伏見 今、ゲイを取り巻く状況はゆるくなってるわけでしょう。みんなゲイだから一緒になにかをやろうっていう雰囲気でもない。今後、どうなっていくと思いますか。
斎藤 今は個人戦に入ってるところがある。でも自分も『バディ』のように他の人に伝える場では、今言ったような興味をそそることは念頭には置いているんですけど。
伏見 同性婚の問題にしても当事者からの要求の声ってほとんどないじゃないですか。それは雑誌の場にいて、どう思いますか。
斎藤 盛り上げ方が難しいかなっていう感じですね。雑誌としてはムーブメントが作れたらステキなわけでしょう。
それが最終的にゲイ的にも価値があることならばなおさらいい。でも商業誌としてはまずその話で盛り上がれるゲイの共通の話題が提供できるかどうかのほうが重要だと思うんですよ。
同性婚の話が盛り上げられれば、ゲイにとって確実にいいものもくっつくから、大手を振ってできますよね。
ゴメオなんかは流行ってるものとして商業誌的な立場で紹介したんだけど、すごいダークなイメージになっちゃって、イヤなものもくっついてきた。
どっちにしても旬のネタを素直に取り上げたい、それをいち早く伝えておきたいということは雑誌的な考え方としてすごくある。
同性婚がうまくいけば、『バディ』が紹介したことが良かったなと自分でも思えるのに、ゴメオみたいなものはどんどん勝手に広まっていくのに、同性婚は広まらない(笑)。
伏見 最後に、斎藤さんにとって、「ゲイ」とはどういうこと?
斎藤 自分、親戚とかまったく気にならないし、母親のことも好きだけど2年に一度会えばいい。出身校も郷土もどうでもいい。
つまり、自分にとってのアイデンティティはほとんど「ゲイ」なんです。最近ちょっと「エロ」にも揺らいでますが。
東京で生まれ変わって、幼児のようなブルを大きな愛で包んで育ててくれたのが、同居人のおまこさん。
ゲイネットやったり、女装やったり、雑誌の仕事をしたり、狂ったようにそのためた気合いを放出できた場も「ゲイシーン」。
恩師とかも「女子バディ部の鬼キャプテン=マーガレット様」「気にかけていろいろ勉強になる場所に連れてってくれる近所のおばさま=伏見先生」
「ちょっとうちの喫茶店で働いてみない?と言ってくれる親戚のおばさま=タックさん」「かわいがってくれる、時々すごい怖い元気な家長のおばあちゃん=うちの社長」……と、
ゲイ業界とかゲイシーンにこだわっている人には「血」のような親近感を感じるんです。
僕は最初のレインボー祭りの花火が見られた時点で、いったん「イキ終わって、倦怠感を感じた」んです。
今は受精の責任をとって結婚=テラ出版に入社して、残る課題に向けて、かなりロクデナシではあるが親心のようにゲイシーンに何かを伝える義務感を感じているところです。
伏見 どうもありがとうございました!