https://kendo-chourai.seesaa.net/article/201606article_24.html
>「~パイロットも兵も、チェスの駒にしか考えていない!(ブライト・ノア)」
>「カミーユのことか?(ウォン・リー)」
>「まだ覚えていて下さったようですね(ブライト・ノア)」
>(中略)
>「あれか今度乗ってきたニュータイプは?
(ウォン・リー)」
>「え? 今度のニュータイプ…?(ブライト・ノア)」
(駄文の中略) 今回のウォン・リーのように、ニュータイプに人類の希望を仮託するような発想は、突き詰めていくと
>人工的にニュータイプを造ろうとする強化人間に行き着いたり、
>最終的には“逆シャア”のシャア・アズナブルと同様にアクシズを地球に落とすという、“早急な世直し”という危険な思想に繋がってしまうのではないでしょうか。
> ともかく、異論はあるとは思いますがガンダムをシリーズ化するにあたってニュータイプという要素を『F91』以降薄めたのは間違いではないと私は思いますし、
>だからこそシリーズ化にあたって、ひとつの結論ありきではなく、様々な要素を取り込んで多種多様多彩な物語が展開されたのであろうと思います

https://kendo-chourai.seesaa.net/article/201606article_26.html
>「アーガマは33番港だって、嘘ついたから大丈夫よ!
トーレス…(セシリア)」
>「セシリアなんてことを…。その港に居る人は死んでもいいのか?!
> それに33番港は、グラナダの市街に一番近い港口だぞ! 一人で逃げるのは怖いから、俺を一緒に連れて行こうってことだろ!(トーレス)」
(中略) おそらくはファーストシリーズにおける戦争に翻弄される無力な一般市民の悲劇を描いた“ミハル”のエピソードを意識したのではないかと想像するのですが、あまりうまく行っていないような気がしますね。
> その無力さゆえの行動が観方によっては『V』のカテジナ・ルース同様に“悪女”に
見えてしまうからかもしれません。
> それと、多少なりともセシリアがジュドーと接点を持ってしまったのも良くなかったかなぁ、と。
>結局、セシリアが最後に振り絞った勇気に誰も気が付くことはなかった、というラストの方が悲劇性が増すように思います。