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お前らの心に響いた言葉書いてけ
0036名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/24(金) 18:22:43.89ID:yCmxaUO5
誰かに都合の悪いことを平気で言うので、排除されまくって、
ほとんどどこにも書き込めなくなっているが、いずれ
ここからも排除されるのだろう。
0037名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/24(金) 18:40:27.61ID:yCmxaUO5
言語が異なれば、当然、発音が想起させるイメージの体系的な使い方も
違う、というより、その違いが大きいことが、言語を互いに異なる
ものとしてその境界を保つことに役立っているわけだが、それでも、
発音の用い方は、まったく互いに無関係であると考えてられている
言語同士の場合でも、よく似ていることが少なくなく、言語表現を
解釈しようとするとき、その類似性を無視しようとすべきではない。
0038名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/25(土) 08:47:50.01ID:I7MV9LBI
通常、言語と呼ばれているものは、表現を体系的に合理化しながら形成して
使うことの実践であり、表現しようとする行為に先立ってあらかじめ
その体系的な合理化が規定されているわけではない。
0039名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/25(土) 08:50:15.28ID:I7MV9LBI
言語表現を適切に解釈しようとするのに、生成文法のカテキズムを習う必要
などさらさらなく、学問の世界であれ、信仰の自由は建前上は保証されている
のだから、そんなものの学習は、入信希望者だけにやってもらえばいいのである。
0041名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/25(土) 11:13:55.05ID:I7MV9LBI
名前を頼りに物事を考えることを優先するような思考法を批判しているんだが?

例えば、「日本語」について考える場合、古代に遡れば、「日本」は国として
成立していないのだから、「日本語」と呼べるものは存在しない。では、
「日本語の古代」については何も語ることができないのか。そんなことは
ない。なぜなら、現代の「日本語」が、「中国語」として成立することに
なった言語表現の実践を継続的に活用してきたことは明らかだからだ。
そこで私も、「日本語」は、「中国語」の表現を流用することによって
成立していると表現するわけだが、ここで、その便宜上の言い回しから、
既に成立したものとしての「中国語」の存在を前提として想定してしまう
ことも、当然、誤りである。探索の手段として、現代の「日本語」から
「中国語」の表現をたどり、そこから、どのような言語表現を流用した
のかをリバース・エンジニアリング的に推測しているのだから、
そのプロセスにおいて、「日本語」、「中国語」という名称で
指し示される言語体系の規範化の実体の存在を想定しようとすること
そのものが誤っている。
0043名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/26(日) 12:29:58.52ID:doZL2OC7
一見、もっともらしいことを言いながら、探求を阻害する手法という
のは確立されていて、例えば、「日本語の古代」について研究する
ことを提案したとすると、研究の対象とする「古代の日本語」を
まず明確に定義し、その対象を研究する目的を明示できなければ、
研究を開始する許可は与えられない、といった類のものだ。しかも、
そのような要求を、研究を推進するという表向きの制度的な立場
から権限を握ったうえで、それを受け入れるか、拒絶するかの
二者択一でつきつける。「古代の日本語」などというものは存在
しないので、当然、要求を受け入れたなら、自己矛盾に陥って
探求を進めることはできず、その要求をナンセンスなものとして
拒絶したなら、許可を受けて探求することを断念することを
迫られ、許可されるか否かにかかわらず探求を進めようとする
なら、反抗的な態度を非難し反省を迫り、人格攻撃をする。
「日本語の古代」というのは例に過ぎず、この手法には
汎用性があり、どのような研究に対しても用いることができ、
意図的に行われているので、無視して勝手に探究をする以外
に逃げ道はない。
0045名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/27(月) 08:33:25.42ID:+knF8js5
私は囚人扱いされるのは御免だが、それは看守になりたいということではない。
そしてそのことにこそ、看守として重要な役割を任せられていることを自負して
いる人々は、自らの価値を蔑ろにされていると感じるのだろう。
0046名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/06/28(火) 07:25:58.46ID:ACAyb1x+
屋根の「野地(のぢ)板」、山の「稜線」

「壟」と「陵」の漢字がともに小高くなった墳墓を表現のに用いられること
からも分かるとおり、「壟」、「隆」、ならびに「夌」を用いる、日本語にも
取り入れられている「稜/陵/凌」などの表現は、発音もそれが用いられる
用法も互いに関連しており、その互いの関連性は、日本語においても反映
されている。そのことに気づきにくくなっているのは、これらの表現の
語頭が漢字においては、"l"で発音されるのに対して、それが流用されて
日本語として取り入れられる過程で"n"に移されているからである。
0047藻塩
垢版 |
2022/06/28(火) 08:38:07.80ID:ACAyb1x+
「塩(しほ)」は、云はば、"exfiltration"の結果であるわけだが、それを表す
言葉が、「喜びも一(ひと)入(しほ)である(≒"all the more infiltrating")」と
表現される場合のように"infiltration"を表す「入(しほ)」と同じ言葉である
こと自体、「しほ」がもともと表現しているのが、"exfiltration"としても、
"infiltration"としても限定されるものではなく、《s'infiltrant》と表現する
ことができるような再帰的な作用の効果であることを示している。そして、
その再帰性を担っているのが、「しほ」においては、「〜ほ」という活用形
として現れている「〜ふ」である。「しほ」は、「しほり」という表現に
「湿(しほ)り」という漢字が当てられることにも表れているとおり、当然、
漢字の「濕(Middle Chinese: /ɕiɪp̚/)」や「隰(Middle Chinese: /ziɪp̚/)」
に関連していると考えられるわけだが、本当に検討されなければならない
問題は、ここからだろうと思う。
0048名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/02(土) 09:03:42.51ID:7jRCvYlj
何がそんなに都合が悪いのか知らないが、不明な理由でほとんどの掲示板から
書込み規制で無期限に完全に排除されて、書き込める場所がほぼ無くなっている。
0049名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/06(水) 09:46:58.11ID:RSY1z00W
言語表現の意味をリバース・エンジニアリング的に推測するとか、物事を
非物象化して考えるとか言うと、何かよく分からない、雲をつかむような
話だという印象を受けるかもしれない。しかし、これは、実際に
具体例から考えてみるなら、特に難しいことを要求しているわけではない。
例えば、「壟」とは何かという問ひに対して、Wiktionaryを参照すると、
その英訳として、この漢字が中国語においては、"grave"、"mound"、
"raised path between fields"、"ridge"を表現するように用いられると
いう答えが示されている。ところで、これらは、すべて物象化された
答えである。つまり、「壟」が「何」を表現しているのかがそれぞれの
用例において「分かり切ったモノ」として提示されていることになる。
0050名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/06(水) 10:07:39.66ID:RSY1z00W
そこで、「分かり切ったモノ」として提示される答えに対してリバース・
エンジニアリング的に推測を働かせて、「壟」を非物象化して考えてみると
どうなるだろうか。それは、例えば、「壟」≒"a mound"という物象化された
一つの答えを足/手がかりにして、それを逆物象化して、
「壟」/"a mound"⇒"to be in a mounting position"という推測を働かせ、
「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみること
である。そして次に、そのように想定することが実際にどれだけ有効で
あるかを確かめてみるために、今度は、この想定から、既に
「分かり切ったモノ」として物象化されて提示されている"grave"、
"mound"、"raised path between fields"、"ridge"としての用例を、
発展的な組織化、すなわち、流用によって派生させることができるか
どうか、そのような派生が自然に導き出されるように感じられるかどうか
を問ひ直してみるのである。
0051名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/06(水) 10:30:31.12ID:RSY1z00W
無論、この逆物象化のプロセスにおいては、
「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみること
事体が暫定的であり、確実であるものと規定され得る出発点も、
必然的に導かれる到達点もない。したがって、この想定は、それが発展的な
組織化を派生させるのに有用/有効でないのなら、反証によって否定される
までもなく、自ずと放棄されることになる。逆に言えば、この想定は、
それが発展的な組織化を派生させるのに有用性/有効性が認められる
限りで、暫定的に正しい想定として保持され、利用される。
0053名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/06(水) 10:55:24.46ID:RSY1z00W
料理における「隠し味」/《un agent infiltré》としての塩(しほ) は、
舌に対して食べ物の素材そのものがもつ味を引き出す/際立たせる。
0055名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/07(木) 08:29:47.45ID:ONGQfs5g
>「壟」と「陵」の漢字がともに小高くなった墳墓を表現のに用いられること
からも分かるとおり、「壟」、「隆」、ならびに「夌」を用いる、日本語にも
取り入れられている「稜/陵/凌」などの表現は、発音もそれが用いられる
用法も互いに関連しており

