会津藩兵による草莽の志士への
襲撃も行われた。殆どの草莽の
志士は会津藩の進駐を聞き
身の危険を感じて故郷から脱出した。
しかし旧水原代官領に住む草莽の志士
三浦杏雨は剛腹にも、会津藩兵が
進駐して来ても留まっていたが
三月に会津藩兵の襲撃を受けて
殺害されてしまう。
(水原町編年史第一巻)

越後の民衆に対する蛮行は
会津藩正規軍だけに行われた訳ではなく
会津藩指揮下の衝鋒隊や水戸脱走軍に
よっても搾取や略奪は行われた。
「衝鋒隊七〇〇名や水戸藩の
脱走兵五七〇人余が相次いで
新潟町に入り込み、会津兵と入り乱れながら
各地で金品強奪・暴行を繰り広げた。
幕府の倒壊によって支配機能停止の
状態に陥った新潟奉行所はこうした
行動を停止出来なかったから
民衆の恐怖と憎悪は高まった。」
(新潟市史通史編3)

新政府よりの新発田藩や
与板藩の城下に乗り込み
軍資金を強要する等の蛮行を行った。