恐怖は慣れると言っていろいろなタイプの敵を出すべきだという理屈で作っている今の人間の思い込んでいる恐怖観で作られたゲームは
一言でいうと、主人公側が敵を一方的にやっつけ続けるゲーム

おぞましい世界を進む事になる孤独な主人公として、たった一人の人間側の登場人物が主人公で、主人公を脅すための敵には色々なまさに様々な種類が用意される
たった一人の主人公が孤独におどろおどろしい空間を一人で進み
たった一人の主人公が様々な敵からの様々な脅しを順番に体験する仕様
これらの敵は次々出て来ては、それぞれ実にショッキングな行動や奇行をとる
この脅しをもって恐怖だと言ってる

おどろおどろした世界観にたった一人迷い込んだ人間が主人公
主人公が孤独におぞましい空間を進んでいると
敵Aが登場するが一通り脅した後すぐ主人公に殺されて、タイプBの敵が登場
Bの敵も慣れる頃にすぐ殺されて、その後C登場・・・
と一人の人間に次々新たな敵が登場しては主人公にやられる構図
敵は誰も主人公を止められない構図
本来の恐怖の構図はその逆
人間側は主人公とその仲間を含め多数登場
敵は恐怖の対象たった一人
人間側の登場人物は何の手立てもないまま、恐怖の対象たった一人によって次々が犠牲になる構図

人間側が日常世界に暮らしていると、日常にとっての異物が恐怖の対象として登場して、登場人物@がまず殺され、次に登場人物Aが殺害される
Bもやられ・・・
と人間側が一人の恐怖の対象によって次々虐殺される構図
人間側はそれを止められないままどんどん犠牲者だけを増やす構図
(解決編でたった一人だけ生き残った主人公によって奇跡的にやっとのやっとそれを止められる)

と正反対

そして何故今の人間はこれが分からないのか?
また、何故今の人間はこの違いを何度「今の作品は映画もゲームも全然恐怖がない」と指摘され続けているのに理解しないのか?

まるで違うはずなのだけど
何故か原点回帰を謳っている
どれだけ様々なショッキングな物をプレイヤーへぶつけるか?
こういう理論でしか作れない
何故だろうか