>「壟」≒"to be in a mounting position"ではないかと想定してみる

以上の2つのことを前提とすると、例えば、「しの(凌)ぐ」という日本語の
表現に当てられるように用いられてている漢字である「凌」によって
表される中国語の表現は、それを流用していると考えられる日本語の表現
とともに、リバース・エンジニアリング的に考えて英語で記述するなら
"to surmount"に相当するものと解釈することができるだろうという
推測がもたらされる。すると、「凌(Middle Chinese: /lɨŋ/)」/「しのぐ」/
"to surmount"という関係性において、「し『の』ぐ」の「の」が
"/lɨ(ŋ)/"に対応するイメージを想起させているものと推定されること
になり、そこからすぐに、では、「しの(忍)ぶ」の「の」はどうなのか
という疑念が思い浮かぶ。
0056名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 08:50:56.43ID:ONGQfs5g
「しの(忍)ぶ」の「〜ぶ」は、当然のことながら(といっても標準的な国語学
の説明においてではなく、私が勝手に提示する解釈においてだが)、
再帰表現を形成する「〜ふ」であり、メタ言語的な「ひっくり返し」の
指示である。ところで、「凌」をWiktionaryで参照すると、その定義
として"to place oneself above; to override; to transgress,
alt. forms: 陵"と記載されている。ここで、"to place oneself above"
は、私が提示した"to surmount"にそのまま対応するが、
それが日本語の「しの(凌)ぐ」という表現にもうまく対応している
と考えるなら、これを"oneself"との関係において「ひっくり返す」
なら、"to have 〜 over oneself"となり、これは、
そのまま「しの(忍)ぶ」にうまく対応するのではないだろうか。
リバース・エンジニアリング的に考えるとは、このようにして
生じる想定のネットワークを確定した事実として認識することではなく、
絶えず試行錯誤する立場から捉え直すことである。そうすることで、
既に与えられた規定に従ふ/従はせるという狭量な姿勢から、
与えらているモノゴトをどのように活用できるのかを探求する
積極的な姿勢への転換が生じる。
0058名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 13:12:31.79ID:ONGQfs5g
>>56
ここで私は、「しの(凌)ぐ」を"to place oneself above"に対応するものと
見做して、「しの(凌)ぐ」と発音的に重なる「しの(忍)ぶ」を、その
「〜ぶ」という表現の形式から判断して、"to place oneself above"を
単に"oneself"に関してひっくり返すことにより、"to have 〜 over oneself"
を「しの(忍)ぶ」に対応させることができるのではないかと示唆した。

そのような誰によってもその正しさ保証されていない勝手な操作に
よって導かれた結果にいくらかでも有用性/有効性が認められるかどうか
は、実際に、「しの(忍)ぶ」≒"to have 〜 over oneself"というような
捉え方が役に立つかどうかを試してみることで知ることができる。
0059名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 13:21:50.64ID:ONGQfs5g
例えば、「〜するのは『忍びない』」という言い方がある。この場合、
「忍びない」とはどのような意味だろうか。ここで、「忍びない&英語」
で検索してみると、研究社 新和英中辞典での「忍びない」の英訳
として、
>…するに忍びない
do not have the heart to do
be reluctant [not willing] to do
cannot bring oneself to do<
という訳例が示される。しかし、これらの訳例は、私にはどれも
「忍びない」という日本語の表現をうまく伝えているようには
感じられない。そこで、私自身が示唆した「しの(忍)ぶ」≒
"to have 〜 over oneself"という捉え方を利用してみると、
私には、"cannot have 〜 on my conscience"という英語の
慣用表現がすぐに思い浮かび、こちらの方が、私には「忍びない」
の伝える感覚によく合っているように思える。そして、私には
そのように思える限りにおいて、この捉え方は、少なくとも
私には役に立っていると言える。
0060名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/07(木) 20:17:47.72ID:ONGQfs5g
>>59
誤解のないように補足すると、私には、"cannot have 〜 on my conscience"
という英語の慣用句が、「忍びない」という日本語に似たような感覚を伝え
ていると思われると言っているのであって、この2つの表現が互いに直接に
対応関係にあると言っているわけではない。「忍びない」の「ない」は、
普通に解釈して、否定の「ない」ではなく、程度の甚だしさを表現する
「ない」である。それが英語の通常の表現として通用するかどうかという
ことを無視して、記述的なメタ言語として英語を利用して、
「しの(忍)びない」という表現そのものとの対応関係を伝えようとする
なら、私は、"it is too much subduing of onself (to do 〜)"のような
記述をすることになるだろう。ただし、このように記述しても、
それがやはり、"subdue oneself"が、"to place oneself above"/
"surmount"を「ひっくり返す」ことによってもたらされることを
見てとることができるだろう。
0061名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/08(金) 08:59:38.03ID:GBBLJ0P6
ところで、このような反転操作をしてみると、「しの(凌)ぎ」/"surmounting"
として表現される作用は、自己/"onself"の立場を「ひっくり返して」みると、
「しの(忍)び」/"subduing (of oneself)"の作用として捉えることもできる
ものと解釈され得る。ここで、私が、中国語で「壟」として用いられている
表現の流用であるとして指摘した日本語の「野(の)」に戻ると、
岩波古語辞典に、
>日本書紀に「奴」と表記し、また、万葉集に「奴」と書いた例もある
ことが指摘されている。すると、(例えば、「野(の)」を越えて行くような)
「しの(凌)ぎ」/"surmounting"の作用も、その作用を捉える自己/"onself"
の立場を反転させるだけで、「しの(忍)び」/"subduing (of oneself)"の
作用として捉えられるのだから、日本書紀や万葉集に「野(の)」が「奴」
と表記される場合、「奴」は、やはり"subduing (of oneself)"の作用を
想起させた、すなわち、「奴」としての「野(の)」は、「山に『の』された
ようななだらかな地形」をイメージしたものではないかと思える。
0062名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/08(金) 09:04:31.64ID:GBBLJ0P6
ちなみに、Wikitionaryで「奴」を参照すると、この表現の次のような解釈が
記載されている。

>Unger (1990) groups 奴 (OC *naː) as well as 努 (OC *naːʔ) &
弩 (OC *naːʔ) in a word-family with the basic meaning "tense",
hence "press into service".
0063名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/09(土) 12:03:25.96ID:U5PMkG4x
私は中国語を知らないし、漢文も読めず、そのように説明されている
例についても知らないが、「砂上の楼閣」や「空中楼閣」の
「楼/樓(Middle Chinese: /ləu/)」も、この表現の発音が
"surmounting"の作用を想起させることから派生しているので
はないかと思える。
0064前方後円墳
垢版 |
2022/07/10(日) 09:09:06.50ID:i59ifCCR
髑(どく)髏/顱(ろ)

