『滅びの園』は言語感覚が実に繊細で丁寧だと感じた。
ひとつ取り上げると、プニ対に所属してプーニー駆除で茨城に向かった私=相川聖子から見た物。
宿所でラブホテルがあてがわれ「なんとその宿泊所は、(中略)いわゆる「ラブホテル」だった。」「目を向けると地デジ以前のテレビ(薄くないやつ。しかも映らない)」

ラブホテルなんて知っている、十三歳が行くところでないのも知っている。しかし、少し後で父親が亡くなってこうだ。
「ピザをもって帰ってくる男だった。古いレコードをかけてぼんやりしているのが好きな男だった。」
レコードは父が愛用していたから知っている(あくまで知っているだけ)。
父の世代なら同じテレビも「今時ブラウン管なんやて」と呟いたかも知れない。
ところが初見で興味がない物には「地デジ以前のテレビ(薄くないやつ)」と来たもんだ。まだ子供だからムラなく知ってる訳じゃないんだ。
同じく事象や兵器武器も、レクチャーを受けたものは仔細に書いて、そうでないものは大ざっぱ。
後部の三十九を迎える“セーコ“の方が簡単な言い回しで、前半ほど小難しい単語を使いたがるのは多感な時期だからなのか。
そして、父の死に興味がわかないのも、山田夫妻の死に様と後追いを多感な時期に見たせいだからなのか。

プロの作家でもこの当たりは勢いに任せて筆を滑らせる人も多いと思う。
しかし野夏が鈴上を引っかける手練手管もごくごく簡単だけど、確かにその筋の作家らしい見事な仕掛けになってる。
五十を過ぎた甘ったれ、事が済んでから「金は?元ヨメは?」(テメーあっちでセクロスしてたやんけw)と聞き、なぜか尊大で悪態をつきまくる鈴上も決して憎めない。

全体を通すとブヨブヨで捉えどころがないのも惜しいが、これを『幽』なんてどマイナー誌面に載せたKADOKAWAの編集が最大のミステリーだ。