私、近代文学は(日本なら明治政府が制定した標準語としての日本語教育による)その単一言語内での価値観の交流に役立っている、と思うんですよね。
価値観の交流が可能であることは、そこにどのような個々人の微小な相違があれ、価値観を共有する、つまりナショナリズムを醸造する前提ですよね。
ですが、何らかの心理的な障壁によりそもそも価値観の交流がされないのであれば、そのような変化を被らない知識の獲得には、教育にはなんの意味もないし、
立場の変更も(変われば変わるほど同じもの!)単なる変節以上のものではない。佐藤さんは一番そこを批判されているのだと思います。

少なくとも私はそう受け取ったから、共感を覚えると言ったのです。