方趾円顱 ほうし−えんろ
天と頭はどちらも丸く、大地と足はどちらも四角いために、
人と天地が似ているものであると、古代中国では考えられていたということから
0065名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/10(日) 09:14:40.05ID:i59ifCCR
中国語としての表現:壟/陵/楼/樓/髏/顱 ⇒ 日本語としての表現:
"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用としての「の(野/埜)」
0066名無しさん@お腹いっぱい。
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2022/07/10(日) 14:05:09.31ID:i59ifCCR
ちなみに、これらの壟/陵/楼/樓/髏/顱の中国語の中古音として想定される
語頭の"l"の発音は、「上代の日本語」と同様に語頭に「ラ行」の発音が
来ない朝鮮語においても、"n"の発音に移される。
0067名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/11(月) 11:45:12.68ID:wWFxI/rL
>>64-66
「頭蓋骨&中国語」で検索すると、白水社の中国語辞典で「頭蓋骨」を
引いた結果がヒットし、「颅(顱)ピンインlú」と記載される。

このように見てくると、人の頭部を覆う部分が、それまでは何の関係
もないものとして認識していた、一般には「〜陵」として表される
前方後円墳の後円部分や、自然の風景としてある野(の)に類似したもの
として、にわかに共通のイメージで捉えられて想起されるようになる。
0068名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/11(月) 19:54:10.63ID:wWFxI/rL
>>65
>中国語としての表現:壟/陵/楼/樓/髏/顱 ⇒ 日本語としての表現:
"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用としての「の(野/埜)」 <

日本語の表現として用いられるようになった「の(野/埜)」がどのような表現
であるのかをイメージするのに、フランス語の次のような慣用句も参考になるだろう。

>faire le chien couchant
>Fig. et fam., Faire le chien couchant auprès de quelqu'un, Le flatter,
tâcher de le gagner par des soumissions basses et rampantes.<
0070名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/12(火) 09:34:02.57ID:DvjsMjru
記号論を提唱したパースは、記号を単なる所与としてではなく、記号の生成に
おいて自ずと進化するものとして捉えていた。記号が進化するというのは、別に
オカルト神秘主義的な考えではない。例えば、上の一連の考察は、中国語の
表現としての「壟」(として使われれるようになった言葉)が、日本語において
「野(の)」として流用されているという認識から始まっている。しかし、
なぜそうであると考えられるのかを問ふことによりもたらされるのは、
単に中国語の中古音の"l"が日本語では"n"に移され、語末の子音が消滅して
"long"に近いような発音が想定される中国語の「壟」が日本語の「野(の)」
に変化して、「壟」→「野(の)」となったという結論ではない。
問ひに適切に応えようとする過程において、どのように考えれば
「壟」と「野(の)」が互いに適合するようになるのかが探られて、
そのことによって「壟」と「野(の)」のいずれの捉え方にも進化的な
変化が(その過程を追想するものとして)生じているのである。
0071名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/12(火) 09:47:53.50ID:DvjsMjru
「壟」と「野(の)」が互いに適合することが納得されるようになった時点で、
「壟」という漢字が表現しているのはもはや、単に「土」と「龍」の組合せで
はなく、「土」を基礎にした「龍のものとして想定されるような動き方」
であり、それをイメージするには、現代の「龍舞」/"dragon dance"を
想起してみるのもいいだろう。ただし、披露される「龍舞」/"dragon dance"
は、軽快な動きを可能にするためにハリボテ構造のようなものを用いて
いるので、その動きには、想像上の動物である龍に想定されるような
巨大な重量が感じられず、「うねうね」と動いているように感じられる。
確かに、「龍のものとして想定されるような動き方」は波が「うねる」
ようなものだろうが、龍に巨大な重量があるとすれば、それが「うねる」
ように上昇するとすれば、そのことがその動きが下側に働かせる抑えつける
強い力が「作用/反作用」の関係で意識されるはずであり、その関係を
私は、"surmounting(およびそれを反転させたsubduing)"の作用として
記述した。
0072名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/12(火) 09:54:09.57ID:DvjsMjru
ここで逆に、"subdued & 中国語"をキーワードとして検索してみると、
Cambridge Dictionaryの例文として次のような記載がヒットする。

If a colour or light is subdued, it is not very bright.
(色彩或光線)柔和的,暗淡的
subdued lighting 柔和的燈光

If a noise is subdued, it is not loud.
(聲音)壓低的,小聲的
subdued laughter/cheers 竊竊的笑聲/低聲歡呼

If a person is subdued, they are not as happy as usual or they are quieter than usual.
(人)悶悶不樂的,默不作聲的
He seemed a bit subdued at lunch - is he all right? 午飯時他顯得有點悶悶不樂——他沒事吧?
0073名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/12(火) 09:58:51.69ID:DvjsMjru
記載される例文には、「抑えが効いている」ことについての"subdued"の
二重のイメージがよく表れていて、英語の"subdued"という表現が、
なだらかな「野(の)」風景を表現するのにも、視点を反転させて、何か
重しがかかって抑えつけられて、それを耐えし「の」(忍)んでいる様子
を表現するのにも適合することが見て取れるだろう。
0074名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/13(水) 16:16:29.54ID:AD4K3wR4
ののしる
精選版 日本国語大辞典「ののしる」の解説
>※地蔵十輪経元慶七年点(883)序「法雷を響(ノノシリ)て弁を吐(つは)はき、
慮を静めて微(ひ)に通ずる者は」

Wiktionary, "龍"
>Etymology
From Proto-Sino-Tibetan *m-bru(ŋ/k) (“dragon; thunder”). Cognate with
Tibetan འབྲུག ('brug, “dragon; thunder”). The STEDT database also lists
隆 (OC *ɡ·ruːŋ, “thunder; sound of thunder”) and 雹 (OC *bruːɡ, “hail”)
as cognates. Also compare 靐 (OC *brɯŋs, “sound of thunder”) and
霹靂 (OC *pʰeːɡ reːɡ, “thunder”). <
0075avoir le dessus/dessous
垢版 |
2022/07/14(木) 00:26:15.89ID:5ses6n6u
>>56
>ここで、"to place oneself above"は、私が提示した"to surmount"に
そのまま対応するが、それが日本語の「しの(凌)ぐ」という表現にも
うまく対応していると考えるなら、これを"oneself"との関係において
「ひっくり返す」なら、"to have 〜 over oneself"となり<

この記述は、説明の分かりやすさという便宜の点ではとても都合がいい
が、哲学的に見れば、ここには大きな落とし穴が潜んでいる。
その落とし穴とは、「"oneself"との関係において『ひっくり返す』」
という言い方である。というのも、この言い方では、まず、"oneself"
が自明のものとして存在して、それに関して表現を「ひっくり返す」
ことになってしまうからだ。しかし、哲学的に見れば、事態はその
逆であり、むしろ、表現の「ひっくり返し」が成立することによって
"oneself"が存在するのである。
0076名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/14(木) 00:48:10.82ID:5ses6n6u
日本語の「の」が「龍のものとして想定されるような動きに伴う作用」
を想起させるとすれば、それは「昇龍」か「降龍」のどちらかのもの
というわけではなく、そのどちらかでありながら、どちらでもあり得る
反転可能性においてそれを想起させるのである。
0078名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/14(木) 18:50:26.99ID:zzsdBWx5
困難に直面したときにそれに対処する姿勢を表す英語の表現として、
"ride the storm"というのと、"it'll blow over"というのがある。
前者は、航海中に嵐に遭遇してそれを「乗り切る/しのぐ」という
イメージだろう。他方、後者は、暴風が過ぎ去るまで頭を低く
したまま、身をかがめて「耐えしのぶ」というイメージだろうと思う。
また、"storm"に関しては、実力行使でたちまちのうちに制圧する
ことを意味する表現として、"take by storm"というのもある。
いずれにしても、英語において"storm"が想起させるイメージは、
中国語の「龍」および日本語の「竜(たつ)」(例えば:竜巻)のイメージに
類似していると言うこともできるだろう。
0079名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/14(木) 20:39:40.58ID:zzsdBWx5
Merriam-Webster

