左翼はキリスト教を捨てることを求めるが、
リベラルはキリスト教を捨てなければならないのか?

ここが日本人がリベラルを勘違いしているところだろう。
リベラルは伝統や古い概念を捨てて、国際標準人になることと、勘違いしているが、
リベラルはそれぞれの価値観を尊重し、そこから互いを尊重する共通するルールを作り出すこと。
リベラルはむしろそれぞれの違いを知ること。

では日本人がリベラルにもつ古い日本的な価値を捨ててなるベを、国際標準人とはなにか?
日本人の太古からのもっとも重要な倫理は、清らかさである。
日本書紀の思想でもある伝統的な清らかさの思想が生み出したのが、国際標準人なる汚れのない純粋な存在だろう。
だから日本人にしか通用しない概念だ。

むしろリベラルでは、日本人は世界の中で日本人とはなにか?を相対化して、位置づけることが求められる。
リベラルは互いの違いを尊重するところから始まる。

しかし日本人はこれが苦手だ。
なぜなら日本人は自らを清らかな存在、すなわち国際標準人だと思いたがるからだ。
自らを客観的に相対化して位置づけるのは、日本人としての美学が許さない。
ただし日本人は自虐は大好きだ。本来日本人は国際標準人であるべきなのに、ガラパゴス化して駄目だ。
これが自らの特徴を肯定的に相対化するとなるとは、まず無理だ。
この無理さは、無意識レベルの拒絶反応であるほど根深い。
まさにこのことが日本人とはなにかをあらわす一つだ。