>>944
そこの中で既に述べておろうに。
漠然とした(人によっては明白な)あるべき権利の姿が相互承認の前に存在しているはずだ、と。
つーか、何をまた「相互承認」じゃなく「認識」にしてるのよ。

てなわけで「相互承認」として、でもって
あくまで頭の中論でやれって言うなら、ん〜…
…会議かな。

会議をやります。話し合います。採決します。決まりました。
さて、採決の瞬間まで皆の頭は真っ白でしたか?
そんなわけはないよね。
興味があるなら普通は腹案持って会議に参加するし、興味がなくても採決直前までには決めている。
即ち、個々人の案は採決前に既に内心に存在しているわけよ。

さらにこの会議がA案・B案どっちにしますかと言う問題で
実は出席者の全員が出席前からA案支持を決めていたとする。
(会議が開かれた理由は、ほれ、儀式的な意味合いなり、皆内心を暴露しなかったと思いねえ)
このとき、神の視点からは既に「この集団ではAが妥当」という答えは存在しており、
会議はこれを発見するプロセスに過ぎない、と言うことになるわな。

コレと同じ話よ。
少なくとも相互承認前に内心の人権論が個々人にないと承認対象がなくなる。
逆に内心の人権論があるならば共通解は相互承認前に存在しているはず。
承認や法定化のプロセスは既にあるこの共通解を定式化するプロセスに過ぎない…ってこと。

つーか、このあたり、多分、自然法と法実証主義でググった方が
俺より何倍も説明上手い奴が解説してるぞ……