1 a : to sit and travel on the back of an animal that one directs

3 : survive, outlast —usually used with out
rode out the gale
6 a : obsess, oppress
ridden by anxiety
0080名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/23(土) 08:18:40.27ID:K4B573Fb
>>78
>英語において"storm"が想起させるイメージは、中国語の「龍」および
日本語の「竜(たつ)」(例えば:竜巻)のイメージに類似していると言う
こともできるだろう。<


>三十七法雷を震ひ法鼓を撃ち、慈雲を布き甘露を酒ぐ、龍象の蹴踏潤ひ無邊、三乘五性皆醒悟す。

証道歌(読み)しょうどうか
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「証道歌」の解説
中国,唐の僧,永嘉 (ようか) 大師といわれる玄覚 (665〜713) の作った詩篇。
247句。禅の真の意義を興のおもむくままに 63節に詠じたもので,
禅の修行者たちの間で重要視される。なお敦煌出土の文献中に
これと内容の等しい『禅門秘要訣』がある。
0082名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/23(土) 08:35:56.76ID:K4B573Fb
>"storm"に関しては、実力行使でたちまちのうちに制圧する
ことを意味する表現として、"take by storm"というのもある。<

"thunderstorm"/「龍」の如く急襲し、制圧する
0083名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 00:57:07.25ID:1Jornk+b
>人の頭部を覆う部分が、それまでは何の関係もないものとして認識して
いた、一般には「〜陵」として表される前方後円墳の後円部分や、
自然の風景としてある野(の)に類似したものとして、にわかに共通の
イメージで捉えられて想起されるようになる。<

>「壟」と「野(の)」が互いに適合するようになるのかが探られて、
そのことによって「壟」と「野(の)」のいずれの捉え方にも進化的な
変化が(その過程を追想するものとして)生じているのである。<

>《Mon dessin ne représentait pas un chapeau.
Il représentait un serpent boa qui digérait un éléphant.》<
Chapitre I - Le Petit Prince de Saint Exupéry

>中世纪动物寓言集·龙象之争
0084名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 09:59:56.29ID:1Jornk+b
>ちなみに、これらの壟/陵/楼/樓/髏/顱の中国語の中古音として想定される
語頭の"l"の発音は、「上代の日本語」と同様に語頭に「ラ行」の発音が
来ない朝鮮語においても、"n"の発音に移される。<

ちなみに、「ラ行」の発音と「ナ行」の発音の関係に関連して、
「喜連(きつれ)川」という地名が存在するが、その古称は
「きつね(狐)川」であったことが知られているので、
この場合は、逆に、「ナ行」の発音が「ラ行」に移されている。
0085名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 14:15:58.16ID:1Jornk+b
『星の王子さま』で《un serpent boa qui digérait un éléphant》の
《un serpent boa》は、「ウワバミ」というあまり聞きなれない言葉
で訳されているが、「をろち(大蛇)」と訳したなら、そのイメージは、
地形としての「壟」/「野(の)」を表現する隠喩としても流用すること
ができるだろう。ところで、本に描かれた絵では、その傾斜は、
「をろち(大蛇)」の連続性を示していながらも、かなり急峻なので、
「壟断」という表現が思い浮かぶ。「壟断」は、市場で独占的な地位
を獲得することの隠喩だが、例えば、中国資本がインドの大企業を
吸収合併するようなことがあれば、「象(インドの象徴)を飲み込んだ
龍(中国の象徴)」というイメージをそのまま「壟断」を表現する隠喩
として用いることもできるだろう。
0086名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/24(日) 14:29:37.06ID:1Jornk+b
『星の王子さま』に描かれたのと同様の絵を見せられて、「これは『帽子』
ではなく、『象を吞み込んだウワバミ』の絵だ」と思ったとしたら、それは
その絵を「帽子」を描いたものと判断するのと同様の誤りだろう。
なぜなら、そのような見方は、「帽子」を「ウワバミ」と「象」の複合体
によって置き換えたに過ぎないからだ。誤りは、その絵は、「何を描いた
ものであるか」と問うこと自体にある。この絵が描かれた意図に沿う
より適切な問いは、「それは『どのようである』ことを描いた絵なのか」
である。
0087名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 10:17:53.20ID:pgDG357m
「言葉の意味とはその用法」である。したがって、ある言語表現の語源が
明確に分かっているからといって、その言語表現の意味がその語源から
確定するわけではない。これは、ある意味で既に常識となっているが、
だからといって、言語表現の意味がその用法から理解されるとは、
どのようなことであるのか、そのプロセスが明示的に意識されている
わけではないだろう。具体的にそれがどのようなことであるのか、
ポルトガル語/スペイン語の"salpicar"(英語の"splash"に対応するような
用法で使われることが多い)という表現を例にとって、後で説明を試みる
ことにする。

salpicar
プログレッシブ ポルトガル語辞典(ポルトガル語・日本語の部)の解説
salpicar /sawpiˈkax/
[29][他]
❶ …に塩を振りかける
salpicar a carne|肉に塩を振りかける.
❷ …を振りかける
salpicar sal|塩を振りかける.
❸ (水や泥などを)はねかける,はねかけて汚す.
0088名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 23:12:43.00ID:pgDG357m
ポルトガル語/スペイン語の"salpicar"という表現に語源的に不明なところはない。
これらの言語において、"sal"はそのまま「塩」を意味する言葉であり、
"picar"もそのまま「突き刺す」動作/作用を意味する言葉として使われ、
さらに、味としては「辛い」作用を表現するように使われる。
したがって、それ以外の知識なしに"sal・picar"の意味を推測すると、
この表現は、「塩辛い」ことを意味しているのではないかと思えるが、
実際には、上に引用したポルトガル語の辞書の記載のとおり、
「塩を振りかける」、「振りかける」、「とばっちりを浴びせる」
といったような意味で使われることが多い。したがって、"picar"
は「(塩)辛い」というよりもまずは、「点在させるように散らす」
動作/作用を表現しているものと理解することができるだろう。
0089名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 23:32:53.48ID:pgDG357m
また、"salpicar a carne"(肉に塩を振りかける)という用法では、
"sal・picar"の"sal"は、無論、文字通りそのまま「塩」を意味している
ことになるが、"salpicar"が「振りかける」や「とばっちりを浴びせる」
という意味で用いられる場合、"sal"は、「振りかけられる塩のように
散らされて点在するもの」を代表していることになる。したがって、
この場合には、"sal"は「塩味」を想起させるように用いられている
わけではなく、むしろ、そのイメージを脱去させられており、その
ように散らされて点在するものは、「ゴマ」であっても、
「泥水のしぶきがかかった汚れ」であっても、さらには、風景に
点在する「家々」であってもよいことになる。
0090名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/27(水) 23:49:10.25ID:pgDG357m
さて、ここからが本題だ。では、次の例はどうだろうか。
これは、『ブラス・クーバスの死後の回想』として日本語訳が出版されている
Machado de Assisの"Memórias Póstumas de Brás Cubas"に目を通して
いてその表現に目が留まった一節からの引用である。

