会津藩の搾取略奪に苦しんでいた
越後の民衆もまた、かつての越後の
支配者である米沢藩兵を慕った。
「米沢藩兵は他人数だが馬は使わず
各自が荷物を背負ってきた。
米沢様は別段のものだと衆人が感服した。
それにひき比べ、会津は異形
はなはだしいゆえか、衆人不服で
負け戦の話をきくと婦女子までが
よろこんだ。」
(新津市史通史編下巻)

越後の民衆が会津藩を嫌い
米沢藩を慕った一例として
会津藩によって徴募された
出雲崎代官領の農兵隊が
会津藩の支配を嫌って
米沢藩の家来になる事を
懇願して許された事が挙げられる。

この農兵隊は後に米沢藩から
精義隊と命名され、米沢藩の
指揮下に入り最後まで米沢藩兵と共に
新政府軍と戦う事になる。
(新潟市史通史編3)