言ったとおりだがね……
そう言ったからといって、しかし、どっちの立場を私が擁護するわけでもないが……私には、ただ、川端の死より
三島の死のほうが身近に感じられるというだけのことです。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
0200無名草子さん
垢版 |
2010/10/26(火) 23:41:41
そんなことを言ったって、おまえたちの国ではハラキリなどしないではないか、という人もあるかもしれないが、
しかし、われわれにだって拳銃というものがあるからね。そして私の場合だったら、(ガス管やストリキニーネ
よりも)やはり拳銃のほうがぴったりする。(中略)
東西の自殺の違いの問題にもどると、このような死の意味を西欧の人間――ということは、つまりヨーロッパと
アメリカの両方をひっくるめた人々――が説明しようとすると、かならずキリスト教的観念から割りだしてくるので、
そうなるといっさいが自殺という言葉で処理されてしまうことになって、結局のところ、なにもわからなくなって
しまうのが落ちなのです。それは、ちょうど、ヨーロッパの騎士道――これもなかなかに立派なものだったが――
について、騎士たちは自殺したというのと同じことで、的はずれと言わざるをえません。

アンドレ・マルロー
1972年5月3日、マルロー邸でのインタビューより
0201無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 13:25:33
神風特攻隊のメンバーは、ほとんど例外なくその先祖が武士だったのだよ。


ミシマの本はすべて必読だ。


切腹とは、死ぬことではない。死を行なうことである。

アンドレ・マルロー
竹本忠雄との談話より

私は、どんな日本に関心があるかといえば、それはけっして政治的日本といったものではありません。それは、
永遠の日本(le Japon eternel)なのです。
…この日本は、死の意味においても愛の意味においても音階(ガム)においても、中国とはまったく異なっている。
…日本という国は「日本それ自体」の国であって、そっくりそれを受け入れるか拒否するか以外にありえません。
私自身はこの日本をどう見るかといえば、日本が意味するものはじつに測り知れないものがあると思っています。

アンドレ・マルロー
1969年11月25日、マルロー邸でのインタビューより
0202無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 13:28:15
覚えておいてくださいよ。切腹は自殺にあらずということを。
切腹とは、祖廟をまえにした犠牲(いけにえ)であるということを。
この庭園も、これまた一個の祖廟ならずしてなんであるか。

アンドレ・マルロー「日本の挑戦」より
0203無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 13:30:03
一条の滝をまえにしてこのような感銘をうけたのは、私にはまさに空前絶後の経験だった……私は思った――
これはアマテラスだ、と。日本の女神にして、水と、杉の列柱と、日輪との神霊。そしてそこから天帝が降臨してくる。
この垂直の水は、二百メートルの高さから落下しつつ、しかも不動なのだ。
(伊勢・熊野、那智滝を見て)
アンドレ・マルロー「非時間の世界」より


そそりたつ列柱、そそりたつ飛瀑、光に溶けいる白刃。日本

アンドレ・マルロー「反回想録」より


日本の歴史には《聖なるもの》が洞窟より顕れでる瞬間というものがある。
見よ、日本の夜明けは来る。きっとやってくる。

アンドレ・マルロー
1974年、来日時の在日外人記者団との会見より
0204無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 23:29:13
それにしても私は、三島について、いつも心にこう思っているんですよ。なぜ彼は、結局のところ消えさらねば
ならなかったのか、と……。あのとき以来、私が自分の胸に問うていることは、こうなのです――あれは、
はたしてなにものかの、つまりほんとうに偉大で価値あるものの始まりだったのか、それともそうしたすべての
終りだったのか、と……。私自身の考えはどうかといえば、それは、なにものかの終りだったのだと思う。
しかし、それがなければ始まりが不可能であるような、そうした終りだったと思うのだよ。さまざまな偉大な
文化の歴史を例にとれば、じつにしばしばその最後はかくのごとしといった例があるものなのだ。
この点について、ロジェ・カイヨウが面白い意見をもっていてね。カイヨウによれば、日本における三島の
ケースは、ヨーロッパにおけるピカソのケースと同じだというんだ。カイヨウはピカソを、ヨーロッパ絵画の
《決算者》le Liquidateur と考えていたからね。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
0205無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 23:30:45
この決算者とは、大文字でLを書く意味のそれだけれども。つまり、カイヨウは、ピカソの作品を一種の
自殺として考えていたということで、そのようにいえば、きみも、同様にしていかに三島を解釈しうるか、
わかるというものだろう。三島は必要ななにものかだった。そのことは、はっきりしている。
では、いまやそれがいかなる色合いをおびるかということになると、つぎのようにいうのがおそらく賢明であろう。
それは、日本そのものがいかなる色合いをおびるかということいかんにかかっている、と。今後、日本が、その
精神力のある種の化身に、しかもまったく思いがけない化身に行きつくということは、大いにありうることなのだ。
しかし、これについて私の考えるところはこうだ――いまから百年後に日本的精神性の与件は、現在われわれが
持っている与件のすべてをひっくるめたものとまったく似ても似つかないものとなるであろう。すなわちそれは、
まったく別の与件となることだろう、と。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
0206無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 23:32:19
「なんぴとかが別の生のもとに生まれかわったとしても、その人間は、自分の過去世においてどういうことが
起こったかということにもはや気づかないであろう」(『豊饒の海』)
……しかし、にもかかわらず、過去世は存する。《業》によってそれが存するゆえに。いや、業と言ったのでは
日本固有の考えではないから、たとえば《ヒロイズム》と言おう。このヒロイズムこそは、別の生における
あなたがた日本人のありかたというものを一変せしめたものなのだ。諸聖人の《通功(コミユニオン)》のように。
このようなヒロイズムこそは人類をある程度一変せしめたものであって、幾千年もの他の事象とともに
《輪廻転生》les reincarnations と呼ぶにふさわしいものだ。なぜなら、彼らはすべて、こう考えているからだ
――すなわち、いわゆる法燈伝なるものは、〈覚者(ブッダ)〉の群れを外にしてはこれ迷信にすぎない、と。
一個の人物が別の一人物に転生するにあらず、ただ普遍的輪廻転生があるのみ、と……。この点『マスの法典』の
意味は了然 formel といわねばならない。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
0207無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 23:33:32
いいかね、英雄的日本は、いまに、かならずや(不可避的に inevitablement)現われてくるであろう。
一個の国なるものはその魂の上に横たわっているのだから。
ところで、現在の日本は、かつて遭遇したことのない最悪の状況下に置かれている。それというのも、第二次
世界大戦の結果、貴国は、どうみてもアブノーマルとしか見えない諸々の生活条件のなかで世界最強の国の一つと
なってきたからだ……。このような状態のままで、なにもかもがつづいていいというはずがない! 
……アメリカ人は、話し相手は中国だと信じこんでいるが、そんな話合いは書割(デコール)にしかすぎない。
太平洋の問題とは日本なのだから。
いつの日か、いまわれわれがここで話しあっている事柄は、きっとドラマチックな形をとって現れることとなろう。
そしてそうなれば日本は、フランスがド・ゴール将軍のもとに再統合されたように、あるべき日本の真の姿の
もとに再統合されることとなるだろう。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
0208無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 23:34:28
一個の国民は、みずからのもっとも深い魂がはたしてこれでいいのかとなったあかつきには、いやおうもなく
この魂の上に自己を再発見することを迫られていくものだと、私は信じている。しかるに、現在の日本が
置かれた条件が、繰りかえしていうが、根本から非道 deraisonnable なものであるというのに、どうして
この日本がこのままでいいというはずがあろうか、いや、とうていそんなはずはありえないと私は思うのだ! 
いや、私ばかりではない、私が会ったアメリカの大統領たちをはじめ国家要人は、すべて、私とおなじ目で
問題を見ていることに変りはない。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビューより
0209無名草子さん
垢版 |
2010/10/28(木) 23:38:09
日本は、中国が原爆を持っていなかったあいだは、ずっとアメリカと友好関係を保つことができた。しかし、
中国が原爆を持ってからというものは、あなたがたは、いままでの現実を敷き写しにして生きていくわけには
いかなくなっている。そこで、どうしてもつぎのいずれかの解決を必要とする段階に立ちいたるであろう。
すなわち、この原子爆弾をアメリカからもらうか、またはその自力製造権をどこからか獲得するか、あるいはまた
ソ連から原爆を入手するか、そのいずれかを必要とする岐路に立たされるだろう。
日本のような国柄の国家が、人口八億もの人間を擁し、しかも原爆によってあたながたを破壊する能力を有する
中共をまえにして、手をこまねいていることははたして可能か……。
中共が原爆を持った以上、日本もそれを持たずにはいられなくなる。持つべきか否かと自問した結果、持たない
ということが不可能になってくる……。
いずれにせよ、なにがどうなろうとも、日本という国は『このままでけっこう』というような国ではあるまいと
私は見ています。

アンドレ・マルロー
1975年11月24日、マルロー邸でのインタビュー
0210無名草子さん
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2010/10/28(木) 23:48:00
平成22年今現在、三島由紀夫が存命であれば御年85歳
85歳の三島由紀夫にありそうな事

・小林よしのりと親交を持つも、すぐに仲がこじれる
 ゴーマニズム宣言に、ものすごく醜悪に描かれた三島翁の似顔絵が載る
・筒井康隆が奇行に走らず、常識人のまま
 「三島先生にも困ったものだ(笑)」と、三島翁の奇行を止めるツッコミ役になる
・「涼宮ハルヒの憂鬱」をアニメ視聴から知り、小説の単行本を全部読破する
 後日谷川を呼びつけて「ところで俺の腹筋を見てくれこいつをどう(ry」をやらかし、本気で嫌がられる

……今より楽しそうだ
やはり日本にとって惜しい方を亡くしたものだと思う
0211無名草子さん
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2010/11/02(火) 00:02:00
「黒い大佐」と呼ばれるヴィクトル・アルクスニスという軍人がいた。ソ連邦維持、反共、反欧米を主張する
滅茶苦茶だが高潔な保守派の人物だ。ペレストロイカは世界革命のためだとわかっていた。領土問題については、
日本の北方領土に対する要求は絶対に認めない「愛国」、「憂国」の士だ。父はラトビア人、母はロシア人。
祖父は建国の大立者で、ナチスの陰謀だったといわれる「トハチェフスキー事件」ではトハチェフスキーを
ヒトラーのスパイとして死刑にした一人で後に銃殺された。父はカザフスフタンの炭坑に送られ一家で辛酸を
なめるが第20回党大会で祖父の名誉回復がなされた。
ラトビアに帰国したアルクスニスは航空学校に入るが目が悪く、ミグの整備兵になる。(中略)
アルクスニスはペレストロイカのもと、保守派に押されて国会議員になり、「反共ソ連邦維持連盟」を結成し、
改革派を西欧とつながった売国奴と非難してシュワルナゼ外相を辞任に追い込んだ。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
0212無名草子さん
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2010/11/02(火) 00:02:53
1991年8月19日から21日にかけて保守派によるクーデタが起こったが失敗する。
私は枝村大使の了解を得て、24日の朝アルクスニスに電話し国会で演説する前に昼飯の約束をした。
日本人は情報が入らないと離れる、力のある者にだけすり寄りよると思われることを危惧したからだ。
中華レストランに誘い、自分の母が14歳で沖縄戦に巻き込まれた苦難を、人民の敵として辛酸をなめた
アルクスニスに語り、以下のやり取りをした。
アルクスニス「これから国会でソ連邦維持の演説をする」
佐藤「やれ、信念を通せ!」
アル「日本はカミカゼの国だろう」
佐藤「実は(熱心な社会党支持者の)母はこっそり靖国神社に通っている。姉が祀られているからだ」
アル「スターリングラードでソ連兵はドイツ戦車に特攻した。このことはタブーとして歴史から隠ぺいされている」
佐藤「カミカゼの精神とスターリングラードの精神は同じだ!」
アル「北方領土は日本からスターリンが盗んだ土地だ。おれはそれを知っている。日本は還せと言い続けるべきだ」

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
0213無名草子さん
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2010/11/02(火) 00:03:53
アルクスニスは三島由紀夫の愛読者で、1989年ロシア語で出版された『憂国』が一番いいと言い次のように
評価した。 
・2.26事件の世直しとソユーズ(連邦維持を唱える院内会派)とは似ている。
・これは友情の小説だ。 
・主人公が決行部隊から外されたのは結婚したばかりというのはウソだ、決行の中心人物でなかったからだろう。 
・しかし主人公は夫人との愛、同志との友情の中にいる。

アルクスニスは私にボリス・プーゴのことを覚えているかと訊き、次のように語った。
「クーデタ派は破れソ連国家は崩壊した。 セルゲイ・アフロメーエフ参謀長はこめかみを打ち抜いた。
ラトビア人のプーゴ内務大臣はKGBが自宅に逮捕に来たが、役人を外で待たせ2発の銃声を発し、夫人と
一緒に死んだ。ラトビア人には血の掟がある。 名誉を守るために自決を選んだのだ。
ラトビア人は奥さんを先にし、『憂国』では奥さんが後だ。日本人は奥さんへの信頼が篤いからだろう」

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
0214無名草子さん
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2010/11/02(火) 00:04:47
無駄だ。
0215無名草子さん
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2010/11/02(火) 00:04:51
日本人もキリスト教的で死後のよみがえり、死後の復活を前提にしているといえる。
私はキリスト教(プロテスタントのカルバン派)だが、日本の神話にある世界観と聖書の世界観は同じだと思う。
天照大神とキリストは同じだ。仏教は壮大精緻な世界観を持つが、日本の神話では、聖書同様混沌の中から
世界がうまれる。いざなぎ、いざなみの営みからだ。これは平田篤胤に継承されている。
近代国家は欧米思潮の流れにあるが、その源流はギリシアにあり、ギリシア世界はドイツ語にある。日本の
知的退廃はこのドイツ語を学ばなくなっているせいだ。(中略)
新渡戸稲造や内村鑑三などの神学者が日本の「国体論」を一番わかっている。各国のキリスト教は別々に
つくられ、存在している。臣民の道、靖国を位置付けられなければ、日本のキリスト教とはいえない。(中略)
靖国に行くなというキリスト教徒はダメだ。霊性、リインカネーションを感じる力が衰えているのだ。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
0216無名草子さん
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2010/11/02(火) 00:05:45
旧ソ連国家保安委員会(KGB)の後身であるロシア連邦保安庁(FSB)ではカリキュラムの中で日本語の
三島の作品を読ませている。物欲のないこういった日本人にしてはならないと警戒しているのだ。
ロシアは新自由主義経済の流れの中でサブプライム問題に引っ掛からなかった日本の国力を恐れている。
ただぼんやりしていただけだが。
「ファシスト・サムライ」というロシア語には日本人への尊敬と畏敬の気持ちがある。
本当の日本人は「ファシスト・サムライ」でヘナヘナしているのはウソである、と思っている。
大いなる誤解だが誤解のままにしておけばいい。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
0217無名草子さん
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2010/11/02(火) 00:13:47
(中略)
私は大学の2回生のときに小説を読まないことにした。哲学と神学書を読み、そのためにヘブライ語、ラテン語、
ギリシア語を勉強する時間を確保するためだ。ただし役に立つ小説は読む。
モスクワでは30冊くらい『憂国』をロシア人に渡した。三島にはテクストだけではない生き方がある。
三島は個別の命を超えた大義に生きた。
言っていることとやったことがかい離していない三島はロシア人の心を打つ。
キリスト教は自殺を禁止しているというが、国家に忠義を尽くすことをヤン・パラフというチェコの青年は
「プラハの春」の1968年ヴァーツラフ広場で焼身自殺して示した。
15世紀宗教改革に命をかけたヤン・フスの末裔の殉教者と見られて、今でも広場に献花が絶えない。

佐藤優
講演「ロシアから吉野へ 神皇正統記から三島へ」より
0219無名草子さん
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2010/11/02(火) 10:30:04
0220無名草子さん
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2010/11/02(火) 14:26:45
>>218
ちょこっと似てるかも。
0221無名草子さん
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2010/11/03(水) 19:44:51
私が三島由紀夫氏を初めて知つたのは、彼が学習院中等部の上級生の時だつた。
…そのあと高等部の学生の頃にも、東京帝国大学の学生となつてからも、何回か訪ねてきた。
ある秋の日、南うけの畳廊下で話してゐると、彼の呼吸が目に顕つたので、不思議なことに思つた。
吐く息の見えるわけはなく、又寒さに白く氷つてゐるのでもない。
長い間不思議に思つてゐたが、やはりあの事件のあとで拙宅へきた雑誌社の人で、三島氏を知つてゐる者が、
彼は喘息だつたからではないかと云つた。
私はこの齢稚い天才児を、もつと不思議の観念で見てゐたので、この話をきいたあとも、一応そうかと思ひ、
やはり別の印象を残してゐる。

保田與重郎「天の時雨」より
0222無名草子さん
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2010/11/03(水) 19:47:08
彼がそのわかい晩年で考へた、天皇は文化だといふ系譜の発想の実体は、日本の土着生活に於いて、生活であり、
道徳であり、従つて節度とか態度、あるひは美観、文芸などの、おしなべての根拠になつてゐる。
三島氏が最後に見てゐた道は、陽明学よりはるかにゆたかな自然の道である。
武士道や陽明学にくらべ、三島氏の道は、ものに至る自然なる随神(かんながら)の道だつた。
そのことを、私はふかく察知し、粛然として断言できるのが、無上の感動である。

保田與重郎「天の時雨」より
0223無名草子さん
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2010/11/03(水) 19:48:53
三島氏らは、ただ一死を以て事に当たらんとしたのである。
そのことの何たるかを云々することは私の畏怖して自省究明し、その時の来り悟る日を待つのみである。
私は故人に対し謙虚でありたいからである。
三島氏の文学の帰結とか、美学の終局点などといふ巷説は、まことににがにがしい。
その振る舞ひは創作の場の延長ではなく、まだわかつてゐないいのちの生まれる混沌の場の現出であつた。
国中の人心が幾日もかなしみにみだれたことはこの混沌の証である。

保田與重郎「天の時雨」より
0224無名草子さん
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2010/11/03(水) 19:50:01
私は日本民族の永遠を信じる。
今や三島氏は、彼がこの世の業に小説をかき、武道を学び、演劇をし、楯の会の分列行進を見ていた、数々の
この世の日々よりも、多くの国民にとつてはるかに近いところにゐる。
今日以後も無数の国民の心に生きるやうになつたのだ。
さういふ人々とは、三島由紀夫といふ高名な文学を一つも知らない人々の無数をも交えてゐる。

保田與重郎「天の時雨」より
0225無名草子さん
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2010/11/03(水) 19:51:40
総監室前バルコニーで太刀に見入つてゐる三島氏の姿は、この国を守りつたへてきたわれらの祖先と神々の、
最もかなしい、かつ美しい姿の現にあらはれたものだつた。
しかしこの図の印象は、この世の泪といふ泪がすべてかれつくしても、なほつきぬほどのかなしさである。
豊麗多彩の作家は最後に天皇陛下万歳の声をのこして、この世の人の目から消えたのである。
日本の文学史上の大作家の現身は滅んだ。

保田與重郎「天の時雨」より
0226無名草子さん
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2010/11/03(水) 20:21:57
ここを見ると「下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる」ってのは嘘だということがよくわかる
0227無名草子さん
垢版 |
2010/11/04(木) 23:58:06
『仮面の告白』を黒い傑作、『金閣寺』を赤い傑作とすれば、その後に書かれた透明な傑作『潮騒』は、一般に
作家がその生涯に一度しか書けないような、あの幸福な書物の一つである。それはまた、その直接の成功が
あまりに華々しいので、気むずかしい読者の目にはかえって胡散くさく見えるような作品の一つである。
その完璧な明澄さそのものが一つの罠なのだ。古典期ギリシアの彫刻家が人体の上に光と影の段落を描き出す、
あまりに際立った凹凸をつくることを避けて、限りなくデリケートな肉づきを目や手により生々しく感知させようと
したように、『潮騒』は批評家に解釈のための手がかりをあたえない書物なのである。(中略)
若者の恋というテーマだけを取ってみれば、「潮騒」はまず、「ダフニスとクロエ」の無数の二番煎じの
一つのように見える。けれどもここで古代と、さらにずっと後代の変則的な古代とを、あらゆる偏見を棄てて
比較してみると、二つのうちでは「潮騒」の旋律の示す音高線のほうがはるかに純粋だ。

マルグリット・ユルスナール「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」より
0228無名草子さん
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2010/11/04(木) 23:59:27
『奔馬』には、一八七六年に叛乱を起した武士たちの集団自殺が描かれており、彼らの行動は勲を感奮興起させた
ものであった。正規軍に敗北すると、八十名の生存者はあるいは路上で、あるいは神社の祀られている山頂で、
いずれも礼法通りに腹を切った。(中略)
この血と臓腑の信ずべからざる大氾濫は私たちを恐怖させるとともに、あらゆる勇敢なスペクタクルのように
興奮させもする。この男たちが闘うことを決意する前に行った、あの神道の儀式の簡素な純粋性のようなものが、
この目を覆わしむ流血の光景の上にもまだ漂っていて、叛乱の武士たちを追跡する官軍の兵隊たちも、できるだけ
ゆっくりした足どりで山にのぼって、彼らを静かに死なせてやろうと思うほどなのである。

マルグリット・ユルスナール「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」より
0229無名草子さん
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2010/11/05(金) 00:00:18
勲はといえば、彼はその自殺に幾分か失敗する。(中略)
しかし三島は、それ自体うかがい知りえぬ肉体的苦痛の領域に天才的な直感をはたらかせて、この叛逆の若者に、
彼にとってはあまりに遅く来るであろう昇る日輪の等価物をあたえてやったのだ。腹に突き立てられた小刀の
電撃的な苦痛こそ、火の球の等価物である。それは彼の内部で赤い日輪のような輝きを放射するのである。

マルグリット・ユルスナール「三島由紀夫あるいは空虚のヴィジョン」より
0230無名草子さん
垢版 |
2010/11/05(金) 10:50:25
「まさか、死ぬとは! すごいショックだ。
自分もずっと演説を聞いていたが、若い隊員の野次でほとんど聞き取れなかった。――死を賭けた言葉なら
静かに聞いてやればよかった。」
陸上幕僚T三佐
三島自決直後の談話


「三島の自決を知ったあとの隊員たちの反応はガラリと変った。
だれもが、ことばを濁し、複雑な表情でおし黙ったまま、放心したようであった。
まさか自決するとは思っていなかったのだろう。その衝撃は、大きいようだ。」
自衛隊の最高幹部
三島自決の日の談話

福島鑄郎「資料・三島由紀夫」より
0231無名草子さん
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2010/11/05(金) 10:51:48
バルコニーで絶叫する三島由紀夫の訴えをちゃんと聞いてやりたい気がした。
ところどころ、話が野次のため聴取できない個所があるが、三島のいうことも一理あるのではないかと心情的に
理解した。野次がだんだん増して行った。舌打ちをして振り返った。
…やるせなかった。無性にせつなくなってきた。
現憲法下に異邦人として国民から長い間白眼視されてきた我々自衛隊員は祖国防衛の任に当たる自衛隊の
存在について、大なり小なり、隊員同士で不満はもっているはずなのに――。
…部隊別に整列させ、三島の話を聞かせるべきで、たとえ、暴徒によるものであっても、いったん命令で集合を
かけた以上正規の手順をふむべきだ。
こんなありさまの自衛隊が、日本を守る軍隊であるとはおこがましいと思った。
三島がんばれ!…心の中でそう叫んだ。

K陸曹
三島演説を振り返って

福島鑄郎「資料・三島由紀夫」より
0232無名草子さん
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2010/11/05(金) 10:55:10
被告たちに憎いという気持ちは当時からなかった。
(中略)
国を思い、自衛隊を思い、あれほどのことをやった純粋な国を思う心は、個人としては買ってあげたい。
憎いという気持ちがないのは、純粋な気持ちを持っておられたからと思う。

自衛隊市ヶ谷駐屯地、益田総監
三島裁判での証言より
0233無名草子さん
垢版 |
2010/11/05(金) 15:26:10
糞もたっぷり投げつければいくらかへばり付く
0234無名草子さん
垢版 |
2010/11/05(金) 19:43:00
三島は殺傷の目的でやったとは思わぬ。これは覚悟の事件でおそらく自分の考えていることを完結させる必要上、
三島から言わせれば義挙の正当防衛として妨害を排除したのであろうと私は想像する。彼は非常な愛国者であって、
日本文学の声価を国際的にも高めているし、ともかく非常に天才的な作家であるということを考えて、三島君のものは
出来るだけ読むようにしている。私が三回会ったときの印象では文武両道の達人だという印象をもったが、特に
愛情の厚い人だということを非常に感じた。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
0235無名草子さん
垢版 |
2010/11/05(金) 19:44:33
実は新聞記者に内閣の考えを出せと執拗に責められたが、内閣側は黙して語らずで、官房長官もなんの発言も
しなかった。自分としてもこれはむしろ内閣官房長官が談話を発表すべきものであると思うが、止むを得ず
自分が新聞記者会見をやった。そして排撃の意思を強く打ち出したのだ。
誤解のため鳴りつづけの電話その他で、随分ひどい目に会った。
三島君が死を賭してもやらなければならんという問題については、私自身もかなり政治家としてショックを受け、
率直に申してその晩は実は一睡もしなかった状態であった。(中略)
もし実際に運動を起して蠢動するような部隊が出てきたら大変なことになると思い、断固としてあえて強い
語調の言明をしたというのが私の心境だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
0236無名草子さん
垢版 |
2010/11/05(金) 19:46:48
訴えんとするところは理解できるが、その行動は容認できない。三島君らの死の行為の重みに対しては、我々が
言葉でとやかくいってもとても相対しうるものではないと私は思う。やはり死ということは非常に深刻厳粛なる
ことと思う。これに対し口舌を尽すことは好まない。しかし他面死を以て行なった行為に対して、彼はなにかを
我々に言わせようと思って死んだのかもしれない。それを黙っているということは、死という重い行為に相対するに
適当なりやという煩悶も実はあるわけで、あれこれ私は熟慮の末、この法廷に出てきたのだ。
死は精神の最終証明である。たましいの最終証明は死である。精神というものは死ぬまで叫びつづけて
いなければならない。たとえ少数であろうとも。むなしいことかも知れないが、すぐはききめがないにしても、
歴史の過程において聞いてくれる人は出るだろう――そういう期待でやったのではないかと私は把握した。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
0237無名草子さん
垢版 |
2010/11/05(金) 19:48:09
三島事件とは美学的な事件、芸術上の事件ではなく、一個の思想上の事件であって、日本の思想史の上からみても
あとをひく問題になる。我々はやはり正直にそれを受けとめて、おのおのこの問題を自分で精神的に解決して
いかなければならない問題である。やった人間個人をにくむ気持はない。三青年(楯の会の)も別に情状酌量や
刑期の短縮を考えている人間ではないだろうと思う。私も情状酌量してくれとかなんとかいうことは申しません。
ただ彼らがなんでやったかということだけは十分に調べて正確に判断し、後世に示していただきたい。
檄の内容については、彼自身の祖国愛、一種の理想主義というか不易な精神、歴史的理想主義をここで鮮明にして
世を覚醒しようとした気持はわかる。我々も、これを十分にかみしめ消化すべきで、我々はこのことを回避したり
ごまかしたりしてはいけない。三島君は吉田松陰の
『かくすれば、かくなるものと知りながら、やむにやまれぬ大和魂』、そういう気持でやったのだと思う。
私は彼と考えは違うけれどもその行動自体を憎む気持よりも、むしろいたわりたい気持だ。

中曽根康弘
三島裁判の証言より
0238無名草子さん
垢版 |
2010/11/06(土) 16:53:42
おかま魂
0239無名草子さん
垢版 |
2010/11/06(土) 17:12:34
戦後二回だけ復活した高等文官試験の二回目が昭和二十二年に実施された。大蔵省の面接試験はその年の十二月に
麻布二の橋の大蔵省公邸(…旧渋沢邸)で行われた。
面接の順番待ちの時、ふと隣を見ると“例の男”がいるではないか。“例の男”とは私が当時住んでいた
渋谷松濤に近い旧大向小学校前の通りでよく行き会ったことがある男だ。黒髪豊かで白皙、頬の髯の剃り跡蒼々とし、
面長で額広く眉が濃くて目がぎょろりと大きな、一度会ったら忘れられないあの男である。如何にも育ちが
よさそうで眉目秀麗な貴公子風の顔でありながら、妙に人なつっこい魅力も漂わせていた。
彼は平岡と名乗り、「実はおやじが農林省の役人だったので、どうしてもお前も役人になれ、できれば俺が
予算でいじめられた大蔵省に入れと強く迫るので、本当は他にしたい仕事もあるのだが、父親孝行のために
大蔵省に志望してここに来ているのだ」という説明をした。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より
0240無名草子さん
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2010/11/06(土) 17:13:29
私たちは昭和二十二年十二月付で採用ときまったが、平岡さんはすでに大学を卒業していたので即事務官として
採用され(二十二年後期組)、私の方は未だ在学中だったので、卒業予定の翌年三月まで「無給嘱託」という
辞令を渡された(二十三年前期組)。
これは二十二年後期組の人から聞いた話だが、このクラスの初顔合せで各自が自己紹介した時、彼は
「こんなのっぺりした野郎でござんすが何分よろしく」と挨拶したそうである。
平岡さんは最初、銀行局国民貯蓄課に配属された(給与は一八〇〇円ベースの時で、初任給は基本給一三五〇円)。
当時の国民貯蓄課はM課長の下にH課長補佐がおり、平岡さんはH課長補佐の部下として貯蓄奨励などに関する
大臣の挨拶原稿の下書きを命ぜられていた。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より
0241無名草子さん
垢版 |
2010/11/06(土) 17:17:01
大臣の挨拶文は当然ひとつの定型があり、H補佐は前例の挨拶文を平岡さんに示して、それにならって草案を
まとめるように指導したのだろう。
ところが平岡さんの作る草案は普通の官庁文書に使われたことかない美辞や修辞句に溢れた破天荒なものであった。
M課長やH補佐としては何とか折角の文才を生かしながらこれを定型的な官庁文書の鋳型にはめこむための添削、
推敲に苦労したらしい。
他方、平岡さんの方からすれば、今まで人から手を入れられたことがない自分の文章が完膚なきまでに直され、
無機質、無味乾燥な官庁文書に変形してゆくことで著しくプライドを傷つけられる面もあったようだ。ともかく
文豪三島由紀夫の文章に手を入れたのは後にも先にもこのM課長とH補佐だけということは、旧大蔵省時代から
長く語り伝えられた伝説である。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より
0242無名草子さん
垢版 |
2010/11/06(土) 17:18:05
当時の大蔵省は、霞ヶ関の庁舎がGHQに接収されていたため国電四ッ谷駅のすぐ西側の四谷第三小学校の
校舎に仮住まい中であった。渋谷に住んでいた平岡さんは私と同様、渋谷駅から代々木まで山手線に乗り、
代々木で総武線に乗り換えて四ッ谷駅下車というルートで通勤していた。
比較的早い時刻での役所からの帰途、よく一緒に空襲で未だ焼け跡だらけの渋谷の町を歩いた。そんな時、
「昨夜は殆んど徹夜だったので今日は目がかすみ、頭が朦朧として、課長から作成を指示された資料の数字を
何ヵ所も間違えて大分油をしぼられたよ」とこぼしていた。まだ文壇に本格的にデビューする前であり、彼の
作家活動を余り認識していなかった私は、「この人、徹夜までして一体何をしているのかな」と一時は思ったりした。
私が入省して半年くらい経った昭和二十三年九月、偶々前述のM課長が私の上司となっていた時、平岡さんが
役所を辞めるのでM課長のところに挨拶にきた。その折私の席にも立ち寄って次のような話をしてくれた。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より
0243無名草子さん
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2010/11/06(土) 17:19:55
「和田君、君には入省面接の際、おやじ孝行でこの役所を志望したといったが、実はもっと重要な理由があったのだ。
それは生活のために書く小説はとかくいじけたものになりがちなので、森鴎外(軍医)のように生活の支えは
作家とは別の職業に求めたいという考えがあったわけだ。そしてできることなら役人生活を続けながら作家活動を
続けてゆきたいと願っていたが、役所の仕事を忠実にやると自分の精力と時間の相当部分を費さなければ
ならないので、役所というところは仕事と文筆稼業を両立させがたい職場であることがよくわかった。偶々最近
僕にもやっと大きな出版社から声がかかるようになったので自分の“ヰタ・セクスアリス”のようなものを
書いてみようと思っている。僅か八〜九ヶ月の御奉公で去ることは折角採用してもらった大蔵省には申し訳ないが、
これを機会に役所を辞めることにしたよ」と云って彼特有の大口をあけて哄笑して去っていった。
因みに(略)短編「訃音」で彼は役所での体験を基にして主人公の財務省金融局長をカリカチュア風に描いてみせ、
また同じ頃、「大臣」という短編で彼の在職時のK蔵相を風刺している。

和田謙三「平岡公威さんとの忘れ難き出会い」より
0244無名草子さん
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2010/11/07(日) 00:08:09
私は、ミシママニアです。(中略)
今となっては何歳の頃に読み始めたのか判然としないのですが、私が三島由紀夫に激しく惹かれるようになった
きっかけがその比喩表現にあるということは、はっきり記憶しています。比喩を一つ読む度に、私はほとんど
肉体的快感に近いような興奮を覚え、その快感を味わいたいがために、あれもこれもと読むようになっていった。
三島由紀夫の比喩表現は、なぜ快感をもたらすのか。……と考えてみると、「まるで○○のような××」という
表現において、比喩である○○が私の心の中で描く曲線と、比される実体である××が描く曲線とが、完璧に
シンクロしているから、なのです。フィギュアスケートのアイスダンスやマスゲームといった「よく揃ったもの」を
見ると無性に心の萌えを覚える性質の私が、彼の比喩に陶然とするのは、自明のことなのでしょう。
「よく揃ったもの」が好きな私は、制服というものを好みます。そして三島由紀夫も、この方面については
かなりのいけるクチだったに違いないと、勝手に信じている。

酒井順子「究極の制服好き」より
0245無名草子さん
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2010/11/07(日) 00:09:40
三島由紀夫は、高等科までを学習院で過ごしています。学習院の蛇腹の制服は、日本における軍服および学生服
デザインの基礎となったもの。日本においてはこれ以上望めないほど純粋な制服環境の中で、彼は幼少期と
青春期を過ごしたのです。
四十歳を過ぎてから、三島由紀夫は陸上自衛隊富士学校において、幹部候補生達と一緒に訓練を受けています。
「三島由紀夫と自衛隊」(杉原裕介・剛介著、平9・11並木書房)という本によると、訓練課程を終えた記念の
昼食会の席に、三島由紀夫は一等陸尉の階級章のついた制服を着て現われ、仲間の自衛官達を驚かせたとのこと。
「皆さんと同じ幹部自衛官の制服を着たかった」
ということで、富士学校内の売店で見本として飾られていたものを買い取ったのだそうです。この行為とこの発言、
制服好きのものでなくて何でありましょうや。
とどめは、楯の会の制服です。三島由紀夫が自害した時に私は四歳で、楯の会の制服を写真以外で目にした
ことがないのですが、あれが確かに「制服好きが作った制服」であることは、はっきり理解できます。

酒井順子「究極の制服好き」より
0246無名草子さん
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2010/11/07(日) 00:11:29
肩幅を広く見せるための、絞られたウエスト。たくさん並ぶ、金ボタン。それは、制服の美を熟知し、また
自らの姿を制服の中で生かしたいと熱望する人でしか作り得ないものなのです。
楯の会の制服は、フランスのドゴール大統領の軍服に感心した三島由紀夫が、その軍服を縫う手伝いをした、
日本を代表するテーラー・五十嵐九十九氏に依頼をして作ったものだそうです。その折、三島由紀夫は自分で
デッサンを描き、各部分の素材まで指定したというではありませんか。“ああ、やはり……”と、私は思う。
三島由紀夫は、「型」というものに特別な思いを抱く人なのでしょう。制服好き(と断定させていただく)
という性質にしても然り。また彼が愛した歌舞伎にしても、それは型の連続によって、出来上がっていく芝居。
しかし三島由紀夫は、既に存在する型からちょっと逸脱して新しく見えるものをつくるのではなく、新しい型
そのものをつくり出してしまう人です。新作歌舞伎を書き、自分の軍隊の制服を作るという行為は、型の中に
浸るのが好きなだけの人には、決してできないことなのではないか。

酒井順子「究極の制服好き」より
0247無名草子さん
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2010/11/07(日) 00:12:31
何かとシンクロしようてしながら、いつの間にかその何かよりも遠くに行ってしまうように見える、三島由紀夫。
そんな彼を私は、同じ制服好きの下っ端として、目の中でお星様をキラキラさせながら、仰ぎ見るのです。
三島由紀夫と同時代に生きることができなかったことが残念でたまらない私が今、考えてしまうことが、もう一つ。
それは、「三島由紀夫は、自身の転生を望んではいなかったのだろうか?」ということ。
これは、あまりにも子供っぽい想像ではあるのです。が、三島由紀夫が死ぬ前、
〈又、会ふぜ。きつと会ふ。滝の下で〉
などということを誰かに言わなかったのだろうか、いや言っていてほしい……と、マニアとしては妄想を
たぎらせてしまう。
もしも三島由紀夫の生まれかわりが出現するのなら、それは私が生きているうちであってほしい。本多繁邦が
その一生のあいだにあれだけの転生に立ち合ったのであれば、それは不可能なことではないのか……と私は密かに、
けれど結構真剣に、祈っているのですが。

酒井順子「究極の制服好き」より
0249無名草子さん
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2010/11/07(日) 17:09:46
三島さんに初めて逢ったのは、一九五一年の夏だったと思う。
小さい頃から行っていた群馬県の高原の村に、吉田健一さんの山小屋もあった。
三島さんはその頃、吉田さんや大岡昇平、福田恆存、中村光夫さん達の「鉢の木会」というグループに入る事に
なっていて、夏の一日、吉田さんの家で例会があり、父(岸田国士)の所に十人位で遊びにみえたのだ。
姉とわたしはお茶を運んだりしながら、ユーモア溢れる会話に聴き耳を立てていた。
何といってもイジメの対象は、他の人より一廻りは若い三島さんで、三島さんも又、からかわれるのが嬉しいように、
あの独特の笑い声を挙げていた。
皆、その夜は村のクラブに泊まって翌日帰京なさる中で、三島さんだけは二、三日帰るのを延ばすことになった。
「仕事は夜するから」といって、昼間はわたしたち、夏の遊び仲間やその友人と、目一杯遊んだ。
年長の作家たちとのお付き合いでは満たされないものを、少し年下の大学生や芸術家の卵たちと、体を使って
取り返そうとでもするように。乗馬、ボート、ダンス。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より
0250無名草子さん
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2010/11/07(日) 17:11:27
…この村が気に入ったという三島さんは、翌年の夏も一週間ぐらい滞在した。帰りはわたしも一緒だった。
旧軽井沢のパーティーに寄ってそのお家で泊まることになっていた。ちょっと危ないメンバーだったみたいで、
一晩中、わたしの枕元で仕事をしていた三島さんを忘れない。
…その年の秋、わたしは文学座の研究生になった。
文芸部に所属していた三島さんは、一年おき位に作品を提供していて、わたしは文学座にいた十年の間に、
外部出演も含めて三島作品七本、潤色と演出それぞれ一本ずつに出演した。
三島さんは稽古場にもよく顔を見せた。
舞台の出来も気になっただろうけれど、その後で若い俳優たちと遊ぶのが楽しみだったように見えたのは、
わたしの勝手な思い込みだろうか。
皆、作品については十分敬意を払っていた。でも運動神経やファッションセンスに関しては、言いたい放題だった。
自虐的な所のある三島さんが、それを喜ぶことを知っていて、一種のおもねりだったと言えるかもしれない。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より
0251無名草子さん
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2010/11/07(日) 17:14:16
ボディビルやボクシングを始めた時も、遊びのふりをしていたような気がする。
何回戦だかの試合に出た時は皆で見に行った。かなり痛々しかったけれど、いつものように後でさんざん
悪口を言ってあげた。三島さんは嬉しそうに、大きな声で笑った。
舞台の初日には女優の楽屋の化粧前にカトレアの花が届けられ、客席と楽屋を往ったり来たりするのも嬉しそうだった。
本公演ではたった一本の演出作品「サロメ」の時は、見違えるように真剣だった。
様式的な舞台を創ろうとして、俳優たちに一せいに左右へと首を廻すように指示した時、わざと反対の方を
向く人が一人いて、あんなに怒った三島さんを見たことがない。いつも血の気のない顔が、死人のように蒼白だった。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より
0252無名草子さん
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2010/11/07(日) 17:15:20
映画「からっ風野郎」出演の時、ちょうど仕事で同じ撮影所にいたので、三島さんのセットを覗きに行った。
ビールを抜いてたくさんのコップに注ぐ所で、三島さんは何度もNGを出していた。
増村保造監督の「もう一度」の声に、三島さんはますます緊張してリズムが崩れ、ビールが足りなくなって
小道具さんが酒屋に走った。
完成すると三島さんは自宅で試写会を開いた。
さんざん悪口を言われて、やっといつもの自分に戻ったようだった。セットを覗いた話はしなかった。
芥川比呂志さんはじめ、これから一緒にやって行こうと思う若手の俳優たちが、レパートリーに不満を持って、
文学座脱退のことを福田恆存さんに相談しているのは知っていた。福田さんに誘われたわたしは
「三島さんが一緒なら」と言った。
「もちろん僕から誘います。三島君に言うと直ぐ洩れるから話さないように」と念を押された。
お家に招ばれながら黙っているのは辛かったけれど、お二人は「鉢の木会」以来の親友だからと、自分に言い聞かせた。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より
0253無名草子さん
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2010/11/07(日) 17:16:31
京都に撮影で行っていた或る朝、新聞に脱退の記事が出た。三島さんの名前はない。
帰京してすぐ三島さんのお家へ行くと、「新聞に出る前の晩に聞かされて、動けると思う?」と言われた。
福田さんにだまされたと思ったけれど、どうしようもなかった。
「『双頭の鷲』は生きられないんだよ」。福田さんと三島さんのことだ。慰めだったろうか。
「そのうち、又、一緒に何かする機会もあるから」と言われて、帝国劇場で『癩王のテラス』を上演する時、
六年ぶりに呼ばれた。王の病気が感染して、焼身自殺する妃の役だった。
御自身も文学座を脱退し、楯の会を作った三島さんは遠い人のようで、あまり話もしなかった。
初日には、やっぱりカトレアが置いてあった。
「精神が滅んでも肉体は滅びない」という逆説に満ちたこの芝居が、三島さんの最後の戯曲になった。

岸田今日子「わたしの中の三島さん」より
0254無名草子さん
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2010/11/07(日) 23:24:36
吉田松陰が七世紀の壬申の乱のことを『講孟剳記』で語っています。そこで、たとえば弘文天皇が天武天皇に
三種の神器を奪われてしまったとき、レガリアがないとはたしてレジティマシーが天皇としてあるのかという
議論を、前期水戸学が問題にしている。これについて、吉田松陰はそんなことはどうでもいいと言うんです。
三種の神器を天武天皇から弘文天皇の臣下が奪い返せばいいんだと言うんです。つまり認識や理屈よりも行動だと。
実践的な行動が大事だと言っているんです。(中略)
(私は)日本人を非常に信頼しています。特に一般大衆と言いますか、庶民を昔から信頼しています。たとえば
徳富蘇峰が『近世日本国民史』で元禄時代の忠臣蔵、赤穂義士の事件のことについて触れています。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0255無名草子さん
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2010/11/07(日) 23:25:51
あれはいつどういうときに勃発しているかと言いますと、元禄時代ですので、およそ享楽と歓楽の世です。
元禄の世の中は黄金万能主義で拝金万能主義の世の中だと。太平楽で一切戦争から離れて、元禄のデタラメかつ
狂乱の文化を謳歌していた時代に、突如として江戸に腹を斬らなければならない人たちが四十何人も出た
驚くべき事件が出来したと言っている。蘇峰はこれを大正時代の今日に東京丸の内へ虎が飛び出すよりも
驚くべき事件だと言っている。
つまり日本国民に潜在している尚武の気性は、歴史的にいよいよ危機になってくると必ず実践として噴出する
というわけです。山路愛山も福本日南も、歴代の近代ヒストリアンは皆同じです。
まさにその伝で三島由紀夫さんが身を捨てて、戦後の昭和元禄みたいな世の中に警鐘を鳴らしてくれたわけです。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0256無名草子さん
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2010/11/07(日) 23:27:07
確かに表面上はどんどん悪くなっていると思います。たとえば北朝鮮の拉致問題とか、憲法改正問題を含め
何一つ手を付けられない。その背後には日本国民の国家意識の問題がありますね。
たとえば有事法制を作った。北朝鮮で不審船の侵入事件がありましたが、あのときに自衛隊法八十二条で
海上警備行動を発動しようとしましたが、最初は巡視船でやっていて自衛隊はなかなか出ない。私が教えを受けた
坂本多加雄先生に言わせると内閣がもたもたしていたからだと言う。ではなんでもたもたするのかと言うと、
一般国民のなかにそういう構えができていないからです。しかし日本国民は健全だから必ず目覚めると常に
一貫しておっしゃっていました。私もそう信じています。三島さんのような人が、まさに昭和元禄の頃に
突如としてああいう行動を噴出させたようにです。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0257無名草子さん
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2010/11/07(日) 23:28:26
私はどんどん駄目になって遂に破滅に至る、日本が溶解するとは思っていません。近代以前もそうですけれども、
歴史を勉強しているうちに、そんなに捨てたものではないだろうと思うようになりました。
むしろこれから真の三島のような人がまた出てくるであろう。本当の危機のときに必ず日本人は英雄を生み出すと
山路愛山も徳富蘇峰も言っています。そちらのほうに私は賭けたいと思っています。
そもそも日本を溶解に導いているのは、むしろ政治家や知識人といったエリート層です。戦前も戦後も
そのパターンで、大衆国家日本の庶民の常識こそ信じたいのです。そしてそこから英雄が出現するだろうと。

杉原志啓「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0259無名草子さん
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2010/11/08(月) 11:00:48
戦後の日本人に大きな魂を残したのは、三島由紀夫と神風特攻です。これも実はフランス人がそう言っているんです。
ベルナール・ミローが『神風』という本を書いていまして、「特攻の精神は、千年のときを貫いて人間の
高貴さを示している」と1970年代に書いています。戦後の日本人に対して特攻隊と三島の死が非常に大きな
力と言いますか、日本精神の原点は何かということを教えてくれた気がします。
憲法の問題ですが、アメリカが作って翻訳された「たかが成文憲法」です。しかしこのたかが成文憲法を戦後
60年近く押し戴いている日本は一体なんなんだというのが私の今の正直な感想です。自民党がこうなったのも
当然だと思います。

