ちょっと前、数学史に興味があって、何冊か買った本を読んでいました。

近代西洋の和声理論を成り立たせるために音階の周波数の基準として採用されている純正律も、
メロディの美しい周波数の基準として古代ギリシアからあったピタゴラス音律も、
オクターブ内の各音階の周波数の分布が、前者は単純な整数の比、後者は対数(対数方眼紙だと人間の自然感覚を直線的な増加で表せる)でできているんですよね。
(アラブだと半音の半音、つまり1/4音階が特徴的ですが、それはピタゴラスより古い時代の名残だそうです)
つまり体系だった音楽や楽器は、すべて数学が背骨になってでできている(古代ギリシアでは音楽は数学の一部として学問されていた)。

私は、それ(音楽と数学の出自が同じだということ)を知ったとき、漠然と感じていた数学と音楽の親和性は気のせいじゃなかったんだと衝撃を受けました。
音楽の要素のうち、一番基本的な要素はリズムだ、とコールユーブンゲンには書かれていますが(そして世界最古の楽器は打楽器ですから)、私自身もその通りだと思いますが、
反響音が荘厳な演出を添える、背の低い聖堂の中で歌われるグレゴリオ聖歌は単旋律でもよいとしても、ゴシック建築(非常に背の高く広い伽藍の堂)になって、
演出を時間の流れの中に構造化するときに、つまり聴衆を飽きさせないために和声は欠かすことができないものだし、濁りのない和声のために純正律で統一することは必要不可欠の選択だったのでしょうね。


そういや、トルコの軍楽隊以外には、近代ヨーロッパの管弦楽にはまともな打楽器がなかったんだったか。
リズム・ビートメインの音楽と和声メインの音楽がどこで分岐進化したのか興味があるのだけれど、逆に、彼らはなんで打楽器をメインにしなかったんだろうか?
(木琴も東南アジア起源だし、シンバルももとはトルコ系か東洋系だし)
野蛮なイメージだから?異教との決別のため?