>Meu espirito deu um salto para traz, como se descobrisse uma
serpente deante de si. Encarei o Lobo Neves, fixamente,
imperiosamente, a ver se lhe apanhava algum pensamento occulto...
Nem sombra disso; o olhar vinha direito e franco, a placidez do rosto
era natural, não violenta, uma placidez salpicada de alegria. <
0091名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 00:05:57.02ID:I6WDDBU5
問題は、この最後の"uma placidez salpicada de alegria"の"salpicada"を
どのように解釈することが適切であるかだ。英訳では、おそらくそう
訳されているだろうと当たりをつけて検索してみると、案の定、
"a calmness sprinkled with joy"としてこの箇所の訳文がヒットする。
この箇所の日本語訳を確認してみるために図書館で訳本を借りてきたが、
次のように訳されている。
>むしろ歓びがちらちらと浮かぶおだやかさだった。(p.297)
0092名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 00:30:03.72ID:I6WDDBU5
ちなみに、これは、語り手である男性が、自分の不倫相手の女性の
夫の表情を、その不倫に気づかれたのではないかと思って緊張し、
警戒しながら窺っている場面の描写である。政治家である夫が
県知事として北部に赴任するという話が持ち上がり、そうなれば、
不倫相手の女性と離ればなれになってしまうことになり、困って
いたところ、夫自らが、男性に秘書として一緒に北部に行かないか
と提案してきたのである。そこで、男性は、その提案には、
裏の意図が隠されているのではないかと恐れたのだ。
0093名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 08:35:43.62ID:I6WDDBU5
"uma placidez salpicada de alegria"に対する"a calmness sprinkled with joy"
という英訳は、辞書に記載される"salpicar"の英訳から直ちに想定されるいかにも
安易なものだが、"salpicar"も"sprinkle"もともに、一般に、「点在させる」ことを
意味するように用いられるので、誤訳であるとは言えないだろう。しかし、
この場合の訳としてうまく適合しているだろうか。男性は、不倫相手の夫の
表情に何か裏の意図を読み取ることができるのではないかとその顔の様子を
窺っている。ここで"calmness"と訳されている"placidez"は、「おだやかさ
/平静/平穏」を意味し、私の語感では、"pla"の発音に日本語の「ひら(平)」
がそのまま対応するので、日本語訳としては、「おだやかさ」よりも
「平静」または「平穏」の方が好ましく感じられる。いずれにしても、
表情は、「平静さ/平穏さ」を装いながら、何か裏に意図を隠し持っている
ということはよくあることだろう。
0094名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 08:59:18.26ID:I6WDDBU5
ところが、この場面において、語り手の男性は、不倫相手の夫の表情の
「平静さ/平穏さ」が自然である、つまり、不自然なところが認められない
こと、その「平静さ/平穏さ」が"alegria"/"joy"/「よろこび」で
"salpicar"されているのを見て、何も裏の意図はないものと判断して
安心するのである。さて、しかし、顔の表情の「平静さ/平穏さ」は
本来的に「おもて(表/面)向き」である。さらに、"sprinkle"は、
スプリンクラーがそうであるように、通常、何らかの表面に上から
「振り撒く」ことを意味するように用いられ、この英訳において、
"salpicar"はそのように解釈されていると考えられる。これに対して、
語り手の男性は、相手の顔の表情に裏の意図を見てとることができ
ないか探っている。"alegria"/"joy"/「よろこび」がその表面に
「振り撒かれた」ような「平静さ/平穏さ」を見て安心するだろうか。
0095名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 09:23:05.42ID:I6WDDBU5
その点、英訳と比べて、日本語訳の方は、この表現が用いらている場面に
ついてより深く考えられていると言える。
>むしろ歓びがちらちらと浮かぶおだやかさだった。(p.297)
日本語の訳者は、この場合、"salpicada de alegria"を、「歓び」が
表情の上に「振り撒かれた」ようであると理解することには不適合を
感じて、観察する男性の視点から、「らちらと浮かぶ」と表現した
のだろう。ただし、「顔によろこびを浮かべる」という日本語の表現
は一般的であるものの、"salpicadar"に「浮かべる」という意味合い
はなく、「歓びがちらちらと浮かぶおだやかさ」という表現も、
私にはあまり自然な日本語であるとは感じられない。
0096名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 09:44:37.55ID:I6WDDBU5
「だったらお前はどう訳すのか」と言われそうだが、ポルトガル語/スペイン語
の初歩的な知識しかない私は、特に深く考えることもなく(探求は後からでいい)、
まずは、
"uma placidez salpicada de alegria"≒「よろこびの入り混じった平静/平穏)さ」
と訳すだろう。

ここでは、特に考察もなくひとまず、"salpicada de 〜"に「〜の入り混じった」
という訳を当てているわけだが、これは適切だろうか。そこで私にすぐに
思い浮かぶのが、"salpicar"の"sal"が連想させるイメージも影響して、
「ちらし寿司」である。私が子供の時に初めて「ちらし寿司」を食べたとき、
細かく切られた具材が酢飯に「入り混じって」いて、明らかに混ぜてある
のになぜ「『ちらし』寿司」と呼ぶのか疑問に思ったものである。だが、
この場合、「ちらし」は、"salpicar"の一般的な用法と同様に、具を
「散在させる」結果をもたらすことを意味するように用いられており、
「上から振り撒く」ことを意味しているわけではないだろう。
0097名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 10:10:25.74ID:I6WDDBU5
誤:平静/平穏)さ、正:平静/平穏さ

ところで、日本語には、「話を『混ぜ返す』」という表現がある。
検索すると、
>わきから口出ししたり、ちゃかしたりして人の話を混乱させる。
まぜっかえす。「茶々を入れて話を―・す」<
という説明がヒットする。話を「ちゃかす」こと、
話に「ちゃちゃを入れる」ことが、「混ぜ返し」を生じさせることになると
捉えられていることになる。これに対して、次の"salpicar"のスペイン語の
用法の例は、「ちゃかす」こと、「ちゃちゃを入れる」ことに似ている
(ただし、この場合、その行為の対象は、「他人の話」に限定されない)と
言うことができるのではないか。

>salpicar vtr figurado (esparcir elementos) (figurative)
sprinkle⇒, pepper⇒ vtr
dot⇒, pepper⇒ vtr

Salpica de comentarios graciosos todos los temas.
He sprinkles (or: peppers) all of his comments with funny remarks.
0098名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 10:28:19.03ID:I6WDDBU5
出典:WordReference.com | Online Language Dictionaries

実は、ポルトガル語/スペイン語の"picar"には、「突き刺す」という
用法だけではなく、「細かく刻む」という用法もある。そして、
"picar"という表現の発音そのものが、「突き刺す」動作/作用に
おいてもそうであるように、「小さい裂開を生じさせる」動作/作用
の擬態を表現するものと考えられている。すると、「ちゃかす」や
「ちゃちゃを入れる」の「ちゃ」はどうだろうか。やはり、
擬態/擬音的に「小刻み」な動作/作用を想起させるのではないか。
このように見ると、ポルトガル語/スペイン語における"picar"の"pi"と、
日本語の「ちゃ、ちゅ、ちょ」、「ち」のそれぞれの発音が、
類似したイメージを想起させるように用いられていると考えることも、
あながちこじつけではないだろう。
0099名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 11:06:32.16ID:I6WDDBU5
さて、日本語には、「胡麻塩頭(ごましおあたま)」という表現がある。