富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0260無名草子さん
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2010/11/08(月) 11:02:13
三島が45年の11月25日に、自民党政権はもはや火中の栗を拾わない、すなわち憲法改正をしなくても
政権は維持できる。このことにどうして自衛隊の諸君は気がついてくれなかったんだと言っています。
そういう意味で、政治論ですけれども、たかが成文憲法を変えられない我々の問題も感じます。
あと二年のうちにということがどういう意味かと考えると、三島没後の72年にあれほど対立していた米中が
手を結びました。つまりあの瞬間に日本の憲法改正も、自衛隊が国軍になる日もなくなった。あるいはその
チャンスが失われかけた大きな危機だったのではないか。今はそれと同じ状況だと思います。スケールは違いますが、
同じ事態が出来している。アメリカと中国が経済同盟を結んで日本をスルーしていく。民主党政権の外交は全く
機能しておりません。

富岡幸一郎「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0261無名草子さん
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2010/11/08(月) 11:03:42
何年も前から檄文のなかにあった二年後というのが気になっていて、一体なんなんだろうとずっと考えていました。
あるとき気づいたんですが、一つは米中接近がありますね。もう一つは沖縄返還です。昭和47年に沖縄返還が
行われることは決まっていて、そのときにどういうかたちで返還されるのか。それによって日本という国家が
相変わらず独立できないまま半独立国家として、アメリカの永久占領が限りなく続いていくことを三島は見抜いていた。
彼が45年の生涯で書いたものの全てが、今の21世紀の私たちに突き刺さってくる問題ばかりを書いている。
それが天才の所以なんでしょうけれども、認識と行動の問題もつくづく考えさせられます。二元論に自分を
追い込んでいって、ラディカリズムがニヒリズムを克服するという方法論をとったのではないかと私は解釈しています。

西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0262無名草子さん
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2010/11/08(月) 11:05:07
(中略)
三島は現実的な問題も、十分捉えていたわけです。二年後に自衛隊はアメリカの傭兵になってしまうと
1970年の時点で言い切っていたのは、米中接近と沖縄返還のことを、すでに視野に入れていたということです。
(中略)
最近よく話題になる核のシェアリングの問題がありますけれども、そういったことも三島さんは考えていた。
それは日本の核戦略はどういうものになるのかと、40年前の時点で考えられ得る現実的なこともちゃんと
提起していた。国土を守るほうの自衛隊を、国軍として成立させることで、日米安保体制下のなかでの日本の
自主防衛をどうしていくかを、40年前のあの制約のなかで考えていたことは素晴らしい慧眼だと思います。

西村幸祐「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0263無名草子さん
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2010/11/09(火) 00:11:54
三島さんの檄文を読んでみますと、説明は少ないんですけれども、「アメリカは真の日本の自主的軍隊が日本の国土を
守ることを喜ばないのは自明である」という文章があります。最後の部分で「今こそわれわれは生命尊重以上の
価値の所在を諸君の目に見せてやる」という有名な科白ですね。「それは自由でも民主主義でもない」と書いている。
これは普遍化のし過ぎかもしれませんけれども、先ほど富岡さんが言った特攻隊問題とも関係ありますが、
あえて分かりやすく言えば、三島さんは特攻世代です。帰されましたけれども、三島さんの頭のなかに、はっきりと
日本の特攻はアメリカ軍と闘ったんだという、当たり前のことが当然のこととして残っている。別に反米とか
なんかではないんです。三島さんの文学その他で、ほとんどアメリカのことなんて歯牙にもかけられていない。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0264無名草子さん
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2010/11/09(火) 00:13:37
逆読みをすると、アメリカなんかは、とてもではないけれども、文学者なり文学者の感性、美意識その他から言って、
自分たちがまともにそれを受け入れるべき存在ではないということが、三島さんにとってはおそらく自明のことだった。
したがって、アメリカが日本の自主独立を喜ぶわけがない。もっと言うとアメリカの自由民主主義は、まともに
受け取る必要のない価値観だと。僕自身が別の径路で誠にそのように思っているんです。
アメリカは元々文明の本質論として左翼国家だとしか思われない。左翼の定義はフランス革命に見られたように、
分かりやすく言えば、自由平等、博愛=友愛等々の、言わば理想主義的な綺麗事で、歴史に対して大破壊を
起こしていくことによって、そこから進歩がもたらされるんだと考える者が、十八世紀の末に左側に座ったと
いうだけの理由で左翼と言われていた。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0265無名草子さん
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2010/11/09(火) 00:15:20
アメリカは元々歴史感覚が、ないとは申しませんが、乏しい国です。アメリカの場合は言ってみれば個人主義的な
方向において近代主義を実現しようという巨大な実験国家だくらいにしか思われない。歴史に巨大な実験を
仕掛けているという意味において左翼国家だと考えるのが、文明論の本道だと思う。冷戦構造の他方の雄である
ソ連その他はなんであったかと言うと、近代主義的なものの考え方を、集団主義的、社会主義的に実現しようとした。
(中略)そう考えたら日本列島の戦後は、アメリカ的なものを保守と見なし、ソ連的なものを革新と見なす
などという馬鹿げた思想の分類軸で、自分を位置づけたり他人を評したりすることが半世紀以上にわたって
行われれば、元は立派な国民、民族でも大概頭も痺れるし背骨も溶けるだろうとどうしても推測してしまう。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0266無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 00:17:00
(中略)
平成に入って少しでも日本がよくなったかと言うと、構造改革論は簡単に言うとアメリカ的なやり方で日本社会を
抜本的に構造的に改革した。典型的人物で言えば小泉純一郎をクライマックスとして現れた構造改革論です。
それがぐちゃぐちゃになったら、今度は鳩山なる人物が出てきて、社会保障だ、弱者救済だとやる。
ソ連がないからアメリカしか残っていないのですが、アメリカのなかにある主流と反主流のシーソーゲームを
日本列島に映し直しているだけです。(中略)
アメリカ文明は歴史が乏しいが故に、結局個人民主主義と社会民主主義の間のシーソーゲームを繰り返すしか
ないのがアメリカ左翼国家の宿命です。もちろんアメリカを馬鹿にしているわけではないんです。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0267無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 00:18:18
(中略)
日本人全体が仮に頭のてっぺんでアメリカ様、進歩主義と言っていたとしても、歴史の慣性がありますので、
戦前戦中を経験した世代はその進歩主義のやり方、自由民主主義のやり方のなかに否応もなく日本の国柄を半ば
無意識に引きずっていた。したがって戦後日本の自由民主党が作り出した平等福祉国家は、たとえば日本的経営を
見ればよく分かるように、日本的なやり方をなんとか組み込むことによって、アメリカに近い国を作ってきた。
ところが昭和が終わる頃から世代交代が起こった。お年寄りの大半はどんどん死んでいく。まだ生存中でも
年寄りよりも若い者のほうがいいという理由で世代交代が叫ばれ、政治だけではなく学界だろうが財界だろうが
全部戦後世代です。
こう見えて僕は昭和14年生まれです。小沢一郎は僕よりも年下です。大概自分を見れば
あいつらろくでなしだろうなということは分かります。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0268無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 00:22:08
戦後に生まれたからろくでなしと言っているのではないんです。戦後は次々と歴史を蒸発させてきた。
昭和世代がとうとう第一線から退くにつれて、ほとんど歴史が蒸発してしまうのが昭和64年までだったと
分かれば、平成の御代は所詮戦後体制の確立であり、憲法体制の一層の実現である。ある種段階的な変化が
ありまして、それこそ日本の国柄を無意識にも引きずるという、昭和の時代の常識の、最後のかけらまでもが
砂漠に没してしまった。歴史なき、国民意識として言えば砂漠のようなところに、結局アメリカで行われてきた
自由民主主義と社会民主主義の間の極めて人工的なシーソーゲームを、この平成の21年間たっぷりやったし、
これからもやり続けるのであろう。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0269無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 00:23:43
こんなことをやっていれば、結局のところわが民族は、アメリカの半ば無自覚の猿真似のうちにギッコンバッタンで
脳震盪を起こして、そのうちにぶっ倒れるのが落ちである。
三島礼賛をする気はないけれども、心持ちから言えば、三島さんの猿真似でもやって、いつ何時でも死ぬに
やぶさかではないぞというくらいの感じでいるべきです。三島さんが最後どうして自死できたかと言いますと、
本当に絶望していたのではないか。何に絶望していたかと言うと、馬鹿な文学者たちは、三島さんのことを
自分の文学の能力の限界に絶望したなんてアホなことを言っていますが、そうではなくて、日本人に絶望して
いたのではないか。あれからもう39年です。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0270無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 00:24:49
全く希望がないとは言わないけれども、39年という凄まじい時間の持続を経て、我々がどれほど深々と砂漠の
なかに足を突っ込んでいるかを考えたら、そこで尚かつものを言うとしたら、日本人にはほとんど一切希望を
持つことができない。要するにこの社会はいずれどうしようもなく大脳震盪を起こして、周章狼狽、茫然自失に
陥るであろう。皆さんを励ます意味で言うと、何かある程度の覚悟と認識を持って、ある程度責任ある行動を
とろうとしたら、ほぼ負けを覚悟しないといけない。頑張ればいいことが起こるだろうなんていう生易しい
状況のなかにあるのではないと思います。逆に言うと、負けを覚悟しないとものを言う気がしません。
勝つだろうなんていう希望はどこを見渡したってないのに、「頑張れば勝ちますよ」と言うのは、最も人間を
疲れさせる励ましの言葉であって、高らかになんの希望もないのであるとにこやかに言うべきだし、本当に
そこまできていると思っています。

西部邁「第39回憂国忌『現代に蘇る三島由紀夫』」より
0271無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 10:51:09
ある政治家が「狂気の沙汰」と呼び、これに迎合するかのようにある作家が「精神分裂症」と診断した。
病理学的な狂気は三島由紀夫君にはなかった。
狂気とかたづけてしまえば、その時点で政治家も作家も、一切の思考を停止し、責任を回避することができる。
ソ連のような国では、多くの健康な作家が精神病院に入れられている。独裁者と怠惰な思考喪失者にとっては、
人を狂人あつかいにすることほど簡易軽便な処理法はない。
「賊と呼び狂と呼ばんも、他評に任ぜん」という句は、維新志士たちの辞世の漢詩にときどき出てくる。
出典はシナにあるかもしれぬが、これが古今に通じる志士の心である。
三島君自身も狂人呼ばわりの「他評」はもとより覚悟していた。

林房雄「悲しみの琴」より
0272無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 10:52:23
だいぶ以前のことだが、三島君は私の家に遊びに来た時、デパートの売子たちの無知と無礼粗暴な態度を怒り罵倒し、
「こういうのが現代の若者だというなら、僕はできるだけ長生きして彼らが復讐を受けるのを自分の目で見てやりたい。
それ以外に対抗策はありませんね」と真顔で言って私を笑わせてたことがある。
彼にもこのような意味の長生きを考えていた一時期があった。
いわゆる「夭折の美学」を捨て、図太く生きて戦後の風潮と戦ってやろうと決意したのだ。

彼が週刊誌に荒っぽい雑文めいたものを書きはじめ、グラビアにも登場しはじめたとき、「いったいどうしたのだ」
とたずねたら、「戦後という世相と戦うためには、こんな戦術も必要でしょう」と笑って答えた。
だが、この「長生き戦術」または「毒をもって毒を制する戦略」はやがて捨てられた。
怒れる戦士は迂回作戦を軽蔑しはじめ、単刀直入を決意した。
『英霊の声』はこの視角から読まねばならぬ作品である。

林房雄「悲しみの琴」より
0273無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 10:54:35
三島君の熱望は決して政治概念としての天皇の復活、したがって明治憲法復元論でもなく、ただ左右の全体主義
(共産主義とファシズム)に対抗する唯一の理念としての「文化の全体性と統括者としての天皇」の復活と
定立であった。
このような定立が、「古代の夢」は別として、日本の歴史において実現された実例があったかどうかは
論争的として残るが、その試みが幾たびか行われて、多くの忠臣と志士がこの夢に命を捧げたことは事実である。

林房雄「悲しみの琴」より
0274無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 20:11:20
三島由紀夫君と森田必勝君のことを思うと、思いうかべるのは、やっぱり満開の時を待つことなく自ら散った
桜の花であります。これを総理大臣は「狂気の沙汰」と呼び、防衛庁長官は「せっかく育った民主主義にとって
迷惑千万だ」と言った。おとなしい日本国民も、この軽率な発言にはびっくりしました。「狂気の沙汰」は
まさに彼らの発言の方でありましょう。事件の意味を深く考えることなく、即座にこんな軽率な言をはくのは、
少なくとも「正気の沙汰」ではありません。あるイギリス記者は目を泣きはらして、村松剛君に言ったそうです。
「この事件で三島を弁護した政治家はなぜ一人もいなかったのか。こんどほど、三島由紀夫が偉大に見え、
日本の政治家が矮小に見えたことはない」
そのとおりでありましょう。
作家としての三島君の姿は、私どもの目には、まさに花盛りの桜でありました。だが、彼自身の目は文学者の
魂を通して日本の現状と未来に向けられていました。

林房雄「弔辞」より
0275無名草子さん
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2010/11/09(火) 20:13:07
コピペつまらん。
自分がどう思うのか書いてよ。
0276無名草子さん
垢版 |
2010/11/09(火) 20:14:29
…いつわりの平和と繁栄――平和憲法、経済大国、福祉社会、非武装中立という、政府と与党、野党と
俗流ジャーナリズム合作の四つの大嘘の上にあぐらをかきつつ、破滅の淵に向って大きな地すべりを始めている
日本の実状を敏感に予感し、予見して、この十年間あまり、絶えず怒り憂いつづけてきたのであります。彼は
私との対話「日本人論」の冒頭に、この怒りと憂いを告白しております。また、「政治家というものは詩人や
文学者が予見したことを、十年ほどすぎてやっと気がつく」とも言っております。(中略)
明日にでも“政治的連鎖反応”が起るというのではありません。これは精神と魂の問題であります。三島君と
その青年同志の諌死は、「平和憲法」と「経済大国」という大嘘の上にあぐらをかき、この美しい――美しく
あるべき日本という国を、「エコノミック・アニマル」と「フリー・ライダー」(只乗り屋)の醜悪な巣窟に
して、破滅の淵への地すべりを起させている「精神的老人たち」の惰眠をさまし、日本の地すべりそのものを
くいとめる最初で最後の、貴重で有効な人柱である、と確信しております。

林房雄「弔辞」より
0277無名草子さん
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2010/11/09(火) 21:10:19
あの檄文を飛ばし、あれらの言動によって訴えようとしたことがらによって、同業の文学者がそれを彼の美学の
中の問題だけに閉じこめてしまおうとしても、その政治的社会的意味を拭い去ることは出来まい。
三島氏も友人に宛てた遺書の中で、たとえ他がこれを狂気といおうとも、と断っている。ということは、氏自身が
社会的政治的に見て、あの行動が他から眺めれば、狂気とも愚行ともとれ得ることを承知した上で行なった、
他が何といおうと氏にとっては、絶対に社会的政治的な行為であったに違いない。そして、あの行為の中に、
三島氏の文学と政治的現実の痛ましい接点、氏の観念と肉体の破滅的な合致があったに違いない。
だから、あの行為の果ての三島氏の死を、三島由紀夫における文学的な死にすぎぬといういい方は、たとい
その言動が社会的政治的にどのようにしか評価されなくても尚、三島氏の意を汲まぬものでしかあるまい。

石原慎太郎「三島由紀夫への弔辞」より
0278無名草子さん
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2010/11/09(火) 21:11:22
彼の死を、彼の美学的結論として、彼を社会的政治的見地からの非難から救出することは易しいし、あるいは
また、あの行為を政治的社会的に無意味といい切ることも易しい。しかし、三島氏一人のためだけではなし、
我々自身のためにも必要なことは、事件を二つのカテゴリイの接点として捉えることに他なるまい。(中略)
三島氏が絶叫したように、国軍を違憲とする現行のおかしな憲法は改正される可能性は依然少なく、この間にも
以前記したように、法理論的には顕らかに憲法違反の自衛隊を合憲とする政治の欺瞞はつづいている。その
慢性化した欺瞞に支えられた社会的怠惰の内に、「日本」という我々の祖国、「日本人」という我々民族自身の
個性は阻害され、喪われつつある。その個性とは、伝統であり、同時に、新しい何かをつくる純粋な可能性である。
私はかつて三島氏と、何を守るためになら、命を賭けることが出来るか、という対談をしたことがある。二人の
意見は、食い違っていたようで、その実、本質的には大差なかった。

石原慎太郎「三島由紀夫への弔辞」より
0279無名草子さん
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2010/11/09(火) 21:12:16
(中略)
現実、日本の伝統は冒され、今までそれをはぐくんで来た日本の個性は損われ、喪われつつある。それを冒すものは、
私たち自身の内と外にある。
今日の偏向した教育がもたらした、多くの日本人の自らの歴史と現実への歪んだ歴史的認識、軽挙としか
いいようのない、決して進歩的革新的ならざる進歩派的政治的価値感が、自らの内にあり、外には、欺瞞に
支えられた安易で不毛な政治がある。
心あるものは、この現実に、国を愛するが故の危機感を抱いている。三島氏もその一人であった。そして、
彼の行動は、その形の有効性への議論はさておいて、とにかくその危機を阻止するためにとられたことに
違いはあるまい。(中略)
私は何よりも、一人の敬愛する友人を突然、ああした形で喪ったことで混乱し、当惑し、哀惜の内に、まだよく
ものが見えて来ないままにいる。

石原慎太郎「三島由紀夫への弔辞」より
0280無名草子さん
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2010/11/09(火) 21:13:17
私自身に、奇妙ともいえる暗遇があった。事件の前日、私は都内のあるところで講演し、(中略)そしてその夜の
明け方、私は久しぶりに三島氏の夢を見た。私にとって、確か二度目のことだった。彼と私はあるジムナジアムにいた。
彼は私に、今まで新しく覚えた拳闘、剣道、居合い、ボディビルを披瀝したように、思いがけず、最も困難な
吊り輪の体操を見せてくれた。私は、それまで多寡をくくっていた彼の筋肉がとうとうここまで来たのか、
と夢の中で驚かされた。両手を開いての吊り上がり、更に倒立と至難の技を見せた後、彼は私が初めて見る
不思議な姿勢で、水平にした体を片手で吊りながら、こちらに背を見せて静かに床の上に身を横たえた。
同じその仕草を、私は二度くり返して見た。そして、彼の体中に、何故かまぶしたように薄く青い、死に化粧に
似た彩色がほどこされてあった。
そして次の日の昼、私は思いがけぬ形で、彼の訃報を聞いたのだ。かけがえのない才能の喪失を惜しみながら、
私には、それを喪わしめたこの出来事についてまだまだ解けぬことが多すぎる。

石原慎太郎「三島由紀夫への弔辞」より
0282無名草子さん
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2010/11/10(水) 11:13:31
三島が大蔵省を九ヶ月で辞める決心をしたのは、河出書房からの書下ろし長篇小説の執筆依頼がきっかけだった。
起稿は昭和二十三年十一月二十五日。この日付は「仮面の告白」を書く動機とからめて注目しておいたほうがよい。
なぜなら三島の自決は二十二年後の同じ日だったから。
…初版には「『仮面の告白』ノート」として、
〈この本を書くことは私にとつて裏返しの自殺だ。飛込自殺を映画にとつてフィルムを逆にまはすと、猛烈な
速度で谷底から崖の上へ自殺者が飛び上つて生き返る。
この本を書くことによつて私が試みたのは、さういふ生の回復術である〉と付された。
「仮面の告白」によって、ようやく自分が生まれ変われた、新しく誕生したのだ、としたらその生を消滅させるのも
同じ日でなければいけない……。

猪瀬直樹「三島の『生の回復術』」より
0283無名草子さん
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2010/11/10(水) 11:14:37
すでに読者は承知しているが「仮面の告白」の前半は主人公の同性愛的な傾向が記され、後半は「園子」との
初恋が描かれて、前半と後半が分裂した印象を与えている。
三島は自分がどこかおかしい、人と違うのではないか、と気づいていた。これは「ペルソナ」で明らかにしたのだが、
「性と生活」の著者であり心理学者の望月衛を執筆前に訪ねているのである。
…三島は必死で自分をつかもうとしていた。
「仮面の告白」が「生体解剖」だとしたら、方法は徹底的に自分を描写し客体化してみること、と考えた。
公表された資料に精神科医・式藤隆三郎宛の手紙がある。望月とは「仮面の告白」執筆前に会ったが、式藤には
書き上げた作品を送った。式藤の返事はあっさりしたもので自著とハガキを寄越したのみだった。
もの足りなかった三島はあえて手紙を書く。

猪瀬直樹「三島の『生の回復術』」より
0284無名草子さん
垢版 |
2010/11/10(水) 11:16:27
〈「仮面の告白」に書かれましたことは、モデルの修正、二人の一人物への融合、などを除きましては、凡て
私自身の体験から出た事実の忠実な縷述〉
〈正常な方向への肉体的無能力について、より多く悩んでをりましたので、告白は精神分析療法の一方法として
最も有効であらうと〉…
診断名を訊きたかったのだ。十分な材料を与え得たつもりであった。だが式藤からは期待したような返答は
来なかったようだ。
…後半の「園子」との初恋も、新資料で確認できた。人妻となった彼女と三島は偶然に「麻布」で出会う。
…昭和二十一年九月十六日午後一時五十分、時刻まで記録したのは、三島のショックの度合いの大きさを示している。

猪瀬直樹「三島の『生の回復術』」より
0285無名草子さん
垢版 |
2010/11/10(水) 11:17:21
〈その日一日僕の胸はどこかで刺されつゞけてゐるやうだつた〉
〈前日まで何故といふことなく僕は、「ゲエテとの対話」のなかの、彼が恋人とめぐりあふ夜の町の件を何度も
よんでゐたのだつた。それは予感だ。世の中にはまだふしぎがある。そしてこの偶然の出会は今度の小説を
書けといふ暗示なのか?書くなといふ暗示なのか?〉とある。
僕は「園子」に確かめていた。「麻布」ではなく「信濃町」の違いのほかは「あのままでした」と述べている。
「生の回復術」には、自分のおかれた環境に対する克服の意味が込められてもいる。
初恋の失敗の遠因を遡っていけば、自分の生い立ちを振り返ることになる。
だから三島の心理的時間のなかでは「仮面の告白」は前半と後半が分離していたわけではないのである。

猪瀬直樹「三島の『生の回復術』」より
0286無名草子さん
垢版 |
2010/11/10(水) 11:36:18
三島由紀夫が小さな出版社の名前を付けた話はあまり知られていない。
三島には終戦の年の十月に勤労動員の疲れから腸チフスに罹って亡くなった妹がいた。
…たまたま私の家内がその妹の美津子と女学校時代の同窓だった。母倭文重からその話を聞いた三島は
「あなたの奥さん、うちの妹と同級だったんですって……よかったらいちど遊びにいらっしゃいませんか」と言った。
そのころ家内は月刊の俳句雑誌『俳句とエッセイ』のほか、詩集や演劇関係の本を出す小さな出版社をはじめる
準備をすすめていた。後日揃って大森の新居に伺って、ロココ風の客間で歓談のとき三島は「こんどの出版社の
名前は何んていうの」と聞いた。私がいくつかの候補の中から牧神と牧羊の名前をあげたとき、三島はズバリ
「牧羊社がいいね」と言った。このとき家内の要望を容れて大判の色紙を用意し、墨痕鮮やかに「牧羊社」と
揮毫をしてそのわきに三島由紀夫と署名した。こんな縁で命名の儀式は思いがけなくトントン調子に行われた。

川島勝「三島由紀夫の豪華本」より
0287無名草子さん
垢版 |
2010/11/10(水) 11:37:32
…書斎に通されたとき、私は書棚に並んでいる一冊の本が目にとまった。堅牢な黒い外函の中にベージュ色の
フランス装の本が繭玉のようにひっそりと収まっていた。
ルミイ・グウルモン著、ジョルジュ・エスパニヤ画の「シモーヌ」堀口大学訳の詩画集であった。
三島は「これ学生のころからの愛蔵本ですよ。いつかぼくもこんな本を作りたいね。『岬にての物語』なんか
ぴったりと思うんだがね」といたずらっぽく言って爆笑した。
…この日は夕方までお邪魔をした。庭続きに住む両親の平岡梓夫妻も招んで、瑶子夫人の手料理の歓待を受けた。
…三島は父親と同席のときはたいてい聞き役に回っていたが、この日はとくに妹美津子と家内を重ねて当時のことを
思い出していたのか心なしか寡黙にみえた。

川島勝「三島由紀夫の豪華本」より
0288無名草子さん
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2010/11/10(水) 11:39:49
この訪問がきっかけとなり発足間もない牧羊社で三島由紀夫の「岬にての物語」の豪華本を出すことになった。
装幀、造本について私はまえに担当した三島作品の「永すぎた春」で評判のよかった初山滋の抽象的な色感あふれる
絵を頭の中に描いていたが、三島は「ぼくもいろいろ考えたが蕗谷虹児はどうだろうか」と言った。
高畠華宵や加藤まさを風な少女像も魅力だが、蕗谷虹児の様式美の方がこの作品にふさわしいというのが
三島の意見だった。話がまとまって私は(中略)蕗谷虹児のアトリエを訪ねた。
応接間に現れたのは繊細な画風からは想像もできない漁師のように日焼けした骨太の老画家だった。
蕗谷は三島からの名指しの依頼を喜び、アトリエの棚の上から一枚の金地の色紙をとって私に下さった。
花嫁人形の絵の脇によく知られた詩が書かれていた。
この「花嫁人形」の作詞家が蕗谷虹児だったことを、私はその時まで不覚にも知らなかった。

川島勝「三島由紀夫の豪華本」より
0289無名草子さん
垢版 |
2010/11/10(水) 11:40:45
「岬にての物語」の主調低音に三島の若き日の失恋の思い出があった。そんな心象風景のなかにこの歌詞が
どのように映っていたのか……
三島は「花嫁人形」の作詞家が蕗谷虹児と知ってこの画家を選んだのだろうか。
それから三ヶ月がたって、彩色されたあえかな少女像と黒白の五枚の線描きの挿絵が完成した。
蕗谷はテレたように「少々、苦心したんですよ」と自信ありげに言った。
「蕗谷虹児の少女像」のなかで三島は
〈……そしてどこかに漂ふかすかな「この世への拒絶」「人間への拒絶」ほど、「岬にての物語」の女性像として
ふさはしいものはないばかりでなく、おそらく蕗谷氏の遠い少年の日の原体験に基づいてゐるにちがひない……〉
と記しているが、ここには妹の死と失恋と三島自身の青春への訣別が色濃く反映されていた。
(略敬称)

川島勝「三島由紀夫の豪華本」より
0291無名草子さん
垢版 |
2010/11/11(木) 00:22:10
主人比呂志は一九八一年の秋に逝った。
…三島さんと比呂志は、文学座時代の演劇の仕事を通じて、約十二年間のおつき合いがあった。(中略)
後年の「黒蜥蜴」(六三年)は、三島さん脚色、演出は松浦竹夫さんで、比呂志は探偵明智小五郎、女賊は
水谷八重子さんだった。
終演後、ロビーで今は亡き顔見知りの方々と談笑されていた三島さんは私を見付け近寄って来られ
「今夜の芥川さんは、六代目(尾上菊五郎)のようでしたよ」と仰言った。
帰宅後主人に伝えると「三島一流の皮肉だよ」と苦笑して云う。その時は解らなかったが、あとで三島さんの
評論集「美の襲撃」を読むと比呂志の言葉が理解できた。三島さんが、不世出の名女形として高く評価していた
六世中村歌右衛門と、六代目菊五郎についての、比較論めいた文章にぶつかる。

芥川瑠璃子「鮮やかに甦るあの頃」より
0292無名草子さん
垢版 |
2010/11/11(木) 00:23:30
ながい劇団関係のおつき合いともなると、さまざまな出来ごとがあり、三島さんも比呂志も文学座を離れることになった。
(中略)三島さんは比呂志宛に、数多くの署名入りのご著書を贈ってくださり、私も時々借りては読んだ。
「美しい星」(新潮社)の読後、何やら興奮した比呂志は三島さんにお電話した。
劇化したい旨の相談だったらしいが、長電話に辟易されたのか断られた様子。
その時は迚も残念そうだったが、常々うちで三島さんのことが話題になったりするとき
「三島、あれは天才だよ」は変らなかった。

芥川瑠璃子「鮮やかに甦るあの頃」より
0293無名草子さん
垢版 |
2010/11/11(木) 00:25:15
…後年、三島さんがお亡くなりになる一ヶ月前に、浪曼劇場で「薔薇と海賊」が再演された。終演後に
三島さんが涙を浮べ「海賊だらけになっちゃった」と呟かれたという。
同じ頃、学習院時代の先輩で「赤絵」の同人誌などで親交のあった、早逝された東氏を悼み「東文彦作品集」
(講談社)のために序文を書き、刊行の労をとられたという。
一流の皮肉や、あの有名な高笑いのかげに、「三島由紀夫十代書簡集」の頃の面影が浮ぶ。純粋な心情と
あたたかさを想う。
三島さん没後、夫人の要請をうけて、主人は病躯を押して「サド侯爵夫人」を演出。
逝く二年前には「道成寺」も演出したが、「源氏供養」は念願のみで終ってしまった。
――三島さんと主人の過した、さまざまな演劇の世界、時の流れは今も消えず、折々の想念のなかに、
いまも鮮やかに甦りをつづけている。

芥川瑠璃子「鮮やかに甦るあの頃」より
0294無名草子さん
垢版 |
2010/11/11(木) 19:45:00
少年の頃、父親の書棚に見つけた「美徳のよろめき」にこころが騒いだ憶えがある。
その見知らぬ言葉の配列は、油断すると血の匂いでも嗅いでしまいそうなたしか暗緑色と褐色の曲線でデザイン
された装幀以上に、こころが傷つけられたような印象がした。
そのせいか、多いとはいえない父親の蔵書にひととおり目を通したはずなのに、「美徳のよろめき」だけは、
書棚が設えてあった陽当りの悪い坪庭に面した廊下で床板の軋みを聞きながら読んだ記憶がない。
…いまでも読み返すことの多いこの作品をはじめて読んだのは、暗い意匠のほどこされた箱入りの本でではなく、
それに比べたらむしろ軽やかな印象さえする硬質なタイポグラフィで表紙が飾られた文庫本でだった。
実家を離れて東京の予備校に通いだしてからだったと思う。

売野雅勇「言葉の音楽」より
0295無名草子さん
垢版 |
2010/11/11(木) 19:46:37
当時、通学に一時間以上かかる私鉄電車の中で繰り返しページを開いていた文庫本が二冊あって、ひとつが
「コクトー詩集」で、もう一冊が「不道徳教育講座」だった。
…優雅さや皮肉といった、大人の秘密の匂いの予感に怯んだのが「美徳のよろめき」だとすれば、
「不道徳教育講座」は(そして、おそらく「コクトー詩集」も)、それらを享受するための練習だったのかも
しれない――それにしてもなんと贅沢な練習だろう。
「不道徳教育講座」のなかで見つけたのは、ユーモアに満ちた軽い語り口とは裏腹に、誇りや気高さといったものの
「実践の標本」であったし、俗に通じはじめた魂をふたたび無垢へと導く倫理だった。
そして、生活の細部にまで張り巡らされた美意識そのものだった。
三島由紀夫がどこかで「詩人とは新しい生き方を教えてくれる者である」といった意味のことを書いていたと
思うが、詩集のようにそれを毎日繰り返し読ませたものは、新しい生き方を発見しようとする幼くて切実な
欲望だったのだろうか。

売野雅勇「言葉の音楽」より
0296無名草子さん
垢版 |
2010/11/11(木) 19:47:46
そのような迂回を経てふたたびたどりついた「美徳のよろめき」を、あっけないほど簡単に読めてしまったのは
――主人公の放つ匂いに恋してしまったということもあるが――、むしろ、もうひとつの愛読書だった
「コクトー詩集」のせいだったのではないかとも思う。
それを、言葉で書かれた、言葉で精確に組み立てられた音楽のように感じた。
粗野な感受性が直感した言葉は、コクトーの言葉の連なりのなかで不意に鳴りはじめる、あの聴きなれた音楽だった。
表象の宇宙的な連関を魔術にも似た不真面目さで透視させたり、世の中の価値や常識を一撃にして転覆させてしまう、
比喩や警句が、繊細な風景描写や明確な心理描写とともにそれを鳴らしていた。
詩人が秘密裏に共有するコードででもあるかのように。
なんて贅沢な小説だろうと、読み終えたばかりのページをふたたび開き、何度もため息をついたことを憶えている…。

売野雅勇「言葉の音楽」より
0297無名草子さん
垢版 |
2010/11/11(木) 19:48:58
…そのようにして三島作品と接してきたが、主人公たちの耳にも聴こえる音楽といえば、即座に「岬にての物語」で
海岸の断崖に近い草叢を歩きながら少年が聴いた、一音だけ鳴らない音がある壊れたオルガンを思い出す。
最初に読んだときから、少年が聴いたその音を想像するよりも、聴こえない音の方に想像力が働いた。
陰画を光にかざして眼を凝らすおなじ身振りで、その失われた音に意識が集中してしまう性癖のようなものが
こころのうちにあるのだろうか、――あるいは、そのように意識を誘導する意図のもとに書かれたものなのだろうか。
それはともかく、「美徳のよろめき」を知って以来、聴こえない音楽を聴くことが、三島由紀夫の作品を読む
最大の快楽のひとつになっている。
言葉の音楽である。

売野雅勇「言葉の音楽」より
0298無名草子さん
垢版 |
2010/11/12(金) 12:16:05
ぼくがはじめて例のアポロン像のある三島邸に招待されて行ったとき、ニーチェの「悲劇の誕生」の話が出たが、
おそらく若い頃に読んだにちがいないニーチェの言葉をすらすら述べる三島の記憶力のよさに驚嘆させられた。
〈個体化は悪の根源であり、芸術とは個体化の束縛を破りうるという喜ばしい希望のことであり、
融合帰一をあらためて回復することへの予感である〉(「悲劇の誕生」)
というニーチェの言葉こそ、三島が最晩年に目指していたことそのものではなかろうか。

伊藤勝彦「三島由紀夫の死の哲学」より
0299無名草子さん
垢版 |
2010/11/12(金) 12:17:33
ミダス王がシレノスを追いつめ、人間にとってもっとも善いことは何であるかと問いつめたところ、
〈もっとも善いことは御身にとってまったく手が届かぬことだ。それは生まれてこないことだ。
次善のことは――すぐ死ぬことだ〉(同)。〈生よりも死が望ましい〉
というアポロン神学のテーゼ(この謎めいた言葉)をプラトンの描くソクラテスが解き明かそうとした。
「パイドン」には、〈哲学とは死の訓練である〉とあるが、楯の会のメンバーと一緒に三島が死の訓練に
はげんだという点においてプラトン的であるといってもいいだろう。

伊藤勝彦「三島由紀夫の死の哲学」より
0300無名草子さん
垢版 |
2010/11/12(金) 12:18:41
「対話・思想の発生――ヒューマニズムを超えて」(昭42・11番町書房)の中で、三島はぼくに対して、
〈…自分の信じていないもののために死ぬというアイロニーは、とっても魅惑的なアイロニーなんだよ。
…そして、自分が天皇陛下万歳と言って死ねば、そのアイロニーは完結するんだよ。…〉…と語っている。たんなるイリュージョンのために人間は死ねるものではない。
三島は「人がそのために死ぬことができるような絶対者」つまり、「生命以上の価値」がこの世に存在しなければ
ならないというゾルレン(当為)の論理に忠実であった。
…〈人がそのために死ねるもの、ある絶対的価値の存在を証明するためには、そのために
死んでみせる以外に道はない〉
このような不可解な死の哲学が三島由紀夫にとりつき、彼を自決へと直行させたのである。

伊藤勝彦「三島由紀夫の死の哲学」より
0301無名草子さん
垢版 |
2010/11/12(金) 12:21:51
(2001年11月25日に)リンカーンセンターでアメリカペングラフ主催の「二十世紀の偉大な作家・
三島由紀夫を顕彰する夕べ」が開かれた。(中略)
私は「薔薇刑」の基本的テーマは「生と死」「エロスとタナトス」であり、それは三島由紀夫を被写体とする
ところの私の主観的ドキュメンタリー作品であることを語り、そこで理解してもらいことは、三島氏は自分を
「被写体」と呼び、最初から最後まで完全に「被写体」に徹してくれたこと、そのことを氏は『薔薇刑』の
序文「細江英公序説」の中ではっきり書いている。(略)だからハリウッドの映画監督がつくった映画
「MISHIMA」の中で私らしい写真家が登場するが、そこで画面上のMISHIMAがカメラをかまえる
写真家に向かってカメラの位置を変えるように手で指示するシーンがでてくるが、あんなことは絶対になかったし、
ありえないことだ。その映画のポール・シュレイダー監督が前もって私にアドバイスを求めてきたら教えて
あげたのに残念だ、と語り、前記の三島さんの序文の一節を読み上げた。

細江英公「誠実なる警告」より
0302無名草子さん
垢版 |
2010/11/12(金) 12:23:06
(中略)三島さんは文字通り「誠実の人」であった。その点だけは、身近に彼を知り、そして生き残った自分の
責任として、きちんと後世に伝えておかなければならないことを信ずる。
その三島さんが、あえて選んだ死に様であるのなら、それは真摯に考え抜いた結果であったはずであり、
そこには止むに止まれぬ理由が存在したに違いないのである。であるから、私がまず強調しておきたいのは、
事件直後から多くのメディアによって宣伝されてきたような「スキャンダル」として三島さんの死を扱うような
ことは、実にもって愚劣なことであるということである。
もちろん、一人の人間、ましてあれだけの人物が自ら死を選んだ真の理由を、簡単に特定できるはずもない。
が、あえていうならば、三島さんが言っていた「文武両道」の「武」とは「文」を守るためのものと位置付けて
いたと考えたい。守るべき「文」とは、自身の「文学」だけに止まるものではないだろう。もっと広く、そして
深く「日本の文化」そのものとでも呼ぶべきものであったはずである。

細江英公「誠実なる警告」より
0303無名草子さん
垢版 |
2010/11/12(金) 12:24:18
思い起こせば、高度経済成長を達成したあの頃には、我々日本人は、豊かさと引き換えに自分たちの文化を
ないがしろにするということを、なんら恐れなくなっていた。今の日本が抱える混迷も、根本的にはそこに問題が
あったのだということを、私も含め日本人の多くが気づき始めているのではないだろうか。三島さんには、今の
日本の姿が見えていた。だからこそ、政治的な速攻性のないことがわかりきっている、あのような行動をあえて
とることによって、我々に命懸けの「警告」を遺したのではなかったか。そして恐らく三島さんが意図した通り、
彼の行動は長く記憶され続け、その警告の意味は、時間がたつにつれてその重みを増してきているように思えて
ならない。私は、既存の政治勢力が自らの主張のために三島さんの警告を都合よく利用するようなことがあっては
ならないと考える。一方、彼の死後、文壇においては「あれは文学的な死であった」として、その多くが
三島さんの個人的な理由によるものであるとする見方が支配的だったように思われるが、それにも違和感を
感じてきた。なぜなら、三島さんが憂いていたのは、もっと根源的な、日本人の精神的な危機そのものだった
はずなのだから。

細江英公「誠実なる警告」より
0304無名草子さん
垢版 |
2010/11/13(土) 12:50:38
事件の翌日から、あらゆるメディアはあなたの行動を醜聞として描くことに情熱を傾けることになりました。
…TVでは「右翼評論家」なる人物が高説を垂れ、政治家たちは狂気の沙汰だとあなたを批判していました。
日本共産党はファシズムに対する警戒を説き、新左翼の学生たちは唖然として言葉を喪失していたように思えます。
わたしにはそうした政治的発言のいっさいが愚劣に思えていました。わたしは書店に行って、そのとき第三巻まで
刊行されていた『豊饒の海』の連作を買い求め、十日間ほどで一気に読み終わりました。しばらくして最終巻の
『天人五衰』が刊行されると、これも勢いに任せて読破しました。(中略)
わたしはここに仕掛けられた巨大なアイロニーに眼が眩む気持ちを抱きました。と同時に、自分の死後に遺された
者たちはすべからくこのアイロニーを生きるべしという、あなたの呪いめいた遺言に、さて、その呪いを
どのように受け取り、自分の文脈のなかで理解してゆくことにしようかと、呆然たる気持ちを抱いていました。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より
0305無名草子さん
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2010/11/13(土) 12:52:27
今から考えてみると、「豊饒の海」が最後に突入していったのは、物事のすべてが「存在の耐えられない軽さ」を生き、
ノスタルジア(懐旧)とパスティッシュ(模倣)の原理のもとに操作されてゆく、ポストモダンの薄明のこと
だったような気がしています。わたしが大学生活を送った一九七〇年代は、十年間を通して、あなたの名前が
忌避され、排除されてきた時代でした。大学院の研究室でも、同級生どうしの会合でも、あなたの死のみならず、
その作品について言及することは場違いであり、できればあなたのような文学者が戦後日本に存在して
いなかったかのように振舞うのが、暗黙の了解であるような日々が続いていました。日本のポストモダン社会は、
三島由紀夫の不在によって、安心して自己実現を達成したのです。七〇年代と八〇年代を代表するイデオローグであった
山口昌男と蓮見重彦を考えてみたとき、それは明らかとなるでしょう。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より
0306無名草子さん
垢版 |
2010/11/13(土) 12:53:40
山口はあなたが悲劇的なもの、崇高なものに魅惑されていたのとは対照的に、それらから意図的に距離を置き、
喜劇的なもの、道化的なものに焦点を当てました。そしてすべての知識が位階制度を超えて並置される地平を、
ユートピア的に実現しようと企てました。
一方の蓮見は、あなたと同じ学習院に学び、皇族と人脈的な関係をもつことにきわめて野心的な人物でしたが、
一貫してあなたを嫌っていることを公言していました。もっとも事物の表層を好むというニーチェ伝来の哲学を
喧伝するという点で、彼はあなたの屈折した後継者であったといえなくもありません。
あなたの全集が再び編集され、刊行されていなかった日記や書簡が公にされたり、…あなたの行動の全体が
次の世代によって再検討の対象となるようになったのは、二〇〇〇年代に入り、先の二人の知的扇動家の影響が
消え去ったことと、軌を一にしているのは、けっして偶然ではありません。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より
0307無名草子さん
垢版 |
2010/11/13(土) 12:55:30
(中略)三島さん、裕仁はあなたよりも十八年と二ヶ月ほど生き延びて、一九八九年に身罷りました。彼が
支配していた昭和という時代は、六十四年をもって終了しました。けれどもすでにそれ以前から、誰もがもはや
(公文書ででもないかぎり)昭和という年号などもはや存在していなくなったかのように振る舞っていました。
なるほど昭和も三十年代、四十年代までは、それなりに口にされると実感めいたものが浮かび上がってきました。
けれども昭和五十年代というのは、たとえその表現に過ちがないとしても、もはやいかなるイメージをも人々に
喚起しなくなっていました。ましてや短かった昭和六十年代など、そう書き記してみたところで、どのような
イメージも浮きあがってくるわけではありません。それは一九七〇年代、一九八〇年代という表現がいかにも
人口に膾炙しているのと、好対照です。わたしは、こうした年号の喚起力の衰退の原因のひとつは、三島さん、
あなたの割腹自殺にあったのではないかと睨んでいます。あなたは生命を賭けることで、裕仁の時間支配に
修復しようのない楔を打ち込もうとしたのではないでしょうか。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より
0308無名草子さん
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2010/11/13(土) 12:56:49
わたしには、一九七〇年十一月二十五日にあなたが日本人の一人ひとりに死を送り届けることで、これまで
暗黙のうちに日本を支配していた時間の神学的秩序に、凶悪にして不吉な楔を打ち込んだような気がしてなりません。
思い出してみれば、わたしの世代は機会あるたびに、あなたが割腹をしてもう何年が経過したとか、何十年が
経過したと口にしながら、時間をやり過ごしてきたのです。死の御降臨。死の分節。
あなたによって考案された禍々しい暦が、日本の時間秩序を攪乱し、神聖なる時間の起源を禍々しい紛い物へと
摩り替えてしまうことを可能にしたのだと、わたしは考えています。
(中略)親愛なる三島さん、わたしたちはいまだにあなたの影のもとに生きています。もしあなたが今生きて
いらしたとしたら、このような年少者たちを前に、また高笑いをされるかもしれません。その姿が目に浮かびます。

四方田犬彦「時間に楔を打ち込んだ男」より
0309無名草子さん
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2010/11/13(土) 12:59:13
岡潔:三島由紀夫は偉い人だと思います。日本の現状が非常に心配だとみたのも当たっているし、天皇制が
大事だと思ったのも正しいし、それに割腹自殺ということは勇気がなければ出来ないことだし、それをやって
みせているし、本当に偉い人だと思います。

Q(編集部):百年逆戻りした思想だと言う人もありますが、それは全然当たっていないと言われるのですか?

