百済貨物ターミナル)という関西の物流拠点を結び、かずおおくの貨物列車が行き交っていた。城東貨物線全通当時の沿線は、大阪市郊外ののどかな田園地帯だったが、太平洋戦争の前後から、住宅地が増えていく。やがて、住民の間から「旅客列車を走らせ
てほしい」という要望が起こり、1952年、城東貨物線客車運行促進同盟会が結成された。1960(昭和35)年8月には、城東貨物線電化客車運行促進連盟となって、旅客化と立体交差化を国に要望していくことになる。1963年、運輸省(当時)の都市交通審議
会答申第7号で「新設すべき路線」として新大阪〜放出〜加美〜杉本町間が盛り込まれ、「大阪外環状線」と定義された。しかし、国鉄は城東貨物線の旅客化に消極的だった。当時の城東貨物線は物流の大動脈だったうえ、沿線人口も今ほど多くはなく、莫大な
資金をかけて旅客化しても国鉄にはメリットが少なかったのだ。それでも国鉄は、新大阪〜加美間の複線電化と高架化、加美〜杉本町間の単線電化を1969(昭和44)年度までに行うと計画したが、この頃から国鉄財政の悪化が始まり、結局着工されることはなかった。