>精選版 日本国語大辞典「胡麻塩頭」の解説
〘名〙 黒い髪の毛に白髪のまじった頭。しらがまじりの頭。<

これは"salpicar"と同様に「塩(しほ)」という言葉を流用した表現だが、
この場合、「塩(しほ)」は、単に「(塩のように)振り撒かれたもの」として
散在する様態を表現するのに利用されているだけでなく、胡麻が黒い
こととの対比において「塩(しほ)」は、「(散在して)白く見えるもの」
として、「塩(しほ)」の「白く見える性質」が活用されている。この
ように、同じ"sal"/「塩(しほ)」という物象化された表現を語源として
利用していても、その物象化がどのような性質として利用されるかは、
あらかじめ決まっているわけではなく、その流用の目的次第であり、
物象化された言葉も、表現の解釈において《enjeu》として活性化され
るのだ。日本語では、「よろこびもひと『しほ(入)』である」という
表現がある。この場合、「しほ(入)」は物象化されることなく、
浸透作用を表現するものとして用いられている。では、
冗談を交えて話す場合に用いられる"salpicar"は、どうだろうか。
「冗談」は、「ちゃかす」もの、「ちゃちゃを入れる」ものとして
やはり"sal"/「塩(しほ)」のような働きをするものとしてイメージされて
いないだろうか。"uma placidez salpicada de alegria"の場合は
どうだろう。その都度、「どのようである」と表現していると考える
ことが妥当であるのかを考えるのが、言語表現を適切に解釈しようと
することであり、明確な定義から出発して、それに解釈を合わせて
終わりにするとというのは、感性を麻痺させる/バカにするもの
でしかない。「言葉の意味とはその用法である」とはそういうことだ。
0100名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/28(木) 23:30:02.11ID:I6WDDBU5
>「ちゃかす」や「ちゃちゃを入れる」の「ちゃ」はどうだろうか。
やはり、擬態/擬音的に「小刻み」な動作/作用を想起させるのではないか。<

ちなみに、「切」の漢字で表される中国語の表現の想定されている中古音は、
"/t͡sʰeiH/"である。朝鮮語は、これを"[t͡ɕʰe̞]"/[체]の発音で取り入れている。
0101名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/29(金) 09:39:00.80ID:+1qooaMq
>>100
ここで、日本語において「チョキチョキ」または「チョキンチョキン」という
擬態語は、ハサミ、つまりは、"pinching"によって「切る」様子を表現して
いることを思い起こそう。すると、この場合、「チョ」は、その切り始め
に対応していると考えられるはずである。
0102名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/30(土) 15:11:16.23ID:phZIkawn
>>100-101
応用を考えてみよう。「『ちゃっかり』している」という表現がある。
「ちゃっかり」とはどのような表現だろうか。検索すると、
>[副](スル)自分の利益のために抜け目なく振る舞うさま。「案外―している」
という解説がヒットし、「抜け目ない」振舞いとして説明されている場合が
多いことが分かる。「ちゃっかり」&「英語」で検索すると、「ちゃっかり」
の訳語が示されるが、「抜け目ない」に対応させるように"shrewd"と訳されて
いる事例が多く、"cunning"、"calculating"などの訳語も示されている。
だが、この解釈は適切だろうか。私には、"a shrewd person"と
「ちゃっかりした人」は、明らかに異なっているように思える。
なぜながら、「ちゃっかり」には、本来的に「意外性」が伴っており、
「『ちゃっかり』している」という言い方は、単に「抜け目がない」という
形容ではなく、「(自分の損得にかかわることに関しては)案外/意外と
抜け目がない」ことを表現しているからだ。これに対して、
"he/she is/turns out to be surprisingly/unexpectedly shrewd"という
言い方がされることはまずない。そういう言い方をするなら、
「ちゃっかり」に相当するように当てられる英語は、"shrewd"ではなく、
"clever"だろう。つまり、「『ちゃっかり』している」とは、
"being surprisingly/unexpectedly clever when it comes to
one’s own interest"ということ、言い換えると、「抜け目がない」/
"being shrewd"なのではなく、それ以外では抜け目があるように
見えながら、自分の損得にかかわることに関する場合だけは、
抜かりなく/賢く/"clever"に振る舞うことを表現していると言う
ことができるだろう。
0103名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/30(土) 19:09:51.54ID:phZIkawn
>>102
どうしてこれが応用なのかと問われそうだが、それは、英語の"clever"の発音は、
私の語感では、日本語の「チョキチョキ」と同様にやはり、「刃による切り込み
を生じさせる」ようなイメージを想起させるからである。そして、
日本語の「『ちゃっかり』している」の「ちゃっかり」は、何らかの擬態を
表現しているわけだが、私にはそれは、英語としては、"clipping"に相当して
いるように感じられるのである。
>clip (v.1)
"to cut or sever with a sharp instrument," c. 1200, from a Scandinavian
source (compare Old Norse klippa, Swedish klippa, Danish klippe
"clip, shear, cut"), which is probably echoic.<
言い換えるなら、「ちゃっかり」は、自分のために"clipping"をして、
"a small piece cut off"を確保するイメージを想起させるのである。

英語の"clever"が「刃による切り込みを生じさせる」ようなイメージに
結び付くことに関連して言えば、日本語の「『ちゃちゃ』を入れる」
の「ちゃちゃ」は、英語の"clever remarks"/"quips"に相当すると
考えることができる。つまり、「『ちゃちゃ』を入れる」≒
"interrupt/interfere with clever remarks"ということになる。
次のような例文を参考にしてみるといい。
> At the hospital, we asked him why he was so relaxed
and he quipped, "It's the drugs." (joked)
>I believe it was Oscar Wilde who made the famous quip
about life mimicking art. (clever remark, witticism)
>The late night talk show host was known for his funny
quips. (clever remarks)
出典:vocabulary-vocabulary.com/dictionary
0105名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/30(土) 21:01:52.50ID:phZIkawn
言語表現のメタ言語的な記述の試みは、見てのとおり、そのまま、互いに
異なる言語間の中間言語として機能する。これは、無論、そのような
試みが、言語間の確実に適切な翻訳表現をもたらすことを保証すると
いったようなことを意味するわけではない。それでも、別言語の表現を
メタ言語的な記述によって橋渡ししようとすることは、特定の表現が
どのようなことを伝えるものと解釈されているのかをよりはっきりと
明示することになり、選択される言葉の適合性を判断するのに役立つ。
逆に言えば、別言語においてうまく適合すると判断される表現を
もたらすメタ言語的な記述が、中間言語として有効であることになる。
0106名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/30(土) 21:12:16.34ID:phZIkawn
「壟」/「野(の)」に関連して、私は次のように述べた。
>>60
>記述的なメタ言語として英語を利用して、「しの(忍)びない」という
表現そのものとの対応関係を伝えようとするなら、私は、
"it is too much subduing of onself (to do 〜)"のような記述を
することになるだろう。<

以下は、ゲーテの著作、"Dichtung und Wahrheit"に目を通していて
目に留まった一節からの引用である。
>So können uns Kräuter und Blumen der gemeinsten Art
ein liebes Tagebuch bilden, weil nichts, was die Erinnerung
eines glücklichen Moments zurückruft, unbedeutend sein kann;
und noch jetzt würde es mir schwer fallen, manches dergleichen,
was mir aus verschiedenen Epochen übrig geblieben,
als wertlos zu vertilgen, weil es mich unmittelbar in jene Zeiten
versetzt, deren ich mich zwar mit Wehmut, doch nicht ungern erinnere.<
0107名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/30(土) 21:24:26.29ID:phZIkawn
ここで私が注目したのは、
>noch jetzt würde es mir schwer fallen, manches dergleichen,
[...] als wertlos zu vertilgen<
という表現である。