岡潔:間違ってるんですね。西洋かぶれして。戦後、とくに間違っている。個人主義、民主主義、それも
間違った個人主義、民主主義なんかを、不滅の真理かのように思いこんでしまっている。
ジャーナリストなんかにそんな人が多いですね。若い人には、割合、感銘を与えているようです。
かなり影響はあったと思います

岡潔「蘆牙」より
0310無名草子さん
垢版 |
2010/11/14(日) 10:54:33
作者は作品世界の終わりを自死の日付よりも五年後に延長することで一つの賭けを行っている。(中略)
作者と作品は無限にズレ続ける。喩えていうなら、『天人五衰』は三島由紀夫という物語作者の死のあとに
書かれた“小説”である。そのテクストの中にはすでに三島由紀夫は不在なのだ。
透も本多も、「昭和四十五年十一月二十五日」という作品末尾に書かれた日付すなわち作者の死から、さらに
五年も生き長らえねばならない。これは何を意味するのか。
…透は、見る者として本多と類を同じくするが、しかも「精巧な贋物」であり、「純粋な悪」であり、「能ふ
かぎり本多に似てゐ」るのだ。本多はそれらを養子にする前から知っている。見られる者たる清顕や勲や月光姫と
明らかに類を異にする透を養子にすることは、作者の死後も作品を生き長らえさせるための聖化された儀式である。
作品は異物によって生き長らえるのだ。というより、それまで「物語」を見る認識者にすぎず、見る――見られる
という関係に安住していた本多が、この最後巻においてはじめて、自己にとっての“他者”(であると同時に
贋物の同類)に出会ったのだ、と言えばよいのか。

青海健「三島由紀夫の帰還」より
0311無名草子さん
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2010/11/14(日) 10:55:47
本多の悪しき模造であり不幸な認識者である透は、「自分がまるごとこの世には属してゐないことを確信してゐ」る。
「日もすがら夜もすがら、海と船と港とに縛しめられ、ただ見ることが、凝視することが、この部屋の純粋な
狂気にまでなつてゐた」という透はほとんど「狂気」の世界を垣間見ることによってしか、この世と繋がっては
いない。透の故郷は、水平線の彼方にある到達不能のものとしての「狂気」である。透は故郷喪失者なのだ。
だからこそ透には醜女の狂女絹江が必要となる。
…「過度の明晰」、つまり理性から超え出てしまうものとしての「狂気」。本多の養子となった透は、その
到達不能の「狂気」に向けて、養父との闘争を開始する。
しかし、転生の秘密を知らない透は認識者としての闘争には敗れるが、逆にその敗北が透を狂気へと近づける。

青海健「三島由紀夫の帰還」より
0312無名草子さん
垢版 |
2010/11/14(日) 10:56:41
清顕の夢日記(夢こそ狂気の原郷である)を読んで服毒自殺をはかり失明した透は、醜女の絹江と結婚したいと
望み、妊娠させ、絹江と同じ世界の住人となる。本多にとって透はすでに他者である。
「黒眼鏡」をかけ、絹江以外には「一語も発しない」透は、認識者本多の眼からのがれ出た「狂気」そのものなのだ。
認識の敗北者透は「狂気」の世界への参入を許されることで、アイロニカルにも、本多に勝ったのである。
本多が贋物であるなら、透は“真の”贋物である。
かくて本多は月修寺へとおもむき、自らの存在の消滅を“知る”のである。
近未来小説『天人五衰』は、作者の死のあとの、透という他者についての物語である。いや、むしろ「物語」という
ワクを解体し崩壊させてしまう小説である。透という異物=狂気がそれを崩壊させるのだ。本多が癌で死んでも、
その悪しきドッペルゲンガーたる透はあらゆる場所に出現するだろう。
『天人五衰』の世界はけっして閉じられることなく、三島由紀夫の亡霊はいたるところに現れるにちがいない。
青海健「三島由紀夫の帰還」より
0313無名草子さん
垢版 |
2010/11/14(日) 10:59:06
ところで、三島由紀夫の自死を評して、「気が狂ったとしか思えない」と言った某政治家がいたのを想起しよう。
この“良識者”の言説は限りなく陳腐であると同時に、限りなく正しい。
認識者本多繁邦から逃げ出すには理性の網目から逃れ出る狂気の力が必要であり、人間はその狂気と相対する
ことでのみ、自らの存在の限界を踏み超えるのだ。「正しい狂気、といふものがあるのだ」とは『葉隠入門』の
言葉だが、狂気の領域への参入は、「人間」(という概念)を超え出ることである。
フーコーの言葉で言うなら、「人間から真の人間への道程は、狂気の人間を媒介とするのである」(『狂気の歴史』)。
『天人五衰』のエクリチュールは、理性と非理性とのせめぎあいの中で狂気という故郷へ回帰しようともがいている。
そして三島は狂気そのものと化する地点で消滅したのだ。

青海健「三島由紀夫の帰還」より
0314無名草子さん
垢版 |
2010/11/14(日) 11:01:23
(中略)
三島由紀夫の「言葉」がフーコーのいう「弓」であるとするなら、その弓から発射された弾丸としての行為=
自死の儀式は、逆にその「発射する反動で」言語表現(デイスクール)という装置を「後退」させ作者の生の
外部へと押し出してしまう。そうして、それの描く軌跡をこそ、私は「狂気」と呼ぼう。
作者の生からはみ出した近未来小説『天人五衰』、三島はここで、非理性によって夢見られる狂気(それはすでに
病理学の対象とはなり得ない)(フーコー『狂気の歴史』)のだとすれば、三島の自裁は、到達不能の狂気への
到達への試みである。(中略)
三島の“最後の小説”は、大江健三郎の言に反して、むしろ「発展させられる」べき多様な問題を孕んでいる。
…三島は、その最後の小説を、パラドクシカルに開かれた作品として遺したのだ。
その多様な問題こそ、今日の問題である。

青海健「三島由紀夫の帰還」より
0315無名草子さん
垢版 |
2010/11/15(月) 10:17:30
私達のなかで一番若く、しかも、かなり年齢がはなれている三島由紀夫にとって、私達のなかで、君、僕で
話しあうのが何んとなくぎこちなさそうに見えた。戦後は、すべてのひとびとが対等につきあうのを建前にして
いたので、すべて、君、僕で通用させる風潮は一般化していたのであったが、まだ二十三の最年少であった
三島由紀夫にしてみれば、すべてが年長者である仲間達に、君、僕で呼びあうのは、自身に元気をつけてそれを
敢えてするといった一種の踏み切りの感じが自分自身の内部にあったのだろう。頭の廻転の早い彼とスローテンポの
野間宏の会話はその頃から際だって興味深いものがあったが、三島由紀夫が「野間君」という調子には、
思いきって決然といっているといった趣きがあった。(中略)
そして、酒がまわってきたとき、三島由紀夫は、その後ほかの席でもよくやったらしいが、
「知らざあ言ってきかせやしょう」と辨天小僧のよく知られた口跡を一くさり、ちゃんと見えをきって、
せりふ廻しを見事にやってのけたのである。

埴谷雄高「『序曲』の頃――三島由紀夫の追想」より
0316無名草子さん
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2010/11/15(月) 10:20:29
(中略)
私達の殆んど全部が酒をのむだけの芸なしであったので、そのときの三島由紀夫の辨天小僧は並はずれた
遊び人であった河出孝雄をひどく喜ばせたのであった。(中略)
(「序曲」創刊号の)座談会で特筆すべきことは、いわゆる「戦後」の気分がそこに活気に充ちて横溢している
ことと、そして現在は温厚篤実な学者文学者になった寺田透が当時は荒れていて、忽ち酔っぱらってくると、
卓上の酒杯を次々とうちおとしたり、自分もその場に勢いよくぶっ倒れたりしたことの二つをあげねばならない。
そのときの寺田透がひとつの鬱屈した大きな暗黒物体だとすると、三島由紀夫は一種不逞な活気に充ちみちた
明るい精神なのであった。(中略)
座談会が終ってから私達は神保町の「ランボオ」へ赴いたが、そこで寺田透は、仕方なく笑顔を浮べている白髪の
森谷均の前で、入口の大きな硝子をはでに割ったのである。
この創刊号には、(中略)三島由紀夫はメディアを換骨した「獅子」をのせている。

埴谷雄高「『序曲』の頃――三島由紀夫の追想」より
0317無名草子さん
垢版 |
2010/11/16(火) 11:33:40
三島さんは、少年の様に一途に週二回の自宅でのトレーニングにひたむきな努力を傾け、遅れてきた青春とでも
云うのでしょうか、日一日と発達してゆく自分の肉体の充実感を素直に喜び、嬉々としていました。
ある時、古代ギリシャの神殿や彫刻の写真を私に見せながら「この端正で均整のとれた建築や芸術、彼等はまず
眼に見える形を信じたんだ。しかし形に留まらないで、そこから雄々しく羽ばたいて現代文明の源である
古代ギリシャ世界を創造したのだ」と熱っぽく語られましたが、この時の三島さんの言葉は、私の胸底に深く
蔵されております。

玉利齋「三島由紀夫さんの想い出」より
0318無名草子さん
垢版 |
2010/11/16(火) 11:34:51
人間が、現世に生きるのには肉体が不可欠です。しかし、その肉体は有限で衰えやすく不安定な存在です。
であるから一度だけの人生を創造的に生きる為には肉体は健康で活力に満ちている方がよいのは自明の理です。
三島さんは精神的には類い稀な芸術家の感性を天分として有していたと思いますが、如何せん天二物を与えず、
肉体的には頭痛や胃弱や不眠に三十歳近くまで苛まれていたことはまぎれもない事実です。
三島さんのボディビル実践の動機は何と云っても第一に病弱の克服にあります。
肉体と精神は相互に影響し合いながら人格を形成してゆくものですが、三島さんは肉体を確固たるものに
することによって、より自由に精神を飛翔させたかったのではないかと思います。

玉利齋「三島由紀夫さんの想い出」より
0319無名草子さん
垢版 |
2010/11/16(火) 11:36:20
三島氏が「奔馬」の取材に熊本にやつてきたのは昭和四十一年八月で、その時の話相手になつたのが私である。
三島氏は数日間、熊本に滞在したが、その間に三島氏の心にふれて、私は少なからず感動した。
それは三島氏が、神風連の調査に熊本にくるにあたつて、すでに神風連関係の著書を東京でほとんど目を通してきた、
といふ熱心と謙虚さを知つたことばかりではない。
神風連について学ぶためには、古神道を知らねばならぬといつて、わざわざ古神道をつたへる大和の大三輪神社に行き、
数日間滝にうたれたり、そこの宮司から古神道の話をきいてゐた、といふやうな真剣さを知つたからである。
さらに私の心をうつたのは、熊本にきて私と対話中、神風連にとつてもつとも重要な遺跡であり、その思想信条の
発源体であつた新開皇大神宮に行くのに、私の案内を辞退して、道順だけをきいてそこまで十キロの径を
一人出かけて行つたといふ態度であつた。

荒木精之「初霜の記・三島由紀夫と神風連」より
0320無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 00:04:21
三島由紀夫さんの《詩の朗読レコード》「天と海」が発売されたことについて、今では知っている方も少ない。
(中略)このレコードの制作当時、私は大手のPR会社に勤務しており、このレコードに関する企画、制作、
PRなどに深く関与していた。(中略)
三島さんは「キミが勤めている会社のためだったら断るが、キミの個人的な頼みでやるのなら引き受けてもいいよ」と
快く返事をしてくれた。
私が三島さんに知己を得たのは、学生時代にさかのぼる。
当時流行していたボディビルジムでの出会いが契機となり、氏との数奇な縁が始まった。
(中略)詩は朗読する本人にお任せすることになり、三島さんは浅野晃氏の「天と海」という長編を選んだ。
この詩の内容は、詩人で大学教授でもあった浅野氏が、学徒動員で出征し、南方の地に散っていった教え子たちの
英霊に捧げる鎮魂歌であった。

川瀬賢三「『天と海』レコード化のころ」より
0321無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 00:05:24
この仕事を始めるに当たって三島さんは、
「今回の制作は、私は単なる朗読の演技者であるから、全てキミの指示に従うので注文があれば遠慮なく
言って欲しい」と念を押された。
(中略)このLP盤の制作には半年ほどを要し、サラリーマン時代の私には苛酷な毎日だった。(中略)
深夜のスタジオで、山本(直純)氏が作曲した音楽テープをバックに、独りアナブースの中で、緊張の面持ちで
マイクに向かう三島さんは、まるで尊い命を南方に散らしていった若き英霊の魂が乗り移ったかの如く、
鬼気迫る迫真の演技であった。
三島さんが、精魂込めて朗読したこのレコードは、現在では“幻の名盤”となり、再発売されていない。誠に
残念としか言い様がない。
今は三島さんの全ての好意に感謝し、ひたすらご冥福を祈るのみである。

川瀬賢三「『天と海』レコード化のころ」より
0322無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 00:12:59
私は一度だけ三島由紀夫さんから葉書を頂戴したことがある。
葉書に十行足らずの簡潔な内容の便りで、私の住所がわからないため、私の著書の出版社経由で届いたのだった。
…葉書の消印は昭和三十六年五月一日。
「抒情の批判――日本的美意識の構造試論」は、当時新たに生まれたばかりだった出版社晶文社から刊行された、
私のごく早い時期の著書で、奥付によると、刊行は昭和三十六年四月二十日となっている。
つまり、三島さんはこの本が書店に並んだのとほとんど同時に、これを購入してくれていたのだった。
のみならず、三島さんは彼が発行同人(?)の一人でもあったらしい雑誌『風景』、さらに『東京新聞』書評欄でも
「抒情の批判」を激賞してくれた。それは何千部かの本がどんどん売れていくという、喜ばしい椿事を生んだ。

大岡信「一度だけの便り」より
0323無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 00:13:57
『風景』所収のものは三島さんの「日記」中、四月二十七日(木)付の一文である。(中略)
もしこれらを読んだ時私が三島さんにそれに見合うだけの熱烈な礼状を書いていたとしたら、私のその後の人生は
多少とも変った流れになっていたかもしれない。
第一、本が書店に出まわるのとほぼ同時に銀座の本屋さんでこれを買い、〈匆々に帰宅してこれを読んだ〉と
三島さんは書く。そして〈本の副題の「日本的美意識の構造試論」の展開である「保田與重郎ノート」といふ
長文の評論を、身も心も惹き込まれて読み、まだ会ったこともない大岡氏に、オマージュの葉書を書いた〉と
三島さんはいう。
現在このような形で、自分より若い物書き、それも現代詩などというものを作っている人間に対して、
熱烈というしかない〈オマージュ〉を捧げてくれる文筆家などいるだろうか。

大岡信「一度だけの便り」より
0324無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 00:14:57
三島さんは十代のころから保田与重郎を読み、その〈謎語的文体〉に〈いつも拒絶されるやうな不快と同時に
快感を味はつた〉と書く。それは数歳年少だった私自身が感じていたものと、かなり近かった。
…三島さんが私に示された非常な好意も、戦後社会に対してどうしてもしっくりしないものを感じ続けていた精神が、
〈生の充溢感と死との結合は、久しいあひだ私の美学の中心であつた〉(「日記」)と、いわば晴れて堂々と
言い切る機会を得た満足感が、伴っていたのかもしれない。
残念だったことは、三島さんに直接お会いして、この時の礼を申しあげ、三島さんの戯曲についての賞賛的感想を
のべる機会を、永久に失ってしまったことである。

大岡信「一度だけの便り」より
0325無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 09:09:55
何このコピペスレ

お手軽な写経みたいなもんか?
0326無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 10:28:40
彼は、初代樺太庁長官を祖父として、農林水産局長を父に、開成中学の名校長橋家の令嬢を母に、いわゆる
折紙つきの固い家系の中で生をうけ、おまけに父方の祖母育ちで、小さい時から母のひざの暖かさの充分に
得られぬ淋しさの暮しで、とても我慢強かった。
母は、その時代には当然のことながら、父梓氏につかえきりの忍従の生活で、彼は体力的にも頑健ではなく、
学習院時代、稚児さんと呼ばれたことをとても残念がっていた。
彼の心は傷つきやすく、その傷の痛みを知っているがゆえに、祖母、母、父という大人たちの中でじっと静かに
考える青年に育っていった。大きくなっても、言葉の上でのちょっとした意地悪でも、深く傷つき、悲しんだ。
そんな彼が、昭和二年生まれの妹、美津ちゃんを、とても可愛がっていた。自分と違い、思ったことをハキハキいえ、
きかん坊でイタズラっ子で、平岡家の太陽だった。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より
0327無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 10:29:48
私には下級生に当り、私の妹と同級で仲もよく、あだ名の「ヒラメ」のように、軽やかに海中を泳ぐがごとく、
学校中に明るさをまきちらしながら、楽しげによく遊び、よく学んでいた。頭脳明晰は、まさに平岡家のもので
素晴らしかった。
そんな美津ちゃんが、勤労動員中に飲んだなま水に、多分体調をくずしていたのであろう一人だけ腸チフスになり、
三、四日で呆気なく、しかし意識だけは最後まではっきりしていて、オロオロつきそう三島由紀夫に、はっきりと、
力をこめて、「お兄ちゃま!有難う」と別れを告げて、十七歳ちょっとで避病院で息をひきとった。
三島由紀夫は、生まれて初めて号泣した。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より
0328無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 10:30:56
父梓も、ただ一人の女の子として、溺愛していたため、最期を看取ることさえ出来ぬほどのショックだったそうだ。
この美津ちゃんの最期を語る彼を、私は何度となく見たが、その度に、今の目の前の現実のように、三島由紀夫の
目からは涙がハラハラとこぼれ落ちた。
母倭文重も彼と同じように何十年たっても、語る前、名前を口にしただけで、涙声にかわったのを見て、私は、
美津ちゃんがこの平岡家で、とかく気持がバラつく一族をうまくかしこく結ぶ貴い糸の存在だったのが分かった。
そして、三島由紀夫は、妹を女(異性)として第一番に感じ、それは肉親愛ともちょっと違う初めての
「愛」だったのだと思える。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より
0329無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 10:31:58
これから書く彼の女性との愛は、すべて結婚一年前までのものである。(中略)
本人が並はずれて女性に無免疫だったので、余り上手くない字を、ペン習字で猛練習し、すぐに臣三島由紀夫拝、
などと書いたラブレターを、自分の目にとまり、また、人の目にとめられると、相手かまわずせっせと書き
つづけていた。
私は、げっそりして、「又、臣か」というと、彼は、「うるせえ」
横目でチラチラすると、彼は滅法だらしない、たのしそうな顔をし真赤に上気していた。
この手のラブレターを、大手建設会社の令嬢、ミスM・K、そして代議士令嬢で、母がドイツ人のハーフ、
ミスH・K(在アメリカ)に送り、さらに後には紀平悌子女史にまで名乗りをあげられ、(略)…あの彼の
筆まめさから考えあわせれば、嘘とは思えない。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より
0330無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 10:33:24
(中略)文士として大成して来た三島由紀夫に私はミスM・Kへのあこがれに似た子供っぽい愛も、ミスH・Kの
とてもハーフというだけで失格とする固い平岡家の家風のためにも、彼に自覚をうながし、「美徳のよろめき」の
モデルの夫人との火遊びにもケチをつけたりして、何となく彼の身辺を整理した。彼には内緒だったが彼の父母に
たのまれてやったことである。(中略)
彼が真剣に愛した女性は、M・KでもH・Kでもない華やいだ絹張りの令嬢だった。
彼女が十九歳から二十歳代始めの年頃の付き合いだったので、三島由紀夫の才には充分の尊敬と愛をもちながら、
ストイシズムの彼についてゆくには、何としても幼く、いくら背のびをして勉強しても、相手をするだけで
すっかりくたびれはててしまった。
彼が幼い彼女に求めていたものの実体はそんなものではなく、彼が、心地よく、何の抵抗もうけず、暖かく
見守ってくれるその雰囲気が、彼の創作意欲につながり、名作が出来上がってゆくことだったのだ。その温床を
彼女とともにいるだけで、彼は充分得られていたのだ。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』より
0331無名草子さん
垢版 |
2010/11/17(水) 10:35:41
だが考えれば随分と三島由紀夫も作家としては自分勝手だったことはいなめない。
しかし離れてゆく彼女の心に逆行して彼は結婚を真剣に考えていたのだ。それが理解出来なかった彼女は、
昭和三十二年五月、新派「金閣寺」観劇を最後に離れていった。私は彼女と三島由紀夫との4年間を、二人の
影としてずっと過ごして来て、今も彼女との交流は続いている。(中略)
その彼女も、ご主人は別として、私と逢って何について話しても、世の中に三島由紀夫ほど頭がよくて、
やさしい人に巡り逢ったことがないという話にたどりつく。
いくら女友達と割り切っていても、もしかしたら私の中の女の部分が、心の奥底で彼を愛していたのかも知れない。
とすれば私は随分長い間罪深く生きて来たことになってしまう。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より
0332無名草子さん
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2010/11/17(水) 10:37:37
(中略)「絶対これは内緒なんだからな。喋っちゃ駄目だよ。そのかわり彼女のことを全部君だけに教えるよ」
といっていた。冗談じゃない。人の彼女のことなど全く興味のあろうはずもないのに。(略)…実物の彼女は
とても美人で、お人形のような顔立ちで、不思議に亡妹美津ちゃんに似ていた。そして身につけているものは、
すべてリッチでだった。
しかし、彼女を紹介されたほんの瞬間だが、私の心は女として不快だったのは事実である。三島由紀夫自身も
それを十分計算に入れていたと思う。(中略)
三島由紀夫には、彼女との別れがひどくこたえていた。そんな彼を支えていたものは「三島由紀夫」という
プライドだけで、実に寒々としたかわいた心で毎日を送っていた。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より
0333無名草子さん
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2010/11/17(水) 10:38:35
余りにも深く愛してしまった彼女のかわりは、楽しんだ私のサロンも、母倭文重のいつくしみも役に立たなかった。
ただあるのは、物書きのきびしい宿命だけだった。(中略)
ただ一度の愛にしか青春のよろこびを見いだせずにいたなど、あの得意の空笑いと外見の明るさから誰一人
気づいた者などいなかったろう。私は出来る限り無理をして、彼によりそうようにして約一年を過ごしたが、
負けず嫌いの三島由紀夫の口からは、一度も彼女の名を耳にしたことはなく、空虚さの片鱗だに見せはしなかった。
きっかり一年後、彼は結婚した。
私の半生を通じての最高の友「三島由紀夫」は、今、皮肉にも自ら棄てた文学の中で生きつづけている。

湯浅あつ子「ロイと鏡子 三島由紀夫と『鏡子の家』秘話」より
0335無名草子さん
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2010/11/19(金) 00:22:23
ある映画雑誌から三島さんの希望で、やくざ映画と戦争映画について、対談の申込があった。しかし(中略)私は
時間はとてもなかった。再び断ってしまったのが、心残りとなった。
私は本気に三島さんは来年まで行動は起すまいと思っていた。それまでは休戦のつもりだった。
また仲が悪かったころ、三島さんはいった。「十年たったら、世の中は変っているでしょうね」
その時は、安保条約は破棄すべきであるとかなんとか、呑気なことはいっていられないだろう、それを自分が
「楯の会」を率いて達成してみせる、という意味に私はとった。(中略)
「しかしわれわれは、人を殺したってかまわないという立場なんだからね」といったこともある。(中略)
しかしいずれにしても三島さんはもういない。類い稀な才能、魔法使いの才能が、自らの手で葬り去られたのである。
冥福を祈る、というのが、こういう文章の終りの極り文句だが、三島さんの場合はふさわしくない。
三島さんの魂は護国の鬼となって、永遠に市ヶ谷にとどまるつもりであろう。それもまた一生である。

大岡昇平「生き残ったものへの証言」より
0336無名草子さん
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2010/11/19(金) 02:43:37
美輪明宏がある時、関西の知人の事が、妙に気になって仕方ないので電話した
ところ、その家の奥さんが泣きながら「主人が今、病院で白血病だと告げられた」
と訴えた。早速仏間で行をやると、「刀のサワリで、その刀に斬られた人の呪い
である。その刀は雲月と雲龍という刀である」という事がわかった。
すぐさま奥さんに確認すると、確かに「雲と雷」の刀がある事が判明。
更に美輪が霊視すると、天草四郎の教育係の磯部山善右衛門が出てきてこう告げた。
このご主人の前世は細川候の家臣で、鍋島候から贈られた名刀の試し切りでキリシ
タン男女18人をこの刀で斬ったのだという。その怨みを現世でかっているのだ。
美輪は急遽大阪に飛び、観音経をあげながら、刀を白い布でまき、札を書いて清めた。
するとご主人は元気になって退院してきた。
別冊太陽75 昭和50年7月12日
0337無名草子さん
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2010/11/19(金) 23:02:57
私が三島さんに初めてお会いした、というよりは顔を見たのは学生時代、写真家・林忠彦さんの助手をしていた
昭和三十年頃だった。林さんの鞄を持って目黒のお宅に伺った。
純日本風の二階建で、有名作家の家にしてはちょっとボロ屋だなと思ったことを覚えている。
撮影は二階の書斎だったが、そのうち突然三島さんが立上がり、「屋上の狂人」をやりましょうかと、出窓の
向うの玄関の屋根瓦に足を掛けた。
「危いからいいですよ」と林さんと編集の人があわてて止めた。
「青の時代」や「仮面の告白」から受けるイメージとは全然違ってチャメっ気のある人だなあと思った。
折角なのにと残念でもあった。
帰りがけに三島さんは玄関で「歳をとった人って皆いい顔してますね。うらやましいなあ!」と突然言った。
「どういう意味かな。早く歳をとりたいということなのかな」と林さんは首をかしげていた。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より
0338無名草子さん
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2010/11/19(金) 23:04:14
私は大学四年の時、林さんの助手から秋山庄太郎さんの助手に替った。ある時秋山さんはどこかのお嬢さんの
お見合写真を頼まれた。
…私たちは麻布今井町のスタジオで待機していたが「お嬢さん」は一向に現われず、連絡もつかない。
秋山さんは次の仕事が入ってしまっているので、「齋藤君、あとを頼むよ」と大慌てで出かけてしまった。
私は女性を撮るのは苦手、困ったなあと思っていると、女性が得意の助手仲間のアッチャンがやって来たので、
彼にうまく押しつけて帰ってしまった。ところがこれが逃したスクープ。半年だか一年だか経った頃、
この「お嬢さん」の家からアッチャンに結婚式を撮ってほしいとの依頼。お相手は三島さん。
お見合写真の「お嬢さん」というのは言うまでもなく杉山瑤子さんだったのだ。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より
0339無名草子さん
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2010/11/19(金) 23:05:35
ある夜、「T社のSだけど、これからすぐ行くから、ちょっと写真を撮ってもらいたいんだが。暗いけれど
ストロボは使えないと思う」という電話。大急ぎで仕度して待っていると、黒塗りの車が到着した。
後部座席に乗っていたのは三島さん。「男の子が生まれたのでね」とひと言。虎の門病院に向う。病室の
ガラス越しに赤ちゃんの顔を見詰める三島さんは、これまでとは違ってやさしいやさしい顔だった。
長時間の撮影中はいろいろとお喋りをする。(中略)「くだらない話ですけれど、先生のセイで、S社を
落とされたことがあるんですよ」と冗談まじりに言うと、三島さんは「なぜ」と問い詰めるように訊かれた。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より
0340無名草子さん
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2010/11/19(金) 23:06:46
「実はS誌のグラビアのデスクが、うちに来ないかと誘ってくれたんです。ノコノコ面接に出掛けて行くと、
副社長  君、スポーツは?
私  高校の頃、器械体操やっていました。
副社長  三島さんの「仮面の告白」は読んだことある?
私  はい。
副社長  あの作品の中に、器械体操をやる人間はエゴイストだと書いてあるから、君は会社勤めには
向かないんじゃないかな。……
というわけで、あっけなくチョン」
三島さんは黙って聞いていたが、私が話し終ると例の声で豪傑笑い。
「それはよかったね、フリーで自由にできて」
何日間か撮影のために三島さんに密着したことがある。最後日に、その頃はもう後楽園ジムになっていた
旧講道館で空手の稽古を撮影した。
洋服姿の三島さんはボディビルのため上半身は立派だが、下半身は細身のズボンを好むせいもあってか、
どうしても貧弱に見えバランスが良いとはいえない。しかし、稽古着に身を包むと実に格好がいい。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より
0341無名草子さん
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2010/11/19(金) 23:08:19
薄暗い道場の中で三島さんは十人近い若者の稽古を見守っていた。
「あれが森田で、こっちにあるのが古賀。その隣りが……。皆いい連中です」。
照明のせいか、気のせいか、彼等の表情はなぜか暗く見えた。そんな中で稽古を始めた三島さんの表情は明るく、
掛け声も大きく、一番颯爽としているように見えた。
二時間近い稽古が終り三島さんと一緒に外に出ると晴天だった。水道橋駅に向う歩道の手前で礼を述べると、
「もう終りなの?」と残念な様子。じゃあと手を振って向う側に渡って行った。
それは三島さんが亡くなる六日前のことだったが、後になって思い返すと、楯の会の会員の名前をわざわざ
教えてくれたり、もう終りなのかと名残り惜しがってくれたり、やはり何かの思いがあったのかもしれない。

齋藤康一「ファインダーの中の三島さん」より
0342無名草子さん
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2010/11/20(土) 00:21:03
最近よく書店に並んでますなあ三島さん関係の本が
0344無名草子さん
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2010/11/20(土) 11:29:56
美輪「あの人(三島)は、ほんとうに純粋で赤ちゃんみたいにきれいな魂の持ち主だったんですよ

『日本少年』とか『少年倶楽部』で育った時代なんですよね。
少年というのは凛々しくて、潔く清くて、正しくて、優しくて、思いやりがあって、親孝行だという
『少年倶楽部』の世界そのまま律儀に全部、細胞の中までにしみこませて、そのまま死んじゃった人なのね。
普通、中年になったら、世俗的な手垢がついてきて、小ずるくなったり、いろいろするじゃないですか。
それに全然染まらなかった不思議な人でしたよ。」

美輪明宏、瀬戸内聴寂「ぴんぽんぱん ふたり話」より
0345無名草子さん
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2010/11/20(土) 11:31:35
瀬戸内「三島さんのことを書いた福島次郎という人がいるじゃないですか。私は、ああいうの嫌いなの。…」
美輪「前にも、一人出たんですよ。『週刊読売』で私、対決したことがある。話を聞いてみますと、三島さんが
車で迎えに来てくれたとか言うんですね。でも三島さんは、いつも奥さんに運転してもらってたくらいだから、
自分では運転できなかった。自動車教習所には行くことは行ったんだけど、実技になって、ワンブロック外を走ったら
胃が痛くなって、ひっくり返ったんだって。(略)それで運転するのは、いつも奥さんだったんですよ。だから、
その男の話は根っからの嘘だったの。でも、まあ世間という魔界には根も葉もないことを言うのがいますからね。」
瀬戸内「…あの小説は、三島さんからもらった手紙を売りに行くところから始まりましたよね。ひどいんですよ。
ほんとうにけしからんと思うのね。三島さんのお母さんやお父さんにご飯を御馳走になったり、とっても世話に
なってるでしょ。あの男の小説は卑しい。…もう呆れる。」

美輪明宏、瀬戸内聴寂「ぴんぽんぱん ふたり話」より
0346無名草子さん
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2010/11/20(土) 11:33:45
美輪「でも、三島さんにも非があるんですよ。だれにでも彼にでも、手紙を出してね。あの人は、まあ呆れるくらいに
手紙魔で、何で、こんな人に手紙を出すんだろというようなゴロツキみたいなのにも、丁寧な手紙を出しているんです。
そのゴロツキが、おれはこれだけ三島に思われてるんだと、私のところに三島さんの手紙を寄稿したことがあるの。
そのことを私が話すと、三島さんの目が泳いだんです。「これは私が始末しておきますからね、よござんすね」
と言ったら、素直な子供みたいに「ありがとう」と。そういうドジをあの人はよくやったの。そういう点は
ほんとにまあ呆れるほど世間知らずでしたね。」
瀬戸内「…人を疑わないのね。おぼっちゃんね。あれだけ小説の中では、人間の悪とか悪意とか、いろいろな
権謀術数を書いて、頭の中ではあそこまで理解していた人なのに…」

美輪明宏、瀬戸内聴寂「ぴんぽんぱん ふたり話」より
0347無名草子さん
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2010/11/21(日) 00:13:33
昭和四十一年七月九日、三島さんは美輪明宏さんの日経ホールでのチャリティ公演に歌手として出演、美輪作曲で
自作詞の「造花に殺された船乗りの歌」を歌った。その年は「サド侯爵夫人」が芸術祭賞をとり、劇団NLTを
創った私たちは六月から七月にかけて関西公演に行く所だった。私はその打ち合わせに三島邸を訪ねた。
帰り際に三島さんは、いたずらっぽい笑みをたたえ「ちょっと聞かせたいものがあるんだが、今度ねえ、僕が
歌うんだよ。それをテープに入れたから――」と、既に用意してあったテープレコーダーをかけた。
ほとんどのものに手をそめた三島さんだったが、歌は初めてだった。お世辞にもうまいとは言えず、ためらう私に
たたみ込むように「丁度、関西から帰って来る日だろ。切符を用意しておくよ」と、にこりと笑った。

寺崎裕則「私の心の中に生きる三島さん」より
0348無名草子さん
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2010/11/21(日) 00:14:44
三島さんは、胸の開いた黒のポロシャツに真白なズボンの格好いいマドロス姿で歌った。素晴らしかった。
舞台には歌の巧拙を超越し、そこに一人の詩人がすっくと立っていた。私の不安は雲散霧消。
終って明宏さんを囲んで打ち上げパーティーをした。三島さんは私に感想を求めた。思った通りを話したら
「そうか」と言ったものの、ちょっと不満気だった。
おひらきになると三島さんは「寺崎君、プロの歌手の手前、あれ以上、ほめると明宏さんに悪いと思ったんだろ。
これからはもう遠慮はいらない。ほめ言葉というものは幾らあっても多過ぎることはないんだよ」と、瑤子夫人と
六本木のステーキ屋へ拉致され、朝迄、“歌手三島由紀夫讃”をする破目になった。三島さんはすっかり
満足され、瑤子夫人と夏の、昇る朝日に向かって帰って行かれた。そのうしろ姿に好奇心と、稚気が戯れ合って
美しいオーラ(光輪)を描いていた。

寺崎裕則「私の心の中に生きる三島さん」より
0349無名草子さん
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2010/11/22(月) 11:40:16
「日本語の堪能な留学生が入ってくる」というので、室の者全員が待機していると、
「平岡です。よろしくお願いします」といって現れたのが、何と三島氏だった。昭和四十二年四月十九日のことだった。
彼は、久留米の陸上自衛隊幹部候補生学校で、その春防衛大や一般大学を卒業して入校したばかりの候補生を
視察した後、我々が教育を受けている富士学校普通科上級課程に「戦術の勉強をしたい」との目的で途中から
加わってきたのだった。
…誰もが三島氏の研修目的を詮索したり、文学や芸術の話を持ち出したりすることもなく、ひとりの友人として
自然に接したせいか、すぐに打ち解け、室の雰囲気は一段と明るくなり、女性談義に花を咲かせたりした。
私はこの室の室長兼班長だったが、これに加え三島氏の対番学生(学友として寝食を共にしてお世話する係)を
命ぜられた。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
0350無名草子さん
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2010/11/22(月) 11:41:29
教場では平岡学生と私は一番後方の長机に並んで座り、教官から出される問題を一緒に考えた。
…三島氏は問題の意味するところや私が作る案の内容の細部を真剣に聞き、自分でも「連隊長の作戦命令の方針」を
起案して発表したこともあった。彼の案は、自衛隊の専門用語や文書の形式にとらわれていない実に力強い
雅びな表現で、固定観念に固まっている我々には、はっとさせられるものがあり、教室の雰囲気を和らげてくれた。
…夜は室で談笑したり、腹筋運動にエキスパンダーを使用したトレーニングをしたり、ある夜は自演の映画
「憂国」をクラスの全員に見せてくれたり、私といっしょに洗濯をしたりした。当時の洗濯はまだ洗濯板に
固形石鹸の時代だったので、固形石鹸をシャツにつけていた三島氏の子供っぽい仕草が今でも目に見えるようだ。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
0351無名草子さん
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2010/11/22(月) 11:42:19
入校後一週間ぐらい過ぎた日に、私と話がしたいというので、彼が原稿を書いたり、東京から来る客と応対したり
するために充てられていた個室で、真剣な話を三時間以上も続けた。
「私は日本男子として国防に参加する名誉ある権利を有する。従って貴方たちは私に教える責任がある」
と彼は切り出し、次々と質問してきた。
その主な質問は、「クーデター」「憲法」「治安出勤」「徴兵制度」「シビリアンコントロール」についてだった。
その真剣さに私は、彼の入隊の本当の目的は、七十年安保に向かって騒然としつつある国内情勢に鑑み、特に
防衛大出身の幹部クラスの考え方や心意気、精密度などを肌で確認することにあったのではなかろうかと思った。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
0352無名草子さん
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2010/11/22(月) 11:44:34
彼はその後、同じ富士学校で教育中の幹部レンジャー課程の学生として自衛隊で最も厳しい訓練を体験し、
爽やかな印象を残して去っていった。
以後、三島氏は「檄」文に表現されたような感激を自衛隊で体験していくことになる。
三島氏は民間防衛を荷う祖国防衛隊を組織する夢を抱き、四十三年春、まず厳選された学生三十名を連れて
富士教導連隊で一ヶ月間の訓練を受けることからはじめた。
自衛隊にとっては三島氏のような知識人に自衛隊を理解してもらうことは歓迎すべきことであり、さらに、将来、
国の広い分野でリーダーとして活躍するであろう大学生の体験入隊は、特に当時の状況から願ってもないことであって、
マスコミによって潰されないように配慮して受け入れたものである。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
0353無名草子さん
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2010/11/22(月) 11:45:24
しかし、全国組織を目指した祖国防衛隊の構想は、政財界の協力が得られずに挫折し、自分の力で世話のできる
少数精鋭の「縦の会」へと展開していく。そして彼は彼なりの情勢分析により、自衛隊が治安出勤する事態が
来ると信じるようになる。「縦の会」は自衛隊の尖兵としてデモ隊に突入し、あるいは皇居に乱入する暴徒に
体当たりで斬り死にするという考えに変わっていったものと思われる。
だが、四十四年の一〇・二一反戦デーの騒乱で、自衛隊の治安出勤は起こりえないと見てとった時、ほんとうの
挫折を味わい、三島氏は自衛隊にとって象徴的な場所で、自衛官たちに心の叫びで訴え、武士の最期を遂げたのだった。

菊地勝夫「三島氏の感激と挫折」より
0354無名草子さん
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2010/11/23(火) 01:19:17
正午だった
役人たちは書類に埋まり
財界人たちは金勘定に忙しく
政治家たちは泥沼であがいていた

正午だった
真昼の光を浴びた一人の男がバルコニーで叫んだ
誰も耳を貸さなかった
戦には負けたがサムライの誇りは捨てるなと叫んだ
集まった男たちは嘲笑した

正午だった
一つの窓は閉じられた
……男は切腹した
若い男が男の首を刎ね
自分も切腹した
0355無名草子さん
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2010/11/23(火) 01:21:29
正午だった
男の体から溢れた血は世界中の街角へ流れ出した
鮮血は止まらず世界中の薔薇を染めた
世界中の窓は開かれ
世界中の鐘が鳴った

正午だった
日本刀は血に塗(まみ)れていた
腐った魚たちはまだ眠っていた
正午だった
世界はミシマの不在によって
満たされた

正午だった
昭和45年11月25日の正午だった

その日の
午後1時は
永遠に来なかった

藤井巌喜「正午だった」より
0356無名草子さん
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2010/11/23(火) 11:16:02
一九七〇年の秋、私たち三島の友人は、いつになく彼と頻繁に顔を合わせた。当時、私は、「仮面の告白」と
「潮騒」の翻訳者メレディス・ウェザビーと一緒に住んでいた。そこに、写真家の矢頭保や、時には俳優の
ヨシ笈田が顔を出した。みんな三島とは旧知の間柄だった。
(中略)日本は何処かへ行ってしまった、姿が見えなくなり、消えてしまった、僕はそう思うね、という
三島の言葉を私は覚えている。
まさか、探し回ってみれば、日本はまだまだいろんなところに残っているはずだよ、と私は笑みを浮かべながら応えた。
三島は真顔で首を振った。三島が冗談を言っているのだという思いを捨てきれなかった私は、日本を救う道は
あるのかね、と訊ねてみた。
「ないね。もはや救いようがない」と三島は言った。
その言葉を聞いて、三島が冗談を言っているのではなく、大真面目なのがわかった。

ドナルド・リチー「三島の思い出――最後の真の侍――」より
0357無名草子さん
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2010/11/23(火) 11:17:00
私は、三島が、合理主義一辺倒で、精神性を蔑ろにし、ぬるま湯に漬かったような現代日本の姿に嫌悪を催す
ようになり、秩序の整っていた往時を懐かしんでいるのを知っていた。
以前、私がからかって、「楯の会」を三島のボーイスカウトだと発言したとき、三島は笑っていたが、
「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つ核となるんだ」と言った。
あなたが社会の秩序を決めることができるというの、と私が訊ねると、三島は厳粛な顔で頷いた。
「あなたは誇大妄想狂だ。あなたは天皇を超えた存在だとでも」と私が冗談まじりに言うと、三島はにこりともせずに、
「そうなんだ」と言った。
私が三島に最後に会ったのは、彼の死の二、三週間まえだった。
晩餐に私たち友人を「クレッセント」に招待してくれ、食事中、何回となく西郷隆盛の話題――隆盛の最後の
日々や自決の前に隆盛を処断した親友について――にもどっていった。

ドナルド・リチー「三島の思い出――最後の真の侍――」より
0358無名草子さん
垢版 |
2010/11/23(火) 11:18:02
三島が言うには、西郷は自分では革命に失敗したことを知っていた。
武士道のあるべき姿を確立しているつもりでいたが、親政府は官僚主義に屈していたのである。
次いで、三島は、西郷の行動の美しさ、すべてが失敗に帰し、望みがすべて絶たれたとき、西郷がとった
伝統に則った自決の作法の美しさについて滔々と話し始めた。
「西郷は最後の真の侍だ」と三島が言ったのを記憶している。だが、こう言いながらも、三島本人は自分こそ
最後の侍だということを自覚していた。今にして、私にもそのことは理解できる。
たぶん、三島はしゃべりながら、西郷に憧れて自分が企てたことを私たち友人が悟る瞬間を思い描いていたのだろう。

ドナルド・リチー「三島の思い出――最後の真の侍――」より
0359無名草子さん
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2010/11/23(火) 11:19:49
そう思うのは、小説家としての三島は、作品の登場人物の人生ばかりか、友人の人生まで操っていたような節が
あるからだ。
…私たちは、三島の人生で演ずる、それぞれの役を振り当てられている。たとえば、ドナルド・キーンは、
三島の人生でもっとも重要な外国の文学上のかけがえのない友人であり、文学や翻訳の問題点について
議論できる相手だった。
私はというと、キーン氏に比べてたいした役割を担ってはいない。私は外国人の傍観者で、三島が噂話をしたり、
考えをぶつけたり、胸の内を打ち明けたりする存在だった。

ドナルド・リチー「三島の思い出――最後の真の侍――」より
0360無名草子さん
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2010/11/23(火) 11:20:52
さらに、三島の死――彼が亡くなったという事実と自決したということ――に対する私たちの反応においても
私たちが演ずる役が決まっていたのである。
たぶん私の唯一の台詞は――「いや、違う。最後の侍は三島自身なのだ」
それが三島が私のために考えてくれた台詞かそうでないかはわからないが、三島が真の侍だったことは確かだ。
三島は、あるがままの物とそうあらねばならない物とを比較し、世間の無関心にもかかわらず、自分でより良いと
考える基準に従って生きる芯の強さを持っていた。
三島はまた、その基準に従って、侍本来のやり方で、死ぬ強さをも持ち合わせていた。

ドナルド・リチー「三島の思い出――最後の真の侍――」より
0361無名草子さん
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2010/11/24(水) 10:48:08
「先生は自分が弱かったから、強いものに憧れて、強い人間になりたいということで、鍛え上げたんでしょう」
のちに下士官から将校に昇進するための幹部候補生試験に合格して久留米の幹候生学校で教育を受けているとき、
山内は毎日の授業や実習をおさらいするつもりで、講義の要点をまとめ、その日一日を振り返った反省点などを、
日記を綴るようにノートに書きためていた。
…表紙がすっかり黄ばんだノートの冒頭には、自衛隊の将校になるにあたっての決意がしたためられている。
誰に見せるわけでもなく、自らに言い聞かせるただそれだけのために書いた一文の中で、山内は、三島から
「山内さんはこのような人に見える」と言われて、色紙に『純忠』という言葉を授かったことをしるし、
さらにこうつづけていた。
〈いまも私の宝として、好漢森田必勝君とともに終生先生との思い出を忘れない。忘れることができないであろう。
そして、純忠の言葉通り私も生きたいものだ。〉

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0362無名草子さん
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2010/11/24(水) 10:50:05
(中略)山内は、あの日、市ヶ谷のバルコニーで「諸君は武士だろう!」と絶叫の響きをにじませながら
訴える三島の声をかき消すように、嘲笑や罵声を浴びせた隊員たちにむしろ「腹が立ち」、「平岡先生を
悪者にしてはいけないということしか頭に浮かばなかった」という。三島への尊敬の念が強まることはあれ
薄まることはなかったのである。
そんな山内も、終生先生との思い出を忘れない、と書きとめたノートのなかで、〈私は先生に会う以前、
三島由紀夫とはつまらぬ小説家であろうと思っていた〉と明かしている。(中略)
それが「尊敬」へと180度変わったのは、生身の三島に触れて、たとえ弱さがあっても、そんな自分から
決して逃げることはせず、むしろ真正面から立ち向かって、より強くなろうとする三島の真摯な姿を間近で
みつめてからだった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0363無名草子さん
垢版 |
2010/11/24(水) 10:51:20
ひたむきな三島に心動かされたのは山内ひとりではなかった。体験入隊してきた三島を、時には「平岡ッ」と
本名で呼び捨てにしながら、手加減せず厳しく指導してきた教官や助教も、あるいはともに汗を流し、
隣り合わせのベッドで眠った訓練仲間の学生も、少なくとも私が話を聞いたすべての元兵士たちが口を揃えて、
鍛え上げられた上半身に比べて足腰の弱さが際立つ、三島の中のアンバランスを指摘しながら同時に、三島の
愚直なまでの一途さにすがすがしいものを覚えていた。
要するに彼ら全員が、兵士になろうとして、世界のミシマとは別人のように弱さも含めてすべてをさらけ出した
人間三島に惚れこんだのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0364無名草子さん
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2010/11/24(水) 10:52:51
学生を引き連れた滝ヶ原での最初の体験入隊で、山内や河面と同じく、助教をつとめた江河弘喜は、三島の
人となりについてこう語っている。
「紳士でした。まじめでした。もう真面目そのものでした」
…そして三島の真面目さは、律義と呼びかえてもよいものであることを、江河は自らの体験で知っている。
というより、三島の律義さを、江河は片時も忘れ得ぬしるしとして受け取っているのである。
体験入隊に臨んでいた三島に、江河は或る「お願い」をしていた。近々産まれてくる自分のはじめての子供に
名前をつけてもらえないかと頼んだのである。三島は二つ返事で快く引き受けてくれた。
(中略)いまも江河が大切に保存している三島からの手紙の日付は土曜日の二十五日になっているから、女児誕生の
報せを受けてすぐに筆をとったことになる。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0365無名草子さん
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2010/11/24(水) 10:53:55
〈どうしても可愛がりすぎてしまふ第一子は、女のお児さんがよろしく〉と、やはり第一子に女の子を授かった
自身の経験を引きながら、三島は手紙の中で、〈人生最初に得る我児は、何ものにも代へがたく、一挙手一投足が
驚きでありよろこびであり、……天の啓示の如きものを感じますね〉とその感動を素直に綴っていた。
候補としてあげた三通りの名前については、それぞれについて、…(略)〈一長一短〉があることを断った上で、
三つの中から〈御自由に〉選ぶように書き添え、さらに別便でいかにも愛らしい淡いピンクと水色の産着を
一着ずつ届けて寄越す、こまやかな心の砕きようであった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0366無名草子さん
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2010/11/24(水) 10:58:50
あの日、一九七〇年十一月二十五日、私は十八歳になった。高校三年生である。(中略)
その日の昼下がりも、窓いっぱいにさしこんでくる柔らかな陽の光につつまれて、私はついついまどろみそうに
なりながら、午後の授業の開始を告げるチャイムが鳴ったのも気づかないほどだった。ほどなくして古文を
受け持っていた教師が教室に入ってきた。微かに東北訛りの残る、穏やかな語り口で、ふだんは授業以外の
余計なことはめったに口にしない人なのだが、この日に限って、教科書をひらく前にこう切り出したのである。
「つい先ほどのことですが、三島由紀夫が市ヶ谷の自衛隊に乱入して割腹自殺を遂げたそうです」
思いもよらないニュースを先生の口から知らされたとたん、教科書やノートをひらきかけていた生徒の動きが
一瞬止まり、次いで教室にどよめきが走った。(中略)
しばらくは教室のあちこちでざわめきが尾を曳いていたが、それも教師が古(いにしえ)びとの歌を朗々と
詠じはじめるうちにしだいに静まっていった。しかし、私はひとり胸の動悸を収めることができずにいた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0367無名草子さん
垢版 |
2010/11/24(水) 11:00:08
こんなところで平安貴族が詠んだ歌について悠長に解釈をあれこれ考えている場合ではないだろう。ともかく
市ヶ谷に行かなければ……。と言って、駈けつけても、何をしようなどという考えがもとよりあったわけではない。
ただ、じっと教室の椅子に座って、授業を受けていることが、いまこの瞬間の過ごし方としてはひどく間が抜けて
いるように思えてならなかった。居ても立ってもいられなかったのである。私は鞄に教科書など一式をしまいこむと、
腰を屈めたままの姿勢で席を離れ、教師が黒板に向かっている隙に教壇の横をすり抜けて出口に向かった。
(中略)私が通っていた都立日比谷高校から市ヶ谷は距離にして二キロ弱、(略)市ヶ谷の駅へと通じる下り坂を
下りるにつれて、上空を旋回するヘリの爆音が二重三重に輪をかけて大きくなっていく。外濠にかかる橋を渡り、
駐屯地の前に出ると、正面ゲートだけでなく、ヤジ馬が鈴なりになった周囲の歩道にも制服警官や機動隊員が
多数配置され、あたり一帯は異様な空気につつまれていた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0368無名草子さん
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2010/11/24(水) 11:01:09
私はただその場から立ち去りがたいという思いに引きずられて小一時間ほど佇んでいたが、やがて、あの門の向こうで
三島が自決したんだと自らに言い聞かせるようにいま一度眼を見ひらき、駐屯地の奥を見据えて、脳裏にその情景を
しっかりと刻みこんでから、相変わらず上空をヘリが舞い、(略)騒然とした雰囲気の中、歩いて市ヶ谷から
九段の坂を通り、神保町の自宅に帰った。(中略)
自宅の神棚には、鯛のお頭付きと三越の包装紙につつまれたケーキの箱が供えられていた。家族の誕生日の、
それが我が家の習わしであった。私は、その夜のささやかな祝宴の主賓であったにもかかわらず、鯛にもケーキにも
手をつける気には到底なれなかった。
その日からずっと、私の中で、「三島由紀夫」は生きつづけているような気がする。いまになって思えば、
自衛隊に兵士たちを訪ねて歩く取材をはじめたのも、三島由紀夫抜きには考えられないのだった。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0369無名草子さん
垢版 |
2010/11/24(水) 15:56:13
私は生涯にただ一度きり、生身の三島を間近にしている。
…私が三島を眼にしたのは、他でもない自衛隊の観閲式においてであった。学校新聞の取材と称して式典への参加を
願い出た高校一年生、十五歳だった私に、防衛庁は各国の駐在式官が陣取った来賓席を用意してくれていた。
肩から金モールを下げ、礼装の軍服に身をつつんだ式官や華やいだ装いの夫人たちに囲まれて席についていると、
式官の一団が突然、「起立!」と号令をかけられたみたいに夫人ともどもいっせいに立ち上がった。私も、
傍らに座る、観閲式に無理矢理つきあわせた級友のTと一緒に思わず立ち上がっていた。式官たちは全員二時の
方向を向いて、手を制帽の眼庇にかざし挙手の礼をとっている。(略)彼らが敬礼を送っている相手は最初は
見えなかったが、相手の動きとともに、敬礼する式官たちの体の向きも変わってゆき、やがて彼らがほぼ真横を
向いたところで、ならび立つ軍服の間から三島が姿をあらわしたのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0370無名草子さん
垢版 |
2010/11/24(水) 15:57:25
細身のスーツを着こなした三島は自らも右手をかざして式官たちの敬礼に応えながら、瑤子夫人を伴って、
私とTが立っている席のすぐ前の席に腰を下ろした。
私の視線は、傍らの駐在式官から挨拶を受け、にこやかに何ごとか語らっている三島に釘付けになっていた。
間近も間近、手を伸ばせば触れるようなすぐそこに、三島由紀夫がいることに私は興奮して、級友のTの肘を
つつきながら、「ミシマだよ、ミシマがいるよ」と熱に浮かされたようにうわごとめいたつぶやきを繰り返していた。
音楽隊が奏でる勇壮なマーチに乗って、陸海空各部隊が一糸乱れず分列行進をしたり、(略)迫力あるシーンは
どれもはじめてじかに眼にするものばかりだったはずなのに、どういうわけか、記憶に灼きついているのは
三島の姿だけなのである。
たった一度だけ三島を眼にした場が自衛隊の式典であり、それから二年あまりのうちに、自分の十八回目の誕生日に
三島が自衛隊で自決を遂げたことは、私の中で不思議な暗号として捉えられた。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0371無名草子さん
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2010/11/24(水) 15:58:36
いつしか私は、三島由紀夫と、自衛隊と、自分自身とを何か運命的なもののように重ね合わせて考えるようになっていた。
(中略)三島は、自衛隊に何を見、何を期待し、何に絶望していったのか。(略)答えがみつかるはずもない
その問いかけを、鈴振るように胸に響かせながら、私もまた自衛隊のゲートをくぐったのであった。
当初私は、三島が丸三年半にわたる自衛隊体験の中では、自衛隊を第一線で支える、もの言わぬ隊員たちの素顔に
間近に接して、彼らの心情に分け入るまでには至らなかったのではないかと思っていた。(中略)
しかし、三島が死に場所に選んだ自衛隊をこの眼で見、全身で感じてみたいと思い、はじめた平成の兵士たちを
訪ねる旅の第一歩からほぼ十五年の年月が流れ、その旅をいよいよ終えようといういまになって、私の眼には、
三島の眼差しの先にあったものがかつてとは違ったように見えてきたのである。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0372無名草子さん
垢版 |
2010/11/24(水) 15:59:46
(中略)
〈…自衛隊は永遠にアメリカの傭兵として終るであらう〉という三島の予言は、その死から四十年近くたったいま、
ますます説得力を帯びた切実な響きで聞こえてくる。そうなってみると、十五年前には迂闊にも気づかなかったことだが、
三島が知っていた自衛隊とは、決して〈武器庫〉や〈階級章〉だけではなかったように思われてきたのである。
死の二ヶ月前、三島は、「楯の会」の会員たちと体験入隊を繰り返し、彼が自衛隊でもっとも長い時間を過ごした
滝ヶ原分屯地の隊内誌『たきがはら』に一文を寄せている。その中で三島は、自分のことを、
〈二六時中自衛隊の運命のみを憂へ、その未来のみに馳せ、その打開のみに心を砕く、自衛隊について
「知りすぎた男」になつてしまつた〉と書いていた。じっさい「知りすぎた」三島は、『檄』にも書きとめた通り、
〈アメリカは眞の日本の自主的軍隊が日本の國土を守ることを喜ばないのは自明である〉という自衛隊の本質を
見抜いていたがゆえに、自衛隊の今日ある姿を予見することができたのだろう。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0373無名草子さん
垢版 |
2010/11/24(水) 16:00:51
隊員ひとりひとりが訓練や任務の最前線で小石を積み上げるようにどれほど地道でひたむきな努力を重ねようとも、
アメリカによってつくられ、いまなおアメリカを後見人にし、アメリカの意向をうかがわざるを得ない、すぐれて
政治的道具としての自衛隊の本質と限界は、戦後二十年が六十余年となり、世紀が新しくなっても変わりようが
ないのである。
私が十五年かけて思い知り、やはりそうだったのか、と自らに納得させるしかなかったことを、三島は四年に
満たない自衛隊体験の中でその鋭く透徹した眼差しの先に見据えていた。
もっとも日本であらねばならないものが、戦後日本のいびつさそのままに、根っこの部分で、日本とはなり得ない。
三島の絶望はそこから発せられていたのではなかったのか。

杉山隆男「兵士になれなかった三島由紀夫」より
0375無名草子さん
垢版 |
2010/11/25(木) 21:22:31
おそらく、三島由紀夫の切腹・自決事件に驚愕し、それぞれ政治的、思想的立場は異なるとしても、また
三島事件なるものの意味と本質が理解できたかどうかとは関係なしに、精神的に深い影響を受けなかった日本人は
いないだろう。むろん、僕も深い影響を受けた者の一人だったが、僕が最も興味を持った反応は、京大パルチザンを
率いていた左翼過激派の京大助手、滝田修(川本信弘)の「三島に先を越された。我々の陣営にも第二、第三の
三島由紀夫を……」という発言だった。僕は、この滝田のことばに、何故だか、意味もよくわからないままに
戦慄し、身震いしたのを覚えている。僕が、三島由紀夫や滝田修の行為や言動から、薄々、感じていたのは、
「思想や政治を語るものは、それに命を賭けよ」ということだったように思われる。僕が、三島由紀夫事件に
接して身震いを覚えたのは、まさに、そこに、つまり「今、此処に…」、思想に命を賭けた日本人がいるという、
そのことだった。滝田の言葉も、そのことを言おうとしたものだったはずだ。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より
0376無名草子さん
垢版 |
2010/11/25(木) 21:23:26
三島事件を転機に、思想状況は一変した。本気か、そうでないかが、つまり、日頃の勇ましい言動とは裏腹に
一目散に市民社会へ逃亡するものと、いよいよ退路を断ち切って思想闘争に命を賭けるものとの「わかれ道」が、
ここで一目瞭然となったからである。特に、その後の左翼過激派の動きは、そのことを証明している。イスラエル・
ロッド空港銃乱射事件を起こした奥平某、安田某等は、滝田修が率いていた京大パルチザンの残党であり、
しかも僕とはほぼ同世代の青年たちであった。彼等もまた、三島由紀夫事件に、つまり「思想に命を賭ける」
という事件に深い影響を受けていたはずである。
さて三島由紀夫事件直後に、「三島追悼の夕べ」を開き、その後、正式に「憂国忌」と名付け、三島由紀夫慰霊祭と
鎮魂祭を、毎年、執り行ってきたのが「三島由紀夫研究会」という組織だったらしいが、その「三島由紀夫研究会」が、
このほど、『憂国忌の四十年』(並木書房)という本を刊行した。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より
0377無名草子さん
垢版 |
2010/11/25(木) 21:24:32
あまり、というより、ほとんど、文壇やマスコミは取り上げようとしないらしいが、僕は、この本に深く感銘を
受けた。思想や政治に命を賭けた者たちの記録として読むことが出来るからだ。
三島由紀夫や三島事件を、「文学」に回収することは、三島由紀夫を「文学」に祭り上げることによって、
何処にでも、掃いて捨てるはどいる小市民的な、毒にも薬にもならない、凡庸な小説家の一人として「祭り捨てる」
ことである。これに対して、『憂国忌の四十年』が描くのは、今なお、生々しい存在として、そして凶々しい
存在として「生き続けている三島由紀夫」であり、三島由紀夫の文学や思想に深く共鳴する「三島信者」たちの
その後の人生である。実は僕も十数年前から、この会に関係し、「憂国忌」の発起人の一人に名を連ねているのだが、
そしてその関係で、毎年、顔を会わせ、それなりによく知っているのだが、この『憂国忌の四十年』という本の
多くを占めているのが、このグループのリーダーであった故「三浦重周」氏のことである。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より
0378無名草子さん
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2010/11/25(木) 21:25:36
三浦氏は、先年、憂国忌を責任者として執り行った直後、故郷の、白雪と寒風が吹き荒れる新潟港岸壁で、
三島由紀夫と同じように、切腹・自決している。僕は、そこに至るまでに、三浦氏に、いかなる理由や事情が
あったかを知らないが、三浦氏の自決事件にも、何かを感得した。文壇やマスコミが、この本を無視、黙殺して、
松本健一や平野啓一郎等の、世にもくだらない駄本(『三島由紀夫と司馬遼太郎』)や、一夜漬けの雑学を
披露しただけの座談会を持て囃すのは当然だろう。
『憂国忌の四十年』は、思想や政治に命を賭けた者たちの記録である。すくなくともこの『憂国忌の四十年』
という書物のなかには、三島事件の「事件性」と「危険性」は、失われていない。ここにこそ「文学」があり
「思想」がある。ここにしか「文学」も「思想」もありえない。

山崎行太郎「三島由紀夫没後40年『憂国忌』について」より
0379無名草子さん
垢版 |
2010/11/28(日) 11:14:04
多くの人が多くのことを書いたりしゃべったりさせられた。なかには弔辞とは思えない発言も多かったが、当節、
葬式に出かけてまで自分の宣伝をやりかねない人間がいることにあまり驚いてもいられない。たとえば、
「そうですね、彼の死は結局……」などと、終始目尻を下げて薄笑いを浮かべながらテレビでしゃべったりする
人間や、死者に唾を吐くようなことを書く人間がいても、これを抹殺することはできない以上、私たちは
我慢して生きるほかない。(中略)
これは、三島氏の場合のように死にかたが異常であった場合、生き残った人間の側の自己防衛の努力ともみられる。
斬られたのが比喩のうえのことであるにしろ現実のことであるにしろ、とりあえず傷口をふさぐことに専念
しなければならないのである。(中略)恥も外聞も忘れて言葉をそういう自己防衛のために使わなければ
ならない人間も何人かはいて、その人たちが三島氏の行動を非難したり否定したりするのに懸命になっている
正直さは許されなければならない。恐怖が大きすぎて沈黙を守っていられないとき、弱い犬には吠えることしか
できない。

倉橋由美子「英雄の死」より
0380無名草子さん
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2010/11/28(日) 11:15:27
(中略)言論、表現、思想の自由なども、主としてふまじめに言葉を使う人間にその権利を保障してやるための
ものであるかのように考えられている。そういう人間は、日本国憲法はあなたがどんなことをいおうとそれを
ただいうだけならあなたの生命を保障していますよ、といわれても格別侮辱を感じないのかもしれない。これに
対して三島由紀夫氏は言葉をまじめに使い、思想を組み立ててその頂点に死しかなければ死ねる人間だった。
その死も、自分の言葉に酔ってのことであるとか、自分で築いた言葉の楼閣のうえでの演技にすぎないといった
説明ですませてしまう人間がいて、この連中にはもはや救いがない。この種の人間はつねに、自分にはそれを
する気も能力もないが、という条件法で自分の思想と称するもの、というより叶わぬ願望や愚痴や恨みを語って
いるのであって、ここでこの種の人間に絶対できない「それ」というのが割腹して死ぬということなのである。
三島氏は単純に定言命令だけで自分の思想を組み立てていた。その頂点には汝死すべしという命令があって、
その言葉が行動になった。

倉橋由美子「英雄の死」より
0381無名草子さん
垢版 |
2010/11/28(日) 11:17:01
(中略)凡人を超える大きさをもった人間があらわれて凡人にはできぬことをして死んだとき、それが天才で
あったことを認めると同時に自分たちがどの程度の人間であるかを悟ることが、凡人に望みうる唯一の美徳である。
そして情けないことではあるが、ともかく生き残り、長く生きることで夭折した天才を凌ぐことが凡人に許された
唯一の特権でもある。できるかぎり長く生きること、その量の問題が重要だとカミュがいったのはどんな文脈の
なかでだったかおぼえていないが、私たちがいまこの言葉を楯にとって、死ぬことではなく生きることが
問題なのだと三島氏にいってみたところで、自分が欲するように死ぬことのできた天才にとってそれはほとんど
耳を藉すに足らぬ言葉である。まして、三島氏の才能を作家としての仕事の枠内でしか見ることができない
同業の人間たちが、三島氏の死によって物を書く才能がひとつ消滅したことを惜しみ、生きていてさらによい
仕事をしてもらいたかったなどというのをきくと、三島氏が同業者たちとのおつきあいにつくづく嫌気がさして
いた気持もよくわかる気がする。

倉橋由美子「英雄の死」より
0382無名草子さん
垢版 |
2010/11/28(日) 11:18:26
三島氏が文学の仕事に行き詰まってあのような行動に走ったという説にいたっては論外である。こういう人たちは
自分が作家であるということを何か人間であることを超えた特別の資格であると考えているのであろうか。
おそらく人間も国家もすべて文学のためにあるということであるらしい。三島由紀夫氏というひとりの天才がいて、
常人を超える生活をして、そのひとつにすぎなかった文学の仕事に関してはもうなすべきことがなくなったと
感じたとき、私たちはこの天才の壮烈な死を黙って見ているほかなくて、またそれが弱くて凡庸な人間の側の
最高の礼節というものである。ひとつの稀有な文才を消滅を惜しむのはよいが、生きていればまだよい作品が
書けたのにといういいかたには、金の卵を生む鶏の死を惜しむのに似たけち臭さがある。
三島氏の作品がもっと多ければそれだけ日本の文化遺産だか何だかの量がふえるのに、というのがそもそも
俗悪な考えかたなので、三島氏がその行動によって示したのが、文化とはどういうものであるかということなのだった。

倉橋由美子「英雄の死」より
0383無名草子さん
垢版 |
2010/11/28(日) 11:20:33
英雄や天才が卑小な人間に愛想をつかすのは当然の特権であって、これは病める人間が陥りやすい人間嫌いなど
とは全然別物である。私たちの敬愛は、三島氏が「おまへたちは阿呆ばかりだ」と思っていたことで損われる
性質のものではないので、三島氏は大声でその思っていることをいえばよかった。阿呆は自分以外の人間を
すべて阿呆だと思っている、などと歯切れの悪いことをいった芥川龍之介(鬼才とか秀才といった言葉はむしろ
この人にふさわしい)の場合とは違うのである。とにかく、そういう境地に達していた天才ならば、あとは
阿呆に対しても礼儀正しくふるまい、晴朗な顔をして憤死するだけだった。
昔から日本では三島由紀夫氏のような人があんなふうに憤死すれば神になることになっていた。ここで
神というのは英霊のもうひとつ先を考えているのであって、ユダヤ人が発明した神などとは無論関係ない。
(中略)日本人は昔から三島由紀夫氏のような人間の霊を祀り、それにつながってその先にあるはずのものを
拝んできた。三島氏はみずから死んでそういう神と化す以外になかったのである。

倉橋由美子「英雄の死」より
0384無名草子さん
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2010/11/29(月) 12:09:01
三島由紀夫が「精神的クーデター」を狙うかのごとく憂国の諫死をとげてから、早や四十年の歳月が流れた。
あの驚天動地の衝撃は日本の思想界、言論界に強烈な影響を与えた。事件直後のテレビニュースにでた林房雄は、
「正気の狂気」と比喩した。藤田東湖の正気の歌を思い出す人も多かった。中曽根防衛長官が「狂ったのか」と
発言したことに対して「はじめから終わりまで正気だった」と林は二重の意味を込めたのだ。正気(せいき)を
正気(しょうき)と呼ぶのは戦後である。
新保祐司の比喩によれば、「美の世界から三島は或る日、『正気』に選択されて『義』に向かった」という。
正気とは領土とか人民の危機レベルではなく、磯部浅一は「正気の危機」だと言った。吉田松陰は大和魂と言ったが、
どれもこれも外国人には分からない。いまの日本は「日本人」の顔をした外国人が多いから吉田松陰も三島も
分からない。西郷さんも乃木将軍もわからない。

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
0385無名草子さん
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2010/11/29(月) 12:10:21
三島事件直後に江藤淳は小林秀雄と『諸君』での対談で「(三島さんは)単に老衰しただけじゃありませんか」
と言い、小林が「それなら君は堺事件をどうおもうか」と、日本の歴史にはときに訳が分からないことがおきる
のであり、それが歴史だという意味のことを言った。
戦争は悲劇であり、悲惨というレベルだけで戦争を総括するのは錯誤でしかなく、崇高という感覚が
“狂気の正気”となる。石原慎太郎には、これが分からないらしい。なぜか、石原は三島となるとムキになって
矮小化したがるからだ。
戦後の日本は戦争を悲惨とだけ捉え、人間主義、自己実現だけとなって、他者実現、崇高さが失われた。
義と美との距離は前者がユダヤー欧英に強く、後者はギリシア、ローマなど南欧に流れた。デビュー直後は
ギリシャに憧れた三島は明らかに美をもとめていた。そして歳月が流れ、正気が三島を選択した。
正気は50年、100年に一度、突発するのが日本の歴史であり、三島事件は乃木希典の殉死で日本中が
わなわなと震えて感動した事件以来かもしれない。精神においては特攻隊以来であろう。

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
0386無名草子さん
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2010/11/29(月) 12:11:53
さて筆者自身、学生運動を担っていた時代、三島由紀夫、林房雄、村松剛らの指導を仰いでいた。三島は筆者らが
出していた民族派理論誌「日本学生新聞」の創刊号に祝辞を寄せてくれ「天窓を開く快挙」と期待を表明し、
また全日本学生国防会議(森田必勝が議長)の結成大会に駆けつけて万歳三唱をしてくれた。その後、森田が
楯の会専従となり、あの事件へと突っ走ることになる。直後の追悼会は池袋の豊島公会堂に入りきれず、会場前の
公園に数万のファンが押し寄せた。しかし三島事件以後、日本の精神的堕落、知的頽廃はますます進行するばかりだ。
まさに「芭蕉も近松もいない昭和元禄」と三島が書いたが、その「三島もいない平成元禄」になった。
国益を考えない政治家がままごと政治をおこない、そのリーダーシップの劣化は官界におよび、ちっぽけな汚職が
はびこり、財界には侍が不在となり左翼論壇は滅びたはずなのに失業互助組合のような媒体と支援団体でかろうじて
息をつなぎ、偏向マスコミの売国的言論を維持している。

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
0387無名草子さん
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2010/11/29(月) 12:13:32
三島由紀夫は「生命より大事なものがある」と精神的クーデターを企て、日本の文化伝統の尊さを日本人に
覚醒させようとした。しかし「自分の行為は五十年後、百年後でしか理解されまい」とも言い残した。
こうした三島由紀夫の憂国の情念、祖国への愛を継承し、ともかく努力をして祖国の復権のためになにがしかの
努力をしようとする同士が集まって四十年前に「三島由紀夫研究会」が結成された。
毎年の三島の命日には追悼会を挙行し、日本に正気が戻るまで継続し、「三島由紀夫と通して日本を考えよう」
という標語で若者に訴えかけたのが「憂国忌」の始まりである。
やはり三島が予言したように日本に正気が回復するには百年(ということは差し引き半世紀前後)を要するのだろうか?

宮崎正弘「ミシマのいない平成元禄」より
0388無名草子さん
垢版 |
2010/12/01(水) 11:45:18
「二・二六事件」の時に自殺した青年将校は河野大尉と、陸相官邸でピストル自殺した最先任将校の野中大尉だけである。
私はてっきり(憂国の)作者の三島由紀夫が河野大尉をモデルに作品を書いたのだと思い、三島に問い合わせの
手紙を出した。熱海の病院で、夜、河野大尉らしき若い男(の霊)と会ったことや、当時、怪我をして担ぎ込まれた
河野大尉を担当した看護婦の話も漏らさず付記した。間もなく三島から返事がきた。
「(中略)河野大尉のことは知りませんでしたが、彼の実兄から同じような手紙が来て、河野大尉が熱海で
割腹自害していたことを初めて知りました。あなたがそこの病院で河野大尉らしい人物にお会いになったあたりは
興味津々たるものがあります。いつかゆっくりとお聞かせください。 敬具」

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0389無名草子さん
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2010/12/01(水) 11:46:14
(中略)その後、三島と何度か手紙のやり取りをしたが、私が実際に三島本人と会ったのは都内のK警察署の
殺風景な道場であった。(中略)
二人の会話では、河野大尉ら青年将校たちのことがよく話題になった。
河野大尉の実兄とも『憂国』が取り持つ縁で、時々あっているとのことである。
私が河野大尉らしい人物と会ったり、夢で会見したことは誰も本気で聞いてくれなかったが、三島だけは違った。
彼は、私が夢の中で河野大尉と会ったときのことを根掘り葉掘り聞くのである。
「うーむ、やっぱりそうか、そうだったのか」などと一人でうなずいたりした。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0390無名草子さん
垢版 |
2010/12/01(水) 11:48:11
(中略)「彼らが決起に失敗し、自刃を決意して天皇の勅使を賜りたいと願い出たときに、天皇は『死にたければ
勝手に死すべし』と冷たく突き放しているのはご承知の通りです。天皇に最も近く仕えていた侍従武官長の
本庄大将が日記に記していることなので、まず本当だったのでしょう。いかにも血も涙もないご返事で、
日本の将来を憂い、天皇を信じきって決起した青年将校たちの落胆ぶりが目に見えるようです」
日頃から青年将校たちの純粋さに憧れていた三島は本当に残念そうだった。
「しかし三島さん、日本は立憲国家なのです。信頼していた重臣たちを突然殺害された天皇がお怒りになるのは
当たり前でしょう。彼らの自刃に際して天皇が勅使を派遣されたとなると、決起を褒賞したことになります。
立憲国家の君主として当然の行為です」
常識的に別になんの疑問もないところだが、三島の考えはやや違っていた。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0391無名草子さん
垢版 |
2010/12/01(水) 11:49:47
「総理大臣のような普通の人間ならそれでもいいかもしれませんが、日本のすべてを統括する天皇は神のごとき
存在であり、神のごとき立場で、常に冷静沈着な判断をされねばならなかったのです。
それが、『死にたければ勝手に死すべし』では、あまりにも人間の憎悪の感情丸出しで、一般の市民となんら
変わらないではありませんか。以前会った河野大尉の実兄は、そのとき天皇は、陛下の赤子が犯した罪を
死を以て償おうとしていると聞き、『そうか、よくわかってくれた。お前が行ってよく見届けてくれ』と
なぜ侍従長に仰せられなかったのかと嘆いていました。
これはもう、人間の怒り、憎しみで、日本の天皇の姿ではありません。悲しいことです」
三島はそこまで一気に言うと、声を詰まらせた。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0392無名草子さん
垢版 |
2010/12/01(水) 11:51:06
…私は三島の激しい口調に反論する言葉を失い沈黙した。
「それから、ひどいのはその後の軍部のとった処置です。青年将校たちは一旦は揃って自刃を決意しましたが、
裁判で自分たちの主張を世間に発表するために法廷闘争に切り替えます。しかし、青年将校たちが最後の望みを
託したその裁判は、弁護人なし、控訴なし、非公開という日本の裁判史上まれに見る暗黒裁判でした。その挙げ句、
首謀者の青年将校十五人を並べて一斉射撃で銃殺したというんですから、とても近代国家のすることではありません」
三島の悲憤慷慨は留まるところを知らず、事件後の裁判まで話が及んだ。作家らしく感情の起伏が激しく
「二・二六事件」当時の東北農村の貧窮ぶりを語るときなどはうっすらと涙さえ浮かべていた。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0393無名草子さん
垢版 |
2010/12/01(水) 11:54:02
(中略)
平成元年二月二十四日、昭和天皇の大葬の日は、朝から冷たい雨が降ったり止んだりする肌寒い日だった。
この日、自衛隊を定年退官する私は、天皇の御柩を見送るために三宅坂に出かけた。(中略)
天皇のお車が私の前にさしかかったときである。私は不思議な幻影を見た。道路の反対側にカーキ色の服を着た
男たちが並んでいる。よく見ると、なんと、懐かしい河野大尉を含む「二・二六事件」の青年将校たちではないか。
彼らは道路際に行儀よく並び、天皇の車の行列を無表情に見つめていた。(中略)
「二・二六事件」を解く最大のキーは、そのときの天皇のご決断にあると言われている。
…戦後、天皇が外遊した折、外国人の記者に囲まれて、「二・二六事件」に対する所見を聞かされた天皇は、
「遺憾に思います」と答えられている。政府の高官や皇族の人が「遺憾に思う」ということは「間違っていた」
「すまないことをした」という意味とされている。(略)…マスコミではほとんど取り上げられなかった。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0394無名草子さん
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2010/12/01(水) 11:55:05
「原さん、青年将校に代わって天皇にお願いしてくれ。このままじゃ、あまりにも彼らが可哀そうだ。
頼むよ、原さん……」どこからか、甲高い三島の声が聞こえてきた。私はたまらず列をかき分けて前へ出ると、
天皇の御柩に向かって叫んだ。
「天皇よ。なぜたった一言、彼らにお声をかけてくださらないのですか。このままでは彼らは永遠に反逆の徒に
なってしまいます。かつて彼らは、あなたを信じて決起したのです。賊徒のまま放っておかれるおつもりですか。
浮かばれぬ彼らの魂は、いったいどこへ行ったらいいのです……」
(略)…私はたちまち屈強な警察官たちに取り押さえられたが、その時、道路際の向こう側に立っていた
河野大尉がニッコリ笑うのが見えた。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0395無名草子さん
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2010/12/01(水) 11:56:15
三島は結局、自衛隊市ヶ谷駐屯地を己の死に場所とした。
…多くの自衛隊員の前で演説し、そして腹を切るという壮烈な死の花道として、士官学校、大本営、参謀本部など、
かつて日本陸軍のメッカといわれた市ヶ谷を選んだ。
…三島は隊員に決起を促すため方面総監室を占拠し、総監を人質にするという暴挙に出たが、そのために三島を
恨んだり、非難する声は今でも自衛隊内部では少ない。
事件の当日、会議中に総監室の異状を知った方面総監部三部の防衛班長中村菫正(のぶまさ)二佐は、隊員の通報で
総監室に駆けつけ、幕僚長室から総監室に通じるドアを体当たりで開けて中に飛び込み、振りかざした三島の刀で
右手を二回にわたり斬りつけられる。(中略)
思いもかけなかった刃傷事件の発生に、総監部の各事務室の片隅に警棒が常時置かれるようになったのは、
この事件以降のことである。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0396無名草子さん
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2010/12/01(水) 13:29:41
(中略)しかし、こんなとんだ災難にあった中村二佐だが、三島を恨もうとはしていない。
「三島さんは私を殺そうと思って斬ったのではないと思います。相手を殺す気ならもっと思い切って斬るはずで、
腕をやられた時は手心を感じました」とあとで語っている。
斬られながらも相手の手加減を感じるなど、剣道を知らない者にはわからないところだが、中村二佐は旧軍の
軍人だから剣道の腕も相当なものがあったのだろう。
自衛隊の良き理解者だった三島について「まったく恨みはありません」と断言した中村二佐はその後、陸幕広報班長、
第三十二連隊長、総監部幕僚副長、幹部候補生学校校長を歴任し、昭和五十六年七月、陸将で定年退官するが、
最後の職場が、かつて三島を教育した久留米の幹部候補生学校だったとは、皮肉な巡り合わせである。

原竜一「熱海の青年将校――三島由紀夫と私――」より
0397無名草子さん
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2010/12/02(木) 15:43:31
公威は、独特の笑顔を持って生まれてきた赤ん坊であった。
明るく、底の方から湧き出るような笑顔である。笑うつもりもなく自然に顔中の筋肉がほぐれ、こぼれるように
溢れる笑顔こそ、生涯をかけて私を励まし慰めてくれたものだった。
二十歳の健康な母親には豊かな乳房があり、赤ん坊はほとばしる乳をたっぷり呑んで育った。この世から、
もしこの顔が消えることがあったら、私は生きていることは出来ない、とその時から幾年もずっと思い続けて来た。
もしそのような事があったら、誰が何を言おうと一緒にお棺の中に入ってしまおう。家中の者が泣き喚いて
止めても実行しよう、と思い定めていた。
それは、公威が長じて大人になってからも、消えるどころかだんだん強固なものになって来ていたから、
事件の時点で当然実行する筈であった。

平岡倭文重「暴流のごとく」より
0398無名草子さん
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2010/12/02(木) 15:44:26
ところが、あの時、はっきり拒否する公威の声があった。私は意味を考え、そして分かった。
折角の彼の行為が汚れるからだ。私が何をしたところで、公威の味わった苦しみにはとても近寄れないが、
これから先に立ち現れる障害に耐える力をあの時の公威が私に授けてくれたように思う。
重い重い石の塊りのような得体の知れないものがどっかり腹の中に居据わって、これは一体何なのかと私は
いぶかしく分析してみる。諦めとも違う。怖れとも違う。やはり公威の残してくれた一種の教訓と私は感ずる。
私が泣けば彼も泣く。私が喜べば彼も喜ぶ。私はもう泣かない。泣くものか、と気が狂ったように、止めどなく
私の感情は揺れ動き往きつ戻りつした。
そして残された者の心の在り方として、公威の優しさが一種の安らぎのかたちを取って、今ここにこうして私は在る。

平岡倭文重「暴流のごとく」より
0399無名草子さん
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2010/12/03(金) 18:17:32
ボディビル(笑)
0400無名草子さん
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2010/12/03(金) 22:57:58
戦前の輝かしい日本の昭和3年に生を受けた私は、本土決戦が近い昭和19年に当時最高のエリート集団、
海軍機関学校の厳しい試験を突破。畳が血に染まっている激しい柔道場、プールの底に網を張り、力尽きて
おぼれ沈むまで泳ぐ猛訓練、日本最高の頭脳を有する教授陣による徹底的な座学。入学した東京帝国大学は正門に
菊の御紋を頂き、「われわれの愛する歴史と伝統の国、日本」のため必死に勉強し、身体を鍛えました。
全国民が国のために死ぬ覚悟の戦前の日本、玄関の鍵を開けていても泥棒の入らなかった戦前の日本の高い道徳。
戦後の日本は、玄関に鍵をかけていても泥棒が入る堕落国家。現在の政治は武士によって行われるのではなく、
士農工商の商、つまり、カネと利権により政治が行われています。日本の政治は、「武士道」により行なわれ
なければなりません。「三島精神」で行わねばなりません。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより
0401無名草子さん
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2010/12/03(金) 22:59:21
「日本の真姿が変わって、生命尊重のみで魂は死んでいる。」と三島先生は言っておられます。今こそ三島先生の
遺志を継いで良き日本に造り変えましょう。
それには、まず東京から日本を変えましょう。私の家系は徳川幕府の直参旗本で、江戸で、300年、政治の
中枢に居りました。私は、来年4月初頭の東京都知事選に立候補し、三島先生の遺志を実現し、東京を創りかえます。
そのため、東京を民主党の菅政権と一線を画し、占領憲法を廃棄し、尖閣や北方領土の護りを固くし、
「世界最高の修身教育」と「強い男子」の育成、「減税」をして元気溌剌で活気ある愉快な東京にします。
ハーバード大学で「グレート・シンカー」(偉大な賢い人)に選ばれたドクター・中松のみが東京を賢く
指導できると自負しております。
11月25日の『憂国忌』には、米国で「ドクター・中松デー」の制定行事があったため、残念ながら参加でき
ませんでしたが、三島由紀夫の行動哲学に共鳴している皆さまと共に、日本の現状を糾弾してまいりたく存じます。

ドクター中松
三島由紀夫没後40年憂国忌へ寄せるメッセージより
0402無名草子さん
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2010/12/04(土) 19:21:03
森田同志は、四十一年四月、紛争中の早稲田大学に入学し、(中略)日学同の前身母体「早学連」に馳せ参じてきた。
同年晩秋の「日学同結成大会」以後、万人を魅了してやまなかった彼の性格と、明るい統率力でたちまち指導者になり、
草創期の日学同運動を多くの同志たちとともに担った。
(中略)日学同運動のなつかしい先導的試行期の数々の活動を想いかえしてみると、必ず森田同志のあの
人なつっこい笑顔が私たちの胸中に浮かんでくる。
早大国防部が、当時、毎朝行なっていた早朝トレーニングに、徹夜アルバイトからかけつけて眠い眼をこすりながら
一緒に早大付近を走り、牛乳配達のおじさんや、新聞配達の青年、靴みがきのオジさん、食堂のオバさんなどに
大声で「おはよう」といっていた森田同志。
彼は早大商店街でも人気者だった。事件後直ちに早大正門を陣どって、私たちがつくった仮設の焼香台に噂を
聞いて実に多くの付近の人たちが馳けつけて下さった。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より
0403無名草子さん
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2010/12/04(土) 19:22:01
明るかった森田同志。口舌の徒をにくみ、世の不正にいきどおり祖国の正しい発展のためには命を捨てると淡々と
語っていた彼。あの森田同志が、壮烈な割腹自決を遂げて現世にもはやいないとは、まだ私たちには信じられない
ことである。
四十三年、楯の会第一期生として、故郷から骨折していた足をひきずって、富士学校の体験入隊へ加わった
森田同志は、たちまち三島先生に可愛がられるようになった。
四十三年四月、早大国防部二代目の部長となった彼は、自主憲法、自主防衛による日本の真の独立をよびかける
学生運動を全国的に燃えあがらせよう! と各大学へオルグに出掛け「全日本学生国防会議」の結成に尽力した。
森田同志の努力で、四十三年の一年間に、三島由紀夫先生は三回も、私どもの大きな行事に特別講師として
協力してくださった。(中略)このとき三島氏の協力が得られなかったとしたら、今日の民族派学生運動の興隆はありえなかっただろう。

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より
0404無名草子さん
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2010/12/04(土) 19:23:38
四十三年八月、森田同志が団長になった北方領土返還運動の日学同現地闘争団は、ノサップ岬へ赴いた。
「貝殻島」へ上陸して、北方領土返還の捨て石となると死を決していた森田同志。計画は挫折したが、それにも
めげず、同年八月下旬のソ連軍のチェコ侵攻に憤激し、ソ連大使館へのデモを組織した彼。
(中略)当時、読売新聞の論壇時評を担当していた大島康正氏が、森田同志の論文に注目し、高い評価を与えた。
四十四年二月、青山学院、東大での日学同運動を最後に、彼は「楯の会」専従となっていった。(中略)
常に戦後の安易な情況をなげき占領憲法下の日本に憤り、そしてまた六月以後、力を失った左右の学生運動に
力を与えるために「改憲」への先覚として散った森田同志の死は、世俗的名声はともあれ、三島由紀夫先生の死と
まったく等価である。(中略)
憂国烈士三島由紀夫先生、森田必勝同志の御霊よ安かれ

「日本学生同盟追悼声明 憂国烈士森田必勝同志を悼む」より
0405無名草子さん
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2010/12/05(日) 18:04:49
古式に則り見事で、壮凄な割腹を行なった三島さんの最期はたとえようもないほど立派なものだったが、それよりも
驚嘆すべきは森田必勝さんのはかりしれない気力であろう。三島さんの介錯をした上で自分も切腹したという事実は
まことに大変なことである。成程三島さんへの介錯は見事一太刀という訳にはいかなかったようであるが、(中略)
有名な首斬り浅右衛門のプロの腕をもってしても一太刀で快心に斬れたのは十人中、二、三人と聞いているし、
その日は全身の力がなえて何も出来ずウツウツとして酒をあふるばかりであったとのことである。それが目の前で
三島さんの死を見つめた上で、しかも三島さんの手から短刀をもぎとり自分の腹に突き立てたなぞということは
到底信じられないことであり、どんなに落ちついたしっかり者でも出来得ない芸当である。
なんと驚くべき気力であり、何と恐るべき精神力であろうか。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
0406無名草子さん
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2010/12/05(日) 18:05:44
実にあの若さで相当の期間、この日あるを胸に秘めておくびにも出さず、いつもの明るさで友に交り、何の
衒気もなく知人に接し、いささかのたかぶりもなく冷静に常の如く空手の稽古に励んでいたことも特筆に価する。(中略)
(空手稽古で森田さんは)元気一杯に動き廻り、小柄で、やや肥満体、温和な顔に似合わない闘志で拳を挙げ、
足を振り廻した。三島さんは約一年の先輩空手マンとして熱心に道場の床に汗を流し、形(カタ)も二つばかり
修得し油ののってきていたところである。(中略)森田さんはいつもその中心となり寒稽古、暑中稽古もいとわず、
キビしい練習に耐え抜いて一回も休んだことはなかった。武道の相性とでもいうのか、稽古時間外でもよく
三島、森田のコンビで約束組手、乱取に満々たる闘志をもやしてぶっつけあった。まるでお互い敵同士のように。
突は三島さんの方が鋭いものをもって居り、蹴は若い森田さんのもので柔軟な足を軽くとばして三島さんの胸部によく極めていた。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
0407無名草子さん
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2010/12/05(日) 18:08:12
森田さんの空手は考える、慎重な実技であり、無心に激しく肉体をぶつける荒稽古の三島空手とは対照的で
なかなか面白い。森田さん始め若手の進境目ざましく三島先輩を凌駕せんばかりの勢いに三島隊長を大いに
あわてさせた。
激しくキビしい練習と非常に礼儀正しい、節度ある立派な態度、三島さんと楯の会の若獅子との練習後のむつまじさ、
この楯の会の稽古は私にとっても大変楽しい、思い出の多いものであり、何日までも美しく心の奥底に残るものである。
森田さんはよく紺ガスリの着物に黒の剣道袴、人生劇場に出てくる早大生よろしく稽古に通って来た。私は彼とは
個人的なつき合いはなかったが空手の練習を通じて感じられるのは、天衣無縫の開けっぴろげで底ぬけに明るく、
朴トツで少し野暮天だが、特有の人なつこさでいつも笑顔をたやさず、なかなかの社交家でもあった。ちょっぴり
無口で孤独でさびしがりやであるが、活発で行動的で烈々たる闘志の持ち主であった。また温和な風貌だが
男らしくて意志も強かった。が何より非常に誠実な人柄であり、気力、精神力抜群の誇り高い日本男児であった。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
0408無名草子さん
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2010/12/05(日) 18:09:42
(中略)彼を識らないマスコミ、青白い文士連から聞くに堪えない侮辱的な批判、言辞が勝手気儘な推測だけで
弄されている(中略)
この行動に出るためには――このことが楯の会としてふさわしいものであったか否かは別として――三島さんと
討議を重ね、幾多の迂余曲折を経たあとの結論と思われる。また世論、三島さんの文士としての余りにも高名な
ところから、森田さんの死が何か刺身のツマのように片隅に押しやられているのはたとえようもなく残念である。
成程、森田さんは日頃、心から三島さんに私淑していたことは間違いないが、だからといって単に三島さんへの
同情的道連れとか殉死とか判断するのは早計である。男児一度やらなければならないと決断し、若い世代の
代表としてまた楯の会の尖兵として三島さんとともに起ち、吾れのなさんとして決めたことを敢然と行なった
ものだと確信する。

中山正敏「憂国の烈士 森田必勝君を偲ぶ」より
0409無名草子さん
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2010/12/06(月) 11:31:39
彼(川端康成)は、確かにこの受賞に値した。それでも今もって私は、どういうわけでスウェーデン・アカデミーが
三島でなく川端に賞を与えたのか不思議でしようがない。
1970年5月、私はコペンハーゲンの友人の家に夕食に招待された。同席した客の一人は、私が1957年の
国際ペンクラブ大会の時に東京で会った人物だった。日本で数週間を過ごしたお陰で、どうやら彼は日本文学の
権威として名声を得たようだった。ノーベル賞委員会は、選考の際に彼の意見を求めた。その時のことを思い出して、
居合わせた客たちに彼はこう言ったのだった。「私が、川端に賞を取らせたのだ」と。

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より
0410無名草子さん
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2010/12/06(月) 11:33:19
この人物は政治的に極めて保守的な見解の持主で、三島は比較的若いため過激派に違いないと判断した。
そこで彼は三島の受賞に強く反対し、川端を強く推した結果、委員会を承服させたというのだ。本当に、
そんなことがあったのだろうか。三島が左翼の過激派と思われたせいで賞を逸したなんて、あまりにも馬鹿げている。
私は、そのことを三島に話さずにはいられなかった。三島は、笑わなかった。

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より
0411無名草子さん
垢版 |
2010/12/06(月) 11:34:22
(中略)
東京に着いたのは1月24日の三島の葬式の直前で、私は弔辞を述べることを引き受けた。
ところが、私の親しい友人三人は葬式に出席してはいけないと言う。私が弔辞を述べることで、三島の右翼思想を
擁護しているように取られてはまずいと言うのだった。最終的に彼らの説得に応じたが、それ以来私は、
自分がもっと勇気を示さなかったことを何度も後悔した。
私は三島夫人を訪問した。三島の写真がある祭壇に、私は彼に捧げた自分の翻訳『仮名手本忠臣蔵』を置いた。
その本には、下田で会った時に三島自身がこの浄瑠璃から選んだ次の一節が題辞として揚げられていた。

国治まつてよき武士の忠も武勇も隠るるに
たとへば星の昼見へず、夜は乱れて顕はるる

ドナルド・キーン「私と20世紀のクロニクル」より
0412無名草子さん
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2010/12/06(月) 11:37:57
本当の天才とは、簡単には説明することのできない能力の持ち主のことだ。
シェイクスピアは天才だった。モーツァルトも、レオナルド・ダヴィンチも、紫式部も天才だった。
私がこれまでに出会ったすべての人々のなかで、「この人は天才だ」と思った人は二人しかいない。
一人は中国文学および日本文学の偉大な翻訳家であったアーサー・ウェイリーである。(中略)
そして、私の出会ったもう一人の天才が三島由紀夫である。