この箇所は、『詩と真実 第二部』、p.25に次のように訳されている。
>私はいまもなお、[...] そうしたいろんなものを、価値のないもの
として棄て去る気には容易になれないのである。
0108名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/30(土) 21:28:54.50ID:phZIkawn
>>58
>「しの(凌)ぐ」を"to place oneself above"に対応するものと
見做して、「しの(凌)ぐ」と発音的に重なる「しの(忍)ぶ」を、その
「〜ぶ」という表現の形式から判断して、"to place oneself above"を
単に"oneself"に関してひっくり返すことにより、"to have 〜 over oneself"
を「しの(忍)ぶ」に対応させることができるのではないかと示唆した。<
0109名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/30(土) 21:55:31.03ID:phZIkawn
以前に述べたとおり、私はドイツ語学習の教育を受けたことはなく、
独学としてでも教科としてまともに学習したこともなく、旅行用の
ポケット語彙集のようなもの以外は、辞書も所有していない。
したがって、私は、ドイツ語の"schwer fallen zu 〜"という表現に
ついて辞書にどのように説明されているのかすら知らない。
それでも、ドイツ語とは一切関係のない「壟」/「野(の)」に
関連するメタ言語的な記述から、この原文箇所を目にするとすぐに
「〜するのは忍びない」という表現が思い浮かんだ。しかし、
日本語訳を確認してみると、「〜(す)る気には容易になれない」と
訳されており、私が思い浮かべたのとは異なる解釈がなされている。
私は、ここで自分に思い浮かんだ解釈に妥当性があるのか否か知らない
(まだ確認作業をしていない)が、たとえその解釈が思い付きに過ぎない
ことが判明したとしても、それは修正されるべきものとして役に立ち、
私には、それを手にしている方が、何も反証されるべき仮説がない
場合よりもはるかにましなのである。
0110名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/07/31(日) 17:58:12.62ID:ImCLW7bS
ミコトノリこそが至高であり、それを最も大切にしなければならないとする
人々が何をどのように説得しようとしたところで、哲学をすることは、
中間言語を磨こうとする試みとしてあり、それなしには哲学はあり得ないのである。
0111名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/08/01(月) 22:21:15.96ID:iRmddGW1
ところで、日本語では、「しの(凌)ぐ」(≒"to place oneself above")/
「しの(忍)ぶ」(≒"to have 〜 over oneself")において、「壟」/「野(の)」
が反転する関係で流用されていることは、例えば、ラテン語の"subīre"が、
一方で、スペイン語/ポルトガル語においては専ら、「のぼ(登)る」を
意味するように用いられ、他方で、フランス語においては専ら、
「被る」、「しの(忍)ぶ」を意味するように用いられるようになって
いることを考慮すると、「〜ふ」という表現法が、その解釈の不確定さ
を伴いながらも、中国語の表現に結びついた発音を流用して日本語を
効率的に組織化して形成することに、いかに重要な役割を果たした
のかを見てとることができるだろう。
0112名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/08/01(月) 22:28:34.71ID:iRmddGW1
>>102
誤:「『ちゃっかり』している」とは、"being surprisingly/unexpectedly
clever when it comes to one’s own interest"ということ
正:「『ちゃっかり』している」とは、"being surprisingly/unexpectedly
clever when it comes to taking care of one’s own interest"ということ
0113名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/08/01(月) 22:48:21.99ID:iRmddGW1
>>111
さらに、このような比較から、このような反転の関係性が実現することの方が
自己/"oneself"の存在に先立つ、というよりむしろ、その実現が可能であること
によって初めて、自己/"oneself"が存在するものとして現出することも見てとる
ことができるだろう。
0114名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/08/06(土) 00:14:56.78ID:MCf3vgn4
>>100-101
>ところで、日本語には、「話を『混ぜ返す』」という表現がある。
検索すると、
>わきから口出ししたり、ちゃかしたりして人の話を混乱させる。
まぜっかえす。「茶々を入れて話を―・す」<
という説明がヒットする。話を「ちゃかす」こと、
話に「ちゃちゃを入れる」ことが、「混ぜ返し」を生じさせることになると
捉えられていることになる。<

日本語の「ちゃかす」、「ちゃちゃを入れる」という表現に対して、
ドイツ語の»jemandem ein Schnippchen schlagen«という表現は、
その用法が完全に重なるというわけではないものの、互いにとても
よく似ているように私には思える。

プログレッシブ 独和辞典の解説
schnipp, [ʃnIp]
[間] パチッ(指を鳴らす音);チョキッ(はさみの音)
schnipp, schnapp\チョキチョキ(はさみで切る音).
0115名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/08/06(土) 00:44:05.84ID:MCf3vgn4
例えば、ゲーテの"Dichtung und Wahrheit", Zweiter Teil, Sechstes Buchから
の一節において、この表現は、次のように用いられている。

>Ein einziger unserer akademischen Mitbürger hielt sich für reich und
unabhängig genug, der öffentlichen Meinung ein Schnippchen zu schlagen.
(出典:Goethes Werke. Hamburger Ausgabe in 14 Bänden. Band 9,
Hamburg 1948 ff, S. 217-258.)

『詩と真実 第二部』、第6章、岩波文庫、p.73において、対応する当該の
箇所は、「世間の考え方に砂をかけてやろうと考えた」と訳されている。
私には「砂をかける」という表現がどのような隠喩であるのかよく分から
なかったので検索してみると、「後足で砂をかける」という表現がヒットし、
どうやらこれを省略して用いているようにも思えるが、「後足で砂をかける」
という表現が、この場合のドイツ語の»ein Schnippchen zu schlagen«
という表現にうまく対応しているようには感じられない。むしろ、
「世間一般の物事の見方を茶化してやろうと考えた」と解釈した方が
うまく適合しているように思える。
0116名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/09/27(火) 18:25:01.10ID:Qg0KjDHf
『詩と真実 第四部』は、最後の第20章以外は、まるでまったく別人が
残されたメモだか日記だかを利用して勝手に作文したような文章のように
しか私には見えない。世の中、いろいろとよく分からないことが多い。
0117名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/09/27(火) 18:34:33.08ID:Qg0KjDHf
哲学史がどうのというのがTwitterで話題になっているが、私は「哲学」を
「学問分野」として勉強したことはないので、哲学史の知識は全くない。
「哲学者」や「哲学研究者」とされる人々の著作は数多く読んできたが、
哲学史から見れば、穴だらけだろう。「哲学史」として書かれた本も
読んだことはあるが、面白くなかったので、書かれていたことについて
まるで記憶にない。古典は、いくらでも読むが、というより、古典的な
作品以外にほとんど関心がないと言っていいが、その著者が「哲学者」
とされるか、「哲学史」のなかに位置付けられるかどうかは、私に
とってはどうでもいい。私は、「哲学」をしていると制度的に認めて
もらわなければならない立場にはないので、自分にとって哲学的に
面白ければ、それでいい、というより、それだけが大切だ。
0118名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2022/09/27(火) 20:05:35.83ID:Qg0KjDHf
ちなみに、私がこの板で書き込んでいるようなことは、学問的に「哲学」
として認められることはなく、というより、「学問」としてさえ認められる
ことがないだけにとどまらず、「5ちゃんねる」においてさえ哲学の議論を
しているとは認められないらしく、「哲学板」からは書込みを永久排除
されている。
0119名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/07(火) 22:49:54.63ID:urT1Nqaz
3姉妹の岩
0120名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/02/16(木) 12:05:54.31ID:eUTtGu9g
タワバ アベシ ヒデブ