ドナルド・キーン「二つの祖国に生きて」より
0413無名草子さん
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2010/12/06(月) 11:39:57
あの時(ノーベル賞を)受賞したのが川端であり、三島由紀夫でなかったのは、何かの行き違いだったかもしれない。
すなわち、国連事務総長だったダグ・ハマーショルドが1961年に亡くなる直前、三島の「金閣寺」を読み、
ノーベル賞委員会のある委員に宛てた手紙で大絶賛したのである。
こういった筋からの推薦は小さくない影響力を持っていた。
また1967年のこと、出版社の国際的な集会がチェニスで開かれ、私はその集いが授与する文学賞、
フォルメントール賞を三島にと試みたが失敗に終わった。この時、スウェーデンから参加した有力出版社ボニエールの
重役が私を慰め、三島はずっと重要な賞をまもなく受けるだろう、と言ったのだ。ノーベル賞以外にはあり得なかった。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より
0414無名草子さん
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2010/12/06(月) 11:42:12
三島の天皇崇拝は、彼の存命中ずっと在位していた天皇、裕仁に向けられたものではない。
短編「英霊の声」では、二・二六事件の首謀者と昭和二十年の神風特攻隊員の霊が、自分は神ではないと宣言して
彼らを裏切った天皇を激しく責める。天皇の名の下に死んだ者たちは、天皇が普通の人間と同じ弱さを持った
人間であることを知っていたが、天皇という資格(キャパシティ)にあって、天皇は神であると確信していた。
もし、天皇が二・二六事件に関わった青年将校を支持し、なかんずく、彼らに自裁を命じたのだとしたら、
その行為は、老いて堕落した政治家に囲まれた単なる統治者ではなく、神としてのふるまいだったであろうに。
しかし、神風特攻隊員が天皇を叫びつつ喜びに満たされて死んだ、それからわずか一年も経たずに、自分は
神ではないと宣言した時、天皇は彼らの犠牲を哀れで無意味なものにしたのだ。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より
0415無名草子さん
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2010/12/06(月) 11:46:24
三島は、天皇無謬説を唱えたことがある。無論これは天皇の人間としての能力をさした説ではない。
より正確に言えば、天皇は神の資格において、人間の姿をした日本の伝統そのものなのであり、日本民族の
経験が保管された唯一無二の宝庫である。天皇を守ることは、三島にとって、日本そのものを守ることだった。
このような政治観を日本の右翼と同一視するのは誤りであろう。
彼は確信していた。日本の景観を無慈悲に切り刻んで顧みない貪欲と、それが舶来だからというだけで事物や習慣を
表面的に受用する西洋化、この二重の脅威から日本文化の崩壊を救えるのは若者の純粋さ、すなわち信念のためには
死を辞さぬ若者の覚悟だけだと。

ドナルド・キーン「思い出の作家たち」より
0416無名草子さん
垢版 |
2010/12/09(木) 11:54:31
亀はしあわせをよぶという。
私の手許に、甲羅に彫りの入った八ミリほどの小さな金の亀のペンダントトップがある。これは私が十代の頃、
三島さんに頂いたもの。
戦後間もなく、現在のように海外渡航が自由でなかった頃、三島さんはいち早く外国に足を運ばれた。
この亀はその時のおみやげである。
…私のアクセサリー箱の中では一番の古株、出番も多く、いわばお守りのような存在だ。
私が三島さんにお目にかかるのは、いつも我が家が「鉢の木会」のお当番の時だった。
…今では、大岡昇平、中村光夫、吉田健一、福田恆存、三島由紀夫の各氏、それに私の父の神西清はみな故人となった。
三島さんは会の中では一番若く、そのせいか口うるさい面々の恰好の揶揄の対象になることもしばしばで、
その場合三島さんの逃げ道は二つ。
まずはあの豪快な笑いで、からみつく蜘蛛の糸を振り払い、次の手はゴロッと横になって高鼾をきめこむ。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より
0417無名草子さん
垢版 |
2010/12/09(木) 11:55:21
元々が個性の強い人たちの集まりである。お酒の飲みっぷりも各人各様で、見飽きることがなかった。
酒宴が進むほどに、笑い声も賑やかになるのだが、三島さんのそれはいつも大きく際立っていた。
一人一人の顔にそれぞれの特徴ある笑い声が重なり、懐かしく往時を思い出す。
連歌を楽しみ、時にはお互いの仕事に対する鋭い批判も交錯し、この上なく濃密な時だった。
父の死後、「鉢の木会」が二階堂の家でひらかれたことがある。
三島さんは新婚間もなくで、座は瑤子夫人のお目出度の話題で盛り上がっていた。襖越しに耳にした
「医者に診てもらえと云ったんだ」という、三島さんのひときわ高い誇らしげな声は忘れることができない。
その時お顔は見なかったが、きっとあの大きな目が特別輝いていたことだろう。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より
0418無名草子さん
垢版 |
2010/12/09(木) 12:04:05
たった一度だけ、三島さんと銀座を歩いたことがあった。
私の大学卒業に際し、「鉢の木会」が腕時計をくださるということで、和光に出向いた。三島さんはいつもどおりの
笑いを振りまき、もとより知られた顔だから、集まる人々の視線が眩しく、とても気恥ずかしかった。
三島さんは、大変几帳面で礼儀正しく、細やかな心遣いをされる方だった。
父の生前は父に、亡くなってからは母に、筆、あるいは万年筆で署名された三島さんの著書が律義に届けられた。
なかには、「神西清様」と記された名刺がはさんであるものも何冊かある。書体は均整がとれていて美しい。
…装幀も凝ったものが多い。
…代表作「金閣寺」の限定版は、年数のたった今も、手にとるとふんだんに使われている金箔が指につくほど豪華で、
本箱のたくさんの三島本の中でも王将格である。奥付には、本書は二百部を限定刊行す、その内二十部は
無番号著者家蔵本、本書はそのNo.、とあってナンバーはついていない。
これをみても三島さんが、いかに父に礼を尽くして下さっていたかがわかる。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より
0419無名草子さん
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2010/12/09(木) 12:05:58
季節毎の心遣いも、瑤子夫人が亡くなるまで途切れることなく続いた。稀有なことである。
瑤子夫人死去の報は、ご病気を知らなかったこともあり、私を大そう驚かせた。
夫人の通夜の晩はむし暑く、三島邸前の道路は別れの時を待つ人で埋めつくされ、月も動きをとめ、大気は重く
悲しみに沈んでいた。天空にあった細い月は夫人の魂をいざなうかのように、やがて視界から消えていった。
日ならずして、夫人を偲ぶ品が届けられた。
小箱の中には、甲羅が緑色、足が紫色の石の、美しい大きい亀のブローチ。
偶然とはいえ、この不思議な巡り合わせに私はしばし言葉もなかった。
金の亀と緑の亀。二つめの亀の出現で、三島夫妻は私の中で一つの像となった。

神西敦子「三島夫妻と二つの亀」より
0420無名草子さん
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2010/12/12(日) 17:40:33
私が松濤二丁目のこの商家に嫁いだのは昭和二十二年の春のことです。当時は、近隣一帯は空襲で一面焼け野原に
なったままでした。
…私は二十三年に長女を産み、その子を連れてよくご近所を散歩したものです。その折、始終三島さんの家
(「平岡」という表札でした)の前を通りました。(略)…洋館のほうの二階の窓によく三島さんをお見かけ
しました。夕方になると電気スタンドが点っていて、その光の中で白いシャツを着た三島さん(白がとても
お好きだったようです)がいつも何か書きものをなさっていました。
人に聞くと「あの人はいまに小説家になる偉い方だ」という話でしたが、当時は私は三島由紀夫という名前は
知りませんでした。
東大に行っている時分に小説を書いて一躍有名になった人ということで、とにかくいつ行ってみても、机に座って
仕事をしておられたのが印象深いのです。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より
0421無名草子さん
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2010/12/12(日) 17:41:46
私の家はタバコを商っていましたので、お父さまも三島さんもよくタバコを買いに見えました。(中略)
息子さんの三島さんはよく「光」をお求めになりました。
もっともあの頃はまだ銘柄も少なかったうえに極端な品薄で選り好みなどできませんから、「光」がなければ
何でもお買いになりましたが。
どこかにお出かけになる前に立ち寄り、買ってすぐ一本抜き取ってお吸いになるというのが、あの方の習慣でした。
タバコを受け取るその手が細くて華奢だったのをよく覚えています。
それにしても三島さんはおしゃれでした。戦後間もなくの頃ですから、おしゃれをしている人などあまり
見かけることはなかったのですが、三島さんはいつもピシッと決めていて一分の隙もなく、大山町あたりでさえ
すごく目立ちました。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より
0422無名草子さん
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2010/12/12(日) 17:42:54
夏など、真白の詰襟、真白の半ズボン、真白のハイソックス、真白の靴という、上から下まで白ずくめのいでたち。
たまに帽子をかぶっていることもありました。サファリ帽というのでしょうか、猟の時に使うような帽子で、
外国にでもいらしたことのある方かと思っていました。
服装だけでなく、三島さんはすごく清潔感のある方でした。
手もほんとにきれいでしたし、お顔なんか毎日当たるんでしょうね、頬など青白く見えるくらいでした。
いつもポマードのいい匂いをさせていました。でも、無駄口をたたくようなことはほとんどなく、どちらかといえば
「謹厳実直」という印象を受けました。
(中略)ご一家が住んでおられた借家も今は取り壊されてなくなり、このあたりもずいぶんさま変わりしました。

原義穂「渋谷大山町の頃の三島さん」より
0423無名草子さん
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2010/12/16(木) 00:30:55
吉田満は、三島由紀夫の「死」を、青春の頂点において「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、
「いかに生きるか」の課題が許されなかった世代――そのような世代のひとつの死としてとらえ直してみせた。
あの自決がさまざまな意味を「異なる解明の糸口」を示していながら、実のところ戦争に散華した仲間と
同じ場所を求めての、死の選択であり、そのような願いによる決断であったという。
これはたんなる世代論だろうか。
三島由紀夫の生と文学を、あまりに単純な世代の「死」として単純化してしまうことになるのだろうか。
私はそうは思わない。

富岡幸一郎「仮面の神学」より
0424無名草子さん
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2010/12/16(木) 00:32:11
保田與重郎は三島の自刃に際して「三島氏の事件は、近来の大事件といふ以上に、日本の歴史の上で、何百年に
わたる大事件となると思った」と記したが、もし仮にそうだったとしても、それは三島由紀夫という個的な存在の、
その生と死の劇的な問いかけゆえにではなく、その「死」が疑いもなく一つの世代の夥しい「顔」と重なり合い、
その死のなかに埋没することを懇望したものであったからではないか。
あの自決事件は、決して特異なものでも異常なものでもなく、あえていえば平凡な静謐さのなかにある。
そう思うとき、『豊饒の海』第一巻の冒頭で描かれた「セピア色のインキで印刷」された日露戦没の写真――
その風景を想起せずにはいられない。

富岡幸一郎「仮面の神学」より
0425無名草子さん
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2010/12/16(木) 00:33:45
…池田浩平や吉田満といった同世代の死者のなかにとらえるとき、戦後作家としての彼の仮面――
『仮面の告白』についての作家自身の注釈でいえば「肉づきの仮面」――の背後に隠されていた素顔が浮かびあがる。
戦後作家としての無数の華麗な「仮面」。神学者の大木英夫は、三島由紀夫は、その文学は仮面をかぶることによって、
「神学問題で灼けただれている現実にも耐える」と正確に指摘した。
《そして死を避ける。しかし、彼の文学は、かえってその仮面が割れて、素顔が出て、神学問題に直面する
ところがある。そして死が避けられなくなる。さまざまな奇行と試行の紆余曲折を経て、ついに市ヶ谷への
突貫となるのである》(「三島由紀夫における神の死の神学」)

富岡幸一郎「仮面の神学」より
0426無名草子さん
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2010/12/16(木) 00:34:52
『仮面の告白』が、『花ざかりの森』と彼の十代の青春の住処がであった「死の領域」への遺書であり、まさに
「死を避ける」ための人工の文学的仮面であったとすれば、最晩年に書かれたエッセイ『太陽と鉄』は、
「その仮面が割れて」いくところを詳細に辿ってみせた自己告白の書であった。
これまで何度も論じてきたように、そこに三島における「神学問題」が、すなわちあの「神の死」の問題が
露われているのはいうまでもない。
おそらく、日本における神学問題を最もラディカルに現実の光のなかに引きずり出したのが三島由紀夫である。
多くの宗教学者が決して見ようとしなかったものを、語りえなかった根底的な「神」の問題を、三島は自らの
生と文学と、そしてあの苛烈な死によって語ってみせた。
いや、「神学問題に直面」したとき、「死が避けられなく」なった。

富岡幸一郎「仮面の神学」より
0427無名草子さん
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2010/12/17(金) 19:53:38
三島「僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、自分は戦後の社会を否定してきた、
否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。」
武田「いや、それだけは言っちゃいけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう。」
三島「でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった。」
武田「それはやっぱり、強気でいてもらわないと……。」
三島「そうかな。おれはいままでそういうことは言わなかったけれども、よく考えてみるといやだよ。」(略)

私は三島さんを懸命にナダめにナダめる武田氏に、つよい共感で(感傷的にも)涙ぐみたくなる。
しかし同時に、三島さんがもの書きとしての恥部をここまで口にする激しい自己意識に心をうたれずにいられない。
それはまたそっくり三島さんの社会への批判でもある。

田久保英夫「天上の人」より
0428無名草子さん
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2010/12/20(月) 10:07:04
人間的に中身も何もないような、若いタレントのような人たちが、自衛隊の反応は正しかった、とか社会的な
影響はどうだとか、三島さんを断劾するようなことをしたり顔でテレビやラジオでいっているのを聞くと、ばかげてる。
ほんとに蹴とばしてやりたくなりますよ。

倉橋由美子
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより
0429無名草子さん
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2010/12/20(月) 10:10:47
左翼人の私も右翼人の三島の「行動」には、かなり衝撃を受けたことも事実なのであって、これを匿す気には
ならないからである。
そして衝撃を受けなかった人はどんな人なのかと思ったりもするのだが、「行動」といい「芸術」といっても、
所詮人間はおなじなのかも知れない。しかも三島と私とはイデオロギーが全くちがっているのに、どこか類似性、
相似性があるような気がして、それが私自身気になるのである。

三島由紀夫こそはあきらかに、永井荷風や谷崎潤一郎やあるいは川端康成の耽美主義の系譜とその路線に沿いながら、
しかし明確な知性をもって、またその美的知性の故に、その路線の最終駅に到着しながら、それをなんらかの形で
社会的行動におきかえようとした努力家であり勇気ある誠実者ではなかったのだろうか。

山岸外史
三島事件についてのコメントより
0430無名草子さん
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2010/12/21(火) 00:52:26
私と彼とは文体もちがい、政治思想も逆でしたが、私は彼の動機の純粋性を一回も疑ったことはありません。
(中略)最近の彼は、私など好きでなかったかもしれないが、そんなことは一向にかまいません。むしろ、
彼に嫌われるやりかたで、私は、彼を好きのままでいてやりたいと思います。

武田泰淳
週刊現代増刊・三島由紀夫緊急特集号のコメントより
0431無名草子さん
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2010/12/21(火) 00:55:29
息つくひまなき刻苦勉励の一生が、ここに完結しました。疾走する長距離ランナーの孤独な肉体と精神が
蹴たてていった土埃、その息づかいが、私たちの頭上に舞い上り、そして舞い下りています。あなたの忍耐と、
あなたの決断。あなたの憎悪と、あなたの愛情が。そしてあなたの哄笑と、あなたの沈黙が、私たちのあいだに
ただよい、私たちをおさえつけています。それは美的というよりは、何かしら道徳的なものです。あなたが
「不道徳教室講座」を発表したとき、私は「こんなに生真じめな努力家が、不道徳になぞなれるわけがないでは
ないか」と直感したものですが、あなたには生まれながらにして、道徳ぬきにして生きて行く生は、生ではないと
信じる素質がそなわっていたのではないでしょうか。あなたを恍惚とさせようとする「美」を押しのけるようにして、
「道徳」はたえずあなたをしばりつけようとしていた。それは、あなたが肉体の効能を意識しはじめた瞬間から、
あなたに猛訓練を求めました。いや、文章をつづりはじめた瞬間から、あなたの文体(つまりは精神)を、
きびしい緊張の城塞とし道場としたのです。

武田泰淳「三島の死ののちに」より
0432無名草子さん
垢版 |
2010/12/25(土) 12:02:27
天文台で働く若い観測員よ、暗い天空に新しい彗星を一つ発見するたび、きみが地上で喪失するものは、一体何か?
すべての書物を書きつくしてしまった、一人の詩人が切腹して果てたあとで、その暗い天空が獲得する星は、一体何か?

寺山修司
憂国忌パンフレットに寄稿された追悼の辞より
0433無名草子さん
垢版 |
2010/12/25(土) 16:56:49
芥川賞作家の奥泉光がポッポの作品を盗用したと思われても不思議ではない。

ブログの類似箇所指摘を追加(記事の途中に追加分が書かれている)

http://kamome.2ch.net/test/read.cgi/book/1284477255/48

作品の類似点だけではなく、
ポッポが奥泉よりもセンスがある事も説明されている。

ちなみに、ポッポを批判しているワナビの文章はアリの穴で見れる。

ブログの記事が更に長くなっている。
0434無名草子さん
垢版 |
2010/12/27(月) 20:54:11
大正十四年(一九二五年)一月生れの三島は、終戦の時、満二十歳であった。それより少なくとも二年早く
生れていれば、戦争のために散華する可能性を、かなりの確率で期待することが出来た。彼が生涯をかけて
取り組もうとした課題の基本にあるものが、“戦争に死に遅れた”事実に胚胎していることは、彼自身の言葉からも
明らかである。出陣する先輩や日本浪漫派の同志たちのある者は、直接彼に後事を託する言葉を残して征った
はずである。後事を託されるということは、戦争の渦中にある青年にとって、およそ敗戦後の復興というような
悠長なものにはつながらず、自分もまた本分をつくして祖国に殉ずることだけを純粋に意味していた。
(中略)
しかし終戦からしばらくの期間、つまり彼が文壇に出る前後までの時代は、まだ救いがあった。後年になって彼は、
――当時は何だか居心地が悪かったが、今となっては、あの爆発的な、難解晦渋な文学の隆盛時代がなつかしい。
(略)今日のやうな恐るべき俗化の時代は、まだその頃は少しも予感されなかった。――と述懐している。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
0435無名草子さん
垢版 |
2010/12/27(月) 20:55:27
戦後日本の経済復興は軌道に乗り、(中略)三島の文業も、行くとして可ならざるはなき成果を収めることが出来た。
これはその恵まれた資質、類い稀な勤勉さからすれば当然の結果といえるが、時代が彼の最も好まない方向に
傾けば傾くほど、マスコミが歓呼して三島の仕事を讃えたのは、悲劇というほかはない。
死の二ヶ月前に行われたために、多くの示唆に富むことで知られる武田泰淳との対談「文学は空虚か」の中で、
三島はこうまで言い切っている。――僕はいつも思うのは、自分がほんとうに恥ずかしいことだと思うのは、
自分は戦後の社会を否定してきた、否定してきて本を書いて、お金をもらって暮らしてきたということは、
もうほんとうに僕のギルティ・コンシャスだな。――さすがの武田泰淳も、――いや、それだけは言っちゃ
いけないよ。あなたがそんなこと言ったらガタガタになっちゃう――と、たしなめるほかない様子だったが、
三島はさらに、――でもこのごろ言うことにしちゃったわけだ。おれはいままでそういうことを言わなかった――
と追い打ちをかけている。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
0436無名草子さん
垢版 |
2010/12/27(月) 20:56:25
(中略)
われわれ戦中派世代は、青春の頂点において、「いかに死ぬか」という難問との対決を通してしか、「いかに
生きるか」の課題の追求が許されなかった世代である。そしてその試練に、馬鹿正直にとりくんだ世代である。
林尹夫(海軍出陣学徒)の表現によれば、――おれは、よしんば殴られ、蹴とばされることがあっても、精神の
王国だけは放すまい。それが今のおれにとり、唯一の修業であり、おれにとっての過去と未来に一貫せる生き方を
学ばせるものが、そこにあるのだ――と自分を鞭打とうとする愚直な世代である。戦争が終ると、自分を一方的な
戦争の被害者に仕立てて戦争と縁を切り、いそいそと古巣に帰ってゆく、そうした保身の術を身につけていない
世代である。三島自身、律義で生真面目で、妥協を許せない人であった。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
0437無名草子さん
垢版 |
2010/12/27(月) 20:57:28
林尹夫は、さらにわれわれ世代の宿命を、高らかに歌いあげる。――いったい恨むといっても、誰を恨むのだ。
世界史を恨みとおすためには、我々は死ぬほかない。そしてわれわれは、恨み得ぬ以上、忍耐して生き、そして
意味をつくりださねばならないではないか。日本は危機にある。それは言うまでもない。それを克服しうるか
どうかは、疑問である。しかしたとえ明日は亡びるにしても、明日の没落の鐘が鳴るまでは、我々は戦わなければ
ならない。――
(中略)
彼(三島)が大蔵省に勤務していた頃、私にむかって、自分は将来とも専門作家にはならないつもりだ、と言い
切ったことがある。――なぜならば、現代人にはそれぞれ社会人としての欲求があるから、その意味の社会性を、
燃焼しつくす場が必要である。文士になれば、文壇という場で燃焼させるほかないが、文壇がその目的に適した場で
あるとは到底思えない。(略)――こうして彼は文壇を飛び出し、歩幅をひろげ、死の彼方に手がとどくまで、
その歩みを止めなかったのであろう。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
0438無名草子さん
垢版 |
2010/12/27(月) 20:58:41
三島の苦悩は、戦争に死に遅れたという事実から生れた、とはじめに書いた。しかし臼淵や林の若い死を、
どのような意味でも羨むことは許されない。生き残ってこそ、すべてがはじまるのであった。戦死という非命に
たおれた彼らの不幸を、償いうるものはない。三島も、そのことを知り抜いていたにちがいない。そして彼は
みずから死を選ぶことによって、戦争に散華した仲間と同じ場所をあたえられることを願ったのであろう。
(中略)
死にゆく者として彼らが残していった戦後日本への願望は、彼ら自身の手によっても、易々とは実らなかったで
あろう、新生日本とともに歩む彼らの戦後の生活は、けっして平坦なものではなかったであろう、ということである。
一つの時代に殉じた世代が、生き残って別の時代を生きるというのは、そういうことなのであり、三島由紀夫を
死に至らしめた苦悩もまた、そのことと密着しているように思われてならない。

吉田満「三島由紀夫の苦悩」より
0439無名草子さん
垢版 |
2011/01/02(日) 14:51:32
その遺書をよんだ時、同志の青年に対する心遣ひの立派さに私は感動した。三島氏の思想行為については、
今のやうな状態でも、私はなほとかくのことをいふことが出来る。並んで自刃した森田必勝氏については、
この青年の心を思ふだけで、ただ泪があふれ出る。むかしからかういふ青年は数量上多数といへないが、無数に
ゐたのである。かういふ見事さがあるといふことだけを示した。何も残さぬものが、永遠と変革と創造を、
流れにかたちづくつてきたのである。(中略)
三島氏は内外の人心の悲惨や荒廃のありさまを、優秀な文学者の直感で、我々の知らない不幸まで了知し、
人道滅亡の危機をひしひし感じてゐたのであらう。彼の近年の思想上の急激な上昇現象には、第一義の高尚な
原因がある。彼の政治論は、今日の時務論の次元でよめば全く無意味である。しかし彼は清醇な本質論を、
汚れたけふの時務論のことばでいひ、卑しい政治論の次元から説き起さうとした。私は身のつまる思ひがする。

保田與重郎「眼裏の太陽」より
0440無名草子さん
垢版 |
2011/01/02(日) 14:52:27
三島氏の描いた両界曼荼羅の金剛界は華麗無変の美文学だつたが、胎蔵界の解では、最も低級なものや、
人でなしまでも相手にせねばならぬと自身思ひ定めた。一見この空しい努力は、世俗といふ誤解の中へ投げ
だされてしまふ。しかし彼の思ひをこめたことばと振舞は、最も純粋に醇化された時の人の心の中で、人々の
かなしみをかきたて、さらにおびただしい若者の心に、考へることの無用な光りを、明りをともした。
偽りのもの、汚れたもの、卑怯なもの、利己主義なものは、皮相的な恐怖から、ありきたりのことばの罵倒を
しても、それによつて自己のいつはりと不安をうすめることは出来ない。無視するといふものは、沈黙して
無視しきれぬ卑怯な弱者である。正気の人はこの日民族の歴史をわが一身にくりたたんで、ものに怖れるべきである。
いつはりと卑怯に生きてきたものは、己の不安と恐怖の原因をしかと見つめることが出来ない。憎悪と猜疑しか
知らなかつたものは、明らかに最も怖れてゐる。

保田與重郎「眼裏の太陽」より
0441無名草子さん
垢版 |
2011/01/02(日) 14:53:24
三島氏の心は、正実な者の間の戦ひを信じつづけてきたのであらう。しかし詩人のゆゑに英雄の心をやどした
稀有の文学者は、古来、詩人や英雄のうけた宿命の如く、最も低い戦ひにつかれ、いやしい下等な敵に破れた
のである。その死の瞬間に、眼うらに太陽を宿すといつたことばの実現を、私はただちに信じる。私は真の文人の
いのちをこめた言葉を、絶対に信じるのである。実証主義の人々は、死を如何ほどに描いても、死の瞬間は
わかるものではない。甦つた者のことばはその瞬間の証ではない、死んだ者のことばはきくすべがないといふ。
しかし秒で数へられる時間の彼方の未知といふことの方を何故怖れないのか。
三島氏は自衛隊を外から見聞してゐたのでなく、内に入つて見てきたのである。まことに誠実の人である。彼の
旧来の不思議な奇矯の行為も、誠実の抵抗ないし反俗行為として解釈すべきところと私は思ふ。身丈を越える
程の著述を残した人の片言隻句をとり出せば、どんな愚かな低い形にも三島氏の像をつくることが出来る。
それはつくつた者のいやしさの証にすぎない。

保田與重郎「眼裏の太陽」より
0442無名草子さん
垢版 |
2011/01/02(日) 14:54:30
最終の振舞ひについての、もつともらしい見解も同じ方法で示せるだらう。さういふ見解は自分自身の低い次元の
卑屈な処世観となつても、森田青年のやうに、先人を越えてゆくものの心とは何のかかはりもない。森田青年の
心は、日本の正気だつたから、無言にして日本の多くの若者の心に今や灯をともした。このことを疑へる程の
無知のものは、卑怯と欺瞞の中にはないだらう。卑怯と欺瞞はインテリを必要とし、世間の無知ではないからである。
森田青年の刃が、自他再度ともためらつたといふ検証は、心の美しさの証である。やさしいと思ふゆゑにさらに
かなしい。私はその人を知らない。そして悲しい。二十五歳がかなしいのではない。このかなしさは、語り解く
すべを知らないが、あたりまへの日本人ならばわかるかなしさである。かなしさにゐる時は、決して顧みて他を
語らないのである。三島氏が、自分よりも、森田氏の振舞ひはさらに高貴なものであつて、彼の心をこそ
恢弘せよと云つてゐるのは、尊いことばである。

保田與重郎「眼裏の太陽」より
0443無名草子さん
垢版 |
2011/01/02(日) 14:55:21
恢弘とは神武天皇御紀にあらはれる大切なことばで、今あるものをひろめ明らかにせよといふ意である。
なくなつたものを復興せよといふのではない。時に当つて、細心の用語である。(中略)
彼の文化防衛論の根底にあるものは、所謂右翼的な利己的民族主義ではない、宗派神道的な世界統一の国際
宗教的な思想でもないのである。私はこれらの自覚を新しい世代に望み願ふより他の方法を知らないのである。
森田氏の行為の心は、右翼の心でもない。勿論左翼のどこにも見られない。師に殉ずといつた現象解釈など何の
意味もない。わが国六百年の武士道の歴史に於て、例を知らない純粋行為であつたと私は思ふのもかなしい。(中略)
三島氏は己の死後に、よつてたかつて云ふ人々の悪罵や、さかしらを見せるための批評、低俗そのものの証の
やうな見解といつたもののすべてを知りつくしてゐた。(中略)
マスコミが今度の自衛隊に関して口をとざしたのは、共通する政治性に原因があるのではなく、人性の世渡り
観念に於て、同一の腐泥のありさまゆゑであらう。これは不潔の妥協である。

保田與重郎「眼裏の太陽」より
0444無名草子さん
垢版 |
2011/01/06(木) 00:01:55
(ドイツロマン主義の「イロニー」とは)日本でいえば「幽玄」とか「もののあわれ」とかいう用法に似ています。
そういうロマン主義が日本に再登場するために、三島さんは一つの橋渡しにはなる。少々間違うてもかまわん。
一つの部分だけでもとっかかりにして三島という踏み台に跳び乗る人が出てくれば、彼も生きてくる。
雰囲気を持った人やからね、そういう可能性は多分にある。三島さんなら、そういう踏み台になれるかもしれん、
いや、なってほしいと思う。

保田與重郎「三島由紀夫は蘇るか」(朝日ジャーナル1975年11月14日号の特集)」より
0445無名草子さん
垢版 |
2011/01/06(木) 00:03:20
南北朝のころの北畠顕家が、あっというまに五万人の若者を集めて戦って、二〇才そこそこで戦死した。あの
五万人は南朝の名誉のためというだけで顕家についていったわけやない。
西南戦争でも、当時としては極右から極左まで、みな別別の思惑で西郷隆盛に従ったんやな。私には戦争末期に
軍部の監視がつき、戦後はアメリカの監視がついたんやが、そのアメリカのスパイみたいな男が、西郷は出陣に
際していったいどんな演説をしたんかとききよった。まあとにかく指導者が問題ということやな。

北一輝と大川周明が違うとったように、右翼の人はみな違ってるが、権力主義と財力主義がいかんことは
はっきりしてるね。三島さんもそんなものは歴史やないと気づいて、インド哲学なんかに興味を持ったり
したような気もするな。

保田與重郎「三島由紀夫は蘇るか」(朝日ジャーナル1975年11月14日号の特集)」より
0446無名草子さん
垢版 |
2011/01/06(木) 00:04:20
三島さんは(『文化防衛論』などで)大嘗会ということを書いていますね。私はこれは一番大事やと前から
思ってきた。日本人は天からくだされる新熟のコメに、道徳から何から何まで圧縮してきた。それは天地循環、
天壌無窮の象徴であって、そういう点で天孫降臨ということにつながるんやな。天皇のご即位はその再現であり、
大嘗会は天皇と民族が約束を果たしたことの祝祭やった。私は戦争中にそういうことばかり書いて軍部に
にらまれたりした。三島さんのコメの霊というのはちょっとわかりにくいが、彼が最後に到達したのは、
そういう大嘗会の思想と違いますか。というても、彼は最高に理性的な、本当に学者らしい面のあった人やったから、
『英霊の聲』のようなもんは書きはしたけれど、決して邪教にはいかん、おかしな民俗学にはいかん人です。

保田與重郎「三島由紀夫は蘇るか」(朝日ジャーナル1975年11月14日号の特集)」より
0447無名草子さん
垢版 |
2011/01/11(火) 19:48:25
三島由紀夫、本名平岡公威氏は、府中市多摩霊園十区一種十三側三十二番、平岡家の墓碑の元においでになる。
…私が墓参に行くと、かつては真紅であったろうと思われる薔薇がドライフラワー状態になって手向けられてあった。
…「真紅の薔薇」には忘れ得ぬ記憶がある。
昭和四十五年十一月二十五日。
陸上自衛隊市ヶ谷駐屯地で割腹された翌日、検死の済んだ御遺体が、詰めかけた人々で騒然としている御自宅に
戻られた。パテオに屹立していたアポロンの立像の脚元に三十本余りの真紅の薔薇が文字どおり放り投げられて
散乱していた。
鎌倉の御自宅から駆けつけて来られた川端康成氏が線香をあげられたあと、その光景を凝っと視ておられ
「薔薇って怖いね」と私の耳許で呟やかれた掠れ声が今も鮮明である。眼に薔薇の炎。耳に巨匠の声。――

増田元臣「美しい人間の本性」より
0448無名草子さん
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2011/01/11(火) 19:48:56
三島さんの交誼を頂く事になったきっかけは、私が未だ慶應義塾大学の塾生だった時である。私は幼年期から
映画に取り憑かれており、塾生でありながら、増田貴光というペンネームで書いていた「映画の友」という
月刊誌の寄稿文を映画好きの三島さんが読んで下さった事にある。その月の私のコラムは「ヴィスコンティの
美は禁色にあり」と題したもので、その時初めて手紙を頂いた。手紙の御礼に御自宅に赴いた私を、三島さんは
楽しげにもてなして下さった。(中略)
数日後三島さんから二通目の手紙が届いた。差し出し名は平岡公威となっており、その内容はざっと次のような
ものだった。
「今後、君と付き合ってゆくにあたり、先生という敬称はやめて欲しい。君との友情に距離感が生じるようで
寂しいではないか――」そして文通するについての差し出し名は平岡公威にする、と書かれてあった。以来私も
三島さんへの手紙は本名の増田元臣とした。

増田元臣「美しい人間の本性」より
0449無名草子さん
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2011/01/11(火) 19:49:21
私が映画評論家として米国に滞在していた時、「憂国」の映画が完成したという連絡を頂き、急遽帰国した。
原作、脚本、監督、主演すべて三島さん自身の作品だった。
三島さんは私独りの為に、三島さんと親交の深かった葛井欣士郎氏の劇場で「憂国」を観せて下さった。
試写が了り私が泣き濡れた顔で廊下に出て行くと、葛井氏となにやら談笑していた三島さんが驚かれた様子で、
「ほとんどが割腹シーンで占められているこの映画で、何故そのように悲しむのか」
と訊かれたので、「この映画は三島さんのダイイング・メッセージと解釈致しましたので」と私はお応えした。
その事があって以来、私は三島さんとの数々の思い出で日々を送った。

増田元臣「美しい人間の本性」より
0450無名草子さん
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2011/01/11(火) 19:49:48
特に、三島さんがイタリアに取材に行く時と、私がローマのチネチッタ・スタジオのフェリーニとのコンタクトの
時が一致して、私がお供をする形になった時のことである。
私達がフォロ・ロマーノの遺跡に立った時三島さんは冗談めかして、
「もし私がハドリアヌス帝だとしたら、君はアンティノウスになれるか」
と尋ねられたので、私は、
「勿論です!」
と勢い込んで即答した。
あの時の三島さんの嬉しげなお顔は、忘れる事が出来ない。
「三島由紀夫文学」については周知である。しかし、平岡公威、という美しい人間の本性は、深海の如く神秘で、
容易に理解することは出来ないだろう。

増田元臣「美しい人間の本性」より
0451無名草子さん
垢版 |
2011/01/13(木) 11:17:28
三島さんの葬儀の日の少し前、実行委員会の打合わせがあった。
(中略)…式の段取り、各委員の仕事の分担、注意事項の検討、弔辞を読む方々の紹介があった。
その時、御父上が突然私を指名された。
思いもかけない発言に私は動転し、そのような大任の資格が私には無いと辞退した。
すると川端先生が例の鋭い目で、「資格のある人間はどこにも居ません。おやりなさい」と宣言された。
当日、私は緊張と悲しみに耐えながら弔辞を読んだ。
「私のこれまでの人生で、最高の喜びは、三島さん、あなたにお会い出来たことであり、最大の悲しみは、
あなたを喪って今ここにこうして立っていることです……」と。
私が三島由紀夫という名を識ったのは、昭和十九年、書店で見つけた「花ざかりの森」で、何故かすがすがしい
感じがした。戦後、雑誌『人間』で「煙草」を読んだ時、私はすぐ「花ざかりの森」を思い出した。

藤井浩明「私の勲章」より
0452無名草子さん
垢版 |
2011/01/13(木) 11:17:52
終戦前の昭和二十年一月、私は中島飛行機小泉工場へ勤労動員され、戦闘機を造っていた。私たちの寮の隣りに
東大法学部の学生たちがいた。その中に三島さんがいて、明日をも知れぬ状況の中で、後に発表された小説
「中世」を書き続けていたことを、ずっと後で知って驚いた。二十五歳までに戦争で死ぬものと覚悟していた
私たちが、生きながらえて後に親交を結ぶとは……不思議な運命を感ぜずにいられない。
私が初めて三島さんに対面したのは、昭和三十一年、「永すぎた春」映画化の交渉の時である。
…私は既に大映企画部にいて三島作品の映画化を夢見ていた。
緑ヶ丘の平岡邸で眷恋の人に対面した時、私は自信に満ち溢れた、それでいて折目正しいこの青年作家に圧倒された。
以来、私は三島文学の映画化に挑戦していった。
「金閣寺」(「炎上」)、「お嬢さん」「剣」「獣の戯れ」「憂国」「複雑な彼」「音楽」「鹿鳴館」。
そして、三島さん主演の「からっ風野郎」等。

藤井浩明「私の勲章」より
0453無名草子さん
垢版 |
2011/01/13(木) 11:18:16
「炎上」のシナリオ作業が難行している時、三島さんが「創作ノート」を見せて下さった。
絢爛たる文学が構築されてゆくプロセスが明解に読み取れ、目が開ける想いがした。
この映画は三島さんから最大の讃辞を頂き、以来、私は三島さんとの交友を深めていった。
時折、三島邸の書斎で話し込むことがあった。私は天才的文章の錬金術師の仕事場へ忍び込んだような気持で、
よく文学のことを質問した。三島さんは門外漢の私に丁寧に誠実に答えて下さった。
当時のメモを繰ってみると、例えば「憂国」の製作準備をしていた年など、年間七十回も会っていた。
…「からっ風野郎」の後、日仏合作映画のため市川崑監督と私はパリへ飛んだ。
思いもかけず三島さんが空港へ見送りに来られた。
たまたま別便で発つ永田雅一大映社長がいた。社長は私を別室に呼んだ。
「お前のような若造を天下の三島が見送りに来る訳がない。それはお前が大映の社員だからだ。俺に感謝しろ」と。
ワンマン社長は大の三島ファンで、明らかに私に嫉妬しているのだ。三島さんには万人をひきつける魅力があった。

藤井浩明「私の勲章」より
0454無名草子さん
垢版 |
2011/01/13(木) 11:18:34
死の四日前、三島さんからいくら晩くても電話が欲しい旨の伝言があった。深夜帰宅した私は電話で話した。
「憂国」がイタリアで上映され大好評だと伝えると、三島さんは大そう喜んで詳しいことを調べて欲しいと言った。
四日後に死を決意していることを知る由もない私は、連休明けに報告しますと約束した。電話を切ってから、
三島さんが「さようなら」と仰言ったことが何故か気に懸った。いつもは快活に話してさっと切る人が……。
〈藤井氏はいついかなる場合にも、この作品に対する完全な愛着と信頼を少しでも失ふことがなかつた。
それがスタッフ全員をどれだけ力づけたかわからない〉
三島さんが「憂国 映画版」に書いて下さった文章は私の勲章である。
三十年祭の遺影の前に佇みながら、三島さんが以前、暇が出来たらポルトガルの鄙びた漁村を舞台に映画を
作ろうと話して下さったことを思い出した。いつの日か私はその海辺で映画を撮影したいと思っている……。

藤井浩明「私の勲章」より
0455無名草子さん
垢版 |
2011/01/13(木) 23:59:30
生前の三島さんを語り合える人も数少くなってしまったが、いま劇場でその劇作は絶えることなく上演され、
「サド侯爵夫人」「鹿鳴館」「近代能楽集」等、舞台を通じて三島さんへの追憶にひたる機会にこと欠くことはない。
文学座を脱退した三島さんは劇団NLTを創立、一九六五年五月、「近代能楽集=班女・弱法師」を、私が
支配人をしていたアートシアター新宿文化で上演することになった。(中略)
その公演の初日直前のある日、知人から電話があった。「葛井さん今夜劇場を貸してほしいんだが、映画の試写、
何分極秘裡に願います。素晴らしい人を紹介しますからお楽しみに……」と。
夜九時すぎ、白い細身のスラックスに皮のポロシャツの男性が颯爽と事務所のドアから現われた。
「三島由紀夫です。今夜はよろしく」
あとは例の破顔大笑、その夜上演されたのは、完成したばかりの映画「憂国」であった。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より
0456無名草子さん
垢版 |
2011/01/14(金) 00:00:12
(中略)終了後、私は戦慄と興奮で暫く席を立つことが出来なかった。言葉を失なったまま三島さんに視線を
向けると、満足げに微笑みを湛えて見返した三島さん。これが三島さんと私の出逢いのはじまりであった。
その夜は酒場「どん底」で祝杯を重ね、ツール映画祭への出品が決った。
(中略)
「憂国」はアートシアター創立以来の大入りで二ヶ月余のロングランとなり、連日三島さんと過す日が続いた。
私にとって三島さんは友というには偉大すぎ、私は敬愛こめて「三島先生」と呼んでいた。作家としての深淵は
私には判る筈もないが、ひたすら慣れ親しんで夜の巷で遊び廻るのが常であった。
然しその交流の中で私は多くの教えを受けた。細やかな気遣いと優しさに充ちた雑談の中で、芸術、文学、
人生について貴重な話をきくことが出来た。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より
0457無名草子さん
垢版 |
2011/01/14(金) 00:00:50
ある時はテネシー・ウィリアムズやトルーマン・カポーティに会った印象、ジャン・コクトオ、レナルド・
バーンシュテインの話、外国の舞台、バレエ、オペラ、音楽など直にその場に居合せ、まるでその人々と
対峙しているように、生きた挿話は私を夢中にさせてくれるのであった。(中略)
夏、下田のホテルできかされた連載小説「命売ります」の荒唐無稽な仕掛けの話、焼玉蜀黍(とうもろこし)を
かじりながらの深夜任侠映画、丸山(美輪)明宏さんのリサイタルゲスト出演のためトレーニングの成果を
聞かせるからと「造花に殺された船乗りの歌」の背景にふさわしい場所でと横浜埠頭まで駆り出された夜、
映画「人斬り」では付人として京都まで随行、自衛隊富士学校への面会、森田必勝君にテーブルマナーを教えると
フランス料理店にお供した夜、「椿説弓張月」の舞台稽古と楯の会の国立劇場でのパレード、等々短かい歳月の間に
数えきれない程、多くのエピソードを残して、三島さんはあまりに早急に逝ってしまった。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より
0458無名草子さん
垢版 |
2011/01/14(金) 00:01:52
そして遂にあの日が来た。
七〇年十一月二十五日、ニュースをきいて私は三島邸に駆けつけた。涙があふれ、唇は乾ききって唾液も
飲み込めない。到着して直ぐ何かの用で三階へと向った。そこは左右対称の円形の部屋で、壁龕には嘗て
「これがぼくの総てだよ」と指し示めされたとおり、三島さんのミニチュアブロンズ像、「癩王のテラス」の
舞台模型、外国語訳の自著群が並び、主を失った部屋は静謐に沈んでいた。
視線を移したその時、片隅のテーブルにレコードプレーヤーが置かれ、蓋が開け放たれ、そこにLPの
レコード盤が残されたまゝになっていた。私は茫然と見詰めていたが、何故か触れることをためらった。
若しもあの日の前夜、三島さんが最後に聴いた曲だとしたら……
然し瑤子夫人も亡きいまとなっては、もはや確める術もない。

葛井欣士郎「花ざかりの追憶」より
0459無名草子さん
垢版 |
2011/01/17(月) 14:59:24
ある日公威は威一郎を連れてデパートに参りましたが、何か玩具のことで親子喧嘩したと見え、そのとき
「お父様なんか死んでしまえ」と言われたようです。真顔で悲しそうに私に訴えに参りました。そのときの
公威の心境が今日になってよく判ります。

ある日私があるお客様にお目にかかったときのことです。「三島さんという方は不思議と決して他人に御家族のことを
一言もおっしゃいませんでした。それなのに二、三日前用談の途中で唐突に、僕は威一郎が 可愛くて可愛くて
どうにも仕方ない、本当に可愛いんだ、と二、三度同じことをくり返されるのです。こっちはちょっと面喰いましたが、
そのまま用談に戻りました」というお話でした。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より
0460無名草子さん
垢版 |
2011/01/17(月) 14:59:49
公威は物差しやハタキのような長いものを持ってこれを振り回すのがとても好きでした。無意識にもウップン晴らしの
意味でございましたろうか。これらはやがて危ないというので、母(三島の祖母)に没収されてしまいました。
公威はこんなときでも、決して反抗はいたさず、だまって素直に従ってくれて、かえって可哀想になりました。

公威は五歳のときのお正月に、はじめて自家中毒という病気にかかり、もう駄目だという危篤の状態になりました。
親戚も多数集まりました。私はお棺に入れてやる着物や玩具を持って来てソッと裾のところに取揃えました。
そこへちょうど千葉医大の部長をしておりました私の兄が来てくれまして、しばらく見守っておりましたが
「あっ、小便が出た、助かるかも知らんぜ」と申し、それから間もなくまた大量のお小水が出ましたら、兄は
「もう大丈夫」と大声で言いました。ああこの時のうれしさ、まるで夢のような心地とはこのことを申すので
ございましょう。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より
0461無名草子さん
垢版 |
2011/01/17(月) 15:00:12
初等科時代、公威は肺門淋巴腺(りんぱせん)にかかりました。この病気は身体がとてもだるくなるものですから、
教室では姿勢も悪く、先生には叱られ通しだったようです。しかも自分のうしろの席には級中きっての悪童が
ひかえていて、その煽動でのべつ幕無しに二人でいたずらをするので、二人とも教壇の前に立たされ、おでこと
おでこを鉢合せさせられるという、そうとう重い体罰をいくどか受けました。


中等科では剣道や乗馬は正課でしたが、公威は両方とも好きで、特に剣道を大変好みました。寒稽古のときは
五時ごろ自分で飛び起きて、嬉々として出かけて参りまして、稽古の後学校が出してくれる味噌汁がうまくて
うまくてたまらない、お母様にも一度飲ませたいと私に何度も報告しておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より
0462無名草子さん
垢版 |
2011/01/18(火) 10:53:07
公威は幼少のころから日本古来のしきたり、行事というようなものがとても好きで、またこれらを大事にいたしました。
母の躾けのせいもありましたろうが、神社の前などに参りますと、どんな小さな祠でも何びとの指図も受けず、
自らすすんで必ず丁寧に参拝し、お辞儀をしないで通りすぎるというようなことはありませんでした。
これは子供の時代ばかりでなく、ずっと大人になってからも続きました。毎年の豆撒きの時など、先頭に立ち、
孫達はすぐ飽きてしまって逃げ出すのですが、公威は一人になっても物凄い大きな声で、「鬼は外、福は内」と
どなりながら豆を撒き、それから家族中に各自の年より一つ多い数の豆をひろわせて十円玉と一緒に包ませ、
自分みずから近所の四つ角まで持って参り、帰りには掟な従い決して振り返らないという調子で、これには
親の私もついていけなかったものです。この念には念の入った信心振りは死ぬまでやめませんでした。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より
0463無名草子さん
垢版 |
2011/01/18(火) 10:53:44
二十年三月の大空襲のとき、公威は学徒動員で座間の海軍の工場に泊り込みで参っておりましたが、いそいで
帰宅して来ました。向うから眺めると、東京の空が真赤に染まっており、これでは東京は必ず全滅してしまって
いると思い、ずいぶん無理をして、やっと駆けつけて来たとのことでした。家族一同で無事を喜び合い、公威は
今後の打合わせをしたり何くれと手伝いをしてまた座間に戻って行きました。ただこれだけの話ですが、公威が
防空壕の入口のところで私が頸に巻きつけていたショールをとって巻き直してくれたり、そして何だか忘れましたが、
小さいものの包みを差出して、お母さま、これをあげましょう、と言ってくれたことを覚えています。多分
ビスケットともおせんべいともつかぬ変てこなものだったと思います。空襲が終ると、「みんな頑張ってよ」と
手を振りながらまた戻って行ったのでしたが、そのうしろ姿を、私は、なんでこんなにまで私に親孝行して
くれるのだろうと、ありがたくてありがたくて、涙ながらにしばらくたたずんで見送った記憶があります。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より
0464無名草子さん
垢版 |
2011/01/18(火) 10:54:02
また工廠には台湾人の少年が大勢働かされていて、自分はその世話をする係だが、例外なしにみんな実に
かわいい子ばかりで、自分にもなついてくれたけど、食べ盛りの彼らのこととてたいてい栄養失調で、ことに
脂肪に飢えていて、僕らだったら腹をこわすようなものでも、油と名のつくようなものならどんなものでも
飛びついて舐め、しかもその後もケロリとしているのには、かわいそうにも思い感心もした、といっておりました。
一方、上官たちの部屋を覗くと、相当の御馳走が十分食卓に並べてあって、上官たちはこれを談笑しながら
食べていたそうです。彼らと台湾少年とを想いくらべると、義憤というか悲憤というか、上官たちの部屋に行き、
「貴様らそれでも人間か」とどなりつけたい衝動に駈られたと、相当興奮した口調で話をしておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より
0465無名草子さん
垢版 |
2011/01/18(火) 10:54:20
終戦前のことですが、荷物の疎開でズック袋やトランクをいくつも荷造りしましたが、そのときも公威は、
荷造りの手伝いをしたり、それぞれの荷物の中身を克明に手帳に記入してくれたり、自動車で運びにくい品物は
大八車を借りて来て弟妹と三人で運んでくれました。その途中で警報が鳴り、急いで物陰に身をひそめはしたものの、
後で悪路のために思うように車が進まないで、苦心を重ねて真暗になってからやっと弟妹と三人で帰宅して参りました。
また主人と一緒にお薯(いも)や野菜を仕入れに埼玉方面まで参り、帰途はその運送人にさせられたり、公威は
つねに先頭になっていやな仕事を引き受けて、ずいぶんこの弱い私を助けはげまし、一家の心の支柱となって
くれました。

中等科の終りごろから学校の軍事訓練がだんだんさかんになり、富士の裾野を重い背嚢(はいのう)と銃を
かついで一晩中行軍させられ、落伍者も出るくらいでしたが、ふだん弱い弱いと言われていた公威は落伍もせず、
教官に、精神力が強い根性がある、と賞められたと自慢しておりました。
平岡倭文重

平岡梓「伜・三島由紀夫」より
0466無名草子さん
垢版 |
2011/01/19(水) 08:18:51
時の話題やビッグニュースを掲示板の書き込みを読んで一発理解。

2ちゃんねる 全板勢いランキング(RSS生成可)
http://2ch-ranking.net/

ニュース板に特化した全ニューススレッド勢いランキング『2NN』(RSS生成可) や、一覧性が高い新着ニューススレッド見出し『BBY』もどうぞ。※両者とも2ちゃんねるトップページ最上部にリンクあり。
0467無名草子さん
垢版 |
2011/01/20(木) 12:33:29
イタリア最大の出版社の一つであるモンドダリは、二年後(投稿時2002年)に、三島由紀夫選集を出すことを
企画している。ローマ大学のマリアテレーサ・オルシ教授を編者とするこの選集の目的は、三島文学の美しさを
あらためてイタリアに紹介することにある。
その目標を達成するため、序文、解題と共に訳文の精確さが大切なポイントとして顧慮され、日本語からではなく
英語などから重訳されている作品も、今度は新しく日本語から直接翻訳される。
その中には…(中略)「鏡子の家」等も含まれる。この最後の作品は私の担当作品なので、少し考察したい。
周知のように、三島がひたすら情熱と才能を傾けて書いた「鏡子の家」は非常に評価が低かった。
予想を裏切る反応に作者は落胆したが、昭和42年にはこの小説を「自分の好きな作品」に数えている。
それにも関わらず、この作品はあまり研究の対象になっていない。評判が良くなかった理由は様々に書かれて
いるが、ここでは反論するよりも、私にとって興味深く、秀逸と思われるところをすこし分析してみたい。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」
0468無名草子さん
垢版 |
2011/01/20(木) 12:33:56
「鏡子の家」は構成が見事である。その枠組みの中に、美しく表現力豊かな文章や隠喩がちりばめられている。
冒頭に〈みんな欠伸をしてゐた〉という、短いが意味深長な一文がある。
「みんな」に含められる登場人物たちは、生との関わりに困難をきたし、倦怠感に蝕まれている。
群小人物の光子と民子は倦怠を逃れるため銀座の美容院に行って満足する。
他の主要人物たちは自分の内面世界と外界との関係に支障をきたしている。
俳優志願の収は自分の身体を明確に知覚できず、身体と存在を同一視するに至る。画家の夏雄は突然視界が
消滅する出来事に遭遇して以来、絵が描けなくなるが、内面世界をより狭くすることで再び描けるようになる。
拳闘選手の峻吉は記憶空間のない生活を構築する。鏡子は自分の内面世界についてあまり考えないようにし、
友人たちの経験、思想に満ちている「家」に住んでいる。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
0469無名草子さん
垢版 |
2011/01/20(木) 12:34:16
しかし冒頭の「みんな」には、会社員である清一郎が意図的に挿入されていない。清一郎は一番俗世に混じって
生活している人物で、日本だけではなくニューヨークに住んでいる時も問題なく仕事環境に溶け込める。
しかしその能力は世界崩壊を固く信じることから来るものと言うべきである。
「鏡子の家」の完璧な構造では、鏡子が友人たちを追い出して自分の家を“閉める”という経緯が作品の
結びとなる。つまり小説の終わりと“家の終わり”が一致するのである。
そして冒頭と同じく、光子と民子はつまらなそうに「仕方なし」に銀座の美容院に行く。
三島の描写は暗示的で、しかも読者の目前に見えるような印象的なイメージが豊かである。
最も顕著で、優雅なイメージ操作は「鏡」をめぐるものであろう。
タイトルとなる女主人公の名前を始め、すべての人物にそれぞれ自分の「鏡」がある。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
0470無名草子さん
垢版 |
2011/01/20(木) 12:34:37
収は本物の鏡に映るとほっとするが、鏡より肉体を強く感じさせる女性と出会った時、その人間的な鏡と
死ぬことを決意する。
夏雄は自分の絵におのれを投影する。それゆえ、絵が描けなくなった時、一旦自分を見失う。
峻吉は力を自分の鏡とする。しかし喧嘩で手を怪我して拳闘ができなくなると、自分の鏡である力を右翼の
青年団に入って使う。
鏡子は自分を皆の鏡であると思いながら、他人を自身の鏡として使う。最後に娘と互いに映しあう鏡遊びで、
どちらが娘かどちらが母か、どちらが女らしい魅力と欲情をよりそなえているかわからなくなる。
ちょうど金閣寺が素晴らしく金色に輝く姿を鏡湖池に映すように、「鏡子の家」の人物たちは自らを
映す物なしでは生きられないのである。ひょっとしたら、作者も小説に自分を映したのかとも思われる。
登場人物に三島自身の投影が認められるかどうかは別として、隠喩やイメージが豊富で、とても面白く読める
作品である。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
0471無名草子さん
垢版 |
2011/01/20(木) 12:34:58
個性的であざやかな表現が多いので、翻訳する側はそれをうつし変える困難を何とか切り抜けなければ
ならないが、作者の力量や熱意がページごとに感じられる。
古典文学を翻訳するとき、イタリアの読者に伝えにくい雰囲気、理解しがたい習慣等がある。
しかし「鏡子の家」の場合、そのような難しさはなくて、例えばサルトル、モラヴィアを読んだ者には
感じやすい倦怠感もあり、場面がニューヨークになっているページもあるし、それほど遠い文化が感じられる
ところはないと言える。
ただ、完璧に文体の美しさを伝えることはやはり容易ではない。しかし、それは読者より翻訳者の問題であろう。
原文の美しさに感服しつつ、同レベルの文体の文章を作ろうと格闘中の私には、何故今まで「鏡子の家」が
訳されなかったのか不思議に思われる一方、その任を受けたことを幸いに思い、この作業がたいへん有意義な
経験となることが確信されるのである。

マティルデ・マストランジェロ「『鏡子の家』イタリア語初訳」より
0472無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:48:34
三島由紀夫が透徹した認識の目を持っていたことは、彼を知る人ならば誰もが認めるだろう。例えば動物に
対する描写を取ってみても、その異様に鋭い認識能力が垣間見れる。(引用略)
言葉を喋らぬ一個の生命に対して、これほどその根源に迫れるほどの認識能力を持っているなら、人間を洞察し、
その自意識を具体的に纏め上げた安永透という人間を作り上げることくらい造作もなかっただろう。(中略)
三島文学ほど明確に人間の個人的精神と結び付けて涅槃を説いている作品は他にないだろう。悟り……、そして
悟りへ至るための道である八正道とはつまり、自意識の塊りである安永透という存在の否定なのだ。
天人五衰や「安永透の手記」には、悟りへの道である八正道に、見事に反する精神状態が描かれているのである。
安永透の自意識こそ、仏教が説く人間の捨て去らねばならない“我”そのものだからだ。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0473無名草子さん
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2011/01/23(日) 16:48:57
三島由紀夫の重要性、そして特殊性は、その並外れた認識の能力にある。(中略)
なぜ三島由紀夫にだけ、これほど高度な認識能力があり、一般の人はそうではないのか。それが私には大きな
疑問となり、三島文学への好奇心を駆り立てた。(中略)
どちらかというと私は三島の小説よりも日記やエッセイなどを好んだ。(略)…概念の捉え方が行間からより
鮮明に表れていて、その明晰さに私は驚嘆した。(中略)
三島由紀夫は単なる小説家という存在を超えている人間なのかもしれない、と私はうっすらと理解し始めた。
多くの人は『ミシマ文学』と言っているくらいで、どうも彼の使う表現の卓越さ、認識の正確さのすべてを、
三島由紀夫の文才と考えているようだった。
しかし私にはそうは思えなかった。言葉使いが巧みなだけなのではない。確かに十代までの三島はそうだった。
しかし「仮面の告白」以降は違う。正確に現実を認識しているのだ。あまりに正確すぎるほど正確に……。
つまり、何かをきっかけに三島由紀夫は、その正確無比な認識に覚醒したのだと私は思った。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0474無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:51:11
…『一目で見抜く認識能力にかけては、幾多の失敗や蹉跌のあとに、本多の中で自得したものがあった。欲望を
抱かない限り、この目の透徹と燈明はあやまつことがなかった』(天人五衰)(中略)
三島は自分の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚を、若いときは自分の文学的素養として芸術の領域で
捉えていて、仏教的な意味での仏性だとか悟性だとかいう風には捉えていない。或いは最後までそのスタンスは
変わらなかったかもしれない。(中略)
三島由紀夫が行っていた無我の認識とは、この阿頼耶識を認識することだ。(中略)
古来から悟りを開いた者は神通力を得ると言われている。(略)阿頼耶識による無我の認識は、原理は単純だが、
或る意味そういった超能力に近いものだ。(略)…三島の表現力を神技に近いと評した評論家もいたようだ。
超能力とまでいかなくても、第一章でも記したように、その認識の正確さは燈明を極めていた。(中略)
無我の認識という正確な認識の方法を理解している三島由紀夫という存在は、私には途轍もなく重要に思えて
きたのだった。三島由紀夫が理解されれば、人間同士の完全な相互理解が可能になるからだ。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0475無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:51:44
…三島由紀夫について研究していて、ひとつ不思議に思った事があった。なぜ三島が自分への理解を求める
方法として、小説という形を選んだのかということだ。彼はそこいらの哲学者や心理学者よりよほど頭が良く、
人間精神に精通していたから、自分を理解して欲しいなら、自分の認識の体系を分かりやすく論文のような形で
まとめて発表すればよかったのにと思った。なぜそうしなかったのか。実際に三島由紀夫について書いてみて
分かった。それは不可能だからだ。近代自我哲学や精神分析学は三島本人も言っているように、些か暴論で、
妄味を生み出している気がする。精神という性質を詩的幻想と規定することは出来ても、その精神が生み出す
幻想世界を分割したり、現実世界に対する精神の認識構造を解析することは不可能だ。(中略)
唯識的に言うと、欲望を捨てて第七識を超えたところにある阿頼耶識という存在の究極の片鱗を読み取った
ということになるだろうが、では、どのようにして読み取ったのかとなると、それ以上の詳しい説明は出来ない。
それ以上は、もう“ありのまま、ただ見た”としか言いようがない。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0476無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:52:01
…プラトンのイデア論にしても、ニーチェのパースペクティブ主義にしても、デカルトの良識論にしても、
実念論にしても唯名論にしても、フーコーのエピステーメーにしても、フランシス・ベーコンが「ノーヴム・
オルガヌム」で言うイドラにしても、実存主義にしても、ライプニッツのモナドの概念にしても、そして
唯識さえも、認識に至るまでの経緯の仮定的な説明なのだ。(中略)
過程を明確に示す方法がないから結果から示すしかなかった。小説という物語の形を借りた方法で、自分が
認識した安永透という人間の自意識を正確に記すしか、つまり、感覚的に、自分の認識能力とその認識能力を
持っているということが何を意味しているのかを理解できる人間を探すしかなかったように、私には思える。
無我に至るまでのその過程を説明しなくても、天人五衰を読んだら分かる人間に向けて三島は天人五衰を書いている。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0477無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:56:51
(中略)
三島由紀夫が天人五衰に書いているような、人間世界を裁定する漁師の目、それは神仏の目だ。無我による
正確な認識は、最終的に神の目に近づく。人間を監督し、その行いに応じて命運を決定する存在との視点の同一化。
それが一種の予言性を帯びてくる究極の認識であり、人間が最終的に至るべき境地なのだろう。そしてそれは、
いわゆる宿命通・天耳通・死生智にあたるのだろう。
『狐はすべて狐の道を歩いていた。漁師はその道の薮かげに身を潜めていれば、難なくつかまえることができた。
狐でありながら漁師の目を得、しかも捕まることが分かっていながら狐の道を歩いているのが、今の自分だと
本多は思った』(天人五衰)(中略)
精神という願望的幻想性を利用したこの現実の都合のいい変容を、人を化かす『狐』に例えているのである。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0478無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:57:06
(中略)
そもそも彼のあの異常な明晰さは、人間の領域を遥かに超えている。彼は人間でありながら神仏の目を得、
しかも人間として生きたのだ。(略)三島は晩年、生涯を通じてあれほど批判してきた太宰治と自分は同じ
なんだと言ったそうだ。太宰がそうであったように、三島にも人間の世界が理解しがたかったのではないか。
理解できすぎたが故に。
その無意識。その認識の欠如。すべてが彼には奇妙に思えただろう。
三島にとって人間は、運命の自己表現のようなものだった。(中略)
三島は確かに誰よりも正確に物事を認識することができたわけだが、単純にその能力を喜んでいたわけでは
なかったようだ。(中略)
三島由紀夫は確かに稀に見る認識の天才で、完璧に近いほど人間存在、そしてその命運を裏側から管理している
神仏の神秘まで理解していた。しかし、求道者ではなかった。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0479無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:57:26
三島は悟達に至ろうと思って悟達に至ったわけではない。セキュリティー・システムを打破するはずのハッカーが、
逆にセキュリティー・システムに詳しくなるように、犯罪を犯すはずの犯罪者が、逆に刑法に詳しくなるように、
あまりにも夢想的であったために、逆に真実に目覚めてしまったのだ。
そして三島はその欣求の欠如ゆえ完全なる悟りには至っていなかった。いや、至ろうとしなかった。(中略)
ここに三島由紀夫という人間の独自性がある。彼は悟りの構造を知っていながら詩を求め続け、仏教には帰依せず
天皇に帰依したのだ。奇跡は到来しないと理解してからも、つまり詩が現実ではないとはっきり理解してからも、
生来の気質から詩的椿事を待望し続けることをやめられず、また神仏に帰依する気もなかった三島由紀夫は、
自分の意志の不毛に気付いていた。紙の上の現実と実際の現実、その二種の現実のどちらもいつでも選べるという
自由が三島由紀夫という人間の意志だった。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0480無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 16:58:02
(中略)
どんな奇跡への待望であれ、それが絶対に到来しないと分かっているなら、そしてそれでも猶、奇跡を待望し
続けるとするなら、いったい精神はどこへ向うのだろう。三島にとって至福と言うものが、少年時代に感じたように、
願望と現実の一致にあるなら、詩から覚醒した三島の唯一の至福は、自らが絶対的存在と融和することだった。
それが「憂国」であり、天人五衰の末尾において本多繁邦に語らせている『聖性』だった。(中略)
ああいう最期を遂げたことには、批判的な意見の方が多かったようだが、バルコニーに立って演説する三島の
姿を見るたびに、私は何か心を動かされる。別に憲法を改正して自衛隊を国軍にして欲しいわけではないけれど、
命を賭けて訴えるその姿に素晴らしい何かを見るのは確かだ。(中略)
天人五衰における本多の涅槃への到達の仕方は、一見したところ幸福からは遠く、それはまるで神への挑戦のようだ。
恒久平和の不可能を自明のものとして死んでいった彼の存在が、実は精神という幻想を打ち破り、人間の相互
理解を可能にする唯一の鍵だったというのはなんと皮肉だろう。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0481無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 17:01:48
(中略)
私には三島由紀夫が、自分がロボットだと気付いてしまったロボットのように思えてしまう時がある。自分の
内部構造、背負わされた宿命、世界の実相……、その仕組みを、それを創造した者と同じくらい完全に理解
できる能力を持っていた三島由紀夫は、結局、自分が何者であるかを知ってしまった。三島由紀夫は自分が
【人間】であることを理解してしまったのだ。
精神の奇跡待望の不可避とその不可能の自覚という性質。告白は不可能であり、真の自己は規定し得ないということ。
人間は自由意志を持ってはいないということ。見えない誰かに何かを強いられて生きているということ。
人間であるということそれ自体がひとつの罠にかかってしまっているということ。そして、自分が誰からも
理解されてはいないということ……。

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0482無名草子さん
垢版 |
2011/01/23(日) 17:02:09
世界についても理解した。
それは涅槃の文学である三島文学の最終的な主題「奇跡自体よりもふしぎな不思議」だ。
即ち古代存在論にはじまり、中世スコラ哲学へと続き、デカルトやウィトゲンシュタイン、ライプニッツらも
問うた『神秘的なのは、世界が如何にあるかではなく世界があるということ』という命題。数多くの哲学者が
求めたこの命題に対する三島由紀夫の答えは、「仮面の告白」における素面の不在と同じように、世界存在
そのものの実体の不在だった。
『「海と夕焼け」は、奇跡の到来を信じながらそれがこなかったという不思議、いや、奇跡自体よりもさらに
ふしぎな不思議という主題を凝縮して示そうと思ったものである。この主題はおそらく私の一生を貫く主題に
なるものだ』(花ざかりの森・憂国 あとがき)
…つまり、世界が存在しているということ自体が奇跡よりもふしぎなことなのであって、それは唯識論哲学に
おける存在の実体の無さ、一切諸法がただに『識』に帰すという思想によって表されている。
『本多は夢の生に対する優位を認識した』(天人五衰)

三上秀人「三島由紀夫の遺言 観世音」より
0483無名草子さん
垢版 |
2011/01/26(水) 10:56:59
三島さん、あなたがこの世を去られてから、ちょうど二十年の歳月が流れました。長いようでもあり、
短いようでもあります。
二十年前、あなたのあの壮烈な死の直後、私はこの「題名のない音楽会」であなたへの弔辞を捧げました。
そのなかで私はこう言いました。
「三島さん、あなたが自らの死によって訴えたかったこと、それはあの檄文の最後にある言葉
『我々の愛する歴史と伝統の、国日本を日本の真の姿に戻そう。生命尊重のみで魂が死んでもいいのか。』
この言葉にあなたの思いは集約されていると私は思います。
最後のバルコニーの演説でも冒頭にあなたはこう言っている。
日本は経済的繁栄に現を抜かして精神的には空っぽになってしまった。君たち、それがわかるか、と。
自衛隊の存在も含めて潔癖なあなたは政治的ごまかしを許すことができなかった。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
ワグナー「トリスタンとイゾルデ」前奏曲と愛の死(演奏 東京フェスティバルオーケストラ)
0484無名草子さん
垢版 |
2011/01/26(水) 10:57:19
現在の日本が世界に冠たる経済的繁栄を誇りながら、それに反比例して政治の腐敗とごまかし、精神の不在と荒廃、
人間の疎外と断絶、こういった憂うべき事態を深めつつあることは心ある人々の認めるところでしょう。
明治の文明開化以来、西欧流の物質主義が日本文化を支える精神主義を危殆に瀕せしめている。
あなたが自ら畢生の大作と呼んだ最後の作品「豊饒の海」であなたは唯識論と輪廻転生という東洋の思想を踏まえて、
この風潮に文学的というよりはむしろ哲学的な鉄槌を下している。あの作品の最後の部分で主人公が蝉時雨の
降るような尼寺で、意外な結末に茫然と立ち尽くすあたりはまさに無の境地としか言えません。
文学ならば無で済みます。しかし、現実はそれでは済まない。
あなたは自らの命をわざわざ人が犬死にと評するような一見、愚劣な方法で劇的に絶つことにより、
心ある人々に一大衝撃を与えた。まさに皮肉で逆説好きな、いかにもあなたらしい芸術的なやり方でした。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
0485無名草子さん
垢版 |
2011/01/26(水) 10:57:51
あなたがもし、政治家だったとしたら、こんな方法は絶対にとらなかったでしょう。
あなたが意図したことはだから、自衛隊に決起を促すクーデターではなかった。心ある人々の魂にぐさりと
突き刺さる精神のクーデターだったのです。
(間)♪♪♪♪♪
三島さん、二十年前、あなたがあの壮烈な死を遂げられた直後、私は「題名のない音楽会」でいま言ったような
弔辞を捧げました。そして、あなたが自らの死を以て暗示してくれた精神的クーデターは近い将来、必ず
起こるはずだから、どうか、あなたのこよなく愛したこのワグナーを聴きながら、幽明境を異にした天界で
日本の将来を期待とともに見守っていて下さい、このようにお願いをしました。
それから二十年。日本は変わったでしょうか! 残念なことに、本当に残念なことに少しも変わってはいないのです。
あなたが、死を賭して訴えた自衛隊の問題にしても未だに決着はついていません。三島さん、あなたの名前は
今でも一種のタブーです。あなたの数々の作品は芸術的には高く評価され、あなたの才能を疑う人間はいないけれど、
あなたの思想は依然として危険視されています。

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
0486無名草子さん
垢版 |
2011/01/26(水) 10:58:12
いまの日本は、二十年前、あなたがいみじくも予言した通り
「私はこれからの日本に希望が持てない。このままいったら日本は無くなってしまう。そのかわりに無機的な、
空っぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、ある経済的大国が極東の一角に残るだろう。
それでもいいと思っている人たちと私は口をきく気にもなれない。」
こういったあなたの言葉通りが現実なのです。本当に残念なことです。
三島さん、あなたがいなくなってからの二十年は、あなたが望んでいたような二十年ではありませんでした。
また、これから先の日本が果たしてどうなるのか、誰にも予断はできません。しかし、今までの二十年と同じく
あまり期待のできない将来であることは、おぼろげながら予測できそうです。ともあれ、いま、幽明境を異にした
あなたに私ができることといえば、あなたの好きだったこの曲を捧げることくらいでしょう。
この曲がうたっている死とはかり合えるほどの重さを持った愛の尊さをあなたと一緒にかみしめましょう。…

黛敏郎「題名のない音楽会」(平成2年11月25日)より
0487無名草子さん
垢版 |
2011/01/29(土) 10:06:04
たとえこのたびの事件が、社会的になんらかの影響をもつとしても、生者が死者の霊を愚弄していいという
根拠にはなりえない。また三島氏の行為が、あらゆる批評を予測し、それを承知した上での決断によるかぎり、
三島氏の死はすべての批評を相対化しつくしてしまっている。それはいうなればあらゆる批評を峻拒する行為、
あるいは批評そのものが否応なしに批評されてしまうという性格のものである。三島氏の文学と思想を貫くもの、
それは美的生死への渇きと、地上のすべてを空無化しようという、すさまじい悪意のようなものである。(中略)
恋愛結婚を人々が夢見ていたとき、結婚の夜に情死をとげる『盗賊』は、なんと悪意にみちた時代への挑戦で
あったろう。また、文学上の誠実主義が“自己確立”の名のもとに謳歌されていたとき、『仮面の告白』は、
なんと反時代的な作品であったろう。あるいは、人々は戦争の危害について語っていたとき、「金閣とともに
滅びうる幸福」を語った『金閣寺』は、なんと不吉な夢に貫かれていたことであろう。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より
0488無名草子さん
垢版 |
2011/01/29(土) 10:06:35
三島氏が『憂国』あたりを境にして、急速に変貌したという見解を、私はほとんど信じることができない。(略)
三島の宿命は、すでに『仮面の告白』において、ほとんど予定されていたといってもよい。仮面の背後にある
空白が、いわば“太陽神”の欠落であるなら、それがやがて『林房雄論』や『英霊の声』となって蘇生する
ことは、なかば必然といってもいいものであった。“太陽神”が失われたとき、あの東京の廃墟の上に広がって
いた青空には、夥しい日光の氾濫があった。(略)廃墟の太陽への偏執は、やがてギリシャの廃墟の夥しい
陽光の氾濫に接続する。そして氏は、人間性という名の自然を否定するために、“肉体”を“鉄”のように
鍛える道を選んだのである。(略)三島は徹底して明るさに固執した作家であった。その明るさは健康優良児の
明るさとは、まったくの対極をなすものであった。それは“鉄の悪意”を秘めた明るさ、あるいは悪意を証明
するためには、死をも辞さないような、鉄の意志に裏づけられた明るさである。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より
0489無名草子さん
垢版 |
2011/01/29(土) 10:07:30
(中略)氏にとって天皇とは、存在しえないがゆえに存在しなければならない何ものかであった。それは氏の
“絶対”への渇きの喚び求めた極限のヴィジョンといってよく、もし氏がそこへ向かって飛翔するならば、
ただちに地上に失墜するであろうことを、氏は『イカロス』という詩に述べているように、どこまでも知り
ぬいていたのである。
三島氏にとって必要なこと、それは「戦後」という時代、あるいはストイシズムを失った現実社会そのものに、
徹底した復讐をすることであったと思われる。イデオロギーはもはや問題ではない。自衛隊も、自民党も、
共産党も、氏の前には等しく卑俗なものに見えたのである。この精神の貴族主義者にとって、いったい不可能
以外の何が心を惹いたであろうか。思えば氏の不可能への夢、あの「青空による地上の否定」は、典雅な
造形力によって、作品のなかに封じこめられた。その危険な思想、不可能への渇きは、優に氏を“危険な思想家”
たらしめるに十分であった。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より
0490無名草子さん
垢版 |
2011/01/29(土) 10:09:07
(中略)現世には仮構としての生活しかありえず、その「嘘偽の本質」を愛するほかはない。すでに世間的には
スタアであった三島氏は、その「嘘偽の本質」を、あるいは嘘偽のパラドックスを、どれほど深く愛したこと
であろう。その「嘘偽」の背後にある本心、それはあの“太陽神”の生きていた時代にたいする渇きである。
その渇きの基底にあるのは、いうまでもなく『葉隠』につながる日本的なラジカリズムの精神である。それは
いうなれば、有効性の彼岸にあるがゆえに聖なるもの、また聖なるがゆえに地上の汚濁に染まってはならない
ものであった。(略)この『葉隠』にたいする二重の自覚は、いうまでもなく“太陽”と“鉄”との二重性に
通じている。氏の渇きの喚び求めた、あの極限像としての“太陽神”は、つねに“鉄の悪意”に裏づけられた
ものであった。それは「戦後」という時代に向けられた悪意、あらゆる微温的な偸安にたいする悪意である。
(略)そして無効性を承知の上で、不可能性の一端を“死”によって可能に転化したとき、氏の“鉄の悪意”は、
ほとんど完璧な意味において、時代の偽善にたいする批評と化する。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より
0491無名草子さん
垢版 |
2011/01/29(土) 10:10:04
遺作『天人五衰』の結末部に出てくる鼠の自殺のエピソードは、三島氏がどれほど醒めきっていたかを証して
余りある。(略)その自殺によって、猫や鼠の世界に大きな変動が起こりうるであろうか。猫がその奇妙な
鼠のことを忘れて、なおも偸安をむさぼっていることを、三島氏ははっきり書きそえている。いいかえれば、
氏は自分を愚かな鼠に擬したとき、氏にたいするいっさいの批評の無効性を、氏みずから確立してしまった
のである。この驚くべき自意識の屈折、残忍なまでのダンディズム、あらゆる批判の可能性を封じた鉄の悪意と、
不可能に挑んだこの倨傲。(中略)
“太陽神”の実在していた時代に、どうして不可能への渇きが必要だったであろう。また、戦後精神の
極限としての“鉄の悪意”なくして、どうして現実の戦後文化を軽蔑しつくすことができたであろう。(略)
三島氏には、死ぬというより死んでみせることが必要であった。そのかぎりにおいて、私小説家の追いつめ
られた生活演技とも、明確な一線を画している。政治的・外在的批判は別として、いったいここまで意識化
された死に、どんな批判が可能であろうか。

磯田光一「太陽神と鉄の悪意――三島由紀夫の死――」より
0492無名草子さん
垢版 |
2011/02/03(木) 23:31:27
われわれ精神科医にとって三島由紀夫ほど魅力的な研究対象は他に例を見ない。
それはまず、三島作品の中には、精神科医が日ごろ臨床で見る精神病理学的な体験が数多く、見事な洞察力を
もって描かれているからである。
精神科医ですら記述が難しいほどの心の綾やメカニズムが、みごとに言葉として造形されている。
例えば、私が三島の最高傑作と考える「金閣寺」には、周知のようにモデルとなった事件・人物が実在するのだが、
鹿苑寺金閣に放火したその学僧・林承賢の精神の病の発症と発展の有り様が、作品には実に緻密に、かつ
正鵠に記述されている。
例えば、林の発病期の、つまり放火決意直前の「妄想気分」などは、荒涼とした日本海の風景に託して、
実に迫真的にイメージ化されている。ここでは、「症状」が、芸術的な「美」に高められているのであり、
作家の腕前には感嘆する他ない。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より
0493無名草子さん
垢版 |
2011/02/03(木) 23:31:49
かつて私は、この「金閣寺」の作者・平岡公威氏と、実在した犯人・林承賢と、それから小説の主人公の三者を
比較対照する年表を作り、その異同を研究したことがある。モデル小説であっても、作者の心の真実が必ず
作品の内容に、特にその主人公の心理に投影されていないはずはないと考えたからであり、その「詩と真実」の
嵌め込み細工を分析することが、作者の「詩の技法」を解明することにもつながると思ったからである。
その研究論文にはあからさまには書かなかったが、平岡氏の心理と、精神分裂病を患った林承賢の心理とは
かなり通低するのではないか、と当時の私は直観した。
しかしそれはもちろん、氏が精神分裂病を初期段階でも体験したことがあるという意味ではない。そうではなく、
ポテンシャルとして、体験する可能性があった人ではなかったか、という直観であった。精神分裂病という病気に
まったく無縁の人であれば、患者の心理に対するあれほど深い感情移入は不可能ではないか、と思ったのである。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より
0494無名草子さん
垢版 |
2011/02/03(木) 23:32:08
この考えは、次の傑作「鏡子の家」を読み返しても変わらなかった。しかし「鏡子の家」を書いたころは、
「金閣寺」を書いたころに比較すれば、作家の狂気に対するスタンスは大分違っていた。
遠くなっているように思われた。つまり、この作品に描かれている狂気はかなり概念的なものに変化していた。
この程度であれば、精神医学の教科書を読んでいれば、まったくの正気の人でも書けないことはない。
それにしても、三島はなぜ精神医学の教科書や事典にとどまらず、高度に専門的な学術書や論文まで渉猟する
情熱を持っていたのかという疑問は残る。
三島は、精神医学の本ばかりではなく、性科学(特に性倒錯・同性愛・冷感症・窃視症など)、犯罪学(殺人)、
精神分析学の専門書をかなり耽読していた。
いずれにせよ、精神科医の目から見ると、「金閣寺」は作家の精神の軌跡にとって一つの重要な転回点であったろう。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より
0495無名草子さん
垢版 |
2011/02/03(木) 23:32:28
「金閣寺」と「鏡子の家」の創造で、内面の力学に関する仕事の一山を越えた作家は、その後しだいに、
内面から外界へ、精神から身体へ、思索から行動へと、その重心を移して行く。
そして、精神分析学的には「行動化」と呼ばれるその傾向の終点に、あの劇的な割腹自殺が待っていたのである。
何人かの精神科医は、作家の衝撃的な事件に弾かれたように、三島由紀夫の病跡学(パトグラフィ)を書き、
精神分裂病とか、パラノイアとかいう診断を試みた。
しかし、それが的外れの誤診であったことは、今ではほとんど明らかである。
また、「仮面の告白」でデビューした三島の精神診断については、必ずといってよいほど言及される
「同性愛」説にしても限界はある。それは村松剛氏のような、強力な同性愛否定論者がいるからではなく、
平岡公威氏の性嗜好は、両性愛的であったばかりではなく、プラトン的であったからである。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より
0496無名草子さん
垢版 |
2011/02/03(木) 23:32:45
精神分析学者エリック・エリクソンは、「天才的リーダーとは、彼が出会った若者に大きな影響を与え、
彼らをして、それ以前の人生行路とは違う人生への道を歩ませ、その時代にはまだ類い稀なアイデンティティを
若者に与える人物のことだ」と定義した。この定義に従えば、「楯の会」を組織して、多くの若者に
「対抗的同一性」(カウンター・アイデンティティ)という新しいアイデンティティを与えた三島もまた、
単なる同性愛者ではなく、天才的リーダーだった。
そして、三島由紀夫が孤独な天才作家から天才的リーダーへの道へと方向転換したのは、実に内的な病の
ポテンシャルを、創造を通じて克服した、あの「金閣寺」創作の時期だった、と見るのが妥当であろう。

福島章「三島由紀夫と精神医学」より
0497無名草子さん
垢版 |
2011/02/08(火) 11:20:38
横尾(忠則)番記者として働きはじめた頃に、三島由紀夫とも親しくなった。
平凡パンチ誌で三島の悪口を書くという企画があり、他の編集者は担当したくない様子だったので、自分が
名乗りでた。すぐ三島に電話をし、「今回は三島さんの悪口を書く企画ですが…」と正直に打ち明けて取材を
申し込んだのが、三島の好感をよんだらしい。
三島は人気実力ともにトップの作家でありながら、ハリウッドスターのようなオーラを発していた。
三島はこれまで見たこともないような光り輝く“創造物”という感じであった。パンダとかマダガスカル島の
横っ飛びのベローシファカのようにいつ会っても新鮮な驚異を与えてくれた。

椎根和「オーラな人々」より
0498無名草子さん
垢版 |
2011/02/08(火) 11:22:11
…オーラを発する人々ということでは、やはり六〇年代後半の、三島、横尾、寺山、玉三郎、土方たちは
超弩級であった。彼らのそばにいるだけで、異世界に連れていかれそうな気分になった。そのどこかに連れさられる
という不安感が、悦楽味であった。
モノの時代に入ると、そばにいるだけで、異界へつれていってくれそうなスターはいなくなった。
…ぼくは、三島の最後の三年間を剣道の弟子として稽古をつけてもらい、一緒に学生デモ視察へ行き、ボーリングをし、
白亜の三島邸へ何度も行った。
三島は、文学の方では、大ベストセラーを何作も書き、今なら流行語大賞受賞まちがいなしの国民的喝采をあつめた。
そういう文学的才能以外にも、新しい才能を発見する眼力があった。横尾忠則、坂東玉三郎、美輪明宏、澁澤龍彦らは、
三島の紹介によって市民権を得た、といってよい。

椎根和「オーラな人々」より
0499無名草子さん
垢版 |
2011/02/14(月) 10:49:04
「そうそうワタシあの人に一度しかられたことあるんですよ。ワタシ、あの人のことを
『三島サンは首から下は北海の荒海の漁師だけれど、首から上は明治美人だ』
と言いました。そしたらあの人ワタシに言いましたネー。
『それはボクの顔が馬ヅラだと言ってるんでしょう(笑)明治美人というのは面長のことをいうんだから』

ワタシみたいなモンにでも気軽に話しかけてくださる。自由に冗談を言いあえる。数少ないホンモノの人間ですネー。
お若いといっても三島サンももうおトシです。ボデービルもいいんですけど文学に本腰を入れてほしいですネー。
そして、もっともっとよいホンをいっぱい書いてほしいですネー。あの人の持っている赤ちゃん精神。これが
多くの人たちに三島さんが愛される最大の理由でしょうネー。」

淀川長治「『平凡パンチ』インタビュー記事」より
0500無名草子さん
垢版 |
2011/02/16(水) 18:42:20
散々ガイシュツだろうけど、皇后さまとお見合いしたって
話を皇室番組で見てびっくらしたw

どういう経緯でそうなったんだろ。
日清製粉がらみ〜?か
0501無名草子さん
垢版 |
2011/02/16(水) 20:36:14
>>500
お見合い相手を、聖心女子大学から何人か推薦してもらって、その中に美智子さんがいたらしいよ。
0503無名草子さん
垢版 |
2011/02/16(水) 23:35:47
三島さんが美智子さんと結婚してたらどうなってんだろう
0504無名草子さん
垢版 |
2011/02/17(木) 10:15:47
三島さんも自殺しなかったかも・・・だし、
現在の皇統の危機もなかったかも・・・
0505無名草子さん
垢版 |
2011/02/17(木) 22:10:47
三島と美智子さんの子供(娘)が皇室に嫁いだかもね。
0506無名草子さん
垢版 |
2011/02/18(金) 16:49:56
いまの皇統の危機は美智子さんの私怨だから。
0507無名草子さん
垢版 |
2011/02/27(日) 18:21:25.28
ホモなのに、、、何で結婚なんてしたのかな?
0508無名草子さん
垢版 |
2011/02/27(日) 19:26:12.10
まったく女を受け付けないほどのホモじゃないからでしょ。
0509無名草子さん
垢版 |
2011/03/01(火) 22:39:45.44
道徳を信じない道徳家、愛を拒否する愛の詩人、詠歎的であることを恐怖する、しかもロマンティックな歎美家。
――『沈める滝』の背後にある作者の姿を、一口にいえば、そういうことになるのではないか、とぼくは思っている。
既成のものを信じないという立場に立って、その荒廃の上に、あらためて夢なり美なりを、人工的につくり
出そうとするところに成りたってきたのが、一般に三島由紀夫の文学の世界なのである。(中略)
夢が、告白が、ありきたりの男女の物語が、もし信じられないのだとしたら、その信じられないという地点に立って、
ひとはなお、夢や告白や物語の花々を、咲かせることができないものか。人工の花々を。――三島由紀夫の文学は、
その設問から出発するのであって、例はそのほか、あげてゆけば彼の全作品に及ぶことになるだろう。(中略)
彼はたしかに、古い夢の、神々の、死の自覚の上に立って、つねに仕事をしてきた作家であるといえるだろう。
彼は神々を、錬金術師のように、合成することを夢みる。そこに彼の批評精神があり、光栄があり、そしてまた
苦しみがあるばずだ。

村松剛「『沈める滝』解説文」より
0510無名草子さん
垢版 |
2011/03/05(土) 10:20:50.62
三島由紀夫が他界してから、彼の死を中心にして実に多くの本が出版された。この現象は今後も続くと思うのだが、
僕が読んで納得がいく三島由紀夫論、三島由紀夫評は、全部に目を通した訳ではないものの、意外に少ないようだ。
僕は、三島由紀夫が死をもって問いかけたのは、手続き民主主義とも呼ばれる今の体制の中で、本当のナショナリズムを
形にすることは可能なのか、という問題だったのではないかと思う。そのように視点を定めてみると、見えて
くることがいくつかある。僕は、ナショナリズムを国粋主義、排外主義と同一視するのは、伝統尊重を保守反動と
同じと見る考えと共に、いわゆる進歩主義の大きな誤りだと思っている。
(中略)戦後のわが国の議会主義が政策を中心としたものではなく、手続きを中心にした民主主義を本質として
いたことが現れているように僕には思われる。

辻井喬「叙情と闘争」より
0511無名草子さん
垢版 |
2011/03/05(土) 10:21:46.37
三島由紀夫が自らの生命を賭けて反対した思想の重要な側面は、この、手続きさえ合っていれば、その政策や
行動の内容は問わないという、敗戦後のわが国の文化風土だったのではないか。彼の目に、それは思想的頽廃としか
映らなかったのである。確かに、このような社会構造の中にあっては芸術は死滅するに違いない。
しかし、多くのメディアや芸術家は、彼の行動の華々しさや烈しさに目を奪われて、それを右翼的な暴発としか
見なかった。もしかすると戦後の社会は、1970年の時点ですでに烈しい行動に対して、ただその烈しさを恐れ、
その奥に思想的な純粋性や生命の燃焼の輝きを見る力を失っていたのかもしれない。

辻井喬「叙情と闘争」より
0512無名草子さん
垢版 |
2011/03/10(木) 12:16:37.65
「(三島由紀夫の)絶えず真剣に生きることを望み、『にせものの平和、にせものの安息』(「白蟻の巣」)を
軽視する姿勢は、今となってみれば、だらだらと生きるわれわれへの痛烈な批判となっている。現代の日本人の
ありようを予見していた天才だったと思う。」
なかにし礼


「三島さんのあの『行動』を基準点として、そこからの距離をはかりながら考へるのが習ひ性となつてゐます。」
長谷川三千子


「戦後教育で『人の生き方』だけを教わり、『死に方』を教わらなかった。衝撃でした。
身の処し方、諫死の是非、日本人の責任のとり方、等々あれこれ考えさせられました。今は当時以上に、強く
考えます。」
出久根達郎


「七〇年までは、激しいものこそが美しかった。音楽、絵画、文学、演劇、映画、そして人間の生き方も。
三島由紀夫氏の死は過激が美しかった時代の最後の花だったな、と今になって思います。」
佐佐木幸綱

雑誌「諸君!」三島由紀夫特集アンケートより
0514無名草子さん
垢版 |
2011/03/10(木) 17:26:15.97
この機会を逃すと永遠に埋もれてしまうので、三島由紀夫という人間の誠実さについて述べておきたいと思います。
三島さんは、自刃のちょうど一ヶ月前の昭和45年(1970)10月25日に、『東文彦作品集』の序文を
書いています。この東文彦氏は学習院時代に親しくしていた文芸部の先輩で、同人誌『赤絵』はこの東氏の
父君である季彦氏の援助で創刊しています。三島由紀夫は、事件の数ヶ月前に講談社の野間社長に自分が序文を
書くので、東氏の作品集をぜひ出版してくれと頼み、承諾を取ったわけです。このことは、自刃するにあたり、
世話になった方への恩返しをし、後顧の憂いなく事を起こすという事だったのではないかと思われます。
三島由紀夫と東文彦氏は学習院時代手紙を数多くやりとりしていました。お互いに信頼しあった文学上の先輩・
後輩関係だったのですが、東氏は昭和18年に23歳で亡くなり、三島由紀夫は告別式で弔辞を読んだそうです。
そこには堀辰雄も列席していたといわれています。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0515無名草子さん
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2011/03/10(木) 17:26:39.68
(中略)
じつは、この東文彦氏の父君の東季彦という方は学長職も歴任していた私の大学時代の恩師なのです。(中略)
その東先生から伺ったことですが、三島さんは息子の命日には今も家にお参りに来てくれると言っていました。
(中略)世界的作家になったあとも、命日にはみえていたということです。凄いのはそれにもましてそのことを
三島はだれにも語っていなかったということです。
これは三島由紀夫の年譜などを見ても、そのことについては書かれていません。あれほど自己顕示欲の強かった
三島由紀夫が、お参りに行ったというのを誰にも語らなかったのですね。普通の人だったら、俺は昔世話に
なった人のことはいつまでも忘れない、だから俺はいまもってお参りに行っているんだとすぐ言いそうなものですが、
それをひと言も言わなかった。(中略)ここに私は三島由紀夫の律義さと誠実さを見るのです。この律義さと
誠実さが結局はあの事件の要因の一つになったのかとも考えてしまいます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0516殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
垢版 |
2011/03/14(月) 01:47:15.49
三島程度のインテリもでないから川上モコ弘美が俺から盗作してるんだろうが、
ペドの猿が。
「形式主義」って言葉しってますかぁ?
しらんですねえ。モコ川上弘美は2ちゃん社員
無関係写真を送り投稿禁止にする人殺しのストーカーブス
ミズモリ関係者
0517殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
垢版 |
2011/03/14(月) 01:51:19.74
三島がいいとか悪いとか批評する程度の学力が日本の作家にはないわけ
盗作七夜ものがたりの程度の低さ
「考えなし」「ひとすじなわでいかないタイプの人」「バラバラ」
「形式主義」 「みどりのボタン 大きくなる」
(緑のボタンで大きくすると言いたいらしい。
大きくするには 緑のボタン)

盗作5000か所
死ねよストーカー朝鮮中国ジャップ警察殺したからさTSUNAMIで
0518殺人鬼川上弘美婆「しるし」またパクり!反論できないストーカー
垢版 |
2011/03/14(月) 02:00:37.37
川上弘美婆=2ちゃん社員荒らし要員モコ(マグナ)なんか
小説書いても猿のようにメシウマを模倣し
猿のように雪をふらしているだけ
「母音」からパクって「黒白赤緑、青紫、アルファオメガ」
とハクチのような猿真似をくりかえし、
ハーフの娘になりたがる猿であるだけで、
ただ一か所も単語や言い回しなどの
言葉の定義が正しかった場所が(七夜に)無い
とりあえず
太宰オタクの三島は愛憎する程度の知能はあった
ストーカーの嫌われ者の荒らし川上が
俺をどうこう盗作するあつかましい精神薄弱である
ああいう「モコ川上」レヴェルとは違う