ニーメン イーチン スーラ
0121名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/03/05(日) 18:26:39.04ID:IsUy+Rhv
わたしを束たばねないで
あらせいとうの花のように
白い葱ねぎのように
束ねないでください わたしは稲穂
秋 大地が胸を焦がす
見渡すかぎりの金色こんじきの稲穂

わたしを止とめないで
標本箱の昆虫のように
高原からきた絵葉書のように
止めないでください わたしは羽撃はばたき
こやみなく空のひろさをかいさぐっている
目には見えないつばさの音

わたしを注つがないで
日常性に薄められた牛乳のように
ぬるい酒のように
注がないでください わたしは海
夜 とほうもなく満ちてくる
苦い潮うしお ふちのない水

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐すわりきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
,コンマや.ピリオドいくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡ひろがっていく 一行の詩



有名な詩だけどこのドライブ感を超える詩は見たことがない
0122名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/03/18(土) 13:06:38.81ID:quv46kEA
【地球は】 世堺教師マ仆レーヤの警告 【危ない】
://kizuna.5ch.net/test/read.cgi/sky/1664955493/l50
0124地球市民と市民社会
垢版 |
2023/05/03(水) 10:58:34.22ID:/PbOh5Hr
>>Et tout est si facile quand on marche dans sa ville
Même les bleus pour moi sont en civil
― Doc Gynéco
0126神の僕 ◆P10fR708T6
垢版 |
2023/06/13(火) 22:02:44.78ID:38IBRkIF
~~~夏の新しいおとぎ話の森の三角旗~~~~

この実例の風を見るのは、綿とリネン
少しずつ縞模様の間に子供のような驚きを持つ各セルのよう
この夏はいたずら好きなハーモニー
新鮮で活気のある厚い綿と綿を旗に作り
メーター綿ベルトパッケージ底面自然風、
引っ張るとラジアンが見栄えが良くなるので変形しやすい!!
より洗えると耐久性のあるああ!!
ターナーファイン、両面利用可能!
エリアの布の色設定に合わせて厳選されたファンへようこそ、
あなたは排他的なグッズを作成することができます!
0127名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/19(月) 15:16:20.81ID:D94Ovcxu
スーパーで大きな袋で「カール」が売っているな
と思って、特に考えもせず、買って家に帰ってきて、
よく見たら、「カール」じゃなくて、チーズ味の
「キャラメルコーン」だった。

「キャラメル」の味がしない「キャラメルコーン」、
「カール」と同様の「コーン」の発泡菓子で、
「カール」と同様に「チーズ味」だけど、
「キャラメルコーン」。「物は言いよう」である。
0128名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/19(月) 15:20:29.81ID:D94Ovcxu
>ヤマト、メール便の配達を日本郵便に移管 薄型荷物も

ヤマトのメールを郵便局が配達したら、それは「郵便配達物」
なのだろうか、それとも「ヤマト便」なのだろうか。
0129名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/19(月) 23:58:14.84ID:D94Ovcxu
「気は心」とよく言はれるとおり、「心(こころ)」とは、
「気の持ち様」のことで、何かに気がつき、気にかかる
ことを、気がす(済/澄)むようにできなければ、次第に
気が晴れなくなり、何をする気も起きなくなる。
心が曇って沈んでゆくとはそういうことだ。
0130病(やまひ)は気から
垢版 |
2023/06/20(火) 08:02:42.95ID:9h/bT8dk
「気の持ち様」に著しい欠損が現れることを「気が変になる」
と言ふ。それが何らかの一時的な要因に依る状態であると
思はれるなら、それは、そのひと(人/一)が「気が気でない」
「気の持ち様」に陥っているものと見做される。

英国の一昔前のTVドラマや映画を観ていると、
何か慌てたり、取り乱したりしている人がやってくると、
その理由を尋ねるよりまず先に「お茶でもどうですか」
と尋ねるシーンがよく出てくる。また、米国のTVドラマ
でも、なにか緊急で伝えたいことがあってやって来た
人が、まずは「水を一杯ください」と求めるシーンが
出てくることも珍しくない。これは、相手や自分が
「気が気でない」状態に陥っていることに「気づいて」、
何よりも先に、相手や自分に日常習慣的な行為をする
ように促すことによって、まずは「気の持ち様」を
落ち着かせるためである。
0131心をきれいに洗ふ誘導術
垢版 |
2023/06/20(火) 10:35:38.45ID:9h/bT8dk
「気が変になる」という言い方は、自分についてそう
発言する場合を除き、最近の言葉遣ひでは避けられる
傾向にあるだろう。それは、「気が変になる」という
表現が、「心を病む」という表現に比べて、状態の
変化の不可逆性を感じさせるからではないかと思ふ。
その状態が「病(やまひ)」であるなら、治療を受けて、
治癒する可能性があるというわけだ。

しかし、「気が変になる」ことと「心を病む」こと
では、事象の捉へ方として、どちらの方により一般性
があると認められるだろうか。「心を病む」という
表現は、特に現代の日本語においては、「心」は、
個人に属するものとされ、「心を病む」ことは
「個人の問題」とされ、その捉へ方に応じた対応が
論じられる。ところが、「気が変になる」ことの方は、
特に個人に特有の問題ではなく、状況により、誰もが
普通に陥り得る状況である。例えば、誰でも何らかの
強制力によって長時間にわたって睡眠を妨害されれば、
「気が変になる」し、また、不明の理由で拘束され、
自分がどのような状況に置かれているのか分からない
状態で長時間、隔離されれば、「気が変になる」し、
誰の仕業かわからないやり方で、自分が多大な
労力を費やして得た成果が、不明な理由でその労力が
無に帰すように台無しにされたなら、「気が変になる」。
「気が変になる」状況に陥るまでに至らなくても、
「気が気でない」状況は誰にでも生じ得るだろうし、
その状況に対処することが、まずはなぜそのような
状況が生じているのかをきちんと把握するために
「心を落ち着かせる」/「気を取り直す」ことが
必要とされるとしても、その状況が生じていること
があらかじめ「個人の心の問題」、言い換へるなら、
「気のせい」であるとされることはない。
0133名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/20(火) 10:42:02.91ID:9h/bT8dk
心をきれいに洗ふために必要とされるのは、
まずは自分の判断力が頼りになるという感覚を
徹底的に破壊して狂わせることである。
0134名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/20(火) 10:45:38.91ID:9h/bT8dk
個体を空間的に隔離して、個体間の伝達手段を限定するように
管理することは誰のために何のために有効なのか。
0135名無しさん@お腹いっぱい。
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2023/06/25(日) 15:17:42.54ID:xSDHHYVh


猫は人間と同じ

撫でられたり触られると嬉しい



人間は犬と同じ

好きな人を舐めたがる



プーチンにとって人間は犬と同じ

尻尾振る奴は可愛がり

噛みつく奴はすぐ殺す
0136名無しさん@お腹いっぱい。
垢版 |
2023/06/25(日) 15:19:34.72ID:xSDHHYVh
焼き飯の歌


焼き飯の味付けは決まっていない



それはただの調理法で料理名じゃない



電子ジャーも電子レンジも無い時代



冷や飯を温め直す方法のひとつ



だから味付けは、鉄板で温め直した冷や飯に



醤油かけて食う



具材、何それ?



簡単に言えば、握らない焼きおにぎりだよ
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