そもそもアジア人は全員精神薄弱の
ペドでミズモリ常連と同じストーカーの
シェイプシフターで見てみふふりしかできない猿
0519無名草子さん
垢版 |
2011/03/23(水) 14:09:31.90
(中略)
日本の安全保障について、疑問点を二つほど提起しておきたいと思います。第一の疑問点は、安保条約第五条の
共同防衛条項です。(中略)第五条に共同防衛として日本国の施政下にある領域において、いずれか一方に対する
武力攻撃があった場合に、共通の危険に対処することが明記されています。が、問題なのは、その中に「自国の
憲法の規定及び手続に従って行動する」と謳われているところです。それは、福田先生がフジテレビの番組
「世相を斬る」海外版で、エドワード・ケネディ上院議員と対談した際に台湾を守る米華条約は「台湾に危機が
迫つたとき、アメリカはそれを助けるかどうか、議会で審議する義務があるといふ程度のものだ」とケネディ議員が
明言していたからです。米華相互防衛条約(1979年失効)を調べてみると安保条約のこの条文とほとんど同じ文言に
なっています。ということは日本も台湾と同様の扱いを受けることになるのは間違いないでしょう。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0520無名草子さん
垢版 |
2011/03/23(水) 14:09:52.78
(中略)台湾は「タダ乗り」の日本と違って、アメリカの要求に対してお釣りが来るほど防衛努力を行っていた
国ですが、その台湾に対して、ケネディ上院議員のこの発言です。(中略)このケネディ発言を通してアメリカの
相互防衛条約に対する本音が垣間見えてくるようです。
二つ目の疑問点は、アメリカの「核の傘」の信憑性です。このことについては、キッシンジャーの『核兵器と
外交政策』(1957)を取り上げ考えていくべきかと思います。(中略)キッシンジャーはその中で注目すぺきことを
述べています。(中略)そのキッシンジャーが全面戦争に際し、西ヨーロッパを守るにあたって、合衆国の
大都市を犠牲にすることを躊躇しており、西半球以外のあらゆる地域、当然日本もそれに含まれていますが、
それに対しては、守る価値がないように見えるであろう、と書いているのです。この発言は「核の傘」を考えるに
あたって、見逃すことのできない重要な意味を含んでいると思われます。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0521無名草子さん
垢版 |
2011/03/23(水) 14:10:14.25
要するにアメリカは、ロシアや中国を相手に最終的にはアメリカ本土を犠牲にしてまで、同盟国を守れないと
いう事であり、このことは、茶化すようですが、「己のごとく汝の隣人を愛せ」というクリスト教の愛の思想は
イエスとその弟子たちのみが実践できたに過ぎないので、格別驚くことではないのかもしれません。が、保守派の
知識人で安全保障問題に口出しする人達は、これらの問題について、きちんと論じるべきだと思います。また、
ここ三十年位完全に精彩を欠いている左翼知識人ももう一度勉強し直して、我々国民の「知る権利」に是非応じて
もらいたいものです。要はアメリカが助けに来てくれる保証などどこにもないということを肝に銘じ、同盟を
結びつつも対米依存から抜け出し、自国の防衛はできるだけ自国で当たるという「人類普遍の原理」に一日も早く
立ち還るべきものと思います。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0522無名草子さん
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2011/03/23(水) 14:10:35.50
それから、小泉、安倍政権下の改憲論では、憲法第二十条の信教の自由について、全く触れられていません。しかし、
三島由紀夫も晩年主張していたように、占領軍は、自分達が唯一神のクリスト教徒ですから、宗教というのは
排他的な非寛容的なものだという先入観で被占領国の習俗的なものまで宗教として裁いて、神社はだめだとやった
訳です。ですから改憲する場合には必ず第九条だけでなく、天皇条項、第二十条の信教の自由も全部セットで、
行うべきで、一部分だけの改正というのは、本質が解っていないという事と、なにかアメリカとの関係からとしか
思えない。戦後レジームからの脱却だとか言っていたけれども、結局はアメリカからの要請による憲法改正なの
でしょう。だからけっこう罪は重い。一見、戦後体制を脱却するような標語を掲げながら、実際にはアメリカに
一方的にますます組み込まれていくような内容での改正でしかないのですから。
佐藤松男

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0523無名草子さん
垢版 |
2011/03/23(水) 14:10:58.30
(中略)
もし三島由紀夫がいま生きているとしたら核武装についてどう考えるかというと、これは条件次第だと私は思います。
先ほどの憲法問題ともリンクすることですが、憲法の改正あるいは憲法を廃止するにしても、いまの憲法に対する
明確な基準ができること。これが一つ。もう一つは日米安保条約に対する明確な双務性を盛り込むこと。この二つの
条件がクリアできれば、核武装については少なくともいつでも核を持ちうるように技術開発は進めるべきである、
おそらくそう考えるだろうと思いますね。
いまの北朝鮮の問題を見てもわかる通り、あんな小さな国がアメリカあるいは五ヶ国を相手に五分の外交的
駆け引きをしているのですから、やはり核は外交上のそれなりの力になっていると思います。ですから三島先生が
いま生きていれば、おそらく核武装に対するアプローチをかなり積極的にしていただろう。ただし、そのためには
憲法と安保条約に対する条件を検討した上でのことですけれどもね。
持丸博

持丸博・佐藤松男「三島由紀夫・福田恆存 たった一度の対決」より
0525無名草子さん
垢版 |
2011/04/18(月) 10:21:10.13
三島自身にとって、その行動は、謎でもなんでもなく、思うところを果断に行なった結果にすぎない。それにも
かかわらず、われわれは、いまだに謎を見つづけている。いや、さらに謎を膨らませるのに精を出しているような
気配である。なぜなのか? もしかしたら、謎を見つづけることによって、三島がわれわれに突きつけている問題を
直視するのを避けているのかもしれない。正面切って取り組むよりも、謎の領域へ押しやって置くほうが、
われわれには好都合なのであろう。

松本徹「三島由紀夫の最後」より
0526無名草子さん
垢版 |
2011/04/24(日) 17:14:36.47
あかい一本の道のはて
君のなかのふかい歎きが
君のなかのふかい悲しみが
その肉体を一挙に運び去った
けはしく光る雲のした
あかい一本の道のはて
われらはみな愛した
責務と永訣の時を
歴史の不如意に足摺した君よ
装いをあらためて君は
虹の門から過ぎていった
君の英霊は鶴となって
故国の秋の天を翔ける

浅野晃「哭三島由紀夫」より
0527無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:24:40.48
私が初めて三島由紀夫を町で見かけたのは中学三年生の夏。(中略)
友達と三人でアイスクリームを食べながら歩いていたら、前方から絶対に見覚えのある人が歩いてきた。
「あっ、ほらあの人、三島由紀夫だよ!」と友だちが興奮気味に叫んだ。シーっと人差し指を唇に当てたものの、
私の胸はドキドキと高鳴った。私たちが興奮した理由は三島由紀夫の大ファンだったからというわけではなく、
この年の四月に封切られたセンセーショナルな映画『憂国』をすでに観ていたせいだった。(中略)
忘れようにも忘れられない顔の三島由紀夫が、なんとこの下田に突然現れて前方から歩いてくる、なんて。
興奮を抑え切れない私たちに、黒いサングラスの三島氏は唇の片側の端を少し上げるようなスマイルを浮かべながら、
私たちの横を通りすぎた。あのときの胸のときめきを私はずっと覚えている。
当時はマスコミをにぎわす有名な作家として中学生にもよく知られていたので、その姿をまざまざと見た感激も
あったけれど、それとは別の、なにか宇宙人的な、硬い静かなオーラが一瞬放たれて私の中にスッと入ってきた
ような感覚があった。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0528無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:25:01.12
私たちは、サインしてくださいと言いそびれたし、それを言うには映画の印象が強烈すぎたのだ。誰かが
「後つけちゃおうか」と言い出した。キュッとしまったお尻、なんとなく親近感をおぼえる小柄な後ろ姿は
後をつけるには最適の口実だった。
あの日の三島さんは、ちょっとメッシュがかった黒いシャツに細身の白のトラウザーと白い靴を履いていた。
強い日差しの中でその白さが目にしみるようだった。(中略)
三島さんは宇宙人的オーラを発散させながら一メートル四方に入れない近づきがたい雰囲気を漂わせていて、
だからこそ私たち中学生に、もっと近づきたい、追っかけてみたいという気にさせたのかもしれない。『憂国』の
主人公を追っかけたいし、何より私たちはヒマをもて余していたのだった。(中略)三島さんは脇見もせずに、
機械的にカツカツとした足どりでまっすぐに背を伸ばして歩いている。
大工町のゆるい坂を上り大浦の切り通しと呼ばれる、江戸期に船を取り調べるお番所があった方角に向かってゆく。
その先は海だ。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0529無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:25:22.96
(中略)「そういえば前に見た写真もスゴかったよね。ロープでぐるぐる巻きにされてすごい形相してるやつ」…
(中略)(写真集『薔薇刑』を)私たちは図書館で見ていた。その表情から、痛めつけられながらもどこか
それが好きというオーラを私たち中学生は感じ取ったのだろう。
「よし、三島由紀夫をおそっちゃおう!」という突拍子もないアイディアが生まれてしまった。
(中略)私たちは忍者のように追っていった。でもいったいどこまでゆくのだろう。
鍋田浜手前のトンネルに入ったので少し距離をあけた、見つかったら大変。ドキドキしてきた。私たちがトンネルに
入ったとき、三島さんはちょうど東急ホテルのプールへの上り道を登ろうとしていた。
そのときだった。急に三島さんが私たちの方を振り向いた。そして黒めがねを上に上げてアッカンベーをしたのだ!
キャッと声を上げて私たちは後ずさりした。要するに、ずっとお見通しだったわけだ。中学生は簡単に遊ばれて
しまった。
三島さんの目はやさしく笑っていた。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0530無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:32:07.38
(中略)
昭和45年7月7日のサンケイ新聞に掲載された「果たし得てゐない約束――私の中の二十五年」は三島さんの
遺書としてたびたび引用される。
「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行つたら「日本」はなくなつてしまう
のではないかといふ感を日ましに深くする。日本はなくなつて、その代はりに、無機的な、からつぽな、
ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであらう。」
1980年代の経済バブルを見事に三島さんは言い当てた。現在の日本はというと、コロコロと世界に類を
見ない早さで首相がかわる不安定な「自信のない国」になっている。デモもクーデターも若者の反抗もなし、
平和ボケは極まっている。
私は、いまこそ、三島由紀夫の死の意味を考えるべきだと思う。その死は美とエロティシズムに導かれたもので
あったとしても、大局的には、アメリカに支配された「日本という恋人」に向かっての死を懸けたメッセージ
だったのだ。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0531無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:32:29.66
切腹はあの日の日本人の意識を変えさせるくらいの衝撃であり、あれくらいの憤怒を示さなければ、私たちは、
本来、日本人のもっている魂に気づかない、と思ったことだろう。実際その効力はジワジワと年月を超えて
私たちの脳内に浸透している。日本を愛する心について真剣に考えたい。
犬死にと笑われてもいい。五十年後の日本人が理解してくれれば……。
私は、市ヶ谷での「檄文」を三島由紀夫の最後の叫びとして素直に評価したい。ヤジと怒号の中で「男一匹が
命を懸けて訴えているんだぞ」とバルコニーから叫んだ言葉を信じる。三島由紀夫の「本気」を信じる。なぜなら、
私がある鑑識の方から見せてもらった事件直後の写真には、「本気」以外の何物も写っていなかったからだ。
凄惨な場面ではあったけれどそこにはなんともいえない清潔感があった。三島さんの顔は少年のように白く
清らかで安らかだった。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0532無名草子さん
垢版 |
2011/05/11(水) 11:32:54.98
三島さんはやりきった! そう思うと不思議なことに晴れ晴れとした気持ちが湧いてきた。これが「大きな仕事を
するので来年は来られません」という意味だったのだ。
今年も三島由紀夫の来た夏が巡ってきた。
私はいつも思い出す。三島さんの愛した下田の夏のさらっとした風を。どこかやさしげな直射日光を。手を挙げて
「また来ましたよぉ」と呼びかけながらお店に入ってくるまぶしい笑顔を。肉体が発していた不思議なオーラを。
「あなたは、なーんにも心配することはないんですよ。のびのびとおやりなさい」「遊びにいらっしゃいね」
という声のトーンを。
四十年以上も私の中に住みつづける三島さんは、私の父のようであり、兄のようであり、演劇部の先生であり、
とびっきりステキな人であった。でも、いまの私の気持ちを言おう。
長い年月を過ぎて三島さんの姉貴のような年になった私にとって、彼は、私にアッカンベーをするかわいい弟に
なったのだ。永遠に頭の上がらない弟に。

横山郁代「三島由紀夫の来た夏」より
0533無名草子さん
垢版 |
2011/05/29(日) 11:50:32.66
彼の小説もそんなに読んでいない。僕が三島由紀夫を「あ、こいつすごいな」と認知したのは、ロンドンです。
ロンドンにいたときに、BBCが没後何年かで特集を組んだ。そのときに彼がインタビューアーにきちんと
英語で答えているのを見て、聞いたら、内容的にはしっかりしていた。つまり、日本の文化をあれほどきちっと
しゃべれるやつはいないな、と僕が思ったくらいだった。それはすごく印象的だった。
彼の英語はうまかった。うまいというか、要するに、発音がいいとかではなくて、非常に適確な英語をきちっと
選んで答えていた。日本人のインタビューには、よく画面の下にテロップ、つまり英語の字幕が流れるのだが、
三島由紀夫のインタビューには付いていなかった。それくらいに彼の英語はわかるのだ。まあ、イギリス人は
(植民地を持っていたから)外国人のしゃべる英語を理解するのは得意だけれども。それにしてもテロップが
流れていなかったから、へーっと思ったし、なるほど、そういうことについては、こういう風に言うのだなと
感心した。

遠山稿二郎「日本の大学と基礎科学の危機」より
0534無名草子さん
垢版 |
2011/06/10(金) 20:11:17.87
いわゆる現人神(現御神)の思想は、キリスト教などの一神的なGodではない。日本人の神観念は、本居宣長の
「何にまれ 尋常ならずすぐれたる徳ありて、可畏き物を迦微(カミ)とは云なり」という八百万の神々であり、
「唯一神教的命題」とはかけはなれている。日本の神観念は多義的であり、そこでは人間的な要素も入ってくる。
超越者としての「神」とはあきらかにちがう。そもそも昭和二十一年元旦の昭和天皇のいわゆる「人間宣言」も、
〈神〉にして〈人〉であるという伝統観念からすれば、「神から人へ」ということを特別に強調したとはいえない
かもしれない。しかし、占領下において、GHQ指導のもとでこの「詔書」があらわされたのは、人でありながらも
神聖をもって君臨される天皇(スメラミコト)の民族的、精神的支柱としての意味を否定しようとしたもので
あることには変わりはない。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0535無名草子さん
垢版 |
2011/06/10(金) 20:11:58.59
『英霊の声』の、あの英霊たちの声々は、「陛下はずっと人間であらせられた」ことを百も承知で、だからこそ
「陛下御自身が、実は人間であつたと仰せ出される以上、そのお言葉にいつはりのあらう筈はない」と語る。
しかし、その〈人〉であられる陛下は、国家存亡の危機のときに、生命を賭して死んでいった者たちのために、
国破れし後にあってこそ、「現御神」としてあってもらいたかった。それはまた天皇のために立ちあがりながらも
「反乱」軍として処罰された二・二六事件の青年将校たちの、「天皇」の神聖に希望を託した思いとも重なる。
敗戦の時に二十歳であった三島は、この「神の死」を自己の存在の最も深部において体験したのだ。
三島のダリの「磔刑の基督」の評をそのまま借りていうならば、その初期作品(『盗賊』や『岬にての物語』
あるいは十代作品まで含めてもよい)の言葉の地平には、「いつもその地平の果てから、聖性が顕現せずには
おかない予感のやうなものがあつた」といえよう。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0536無名草子さん
垢版 |
2011/06/22(水) 23:19:10.17
(中略)ジョルジュ・バタイユの『聖なる神』という作品集の鮮烈な読後感を三島は(『小説とは何か』のなかで)
印象深く記している。(中略)所収の『マダム・エドワルダ』『わが母』の二作にふれながら、三島が一貫して
関心を示し注目するのは「神の出現の瞬間」である。
バタイユは「自己を超越する」こと、「わが意に反して自己を超越するなにものか」の「存在」を求める。
近代的な自我意識と、「神の死」という虚無を現実認識とする他はない人間にとっては(例外なく現代の人間に
とってではあるが)、それは「不合理な瞬間」であり、そこには何か異常で過剰なものが介在しなければならない。
(中略)
三島は、この言葉によっては到達不可能な事柄を、作家が言葉によって表現していることに瞠目しつつ、次のような
説明を加えている。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0537無名草子さん
垢版 |
2011/06/22(水) 23:19:57.25
〈この「不合理な時間」とは、いふまでもなく、おぞましい「神の出現の瞬間」である。
「けだし戦慄と充実と歓喜のそれとが一致するとき、私たちのうちの存在は、もはや過剰の形でしか残らぬからだ。
(中略)過剰のすがた以外に、真理の意味が考えられようか?」
つまり、われわれの存在が、形を伴つた過不足のないものでありつづけるとき(ギリシア的存在)、神は出現せず、
われわれの存在が、現世からはみ出して、現世にはただ、広島の原爆投下のあと石段の上に印された人影の
やうなものとして残るとき、神が出現するといふバタイユの考へ方には、キリスト教の典型的な考へ方がよく
あらはれてをり、ただそれへの到達の方法として「エロティシズムと苦痛」を極度にまで利用したのがバタイユの
独自性なのだ。(『小説とは何か』)〉

(中略)しかし、バタイユのこの「独自性」もまた言語の領域(ぎりぎりの限界への冒険であるとはいえ)に
あったのはいうまでもない。
三島が明晰にそして最終的に自覚していたのは、この言葉の限界性であった。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0538無名草子さん
垢版 |
2011/06/30(木) 12:32:05.56
(『詩を書くのが趣味の交際相手の男性が女々しく思えて許せない』という相談者に)
 美輪明宏『文学者でも例えば三島由紀夫や中原中也なんかは男らしかった思うけれど…。
貴女ももっと本をお読みになったらどうかしら?』
 相談者『(憤然として)読んでますよ』
 美輪明宏『どんなのを読んでらっしゃるの?』
 相談者『秋元康とか』
 美輪明宏『(一瞬判らず)あきも……?(ピンと来て)オホホホホホwwwww』
 相談者『?』
0539無名草子さん
垢版 |
2011/07/10(日) 17:54:22.31
『太陽と鉄』は、自裁のプロセスと心理的構造を余すところなく分析したまことに戦慄的なエッセイであるが、
そのなかで次のように明言しているのだ。

〈私は今さらながら、言葉の真の効用を会得した。言葉が相手にするものこそ、この現在進行形の虚無なのである。
いつ訪れるとも知れぬ「絶対」を待つ間の、いつ終るともしれぬ進行形の虚無こそ、言葉の真の画布なのである。
(中略)言葉は言はれたときが終りであり、書かれたときが終りである。その終りの集積によつて、生の連続性の
一刻一刻の断絶によつて、言葉は何ほどかの力を獲得する。少くとも、「絶対」の医者の待つ間の待合室の白い
巨大な壁の、圧倒的な恐怖をいくらか軽減する。(『太陽と鉄』)〉

この「絶対」を、「神」といいかえてもいい。いや、ここではあきらかに神の顕現のことがいわれているのであるが、
三島が明瞭に認識していたのは、「言葉」によってその存在を暗示(バタイユ的手法)することは十分に可能で
あっても、それは「現在進行形の虚無」にたいしては一場の役割しか果たしえないということである。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0540無名草子さん
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2011/07/18(月) 23:12:55.98
自裁という行為が決定的な意味を持ちだしたのは、ここにおいてであろう。「神の死」の現実の虚無のなかに
おいては、バタイユのいう通り「過剰のすがた以外」に真理を把握し、神の出現に立ち合うことはできない。
「自決」とは自由のマイナス極限で、自己の存在を破壊することであり、その決定的、一回的な欠損の過剰さの
なかにこそ「絶対」は到来するだろう。そして遺作『豊饒の海』は、仏教的な相対主義に呑み込まれてゆく。
あらゆる歴史と存在を描ききって完結する。
三島の自決が四十年の歳月を経て、今日に至るまで深くおおきな影響を与えつづけているのは、三島が自己の
存在そのものを、戦後日本社会という虚無の時空のうちに磔刑とし吊し、供養としてささげてみせたからである。
そして、われわれは未だにその「死」の深い本質的な宗教性を知らずに(あるいは知ろうともせずに)いるからだ。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0541無名草子さん
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2011/08/04(木) 15:57:49.31
三島の死後七年目、『サド侯爵夫人』のフランス語訳とパリでの上演に関わった作家ピエール・ド・マンディアルグは、
戦後の仏作家のなかでの最もすぐれた才気ある書き手の一人であるが、仏文学者の三浦信孝氏のインタビューに
答えてこう語った。

〈現在では、三島はジョルジュ・バタイユに強く惹かれていたとよく言われますが、私には確信はありません。
(中略)しかし私の見るところでは、三島はバタイユとはだいぶ違います。彼らの類似点は、彼らに共通する
絶対に対する情念であり、生と生の哲学を極限まで、絶対まで追究しようとする情熱ですが、三島は、自分の観念を
真の極限にまで、血と死にまで追いつめる実例をわれわれに残した唯一の存在であって、残念ながらバタイユは
そうした実例を残したとは到底言えません。(『海』一九七七年五月号)〉

三島の文学と行動の総体を一言で射抜くマンディアルグのこの見解は、一神教にたいしてほとんど理解を
拒もうとするこの国では、残念ながら聞くことができなかったものなのである。

富岡幸一郎「三島由紀夫、『絶対』の探求としての言葉と自刃」より
0542無名草子さん
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2011/08/17(水) 09:08:06.82
松本徹(司会):三島さんは、どんな印象でしたか。
本野:非常に頭のいい人でした。特に文学に関しては並ぶ者がいない。
六條:それは、誰もが認めてましたね。
(中略)
松本:三島さんは、戦争中でありながら一種の文化言論活動のようなことをやっていますねえ。
本野:それは彼が反抗的気質だったとか、周りの者に動かされてということではなかったと思いますよ、文化とか
言論とかに対して純粋な気持ちがあって、それを学校の中で実現しようとしたら、ストップがかかったという
ことだと思います。(中略)
佐藤秀明(司会):この一連の出来事に関連してだと思いますが、この時期の平岡公威はだいぶ感情が高ぶっていて、
総務部総務幹事を辞めたいと清水先生に手紙でぶちまけています。
六條:そういう手紙が残っているんですか。清水先生とはツーカーでしたからね。僕らには見せない顔を見せて
いたんですかねえ。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0543無名草子さん
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2011/08/17(水) 09:10:22.41
松本:(三島は初恋の園子と)学習院の友人の妹として知り合って、手紙のやりとりをするようになり、彼女の
一家は軽井沢に疎開するんです。(中略)そこへ三島が、主人公がですね、訪ねて行くんです。それで旧軽井沢の
ゴルフ場で接吻をすると書かれています。だけど、この恋愛は実らずに終わってしまって、三島はずいぶん
苦しんだようです。だから戦後は、辛い出発をしなければならなかった。
本野:まあ、あの当時でもそういうことはあったでしょうね。これは僕個人のことなのだけれども、一学年下に
黒田っていうのがいたでしょ、黒田一夫。その妹と僕が恋仲になって、だけど彼女が亡くなってしまったんだ。
それはショックでね。昭和二十年頃だったんだけれども。そのとき平岡に話したのかな、よく覚えていないけれども、
彼からお悔やみの手紙をもらったんですよ。なくしてしまったんだけどね、残念なことに。それがことのほか
よい文章でね。自分のことがあったあとだから、ああいう手紙が書けたのかなっていまちょっと思いましたね。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0544無名草子さん
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2011/08/17(水) 09:13:34.01
佐藤:(三島は)高等科では総務部総務幹事になっていますでしょ。四人の幹事のうちの一人です。集会などで
号令をかけたり、挨拶したり、そういう点では目立っていたのではないですか。
本野:いや、そんな記憶はないですね。目立つということは、彼の場合はほとんどない。
松本:高等科で、さっき話の出たお芝居を書いてますね。それで演出もしている。そういう点では、ある面の
中心的な存在だったのではないですか。
六條:それはね、小説や演劇のこととなれば、彼の右に出る者なんかいないんですよ。その点ではもう別格。
それだけはみんなが一目置いていた。
本野:成績もね、僕らがどんなに勉強しても絶対に一番にはなれなかった。全然違うんですよ、彼の一番は。
記憶力とか理解力とか群を抜いていた。二番を引き離した一番だったんです。ましてや文学に関しては全く
次元が違う。
佐藤:ということは、性格的にリーダーになるとかいうのではなくて、お芝居となれば、身につけたものや才能で
平岡を据えるのが当然だということになっていたと、こういうことなんですね。
六條:ええ。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0545無名草子さん
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2011/08/17(水) 09:16:33.97
本野:彼は優れすぎているというか、異なりすぎているということですよ。それで彼は優越感をもつとか
そういうのでなくて、自然に優れていたということでしょうね。
松本:三島の側から言いますと、外務省なり文部省なり社会に出て仕事をしている人たちがいて、自分はもの書き
という特殊な立場にいて、何というかコンプレックスのようなものをもったのではないか。文学者というのは、
本当の意味での一人前の社会人ではないんじゃないかという意識ですね、そういうものがあったのではないか。
本野:彼とは割と簡単に話もできたし、間に垣根があるという感じでもなかったんですよ。でも、彼は自分の
世界を持っていたんですね。
松本:いや、石原慎太郎との違いということにもなるかもしれませんが、実社会の中で何かをするという意識を
ずっともっていたのではないかと思うんです。(中略)
(そして、その)行動が象徴性のレベルになってしまう。芸術家の行動というのは象徴性というところへ
行かざるをえないんじゃないかな。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0546無名草子さん
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2011/08/17(水) 09:18:58.03
松本:これは僕自身の気持ちが入っているのですけれども、少年のときから文学の世界を目指して、それで
文学の中でやってきたんですが、いまの歳になると一種の空しさみたいなものを感じるんですよ。実業の世界で
生きている人は、何か世の中に痕跡を残していて、小説家がやってきたことと言えば言葉をただ並べただけだと
いう空しさですね。そんなものが三島にはあったのではないか。空しさをあえて突き抜けてみせるという意志が
あったように思います。
本野:空しいという感じは超越していたと思うなあ。(中略)あれが彼にとって自然な姿だったんじゃないだろうか。
昔彼と話をしていても、全く偉ぶった感じがしない。そのまま別の世界にいるという感じだった。あなたもそうでしょ。
六條:うん、そう。平岡は平岡でしたよ。それでいて我々とは全然違うんだ。それがすごいことだとみんな
感じているんだけれども、学校ではね、そういうことは小さなことだったんです。頭がいいとか、文学をよく
知っているとかは。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0547無名草子さん
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2011/08/17(水) 09:24:09.22
松本:この間、演劇で三島と関わった和久田誠男さんの話を聞いたんですが、宇宙人じゃないかと思ったと
言ってました。会っているときはそうは思わないけれども、家に帰って三島さんのことを思うと宇宙人としか
思えないと言うんです。いまのお話は、そういうところと関係しますね。三島さんのそういう面が現れるのは、
高等科からですか。
六條:そうねえ、中学のときはたわいもない子どもでしたよ。むしろ北条浩の方がずっと弁が立ったし、
理屈っぽかった。
佐藤:北条さんというのは、創価学会の会長になった人ですね。
六條:ええ、学習院を終えて海兵に行って。北条はよく平岡に食ってかかって、口論というか口喧嘩をしていましたよ。
松本:三島というのは、やっぱり天才と言うしかない人だったと思うのですが、それがどういうところで
形成されたのか、そこが知りたいですね。
六條:それはね、清水先生の感化ですよ、清水先生にもそういうところがあったんです。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0548無名草子さん
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2011/08/18(木) 12:33:54.61
六條:岩田先生も(三島に)目をかけたでしょうが、岩田先生や佐藤文四郎先生は、清水先生とは違いましたね。
(中略)「輔仁会雑誌」に書いて清水先生に認められ、「文芸文化」に小説を発表することになるのですけれども、
あの清水先生に認められ可愛がられたというのが、大きかったんだと思いますよ。
佐藤:なるほどねえ。三島由紀夫がいたから清水文雄がいたんじゃなくて、清水先生がいたから三島由紀夫が
いたということですね。
六條:「輔仁会雑誌」に平岡の書いたものが載るでしょ。われわれからすれば平岡のが載るのは当たり前だと
思っていましたよ、平岡もそんなふうでしたよ。だけど、僕らには、彼の書くものが分からないんだ、難しくて(笑)。
松本:清水先生を読者だと思って書いていたんでしょうね。
六條:だから、僕らの前ではひょうひょうとしていましたよ。体が弱かったけれども、コンプレックスなんか
もっていなかったみたいですよ。驕らないし見下しもしないし、卑下している様子もなかった。ひょうひょうとして
当たり前の顔をしていました。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0549無名草子さん
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2011/08/18(木) 12:35:07.73
佐藤:中等科から高等科にかけて、四歳年上の東文彦と三島は親しくなります。(中略)(三島は)自分の作品が
くだらないものに思えたとか、そういうことも書いています。だから、自己評価も素直で、また思うように
ならないことにはどんどん愚痴を言うといったタイプだと思っていましたが。
本野:そういう相手もいたんでしょうね。僕らにも愚痴を言ったのかもしれない。でも、愚痴に聞こえなかったんだね。
六條:彼は意志が強かったからねえ。(中略)
本野:それとね、家柄というんでしょうか、彼は普通の家でしょ。やはり華族の子弟との違いというのが
あったように思いますね。彼が優秀な人間だったということを関連づけてみると、そう思います。(中略)
あなた(六條さん)のように京都の古い家柄の華族とはやはり違う。(中略)反面、だけど俺の方ができるぞ
といった気持ちですね、そういうのが三島にもあったんじゃないかと推察します。
松本:それは確かにあっただろうと思います。あったから『春の雪』といった小説が書けたんですね。

本野盛幸、六條有康「同級生・三島由紀夫」より
0550無名草子さん
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2011/08/20(土) 13:54:08.50
松本(司会):(三島は)最初は着物姿で現れたとか。終戦間もなくのあの時期、若い人で着物着ているひとなんか
いなかったでしょうね。
川島:そうですよ、あの時代、講談社の社屋は焼夷弾でね、黒こげになっているんですよ。(中略)そういう時代に
彼は紺絣に袴をはいて来ました。それはちょっと印象的でしたね。
松本:太宰治に会う時、着物を着て懐に匕首を呑んだような気持ちだったと三島は書いてますけど、講談社へ
行くのにもそういう気持ちだったんじゃないですか。
川島:どうですかね。相当緊張してました。
会ったのは僕だけでした。(中略)今日はこういう新人が来るから、頼むよ、と言われて。
松本:(中略)今後いけそうかどうか、見極めようと。
川島:ええまあ、やっぱり違いましたよ、普通の作家とは。僕たち池袋あたりでカストリ焼酎飲んで、檀一雄を
はじめとして、まあ無頼の連中とばかりつき合ってました。ところが、そういう文壇とは関係がない。なんか
スッとした、まあ貴公子っていう言い方はあんまり正確でないけど、何かスカッとした、よそ者が入ってきた。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0551無名草子さん
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2011/08/20(土) 13:57:06.37
川島:プライベートなことになるけど、三島由紀夫の妹美津子さんっていうのがね、家内の同級生なんですよ。
三輪田高女のね。同級生で親しくしていた。そこでね、三島のお母さんの倭文重さんもまた三輪田出で、遊びに
来るようにって言われてね、何回も遊びに行ったことがある。三島家へですね。三島由紀夫を訪ねるのとは別です。
家内について何回も行ったことがある。
井上(司会):講談社で三島由紀夫の来訪を受けた後ですね。
川島:ええ。そんなことから親近感持つようになった。そして家族ぐるみの付き合いになった。だから僕がね、
馬込の三島家を訪ねると、玄関左手に日本家屋があったんですよ。そこに親爺さんと倭文重さんがいて、僕に
気づくとね、あ、川島、こっちだよって必ず呼ぶの。(中略)今ね、うまい焼酎があるよって。その頃の
焼酎ってのはね、芋焼酎でね(笑)。(中略)
井上:三島が焼酎を飲んだとは聞きませんが。
川島:ええ、息子の方はね、全然ダメ。銀座のエスポワールってとこへ一緒に行ったことあるんです。でもね、
水割り一杯飲んで、真っ赤になってね、大変だった(笑)写真ありますよ、探せば。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0552無名草子さん
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2011/08/20(土) 14:04:11.30
松本:林房雄なんかと、早くから会ってましたね、三島は。
川島:ええ。
松本:川島さんも勿論……。
川島:ええ、会ってます。(中略)林房雄がね、山の中腹に書斎を作ったんですよ。その書斎びらきをするって
いうんでね。三島さんと呼ばれたの。そしたらね、その頃ちょっと忙しかったのかな、途中で帰ってしまった。
そしたらね、三島が帰ったら、花がなくなったよってね、林房雄は酔っぱらって言い出したんだ。じゃああれ呼ぼう、
熊谷久虎という映画監督がいるが、その義理の妹のあれを呼ぼうって。あれは誰だろうと思ってたら、原節子なの(笑)
君ィ迎えにいってこいよっていうからね、地図書いてもらって、(中略)湯上がりの彼女連れて僕は林房雄の
家へ行った。
松本:じゃあ三島は会ってないわけですね、原節子と。
川島:会ってたら、いやあ、どうだったか。
山中(司会):何年頃のことでしたかご記憶ありますか?
川島:何年頃だろうねえ。
松本:『仮面の告白』は出版されていました?
川島:もう出ていた。林房雄は三島をかわいがってますよ。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0553無名草子さん
垢版 |
2011/08/20(土) 14:08:27.46
山中:川島さんのお仕事では講談社インターナショナルでのものがありますね(英訳版『太陽と鉄』を見せる)。
佐藤(司会):ああ、インターナショナルに移られたんですね。
川島:これはねえ、(社で)反対が多くてね。カバーの裸の写真はやめてくれっていうんだ。
松本:三島さんは是非ともこれでって……。
川島:ええ。アメリカじゃね、裸の写真こういうふうにするとね、ゲイのね、一つのシンボルになるから、
それだけはやめてくれっ言われたんだけどねえ、「いや、是非ここにこれやってくれ」って(笑)。
松本:いい本ですよ。
佐藤:いい本だ。
山中:中は二色刷りで、お金かかってますよね。
川島:かかってんだよこれ。それで、裏に署名。それが効いてるんだ。
(中略)
山中:帯をするとちょうど褌が隠れるようになってるんですね。
川島:そうそう。隠したんだよ(笑)。
山中:英語の題字も三島の筆ですか。
川島:そうですよ。そちらもどっかにあるんだけど。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0554無名草子さん
垢版 |
2011/08/20(土) 14:10:56.09
川島:ある時ね、三島家を訪ねて、一緒に出たら、「川島さん今日はあいてる」っていわれてね、僕は会議が
あるので社に帰らなくちゃといったら、「それじゃいいや、この次にしよう」って。パレスホテルへ送って行くと、
「出来たらあなたと一緒に行きたいんた」って、楯の会だね。
佐藤:決起の予行演習とか。
川島:いや、一緒に飲むんだって。「川島さんがいると盛り上がるから」って(笑)。僕酒飲みだからね。
彼あまり飲めないから、「代わりに飲んでくれないか」っていうふうに話してたね(笑)。(中略)ああいう時はね、
惜しいんだよな。会社のことなんか別にしてね、三島がそんなこと言うのはあんまりないからね、あの時期にね。
どうして一緒にいかなかったかと悔やまれますけど。まあ人生ってそういうもんだよね(笑)。
松本:最後の別れみたいな、そういうことはありましたか。
川島:いや、別にないですねえ。あれが実はそうだったのかなあ。うん。ただ凄く忙しかったからね、例会とか
なんとかでね。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0555無名草子さん
垢版 |
2011/08/21(日) 11:14:06.04
山中:映画「トラ・トラ・トラ!」を見にいこうと誘われたというお話ですが、それも晩年ですか。
川島:そうです。
山中:三島が好きだった戦争映画ですね。
川島:「トラ・トラ・トラ!」はね、楯の会の推薦映画だったの。隊員と一緒に何回もみてるらしいよ。志気を
鼓舞するために。まあ、あの事件も真珠湾攻撃みたいなところがあるからね(笑)。でも、今ねえ、三島由紀夫
みたいのいないもんな。もう全部フラットになっちゃってね。人間ね。
松本:数世紀の間に一人出るかどうかの人ですね。
(中略)
松本:川島さんが親爺さんと意気投合したってのは(笑)。
川島:いやあ、あの親爺とはホントによくつき合った(笑)。
佐藤:テレビ局や編集の人なんかが来ると、親爺さん見ているわけですよね。親爺さんと言葉を交わして帰る人は
そんなにいなかった。
(中略)
松本:(中略)お母さんが、あれだけ早熟な才能を育てたと思うんですが。
川島:やっぱり、原因はお袋じゃないかな、あの親爺よりも。「年取ると段々親爺に似てくるからやだよ」とかって
いってたけど(笑)。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0556無名草子さん
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2011/08/21(日) 11:16:32.00
佐藤:ジョン・ネイスンが評伝で、家庭の中のことを結構書いてしまいましたね。あれは、ちょっと平岡家に
とっては、喜ばしくないような……。
川島:喜ばしくない。
ネイスンってのはね、あれ変わった奴だ(笑)。僕は非常に親しくしてて、渋谷の恋文横丁かなにかに連れてったんだ。(中略)
面白い男ですよ。ただ、まあねえ、聞き書きによる取材だから、よく分かってないですよ。
松本:彼は、日本語はよく出来るの?
川島:出来ますよ。僕は会ったときに、落語を一席なんて言うんだあいつ(笑)。その落語がね、なんだかね

「火焔太鼓」じゃなくて、なんか、聞きかじりのやつやって、日本語これだけ出来るんだって誇示してた。
まあよく出来る男ですけどね。でかくて、オートバイ専門で、ホントにアメリカンスタイルね。いい意味でも

悪い意味でも。どうしてんだろうなあ、今。
井上:カリフォルニアのサンタ・バーバラにいるんじゃないですか。
佐藤:一時映画界に入ってたみたいですけどね。
川島:撃たれ役じゃないんですか(笑)。

川島勝「『岬にての物語』以来二十五年」より
0557無名草子さん
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2011/09/20(火) 15:27:56.21
0558無名草子さん
垢版 |
2011/10/04(火) 12:16:54.44
たしかに三島君には、絶望するだけの根拠も資格もあった。彼は言葉のなかに生きていた。あるいは、言葉を
生きていた。(中略)言葉によって存在するためには、まず対話の真の意味を理解し、その姿勢を身につける
ことから始めるべきなのである。(中略)
それにしても三島君は、まさに対話の名手だった。もちろん対話は相手を選ぶ。すくなくともぼくにとっては、
得がたい対話の相手だった。真の対話には、論破することも、されることもない。論争とは違うのだから、
勝敗は問題にならないのだ。また、社交でもないのだから、譲歩しあう必要もない。なんの妥協もなしに
対立し合い、しかも言葉のゲームにたっぷり堪能するという、いわば対話の極致を体験できたのも、三島君との
出会いのおかげだったと思う。(中略)三島君にはつねに他者に対する深い認識と洞察があった。絶望はいわば
その避けがたい帰結だったのだ。

安部公房「周辺飛行19」より
0559無名草子さん
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2011/10/26(水) 17:28:05.89
つづきよろ
0561無名草子さん
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2011/10/29(土) 11:00:57.44
今、生きていたら、
0562無名草子さん
垢版 |
2011/10/31(月) 12:45:10.76
今、生きていたら、
0563無名草子さん
垢版 |
2011/11/29(火) 10:36:22.85
0564無名草子さん
垢版 |
2011/12/07(水) 18:15:15.97
作者名でググると、最初に生首画像の出てくる作家など、
そう多くはないな。
0565無名草子さん
垢版 |
2011/12/23(金) 16:23:46.19
死ぬまで美学を貫いた三島は真の武士であり文士でもある。
0566無名草子さん
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2011/12/24(土) 00:00:46.62
そうそう。
0567無名草子さん
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2012/01/08(日) 18:03:10.88
>>563
ほんとに努力してんの?
だったらお前のクラスの全員の悪い所それぞれ10個以上言える?
いいか?中学以降の人間関係を幼稚園や小学校の友達付き合いと同じように甘く考えてたら駄目
人付き合いってのはいわば個人と個人の外交戦争なんだよ
外交を有利に進めようと思ったらそれなりの武器を持ってないと
それには相手の弱いところを出来るだけ多く知っておく事
弱いところを攻めるのが戦いの鉄則だからな
人の弱点ってのは、ズバリ過去。過去は変えられないし、逃れられない
例えば田舎者とか、元デブとか、元マジメとか何でもいい。
未来、将来の事なんか言ったってしょうがない。努力でどうにでも逃げられるんだから。
未来志向なんて言ってる奴に碌な人間いないだろ。高校デビューとか大学デビューとか。
過去の他には見た目とか家が金持ちのボンボンとか、とにかく本人の努力で逃げられない所を衝く
どこで生まれてどんな風に育ったか、それが人間にとって一番の財産。
例えばお前は日本人だよな。それがどれほど凄い事か、早く気付いた奴が人生で最終的に勝者になる
10代の内はガリ勉だの筋トレやってる暇があったら、他の奴より早く「気付く」事
競争は既に始まってるんだぞ
0568無名草子さん
垢版 |
2012/01/08(日) 18:55:14.86
「仮面の告白」って面白い?
読んでみたいんだけど三島由紀夫って政治家だしあんまり関わりたくないんだよね・・・
0569無名草子さん
垢版 |
2012/01/27(金) 19:00:34.55
面白いよ!
0570無名草子さん
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2012/02/02(木) 01:24:25.65
金閣寺読んだよ。まあまあかな。
仮面の告白面白かった。
けど、この人の作品ってやっぱりなんかどっかキモイ。
お耽美系なキモさとでもいえばいいのかなぁ。
0571無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:46:37.58
誰もが平岡家を語るが、橋家に言及する者はほとんどいない。平岡定太郎と夏子ばかりが論じられて、橋健三と
トミは等閑視されてきた。あたかも三島由紀夫には、定太郎・夏子という父方の祖父母しか存在しなかったかの
ようであり、「一世紀ぐらい時代ずれのした男」と「或る狂ほしい詩的な魂」の女だけが三島文学の形成に
影響を与えたかのような印象を受ける。しかし、それは事実だろうか。三島は、母方の橋家からは大して影響を
受けなかったのだろうか。
健三は、万延2年(1861年)1月2日に金沢に生を享けた。加賀藩士の瀬川朝治とソトの間に次男として生まれ、
武士の血をひく。健三は幼少より漢学者・橋健堂に学んだ。明治6年(12歳)、学才を見込まれて健堂の三女・こうの
婿養子となり、橋健三と名乗る。健三は14、5歳にして、養父の健堂に代わり講義を行うほどの秀才だったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0572無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:47:02.06
やがて健三は妻子を連れて上京し、小石川に学塾を開く。(中略)明治21年(27歳)、共立学校に招かれて漢文と
倫理を教え、幹事に就任する。妻・こうの死去により、健堂の五女・トミを後妻とした。明治27年(33歳)、
学校の共同設立者に加わる。明治43年(49歳)、第二開成中学校(神奈川県逗子町)の分離独立に際して、
健三は開成中学校の第五代校長に就任した。
開成中学校校長としての健三の事績は『開成学園九十年史』に詳らかで、(中略)顔写真を見ると、健三は白い
長髯を蓄えて、眼光炯々とした異相である。生徒は、「青幹」「漸々」「岩石」と渾名をつけたという。
(中略)
漢文の授業では、教科書として四書五経ではなく、『蒙求』を使用した。(中略)『蒙求』は、清少納言から
漱石に至るわが国の文学者に影響を与えた故事集である。テキストの選択から健三の教育観の一端を窺うことができる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0573無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:47:28.69
(中略)
(開成の)初代校長は、高橋是清。(中略)第四代校長の田辺新之助は、(中略)英学者にして漢詩人として
令名を馳せた。長男が哲学者の田辺元で、三島は学習院時代から『歴史的現実』など元の著書に親しんでいる。
第九代校長の東季彦は、(中略)一人息子が、夭折した東文彦である。三島と文彦との親交は『三島由紀夫
十代書簡集』に詳しく、晩年の三島は『東文彦作品集』の刊行に尽力した。二・二六事件、田辺元、東文彦……、
健三をめぐる歴代校長の人脈と三島との関わりは以外に深い。
(中略)
健三は雇われ校長ではなく、学校経営者であった。学校の移転拡張を図るため、大正4年に組織を財団法人とし、
校主は理事となる。当時の寄付行為第五条には、三校主(健三、石田羊一郎、太田澄三郎)が学校の動産及び
不動産の全部を寄付し之を財団法人の財産とすることが謳われており、「この三校主の勇気決断は、この学校の
出身者の特に肝に銘記しなければならないことである」と学園史に記されている。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0574無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:48:00.99
建物は老朽化・狭隘化が著しく、教室の床や廊下は波打ち、机は穴だらけで、生徒は「豚小屋」と呼んだという。
校舎の移転整備が課題であるが、学校側には土地も資金の当てもなかった。そこで健三たちは、窮状を詩文に託して
早大教授の桂湖邨に訴えた。桂はこの話を前田利為侯爵に伝え、大正10年に前田家の所有地を格安で払い下げて
貰うことになった。場所は、現在の新宿文化センター一帯である。詩文で土地を手に入れるとは、三島の祖父に
相応しいエピソードである。漢学者の桂は『王詩臆見』など王陽明に関する論文を著し、『奔馬』の藍本の一つ
『清教徒神風連』の著者・福本日南とも親交があった。(中略)
ところが、この土地に目をつけた東京市長・後藤新平が、電車車庫の整備を計画して、学校側に譲渡を申し入れてきた。
健三は直ちに突っぱねた。是清からも譲渡を勧められるが、硬骨漢の健三は拒絶する。やがて関係者と相談した結果、
市民のために東大久保の土地を譲る。紆余曲折の後、学校は新たに日暮里の現在の高校敷地を入手した。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0575無名草子さん
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2012/02/05(日) 09:48:32.94
(中略)
永年にわたり健三は、赤字と襤褸校舎を抱えた開成中学の校長・理事として奮闘した。校舎の移転用地を確保し、
建設資金を集め、震災を乗り越えて新校舎を竣工させた。また、校長就任時に六百名であった生徒定員を文部省との
粘り強い交渉の結果、千人に拡充している。開成学園の今日の隆盛の礎は、健三が築いたといっても過言ではない。
こうした多年の功績により、大正12年2月、健三は勲六等に叙せられ、瑞宝章を授与された。
(中略)(平岡)夏子が一人息子・梓の嫁に迎えたのが、健三の次女・倭文重(三島の母)であった。健三は、
開成中学校校長を辞職後、昌平中学(夜間)の校長として、勤労青少年の教育に尽瘁した。昭和19年、四男の
行蔵にその職を譲り、故郷の金沢に帰った。同年12月5日、健三は永眠する。享年84歳であった。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0576無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:49:15.03
(中略)
トミは、明治7年に金沢で生を享けた。父は橋健堂、祖父は橋一巴で、いずれも加賀藩の漢学者である。トミは
六人姉妹の五番目で、(中略)姉・こうの死去により(中略)明治23年に健三の後妻となる。健三は29歳、
トミは16歳であった。二人の間には、雪子、正男、健雄、行蔵、倭文重、重子の三男三女が生まれた。(中略)
昭和13年、中等科二年の公威(三島)はトミに連れられて能を観る。初めて目にした能が『三輪』であったことは、
三島の生涯を思うと極めて暗示的である。『三輪』は、世阿弥の作と伝えられる四番目物であり、三輪明神が
顕現する。『奔馬』で本多繁邦と飯沼勲が邂逅する場所は、わが国最古の神社で、謡曲の『三輪』の舞台となった
大神神社である。
昭和20年2月、三島は兵庫県で入隊検査を受け、即日帰郷となる。金沢のトミから三島に宛てた2月17日付けの
書簡には「心の亂れといふものが千々の思ひに幾日かを過ごす」とあって、孫の身を気遣うトミの温かい人柄が
偲ばれる。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0577無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:50:38.13
(中略)
兄弟について、倭文重は「私なんか娘のころ、男はやさしいものと思い込んでいました。実家の兄たちを
見なれてましたからね」と証言している。
昭和5年1月、公威は自家中毒に罹り、死の直前までゆく。

〈経帷子や遺愛の玩具がそろへられ一族が集まつた。それから一時期ほどして小水が出た。
母の兄の博士が、「助かるぞ」と言つた。心臓の働らきかけた証拠だといふのである。
ややあつて小水が出た。徐々に、おぼろげな生命の明るみが私の頬によみがへつた。〉
(『仮面の告白』三島由紀夫)

『仮面の告白』に登場する「母の兄の博士」が、健行である。橋健行は、明治17年2月6日に健三・こうの間に
生まれた。生母・こうの死去により、明治23年からトミに育てられる。
健行は、ブリリアントな秀才であった。明治34年に開成中学を卒業し、一高、東大医科に進んで精神病学を
専攻するが、常に首席であったという。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0578無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:52:03.22
斎藤茂吉は、『回顧』に「橋君は、中学でも秀才であつたが、第一高等学校でもやはり秀才であつた。大学に
入つてからは、解剖学の西成甫君、生理学の橋田邦彦君、精神学の橋健行君といふ按配に、人も許し、本人諸氏も
大望をいだいて進まれた」と記している。茂吉は、開成中学の同級生・健行に二年遅れて医師となった。(中略)
健行は、早熟な文学少年であった。開成中学三年(14歳)頃から文学グループを結成した。村岡典嗣(日本思想史)を
リーダー格として、吹田順助(独文学)、健行、(中略)九名で、「桂蔭会」と称して廻覧雑誌を作った。
弁舌爽やかな少年たちで、住居が本郷を中心としていたことから「山手グループ」と呼ばれた。また「桂蔭会」は、
「竹林の七賢」とも称されて、周囲に大きな刺激と影響を与えた。触発された生徒のなかに茂吉や辻潤がいた。
当時の「桂蔭会」メンバー写真を見ると、健行は帽子をあみだに被り、自負心の強そうな面構えをしている。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0579無名草子さん
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2012/02/08(水) 12:53:30.58
(中略)
開成中学の『校友会雑誌』は投稿を建前としていたが、実態は課題作文の優秀作を掲載することが多かった。
この度、開成高等学校の松本英治教諭(校史編纂委員会委員長)の御協力を得て、『校友会雑誌』に掲載された
健行の文章が明らかになった。(中略)

〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく流水の暢々たるが如く、珠玉の
転々たるがごとく、高尚なる思、優美なる想を、後に残して止まらざるもの、これを
文士の筆となす。〉(『筆』五年生 橋健行)

蒼古たる文章である。(中略)しかし〈一たび走れば、数千万言、奔馬の狂ふがごとく……〉という一文は、
三島由紀夫という作家を予見したような感がある。そして『校友会雑誌』の常連であった開成中学の文学少年・
健行は、40年後に『輔仁会雑誌』のスタアとなる学習院中等科の文学少年・公威(三島)を髣髴とさせる。
「桂蔭会」で村岡や吹田に伍した健行の文才は、なまなかなものではなかった。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0580無名草子さん
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2012/02/10(金) 15:11:14.46
東大精神科の付属病院は、東京府巣鴨病院(後の松沢病院)であった。大正期、院長は呉秀三教授、副院長は
三宅紘一助教授、医長は黒沢良臣講師と橋健行講師の体制をとっていた。(中略)

〈明治四十三年十二月のすゑに卒業試問が済むと、直ぐ小石川駕籠町の東京府巣鴨病院に行き、
橋健行君に導かれて先生に御目にかかつた。その時三宅先生やその他の先輩にも紹介して
もらつた。〉(『呉秀三先生』斎藤茂吉)

健行と茂吉の「先生」とは、呉秀三である。箕作阮甫の流れを汲む秀三は、日本の精神医学の先駆者で、鴎外に
親灸し『シーボルト先生』や『華岡青洲先生及其外科』を上梓するなど名文家としても知られた。そして秀三の
長男が、ギリシア・ラテン文学の権威・呉茂一である。三島は、昭和30年頃に「呉(茂一)先生」からギリシア語を
学ぶ。秀三――健行、茂一――三島の二組の子弟関係は、奇しき因縁である。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0581無名草子さん
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2012/02/10(金) 15:11:59.40
大正14年6月、秀三が松沢病院を退任し、院長に三宅、副院長に健行が就任する。昭和2年8月、健行は松沢病院
副院長から千葉医科大学(現在の千葉大医学部)助教授に転出する。6年7月から8年9月まで二年余り欧米に留学。
帰国した年の11月に教授となり、10年3月から付属医院長を兼ねた。しかし翌11年4月17日、健行は危篤に陥る。
川釣りで風邪をひきながら、医院長として無理をした結果、肺炎をこじらせたのである。報せを受けて、茂吉は
急遽千葉に向かう。(中略)
昭和11年4月18日、健行は52歳の男盛りで急逝する。「ルンゲンガングレン」とは、肺化膿症のことであろうか。
(中略)後に茂吉は健行の挽歌を詠み、これを歌集『暁紅』に収めた。

〈弔橋健行君
うつせみのわが身も老いてまぼろしに立ちくる君と手携はらむ〉

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0582無名草子さん
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2012/02/10(金) 15:12:27.62
昭和16年5月、健行の死から五年ほど後、一人の客が茂吉の家を訪ねる。客は、80歳を越えた健三であった。
(中略)
健三は、亡き息子の墓碑銘の撰文と揮毫を茂吉に依頼した。律義な茂吉は、恩師・健三の頼みを引き受ける。
5月23日から30日にかけての日記には、友の生涯を文に編むために呻吟する茂吉の姿が記録されている。

〈七月一日 火曜 クモリ 蒸暑
客、橋健三先生、墓碑銘改ム、(中略)墓碑銘改作、汗流ル。〉(『日記』斎藤茂吉)

最も期待した長子に先立たれて、老いた健三の悲しみは深かった。茂吉が撰した墓碑銘によって、健三の心は
幾分か慰められたように思われる。三島が北杜夫に好意を寄せて『楡家の人びと』を高く評価したのは、
トーマス・マンを範とする文学観の共通性の故ばかりでなく、健行と茂吉との深い絆を知っていたからでは
あるまいか。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0583無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:02:29.08
(中略)
昭和19年、昌平中学の校長を(四男の)行蔵に譲って、健三は金沢に帰ってゆく。健三は、苦学生教育を
ライフワークと考えていた。明治36年、健三たちの尽力によって、開成中学にわが国初の夜間中学・開成予備学校が
併設される。第一期入学生は僅か22人でしかなかったが、唯一の夜間中学であったことから、生徒数は年々増加し、
大正10年には1,355人という大所帯となった。生徒の職業は、銀行や会社の給仕から商店の小僧、印刷屋の職工、
玄関番など千差万別で、年齢は15、6から30位までであったという。震災で校舎が消失したため、大正15年、
神田駿河台に新校舎を建設する。昭和11年に校名を昌平中学と改称した。
昌平中学の経営は常に赤字であった。健三は、勤労学生から高い月謝をとろうとせず、赤字が累積し、遂には
身売り話まで出るようになった。昭和16年、四男の行蔵がマニラから帰国する。行蔵の実像は、昌平高校の
米山安一教諭の手記『夜学こそ我等が誇り』に描かれている。(中略)

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0584無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:02:54.21
橋行蔵は、明治34年に東京で生まれた。慶応大学を卒業後、横浜正金銀行(現在の三菱東京UFJ銀行)に入行し、
上海やマニラで海外駐在員として活躍する。帰国した行蔵が目にしたのは、80歳の健三が杖をつき、電車の人混みに
揉まれながら赤字の昌平中学に通う姿であった。これをみかねて、行蔵は父の仕事を手伝う決意をする。
銀行業務を終えると、急いで立ち食い鮨で夕食をすませ、昌平中学に駆けつける毎日が始まった。やがて学校の
理事たちは、「本気で父君の跡を継いでやる気があるのかどうか」と行蔵に詰め寄る。行蔵は、横浜正金銀行の
会計課長として月給250円であった。昌平中学に転職すれば、これが一気に70円に下がる。話を聞いた銀行の幹部は
猛反対する。重役の椅子が待っている有能な社員を、万年赤字学校に行かせる訳にはいかない。しかし行蔵にとって、
大切なのはキミ夫人の意見だけだった。キミは、静かにこう言った。「貴方さえよろしかったら」

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0585無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:04:47.90
横浜正金銀行の退職金は五万円であった。五万円あれば、当時十年は楽に暮らせた。行蔵は、退職金を学校の
赤字の穴埋めにつぎ込む。こうした努力にも関わらず、終戦の混乱期には生徒数が2、30人にまで減少した。
この危機を乗り越えるため、行蔵は奇抜なアイデアを捻り出す。一つは、英文タイプである。行蔵は、共同通信の
記者・中屋健一を説き伏せて、会社の地下室で埃を被っていた英文タイプを借り出した。学校に英文タイプ部や
英会話部を結成して、タイプ仕事を請け負ったのである。(中略)
もう一つのアイデアは、予備校である。戦後の学制改革によって、昌平中学は昌平高校となった。行蔵は、
学制改革で大学の受験競争が激化すると予測し、理事たちの反対を押し切って予備校「正修英語学校」を設立する。
建物は、昼間の空き教室を利用した。(中略)結果的に行蔵の予測が見事に的中し、予備校収入のお陰で夜間学校は
存続することができた。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0586無名草子さん
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2012/02/18(土) 17:07:23.17
校長としての行蔵の初仕事は、職員便所の撤廃であった。「先生がションベンしているところを、生徒に
見られたって、別に恥ずかしいこたあ、ねえだろう」行蔵は、生徒たちの悩みや相談ごとにも気軽に応じた。
夜間の授業が終わり、残っている生徒の面倒をみると、行蔵は一人で校舎のなかを見廻った。戸締りを確認し、
火の用心をしてから世田谷の自宅に帰り着くと、午後11時であった。
(中略)
顔写真を見ると、行蔵はげじげじ眉毛が印象的な面長で、笑顔が三島と似ている。ただし、六尺豊かな偉丈夫で
あったという。健三の衣鉢を継いで夜学に後半生を捧げた行蔵は、昭和37年に逝去する。享年62歳であった。
平岡家は官僚・法律家の家系であり、永井家は経済人の家系であって、橋家は学者・教育者の家系である。
この三家の人々のうち、学生時代の印象が三島と似ているのは健行である。理系と文系と進む道は違ったが、
二人とも秀才で早熟な文学少年として認められていた。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0587無名草子さん
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2012/02/28(火) 23:47:54.66
三島の曾祖父は、橋健堂である。(中略)父は一巴(幸右衛門)、母は石川家の出で、金沢に生を享けた。
健堂は書を善くした。長町四番丁(城下西部)に「弘義塾」を開くとともに、石浦町(城下中央部)に「正善閣」を
開いて習字を教えるが、後者の対象は女子である。健堂は、多数の子弟を教育し、「生徒常に門に満つ」と称された。
安政元年(1854年)、加賀藩による「壮猶館」の開設に伴い、漢学教授となる。
(中略)
明治3年、藩の文学訓導、筆翰教師となる。廃藩置県後の明治6年、小学校三等出仕に補され、8年、二等出仕に
進み、12年、木盃をもって顕彰された。健堂は、夜学や女子教育の充実など、教育者として先駆的であった。
そして「壮猶館」「集学所」など、その出処進退は藩の重要プロジェクトと連動していた。
(中略)(子が)いずれも娘であったため、瀬川健三を三女・こうの婿養子とした。健堂の『蒙求』中心の漢学や
庶民教育にかける熱意は、養子の健三に継承される。明治14年12月2日、健堂は59歳で没し、野田山に葬られた。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0588無名草子さん
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2012/02/28(火) 23:48:48.74
(中略)
健堂が出仕した「壮猶館」は、儒学を修める藩校ではない。「壮猶館」とは、加賀藩が命運を賭して創設した
軍事機関なのである。嘉永6年(1853年)、ペリー率いる黒船の来航は、人々に大きな衝撃を与えた。二百余年に
及ぶ幕府の鎖国体制を崩壊させる外圧の始まりである。以後、幕府はもとより、各藩において海防政策が
最重要課題となった。「日本全体が主戦状態にある」という現状認識からである。加賀藩も財政難に苦しみながら、
海防強化に乗り出してゆく。安政元年(1854年)、上柿木畠の火術方役所所管地(現在の知事公舎横)に
「壮猶館」が整備される。施設は、加賀藩の軍制改革の中核的な存在として明治初年まで存続した。
「壮猶館」では、砲術、馬術、洋学、医学、洋算、航海、測量学などが研究され、訓練や武器の製造を行った。
さらに加賀藩では、西洋流砲術の本格的な導入と軍制改革を図るため、洋式兵学者の招聘を検討する。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0589無名草子さん
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2012/02/28(火) 23:49:22.07
村田蔵六、佐野鼎、斎藤弥九郎の三人が候補に上がり、安政4年(1857年)、西洋流砲術として名高い佐野鼎が
出仕する。佐野は、西洋砲術師範棟取役に就任した。この経緯は、前掲の松本英治教諭の「加賀藩における
洋式兵学者の招聘と佐野鼎の出仕』に詳しい。「壮猶館」では、佐野を中心に海防が議論され、軍事研究の深化が
図られた。健堂と佐野は、親しかったという。佐野は、万延元年(1860年)の遣米使節、文久元年(1861年)の
遣欧使節に随行し、海外知識を生かして加賀藩の軍事科学の近代化に貢献する。七尾に黒船が来航した際には、
アーネスト・サトウと会見した。佐野は、明治新政府の兵部省造兵正に任官する。明治21年に健堂が、佐野の
創設した共立学校に招かれるのは、「壮猶館」における健堂と佐野の親交の遺産ともいえよう。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0590無名草子さん
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2012/02/28(火) 23:50:09.74
三島の軍事への傾斜については、永井玄蕃頭尚志に淵源を求める声が多い。しかしルーツは、尚志よりむしろ
健堂であろう。健堂は市井の漢学者ではなかった。何より平時の人ではなかった。幕末の動乱の時代、「壮猶館」
関係者の危機意識は強かった。さらに「壮猶館」は単なる研究機関ではなかった。敷地内には、砲術のための
棚場や調練場が設けられるとともに、弾薬所や焔硝製造所、軍艦所が付設されるなど、一大軍事拠点を形成していた。
こうした軍事拠点の中枢にあって、健堂は海防論を戦わせ、佐野から洋式兵学を吸収する立場にあった人である。
「壮猶館」の資料として『歩兵稽古法』『稽古方留』『砲術稽古書』が残されている。これらは、三島が
陸上自衛隊富士学校で学んだテキストの先駆をなすものといえよう。健堂の血は、トミ、倭文重を通じて三島の
体内に色濃く流れていた。晩年の三島が、西郷隆盛を語り、吉田松陰を語り、久坂玄瑞を語ったのは、健堂の
血ではなかったか。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0591無名草子さん
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2012/03/02(金) 05:55:16.89
6 名前:名無しさん@お腹いっぱい。

三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!! 
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!

0592無名草子さん
垢版 |
2012/03/02(金) 06:35:50.30
2 名前:名無しさん@お腹いっぱい。

三島由紀夫が生きていたら、『禁色』の絶世の美青年・南悠一を
俺をモデルにして書き直すコトは絶対に間違え無いだろうゼッ!
そして俺の前に跪いて泪ながらに求愛するは必定なのサッ!!
勿論、言下に断ってやるゼッ!! 
どんなに哀願しても無駄なのサッ!!
アイツは腋臭が超ヒデエからナッ!!!!
分かったナッ!!!!!!!

『春の雪』の映画化だって断然オレを主役に決定してただろうしサッ!!!
0593無名草子さん
垢版 |
2012/03/03(土) 04:06:26.00
ナッちゃん、ステキ!
0594無名草子さん
垢版 |
2012/03/14(水) 23:50:36.53
『春の雪』には、「終南別業」が登場する。王摩詰の詩の題をとって号した「終南別業」は、鎌倉の一万坪に
あまる一つの谷をそっくり占める松枝侯爵家の別邸である。モデルは、前田侯爵家の広壮な別邸だという。
「終南別業」を描きながら、徳川末期に橋家三代が仕えて、大正期に祖父の願いを容れて土地を提供した前田家の
ことを、果たして三島は意識していたのであろうか。
金沢が舞台となった小説は、『美しい星』である。「金星人」の美少女・暁子は、「金星人」の美青年・竹宮に
会うため金沢を訪れる。金沢駅、香林坊、犀川、武家屋敷、尾山神社、兼六公園、浅野川、卯辰山、隣接する
内灘などが描かれている。卯辰山には、かつて健堂が教鞭をとった「集学所」が設けられていたが、『美しい星』では
遠景として登場する。(中略)三島は取材のため金沢の街を歩いている。二日間という限られた時間のなかで、
果たして三島は橋家由縁の場所を訪れたのであろうか。

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0595無名草子さん
垢版 |
2012/03/14(水) 23:51:25.06
金沢では、人々の生活に謡曲が深く浸透している。小説では、金沢のこの風習が巧みに生かされている。竹宮は、
暁子に奇怪な話を語る。自分が「金星人」であることの端緒をつかんだのは、この春の『道成寺』の披キでからで
ある、と。

〈どこで竹宮が星を予感してゐたかといふと、この笛の音をきいた時からだつたと思はれる。
細い笛の音は、宇宙の闇を伝はつてくる一條の星の光りのやうで、しかも竹宮には、
その音がときどきかすれるさまが、星のあきらかな光りが曙の光りに薄れるやうに
聴きなされた。それならその笛の音は、暁の明星の光りにちがひない。
彼は少しづつ、彼の紛ふ方ない故郷の眺めに近づいてゐた。つひにそこに到達した。
能面の目からのぞかれた世界は、燦然としてゐた。そこは金星の世界だつたのである。〉
(『美しい星』三島由紀夫)

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0596無名草子さん
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2012/03/14(水) 23:51:59.09
三島は、能舞台が金星の世界に変貌する様を鮮やかに描いている。初めて能にふれた日から、この時までに
ほぼ四半世紀の歳月が流れていた。13歳の公威が、祖母のトミと観たのは『三輪』であった。杉の木陰から声がして、
玄賓僧都の前に女人の姿の三輪明神が現れる。三輪明神は、神も衆生を救う方便としてしばらく迷いの深い人の心を
持つことがあるので、罪業を助けて欲しいと訴える。三輪の妻問いの神話を語り、天照大神の
天の岩戸隠れを物語って、夜明けとともに消えてゆく。謡曲『三輪』は、「夢の告、覚むるや名残なるらん、
覚むるや名残なるらん」という美しい詞章で終わる。
この詞章は、三島の遺作『豊饒の海』の大団円に通じる。現代語訳をすれば、次のようになろうか。
「夢のお告げが、覚めてしまうのは、実に名残惜しい、まことに名残惜しいことだ」

岡山典弘「三島由紀夫と橋家――もう一つのルーツ」より
0597無名草子さん
垢版 |
2012/03/30(金) 21:07:17.07
興深いのう
0598無名草子さん
垢版 |
2012/03/30(金) 21:11:47.03

詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。







0600無名草子さん
垢版 |
2012/05/28(月) 12:49:32.14
600
0601無名草子さん
垢版 |
2012/06/27(水) 03:31:53.15


【 おかしなものを吸引・服用・使用すると中枢神経を刺激され後遺症が残る。 】

0602無名草子さん
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2012/06/27(水) 18:30:29.82

アナボリックステロイドは耐久性の運動競技や有酸素運動における能力の向上をもたらすものとして、
1960年代の初め頃から重量挙げの選手やボディビルダーらの間で注目を集め始めた。

【副作用】
・多毛症:顔、乳首の間、背中、肩、大腿の裏、臍下、殿部などといった、本来は無毛の部分への体毛の出現。
・精神的症状:鬱病的症状、妄想、気分変動の激化、パラノイア、苛立ち。
・行動変化:攻撃性や突発的な暴力衝動の発現。

0603無名草子さん
垢版 |
2012/06/29(金) 19:57:19.48

コイツ危ないぞ。

ttp://www.youtube.com/watch?v=QrlOpFP-Jk8

ttp://www.youtube.com/watch?v=jZsJQPxcA0Q

ttp://www.youtube.com/watch?v=_PYXrFh3bTk

0604無名草子さん
垢版 |
2012/07/05(木) 05:46:09.18


【検証されたし】

ttp://www.youtube.com/watch?v=sHGUKmbs_GA

ttp://www.youtube.com/watch?v=oeUxHf5A0Ag

0605無名草子さん
垢版 |
2012/08/02(木) 11:36:10.24
0607無名草子さん
垢版 |
2012/10/28(日) 11:10:58.65
肝胆相照らして、いささか興奮の面もちの鶴田氏は、対談が終わってから、夫人同伴で三島邸を訪問、
さらに深夜まで憂国の論議をつづけた。三島邸辞去のとき、門前の三島夫妻は、鶴田氏の車が
見えなくなるまで、雨の中に立ちつくして見送った。鶴田浩二は、車のなかで夫人につくづく述懐した。
「だから俺はたまらないんだ。こうしてまで、俺を見送ってくれる。あんなキチンとした日本人はだんだん
いなくなっちゃう」

編集後記(三島由紀夫と鶴田浩二の対談「刺客と組長―男の盟約」)より
0608無名草子さん
垢版 |
2012/10/29(月) 18:00:03.84

コピペ貼るの止めてもらえませんか?

三島のスレは、すべて コピペで埋め尽くされてますよ。

    ↓     ↓

三島由紀夫・過去ログ
http://www.logsoku.com/search.php?query=%E4%B8%89%E5%B3%B6%E7%94%B1%E7%B4%80%E5%A4%AB&category=&order=desc&sort=lastwrite
    ↑     ↑

おかげで どのスレでも、まともな議論が出きゃしない。

これは 一種の 荒らし行為・迷惑行為ですよ。

とにかく、度を越えてるよ。

皆さんは、そうは思いませんか?
0609無名草子さん
垢版 |
2012/11/04(日) 12:58:37.35
いのちより 出ずる言葉の 渚にて 引きゆく潮の たわたわとあれ

村上一郎「末期の瞳――三島由紀夫の屍に寄す――」より
0610無名草子さん
垢版 |
2012/11/26(月) 13:18:24.11
kanikawa_sama
性生活の知恵 謝国権 五関敏之

せやな
0611無名草子さん
垢版 |
2012/12/18(火) 10:15:34.72
どうせなら卑劣な朝鮮系施設を金閣寺みたいに燃やして、その中で割腹すればよかったのに
0612無名草子さん
垢版 |
2012/12/18(火) 20:49:12.69
uni.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1355795789/80
(前略)
民主党政権は大震災のどさくさに紛れて、韓国に宮内庁宝物庫にある膨大な文化財を横流ししていたくらいだからな。
宮内庁に韓国人研究員を多数引き入れて、宝物庫
で韓国が何が欲しいか吟味させて、民主党政権は100点程の文化財を譲渡する予定だったが、
気がつけば2000点以上の文化財が韓国に持ち出される結果に。
宮内庁関係者や日本人の学者もあまりの酷さに民主党に抗議や意見をだしたが、黙殺。
片っ端から持ち出されて、宝物庫の一角が空になるほどだったという。
(後略)
0613無名草子さん
垢版 |
2012/12/28(金) 17:34:06.92
三島文学の好きな所は、登場する女性の全てがどこかエゴイスティック。
しかも、厭らしいエゴじゃなく品がある。
0616無名草子さん
垢版 |
2013/02/10(日) 01:16:21.46
童貞の終わり!とか不倫の終わり!とか終わりシリーズ連発してるエッセイが確かあったけど
コミックス・・いや間違えた、新潮文庫のどの本に載ってたやつだっけ?
0617無名草子さん
垢版 |
2013/02/10(日) 11:21:27.79
終わりの美学ってやつ?
恋愛受講座、行動学入門に載ってる
0618無名草子さん
垢版 |
2013/02/11(月) 19:28:22.15
>>616
ちくま文庫の「新恋愛講座」に収録されてますよ。
0619無名草子さん
垢版 |
2013/04/19(金) 11:39:04.94
成功を引き寄せる男の器量-『三島由紀夫』に学ぶ、あなたが変わる33のヒント-
0620無名草子さん
垢版 |
2013/07/02(火) NY:AN:NY.AN
市ヶ谷自衛隊総監部で三島由紀夫の介錯した後に
自らも切腹し果てた楯の会・森田必勝(22)の
同棲相手(許婚)は”やる気、元気”の井脇ノブ子
三島由紀夫は決行2日前に”楯の会”会員4人(森田必勝、小賀正義、
小川正洋、古賀浩靖)とパレスホテルで最終打ち合わせをした。
三島「森田、お前は生きろ。お前は恋人がいるそうじゃないか」
後の井脇ノブ子である。
今でも井脇は森田必勝の咽喉仏が入ったペンダントを
身につけている
0621無名草子さん
垢版 |
2013/07/16(火) NY:AN:NY.AN
割腹自殺だってwwwwwwwww
こいつ、何時代の人間なんだよwwwwwww
0622無名草子さん
垢版 |
2013/11/25(月) 11:16:59.97
憂国
0623無名草子さん
垢版 |
2013/11/25(月) 21:27:13.16
命日
0624無名草子さん
垢版 |
2013/11/26(火) 22:03:55.01
あれから43年かあ
0625無名草子さん
垢版 |
2013/12/12(木) 21:21:26.52
今の日本は、三島が予言したとおりの国になりさがってしまいました
0626無名草子さん
垢版 |
2013/12/13(金) 20:42:02.06
出版社は編集者レベルで朝鮮系 だから日本人は作家にすらなれない

反論、異論は認めない、というのも現在の文壇のほとんどが 
         朝鮮左翼系だから 
      自虐史観を新聞、テレビと共に
      誰が植えつけてきたか考えよう

気づけよ 日本人!!




もはやすべての文学賞受賞者は 朝鮮人認定式 と成り果てましたな

戦後、出版社が朝鮮人にのっとられてどこの賞も日本人が受賞できなくなった
だから文壇は左翼と反日の巣窟
おまいら、本なんて絶対買うなよ、朝鮮人に貢ぐだけだ

おまいら黙過の代償以下 自虐史観にのっとられた受賞作みてもなにも思わないか?
朝鮮人は一度利権を確保するとレイシストだから日本人には絶対手渡さないぜ
0628婆娑羅 ◆mB5vjmJqME
垢版 |
2013/12/26(木) 10:18:23.31
三島由紀夫が、何故、自衛隊に乱入して 割腹したか?
スライド110枚にまとめて公開してみました。
science-basara.com/column/imperial-family/

私の理解に間違いがないか、ここで教えていただけないでしょうか?
0630無名草子さん
垢版 |
2014/01/07(火) 23:38:10.06
その全集ってめっちゃ古いやつじゃないの?
30年以上前の本をピンポイントに探すのはちょっと
0634無名草子さん
垢版 |
2015/09/13(日) 19:11:20.44
up !
0635無名草子さん
垢版 |
2015/09/22(火) 19:21:40.12
598 :無名草子さん:2012/03/30(金) 21:11:47.03
詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。
0636無名草子さん
垢版 |
2015/10/09(金) 18:01:48.17
153 :無名草子さん:2015/09/13(日)

詩人の高橋睦郎も『西洋古典学事典』を愛読してやまないと聞いた。
納得した。
素晴らしい内容だから。
もしも三島由紀夫が生きていたなら絶賛するだろう。

総合★★★★★★★★★★★★★★★★★★★★
0637無名草子さん
垢版 |
2015/10/11(日) 10:54:39.95
不倫も原爆と同じで繰り返さなければ
いいんではないですか。

三島なら
「いや一度だけだからこそ許せんのだ」とか
いいそうだな。
0638無名草子さん
垢版 |
2015/12/27(日) 07:04:56.44
「音楽煮込み ばっかじゃないの」■ 12/26放送分 市川次郎版 第8回☆漢字廃止論を語るの巻

http://www.hitomi-m.com/ongakunikomi/ongakkunikomi.html

#漢字 #漢字廃止 #日本のローマ字社 #田中克彦 #角川SSC新書 #野村雅昭 #三元社 #三島由紀夫 #吉行淳之介 #安部公房
0639無名草子さん
垢版 |
2015/12/29(火) 22:12:13.51
森田必勝との関係は性的なものだったのかナッ????????????






それとも、肛交を含まぬ69的なものに終わったのでしょうか????????
0640無名草子さん
垢版 |
2016/01/14(木) 22:35:32.87
社会ってのは常に有為転変するものだ。若い連中はそれに合わせて、ちゃんとやっていけるけど、年寄りはそうはいかない。だもんだから「今の若いものは……」なんて批判する。

口で言うだけならまだいいが、伸びる芽まで摘んでしまっちゃ駄目だよね。そうなったら、「老害」以外の何物でもないからね。

そう考えたから、俺は第一線から身を引いたんだ。人間、はじめるよりも終りのほうが大事なんだよ。

本田宗一郎
0641無名草子さん
垢版 |
2016/06/17(金) 13:36:09.85
コラムノフ スノー @masuzu http://twitter.com/masuzu ロリコン 小児性愛者 ペドフィリア 児童ポルノ 中高年 高齢者 独身 派遣 底辺 無職 社会復帰失敗 社会不適合者 老母 婆さん ババア 母親死亡 ももクロ
下を向いて歩こう http://arukou.blog.jp/archives/52574091.html 失業者 貧困 職安 ハローワーク 求職活動失敗 派遣会社とトラブル 逃亡 クビ 解雇 派遣切り 鬱 自殺 老婆 老衰死 ももいろクローバーZ
0642無名草子さん
垢版 |
2017/05/20(土) 21:32:03.00
深川図書館特殊部落

同和加配

人ボコボコぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用
0643無名草子さん
垢版 |
2017/06/23(金) 07:36:57.83
深川図書館特殊部落

同和加配

奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用
0644無名草子さん
垢版 |
2017/06/23(金) 08:34:23.23
深川図書館特殊部落

同和加配

奇声あげて人をボコボコにぶんなぐってもOK お咎めなし
ガキどもが走り回る 見て見ぬふり
公務員による恣意行為
etc

なんのための施設か? →特殊な関係用
0645無名草子さん
垢版 |
2017/07/29(土) 08:30:51.56
蘇れ大和魂!!関東連合・元最高幹部・柴田大輔・暴露本続々発売!
http://userdisk.webry.biglobe.ne.jp/014/287/53/N000/000/007/135838121135013107561_0f984980_20130117090651.jpg
http://i.imgur.com/SaQHSdF.jpg
★惡問」のすゝめ
猫組長/著 沖田臥竜/著 柴田大輔/著
「猫組」有名講師陣による禁断のドリル
〜ヤクザ・暴走族の知られざる実態〜
https://4.bp.blogspot.com/-0n9bKZVWUPs/WGEPtsXUVxI/AAAAAAAAWZM/Ki20IEYWysEfp1_0Gos2Ielxks0_b4MhACLcB/s1600/2016-12-26_213954.png
http://mnote-src.mmm.me/imgs/2/c/h/m/2chmatome/1/510967f8d09b7.jpg
http://blog4.mmm.me/imgs/2/2choutlawmatome/20131130135312_420_1.jpg
http://blog4.mmm.me/imgs/2/2choutlawmatome/20140923114658_198_1.jpg
★惡問」のすゝめ 発売日:2017年07月21日
https://www.amazon.co.jp/dp/4198643288
ttp://www.tokuma.jp/bookinfo/9784198643287

★Black Flower「〜関東連合のいびつな絆〜」
柴田大輔完全監修により、「渋谷、新宿、六本木」 夜の街のリアルな裏事情にメスを入れた問題作
ttp://konomanga.jp/manga/blackflower
https://images-na.ssl-images-amazon.com/images/I/81jIggnxkVL.jpg

著/柴田大輔
★『聖域』 関東連合の金脈とVIPコネクション
https://www.amazon.co.jp/%E8%81%96%E5%9F%9F-%E9%96%A2%E6%9D%B1%E9%80%A3%E5%90%88%E3%81%AE%E9%87%91%E8%84%88%E3%81%A8VIP%E3%82%B3%E3%83%8D%E3%82%AF%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%B3-%E6%9F%B4%E7%94%B0-%E5%A4%A7%E8%BC%94/dp/4800233097

著/関東連合元最高幹部 柴田大輔
★酒鬼薔薇聖斗と関東連合~『絶歌』をサイコパスと性的サディズムから読み解く
http://mb-7net.omni7.jp/omnifp/mcp-7net.omni7.jp/detail/1106698325
★柴田大輔ブログ
http://ameblo.jp/kudouakio/
★柴田大輔(元関東連合/最高幹部)twitter
https://twitter.com/kudouakio
★R―ZONE(アールゾーン)http://r-zone.me/
0646無名草子さん
垢版 |
2017/11/24(金) 18:21:43.73
0647無名草子さん
垢版 |
2017/11/24(金) 18:26:45.90
明日は憂国忌
0648無名草子さん
垢版 |
2018/01/12(金) 10:59:32.56
一般書籍よりもおすすめてきにネットで得する情報とか
グーグル検索⇒『稲本のメツイオウレフフレゼ

0UH9L
0649無名草子さん
垢版 |
2018/01/15(月) 18:58:17.26
今日は深夜番組で三島由紀夫ネタの番組あるし
ファンは見るのかな
0652無名草子さん
垢版 |
2018/05/12(土) 20:13:07.24
※元山口組二次団体最高幹部“極道作家”沖田臥竜が描くリアルアウトロー書籍!
『絶賛好評発売中!』

【沖田臥竜(おきた・がりょう)とはいったい何者なのか?】
※元山口組二次団体最高幹部/作家。兵庫県尼崎市出身。76年生まれ。元山口組二次団体最高幹部。
所属組織の組長引退に合わせて、ヤクザ社会から足を洗う。
以来、ネット媒体、新聞、書籍などで作家として執筆活動を始める。
ヤクザに関する多数の記事をウェブサイトや週刊誌、夕刊紙などに寄稿しており、書籍も発売している!
http://biz-journal.jp/2018/03/post_22732_3.html
http://r-zone.me/2018/05/post-2210.html

【沖田臥竜 / 著書】
★『生野が生んだスーパースター文政』
※インターネットで話題の小説がついに単行本化!
これがリアル大阪裏社会だ!
ヤクザ、半グレ、詐欺師に盗っ人大集合!⇒ https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4866250704/ref=mw_dp_sim_ps4
★『尼崎の一番星たち』
※デビュー作「生野が生んだスーパースター 文政」を超える快作が誕生!
ディープすぎる街、兵庫県・尼崎を舞台に、常識破りのアウトローたちが織りなす群像劇!⇒ https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4866250968?qid=1516180083&;ref=aw_d_ol_books&sr=1-1
★『2年目の再分裂』“「任侠団体山口組」の野望”
※「核弾頭」「秘密兵器」と称された織田絆誠元若頭代行らが突如組織を離脱、新団体を立ち上げた!
山口組二次団体の最高幹部だった作家・沖田臥竜が、内部情報を元に任侠団体山口組の野望を追跡!⇒ https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4866250917/ref=mw_dp_sim_ps4
★『惡問』のすゝめ 「猫組」有名講師陣による禁断のドリル ~ヤクザ・暴走族の知られざる実態~
※ヤクザの起源から暴力団への変容を歴史的背景から解説!
暴走族と関東連合など半グレと呼ばれる、新しい不良集団の実態についても詳しく解説!⇒ https://www.amazon.co.jp/dp/4198643288
★沖田臥竜 Twitter
https://twitter.com/garyookita
https://twitter.com/pinlkiai
http://twitter.com/4649okita
★沖田臥竜 blog
http://ameblo.jp/ts217ts217/
0653無名草子さん
垢版 |
2018/05/29(火) 17:08:20.68
AP6FA
0654無名草子さん
垢版 |
2018/06/24(日) 05:22:19.12
ゲイ
0655無名草子さん
垢版 |
2018/08/19(日) 19:19:23.18
ホモ
0656無名草子さん
垢版 |
2018/09/07(金) 11:20:54.40
あの、最後・・・
うんこですね
0657無名草子さん
垢版 |
2018/09/09(日) 09:16:34.24
ほんとに気持ち悪い作家でしたね
あんなバカバカしい芝居をやって。世界中に恥を晒しましたね
0658無名草子さん
垢版 |
2018/09/15(土) 08:33:53.36
気持ち悪くなる男
0659無名草子さん
垢版 |
2018/09/19(水) 09:14:11.19
裸するとアホみたいな面になるよ
0660無名草子さん
垢版 |
2018/09/20(木) 23:38:45.77
※元山口組二次団体最高幹部“極道作家”沖田臥竜が描く“最新刊”新ノワール小説!

★『 死 に 体 』 ((単行本))

※ 全国書店にて絶賛発売中!書店店頭お取り寄せも♪ ※

https://www.amazon.co.jp/gp/aw/d/4846204243/ref=mw_dp_img?is=m&;qid=1532579416&sr=1-1

『沖田臥竜氏からいただいた、本書(死に体)に際してのコメントです。』

「今から十数年前。場所は塀の中の独居房。果てしなく続く孤独と対峙しながら、書き始めたのが本書である。
私がもう一歩人生を踏み間違え、受刑囚としてではなく、死刑囚として収監されていれば一体私は何を考えて、
日々をただ死刑台に上がる為に暮らしていただろうか、という所に焦点を合わせた。幸いにも、取材対象となる刑務官は目の前に沢山いた。
そうした境遇で書き続けた本書は、社会へと持ち帰り、そこから更に何年も筆を入れ続けた。
死刑囚といえば誰しも凶悪犯を連想させ、逆に言えば凶悪犯でなければ、どれだけ死刑を望んでも死刑を言い渡されることはない。
そうした死刑囚にも法廷で見せる姿以外の日常があり、喜怒哀楽が存在している。
本書の主人公は、目前の死に翻弄されながら、それでも生へと執着し続けていく。
もう振り返ることしか叶わない日常で、失うものしかない現実で、後悔に苛まれながらも、去来する想いに抗い続けているのである。
シリアスの中にクスッとした笑いが生まれ、最後にしんみり涙を流して頂ければ、書き手冥利である。
死刑を題材に主人公にスポットをあて、小説だからこそ描けた部分を見て頂きたい。」

〓 内容紹介 〓
死刑宣告を受けた元ヤクザ・伊丹杏樹。彼のすさんだ人生は、処刑台に上がるまでのたった3年あまりで大きく変化することになる。
社会から隔絶された空間で「死に体」なった死刑囚に何が起こったのか?――。
12年もの獄中生活を経験した著者(沖田臥竜氏)だからこそ書けるリアルな獄中風景と心理描写、アングラ社会の実態、そして、愛や絆の尊さ……
最期に放たれる「母からの言葉」と「遺書に込められた想い」に涙すること必須の感動作!
命を以って、罪を償う。決断した男に去来した想いとは―――。
★沖田臥竜 Twitter
https://twitter.com/pinlkiai
https://twitter.com/garyookita
★沖田臥竜 blog
http://ameblo.jp/ts217ts217/
https://twitter.com/5chan_nel (5ch newer account)
0661無名草子さん
垢版 |
2018/09/21(金) 20:08:14.67
モーホー
0662無名草子さん
垢版 |
2018/09/25(火) 20:49:55.91
三島由紀夫の声、ルー大柴の声に似てる。
0664無名草子さん
垢版 |
2019/06/22(土) 20:31:01.70
>>662
三島由紀夫は発声も作っていたんだよ。
彼の公けに発する声は「作り声」だ。
0665無名草子さん
垢版 |
2019/06/27(木) 11:37:32.48
いやぁだね〜
三島由紀夫は人造人間だったんだ
0666無名草子さん
垢版 |
2019/06/29(土) 10:57:36.47
つまらない顔してるな、
体も汚いし
0667無名草子さん
垢版 |
2019/07/10(水) 20:00:02.89
首都圏の水源にトイレ等の汚水を毎日1万トン・15年間に渡って
 垂れ流していた事実が判明。
://hayabusa3.2ch.net/test/read.cgi/news/134553
0668無名草子さん
垢版 |
2019/11/21(木) 15:04:46.24
潮騒いいね
0669無名草子さん
垢版 |
2019/11/21(木) 19:46:54.53
彼は書いたものだけだ
肉体とか他の趣味とかは話題にしない
0670無名草子さん
垢版 |
2020/03/13(金) 06:14:51.31
天才的な言葉の組み立てがてきる素晴らしい作家ではあるけど、その一方で自分の性癖にとてつもない劣等感と、それを言葉で武装してるただの嘘つきの馬鹿にしかみえない
0673無名草子さん
垢版 |
2020/03/18(水) 03:39:36.32
>>670
実体はおばあちゃんっ子の甘ったれでなまっちろいヒョロガリだからなあ・・・
大和魂!とかいいながら自宅はギリシャ神殿みたいな西洋風の白亜の城で、
庭に西洋風の噴水とかアポロンの彫像みたいなのがある
言ってることとやってることが違いすぎんだろと
0674無名草子さん
垢版 |
2020/03/18(水) 23:39:06.51
>>673
それを晒すのが文学ってやつなんだろうか
だったとしたら学って程のもんじゃない
0675無名草子さん
垢版 |
2020/05/04(月) 20:10:01.22
単なる政治オナニストのキチガイ
ま、文学的にもゴミ
みっともない死にざまで笑った
0676無名草子さん
垢版 |
2020/05/04(月) 20:13:03.30
何を気取ったのか知らないが腹切り
こいつなんか腹切っても誰も相手にしない
まさにリアルキチガイ以外の何者でもない日本の歴史に残るお笑い馬鹿
0677無名草子さん
垢版 |
2021/05/28(金) 11:18:39.35
演説後、取り押さえられて何者かに自殺に見せ掛けて殺されたのが真実
0678無名草子さん
垢版 |
2023/03/26(日) 23:35:22.65
学生が割腹自殺したらしいが根性あるな・・・
0679無名草子さん
垢版 |
2023/06/09(金) 14:20:01.70
三島の作品・思想・最後の行動は分けて評価してほうがいいと思う
すべてに同意できる人はあまりいないから
思想を理解したとしても、最後の行動は謎が多い
0680無名草子さん
垢版 |
2023/06/20(火) 15:46:57.65
○『天使が通る』

- ouiさん
2020.04.01
批評家浅田彰と小説家島田雅彦の対談集。

話題はダンテにはじまり、ニーチェ、フーコー、ミシマ(三島由紀夫)、ヴィム・ヴェンダースに終わる。

とにかく、二人の噛み合ってなさがすごい。しかしどうも、企画の段階から、その噛み合わなさを狙っている節も見受けられる。島田雅彦の突っ走りっぷりにヒヤヒヤさせられる。

やはり本書の佳境はミシマ論だろう。
十代の頃から、ミシマの薄っぺらさを、特に『金閣寺』に対する生理的な嫌悪とともに繰り返し再確認してきたけれど、
そして特に、横尾忠則の、無駄に紅茶の上に浮いている金箔みたいな滑稽なミシマ像を気に入ってきたのだけど、浅田彰の指摘を得てハッとさせられることがあった。
確かにだった。自分もミシマの知性には確かに感心していたのだった。なのにどうしてあそこまで悪趣味、しかも陳腐で悪趣味なのだろう。彼の切腹(直接には知らないが)もしかり。
それが長年の疑問だった。
ところが、浅田彰のいうようにあれがあえての悪趣味だったとすれば……。だとすればその複雑さをもう一度考え直す必要はある。うーむ、嫌だけど、晩年の連作をいよいよ読むべきなのだろうか……。
「嫌いの力」はある意味すごい。
.https://i.imgur.com/Eyxuq6y.png
0682無名草子さん
垢版 |
2023/07/11(火) 09:57:12.26
8日早朝、佐賀市の道路脇で遺体で見つかった女性は福岡県内の高校生と分かりました。警察は自殺とみています。
午前6時ごろ、佐賀市鍋島町森田で「女性が倒れている」と近くの男性から110番通報がありました。
女性はその場で死亡が確認され、腹部に刺し傷があり、現場から刃物が見つかりました。
その後、所持品などから福岡県内に住む高校生と確認されました。現場の状況などから、警察は事件性はなく自殺とみています。
https://news.yahoo.co.jp/articles/7d6a4871c17d45881c2fbc3315ca489068dad430


三島なぞ目じゃない!
介錯無しでハラキリ自殺を遂げた少女
0683無名草子さん
垢版 |
2023/07/11(火) 11:26:07.98
まみむめ三島

はひふへ腹切り
0685無名草子さん
垢版 |
2023/08/09(水) 18:55:17.80
こいつの小説はクソつまらん
現代では通用しない
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